2009年1月26日月曜日
【猫哲学34】 猫精神医学。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
猫を精神病にするのは簡単だ。
のっけから剣呑な話で失礼だが、心の問題についての重要な指摘なので、まあ読んでね。
猫にかぎらない、犬でも鳥でも、それに人間でも同じだが、そいつを精神病にしようと思うなら、矛盾した命令と罰を繰り返したらいい。
たとえばうちのバカ猫でいうなら、あるときは座布団で寝ていることを怒り、あるときは座布団で寝ていないといって怒り、これを不規則に繰り返せばいいのだ。猫はいつか変調をきたし、そのうちただのヒステリー猫になって、始末におえなくなるだろう。
ことほどさように、心なんてもろいものなのだ。もろくないぞ、と自信をもっていえるあなたは、単にこれまでが幸福だっただけさ。おっととと、えらく重い出だしになってしまった。今回のお題は心理学です。ちょっとがまんして読んでね。
「精神分裂病」という病名が、ごくさいきん「統合失調症」という病名に改められることになった。まあ、病名なのでね、いろいろと秘められたニュアンスってものがあるのでしょうが、私には何のことやらさっぱりわからない。
そもそも昔から、「精神分裂病」という言葉自体がさっぱりわからなかった。「精神」が「分裂」しているのかな、と素直に考えるとそうなるが、おい待て、精神とは何だ、それは分裂するようなものかとつっこみはじめると、もうそれだけでわからなくなる。
心の中身って、いったいどのようになっているのか。前回までの猫哲学で、心とは感情の束であったり、その感情をコントロールする意志であったり、そのような意志をみつめている別の私であったり、というふうに入り組んでいることは認識いただけていることと思う。
では、医学が「精神」というとき、その言葉は心の何を指しているのだろうか。心の部分か、全体か。
実をいうと、ここのところは論じられないままになっているのだ。デカルト以来、カントやウィトゲンシュタインが分析してきた心の複雑な論理構造と、心理学でいう心の構造とは、互いに没交渉なままなのである。だから心理学がいう「精神病」とは、「心が関与する病気一般」を意味する。だが、哲学にとって「精神」とは、心あるいは私の内面を構成するただの一部分にすぎないのである。このことが、実は精神医学の発展にゆがみをもたらしてきた。精神科医は、自らが扱っているところの「心」というものがいったい何なのか、実はあまりよくわかっていないのである。
だけどこういう事情は、精神医学だけの問題ではないな。内科にしても外科にしても、「生命とは本当は何か」を知っている医者はいないだろう。もちろんそんなこと、そもそも人間にわかるはずはないのだが、だけどそうした問いかけを胸に秘めているかいないかでは、そのうちに天と地ほど違いがでてくるものだ。少なくともパラケルススという中世の医者は、そういう問いを持ちつつ世界をみていたよ。
話が思い切りズレてしまった。つまりいいたいことというのは、こういうことだ。「心の病」を「精神病」といってしまった時点で、定義の矛盾をかかえこんでしまい、病状に対処するのが困難になってしまっていないかと、私は危惧しているわけだ。ううむ、これでもまだわかりにくいな。
たとえば「鬱病」というのは完全な肉体症状であるので、精神に踏み込んで治療しようとしたって無駄だということは、猫哲学の読者ならわかってもらえるかな。鬱病の人のトラウマやコンプレックスを分析しても、症状はほとんど改善しない。ところが、薬をのめば治るのだ。ここに「精神」はほとんど関与していないといっていい。と、こう書くと少しはわかりやすいかな。
だから「精神病」という言葉は、本当はあまり使わないほうがいいと思う。とはいえもう定着してしまっているので、私も仕方なく使うけどね。
哲学的な立場で「精神」というのは、心の機能のなかで生物的な反応を除外した部分を意味している。いわば論理的だったり道徳的だったりする私のことだ。だから、そうした立場で「精神が病んでいる人」を定義するなら、それは悪徳政治家、汚職官僚、エロ教師等のことをいうのである。あ、それからブッシュ大統領とかラムズフェルド長官とかブレア首相とか。
うわあ、くだらない名前を書いてしまったな。ここで話を冒頭にもどそう。「精神分裂病」という言葉がよくわからないということはご理解いただけたと思うが、「統合失調症」となるとどうだろう。やはりよくわからないのである。
いわゆる「神経症」だとか「分裂病」だとかいう人は、自分でも気付かないうちに何かをしてしまったり、あるいは気付いていても止めることができなかったりする。つまり行為のトータルコントロール「統合」がこわれていると解釈できる。これを「統合失調症」と呼ぶようになったわけだが、あまり良くないネーミングだな。
まず「統合」というのが、一見しただけでは何の統合なのかわからない。生命機能の統合なのか、あるいは社会的役割の統合なのか、何とでも受け止められる。それに「失調症」というのもあまりピンとこない。「調子が悪くなった」程度に受け止めるべきなのだろうが、では「統合の調子が悪くなる」とは、何のことなのかな?
素直に解釈すれば、「行為統合機能の調子が悪い」症というような意味なのだろうが、主語が曖昧なので、ぜんぜん意味をなさないのではないだろうか。
だいたいね、よーく考えてみると、統合というのは整理されて調子のよいことを意味しているよね。失調というのは調子がよくないことを意味しているよね。だから、統合失調症を意訳すると、「調子よいのが調子よくない」症ということになるね。何だこりゃ。何もいってないのとほとんど同じことじゃないか。う~む、これって、意外に早く業界から消えていく言葉なのかもしれないぞ。
まあ、用語についてくだくだいうのはさておき。
この統合失調症がなぜ分裂病と呼ばれてきたのかというと、やっぱりいろいろ分裂していたケースがあったからなんだね。何が分裂しているのかというと、心の内部が分裂しているケースと外部が分裂しているケースがあって、その両方を同じ名で呼んでしまったので、とても混乱した概念になっていたのだ。でもこれを統合といいかえても、内部の統合がおかしいケースと外部の統合がおかしいケースの両方を扱うんだろうから、混乱はちっとも変わらない。
何のことかわからない? そうでしょうね、はい。これから具体的でわかりやすいお話をするので、それを読めばすっきりとわかります。
■症例1:内部が分裂しているケース
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ある男性が、妻にすごい暴力を振るうので、ついに精神病院に送られてきた。その当時は、頭蓋骨の内側で右脳と左脳を一本だけでつないでいる「脳梁」という神経組織を、手術で切断しちゃって暴れなくするというむちゃくちゃな療法が行われていた時代で、その男性も脳梁を切られしまった。そしたらとてもおとなしくなったので、しばらく時間をおいて妻に面会させてみた。
その人、妻と久々に会って、とてもうれしそうに、右手で妻をやさしく抱き寄せようとしながら、左手で妻をぶん殴ろうとした。
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それからどうなったのかは知らない。このケースでわかることは、彼のなかに妻を愛している心と妻を憎んでいる心があって、完全にに分裂しながら、右脳と左脳に住み分けていたんだということ。分裂病という名前の由来も、よくわかるような気がする。
■症例2:外部が分裂しているケース
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ある青年が、家庭内で暴れるので、病院に送られてきた。泣くわ叫ぶわ髪の毛をかきむしるわ、壁に頭をぶつけるわ。ほっとくと危険なので拘束衣を着せられて、個室に閉じこめられたのだが、案外とはやく改善し、とてもおだやかになった。実はとても気持ちの優しい、いい人だったのだ。
この青年は母子家庭で、もう大丈夫だろうと思った医師は、母親と面会させた。
母親と久しぶりに会った彼は、うれしそうに、でもおずおずとしていた。母親が、「キスをしてくれないの?」といったので、青年は母親を抱き寄せキスしようとした。その瞬間、母親は表情をゆがめ身を固くした。それを見た青年は、また暴れだし、もとに戻ってしまった。
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この青年は、単に苦しんでいただけなのだ。母への愛情を、どうしていいのかわからなかったんだね。分裂していたのは母親のほう。
この母は、想像するしかないが、息子をたぶん憎んでいた。でも母親の良識は、「子供を愛さなければならない」「いい母親であらねばならない」と要求する。なので理想的な母親を演じようとしながら、でも無意識では息子をいじめていたのだろう。
子供はそんなこと理解しようもない。母親の矛盾し分裂した態度は、彼の成長を阻害し、心をがたがたにしてしまった、というわけ。
憎むのならば憎めばよかったのだ。そしたら、それはそれとして一貫しているから、青年の感情は対処可能になったし、ひねくれた男に育ったかもしれないけど、病気にはならなかった。中途半端がもっともいけない。矛盾こそが、恐るべき敵なのだ。心にとっては。
さて、分裂病、あるいは統合失調症。それはいったいどういうことなのかをご理解いただけたと思う。とくに、内面が分裂しているケースと外部が分裂しているケースの二通りがあって、概念的に混乱していたのだということがご理解いただければ、あなたの理解はもう、いいセンいってるといってよい。
冒頭に述べたバカ猫を病気にさせる手法は、外部が分裂しているケースの応用。この場合、バカ猫は苦しみはするが、本当にビョーキなのは私なのである。精神医学の概念って、ここが混乱しているから、とてもわかりにくいのだった。
話はぜんぜんちがう方向へいくけど、私も学生の頃は心理学を志し、フロイトの本をいっしょうけんめい読みましたですよ。でも、けっきょく、何が書いてあるのかよくわからなかった。翻訳が悪文だったせいだけではないと思う。オレって、頭が悪いんだろうなって、そのときは思っていた。
今はどうなんだって? う~ん、わからないときは、自分の頭が悪いのか、本がおバカなのか、とりあえず疑ってみることにしている。
そんなことはさておきフロイトなんだけど、最近いきなりフッと気がついたことがあったのだ。
リビドーとかイドとかエスとか、いわゆる「心的エネルギー」ってやつが書いてあるよね。私はあれを、比喩だと思ってずっと読んでいたのだ。心のメカニズムを説明するのに、物理学のアナロジーを使っただけだってね。
でもある日、待てよ、もしかしたら、フロイトはあれを実体のエネルギーと考えていたんじゃないだろうかって気が付いた。電気や磁気や重力なんかとまったく同列のものとして。
そう気がついてみると、あの時代は科学文明の夜明けということで、物理学が大飛躍を遂げていた時代でもあったんだ。電磁気学とか、量子力学とか。アインシュタインやニールス・ボーアは彼の同時代人なのである。その50年ほど前には、フロイトの同業者メスメルといういう人が、「動物磁気」という理論をふりかざし、磁石を使って病気(主にヒステリー)をどんどん治療していた。そのメスメルに対抗する意味もあってだろう、実体エネルギーとしての「心的エネルギー(又は精神エネルギー)」というものを想定し、心のメカニズムをそこから解き明かしたいという欲求がフロイトにはあったのではないか。そう考えると、あの人の論文のわかりにくさが理解できるように思うのだ。あの人の根底にあったのは、物理学へのコンプレックなんじゃないか。
だからフロイトの理想は、「心的エネルギー測定器」みたいなもので脳を解析すれば、心の病気はすべて解明できる、みたいなとこにあったんじゃないだろうかと考えてしまう。
残念ながら、そんなエネルギーを検出することはできなかった。フロイトの理論がすごく中途半端にみえるのは、おそらくそのせいだろう。だが今では、「脳波」がそれにかわるものとして検出され、脳波で心のすべでがわかるような科学論が展開されつつある。さて、どうだかね。でも彼らこそが、数多の精神分析学派以上に、フロイトの正当派後継者たちのような気もするのだ。
しかし、脳波が心ではないのは明らかである。たしかに神経的電気的プロセスが脳のなかで起きているのは事実だろうが、脳波とはその過程で発生する雑音のようなものだ。
脳波が心であるという人は、絵画とは絵の具であるといっているのと同じだ。いや、事態はもっとひどいな。富士山の絵をみて「富士山とは絵の具である」といっていることになるな。ことほどさように科学者というのは、森を前にしながら葉っぱしか目にはいらない。心理学が妙なことになるのも無理はない。
話をフロイトに戻そう。この人は心を「顕在意識」「前意識」「無意識」「超自我」などに分解して、分析した。これはすばらしい業績だと私は思っているが、これも実は、比喩なのだと思っていたのだ。こういう風に分けて考えると理解できることがたくさんあるのだが、でも現実に「前意識」と「無意識」の間に境界線なんか引けるわけではないと。しかし、いま学生の頃に読んだものをつらつら思い出してみると、フロイトはこれを実体のある何物かと考えていたように思えてくる。まあ、フロイト研究がしたいわけではないので、ここではちょっとした思いつきということにとどめておこう。
しかし、もしもフロイトの本質が物理科学へのコンプレックスなのだとすると、それって不毛である。
いいですか。科学の本質とは、客観性である。でも、心というのは主観である。主観を客観的に記述することは不可能だ。最初から名辞矛盾だろ、と哲学的には、いってしまえる。ここからどこへも行けない。
それでは話は終わってしまうのだが、でも現代心理学というのは、この矛盾から一歩も出ていないということだけは、指摘しておこうっと。
最後に、世界初公開、ふくぽん的精神医学について述べておこう。
ふくぽん精神医学の本質とは、とにかくしゃべらせろ、それだけである。苦しみをかかえている人は、誰にも話すことができない孤独のなかで壊れていくのがほとんどなのだ。だから、とにかくその人たちにしゃべらせること、これが大きな救いになることは、よく知られている。
わけがわからなくも、論理がむちゃくちゃだろうと、矛盾していようと、意味が理解できなくても、とにかくしゃべらせるのだ。
話すということは、言語を介さないとできない。当たり前だ。その話された言葉は、どのようなものであろうと、言葉としての論理をもっている。人はその論理を媒介にして、自分の心を外部化してみることができる。それは、無秩序に秩序を与える行為だ。だから、とにかくしゃべること。それだけで、人は自分を癒すことができる。これが、言葉のもつ神秘的な力なのだ。
もちろん聞き手がいなければならない。その聞き手が治療者である。しかしその人に要求されることは、もっとしゃべらせること、ただそれだけである。解釈も評価も必要ない。だから、ときには猫さえも治療者になることができるわけなのだ。
私はこのことを知ってから、何人かの人の手助けをしてきた。いまのところ失敗したことはない。読者のみなさまも、このことだけは覚えておいていただきたいと思う。
今回は重く始まったので、重いまま終わります。でも、いい話だと思うんだけどな。なあ、バカ猫。あ、
おまえにはぜんぜん必要な話じゃないよな。
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こんなことを例の美女と話していたら、彼女はいった。
「あなたたちって、ビョーキの人の心ばかり研究して、それで何がうれしいの?」
「…うっ!」
「あなたたちが知りたいのは心なの、それともビョーキなの?」
「う、うっ!」
「心がどうのこうのなんて偉そうにいう前に、たまには女心くらい勉強しなさいね」
「ううう~っ!」
私は、真の絶句とはどういうものであるかを、このとき初めて知ったのであった。
[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com]
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]
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犬猫を精神病にするのは人間より簡単かもしれない。
返信削除なぜなら、人間だったら後から怒る場合は説明すればなんで怒っているのか分かるけど、怒る行為をしたのが犬猫だったら、その行為をした直後じゃないと、なんで怒っているのか分からないからそれで病むと思う。