2009年1月27日火曜日

【猫哲学80】 猫の頭の中の消しゴム。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2005/11/18)

 猫は健忘症である。

 また私がイワシを焼いたので、バカ猫は「くれくれ」と台所まで来て騒いでいたのだが、チーズをやるとイワシのことなんかけろっと忘れて満足そうに寝てしまった。

 スリッパを新しいものに換えたりなんかすると、最初はそれに執着してひっかいたり噛みついたりやっているが、そこへごろごろごろーっとボールを転がしてやるとぱっと飛びついて、スリッパのことなど忘れてしまう。だいたいにおいてそんなもんである。だからバカ猫なのだ。

 実は私も健忘症が始まっている。年齢から考えるとそろそろ老人性アルツハイマーかなあ。

 ある日、何かをしようとしてキッチンに立ったのだが、自分が何をしようとしていたのかちっとも思い出せない。腹が減っているわけではないからお茶でも煎れようとしたのか、あるいは果物を食べようと思ったのか。あれこれ考えたのだがどれも違うような気がする。とうとう何をしたかったのかを思い出せないまま、とりあえずコーヒーを飲むことにしてお湯を沸かした。

 ところがお湯というものは瞬間的に沸いてくれるわけではない。それまでの間パソコンでも触ろうかと思っているうちに、お湯を沸かしていることを忘れてしまった。

 ふと気が付くと、何となく台所で妙な物音がする。あれ? と思って見に行ってみたら、お湯は沸騰しすぎて半分くらい蒸発していた。危ないなあ。アルツハイマーというのはかなり危険である。そのうちバカ猫にメシをやるのも忘れるかもしれない。ま、たいしたことではないか。べつにいいよな、バカ猫。

(よくないと思うニャ :byバカ猫)

 ところでいきなり話を飛ばすけど、私は韓国映画フリークである。

 何をいまどきミーハーな、と誤解されては困る。私はあのヨン様とか四天王だとかには何の興味もない。ついでに有名な「涙の女王」にもあんまり興味はない。彼らとはまったく世代の違う俳優たちにハマっているのだ。などという話はミーハーに走りそうなのでやめよう。

 今回の話は、アルツハイマーと自我についての哲学的な分析なのである。でもかなりミーハーっぽくなるけど、ごめんね。

 いま、韓国映画『私の頭の中の消しゴム』という作品が公開中なのを知ってる? CMなんかもけっこうやってるから、聞いたことはあるでしょう。あの映画、すごい傑作ですよ。

 韓国では去年の秋に公開され、300万人を動員する大ヒットになった。私はずいぶん前からこの映画について知っていて、日本でも公開されないかなあ、せめてDVDでも…なんて思っていたのだが、意外にもメジャー系列館で全国一斉公開となった。というわけで、滅多に映画館へ行かない私も、公開初日に観てきましたよ。

 どんなお話かというと、大恋愛の末に結婚したカップルの妻の方が、遺伝性の若年性アルツハイマーを発症して…、という韓国映画ではおなじみの難病モノである。

 若年性アルツハイマーの場合は、記憶が失われるのと平行して感覚中枢や運動中枢も侵されていって、だいたい6~8年で死に至るらしい。治療法はない。だから死を宣告されたのも一緒だけど、同時に記憶まで失ってしまうのがとても悲しい。これが、愛し合う若い夫婦を襲うわけで、単なる難病モノ以上につらい話なわけ。でも、かっこいい美男美女がさわやかに演じているので、そうシリアスな映画にはなっていないのがとてもナイス。

 主演男優のチョン・ウソンはこれまでハードボイルド系の映画にしか出演せず、メロドラマなんか一切無視してきたシビアな役者。ピストルを構えて「女? なんだそれ」なんていうセリフが似合う男前である。笑った表情をほとんど見たことがない。「微笑みの貴公子」なんぞという形容詞とは正反対のこれぞ男の中の男。

 主演女優のソン・イェジンは、まだ23歳という若さながら韓国の主要な映画賞のほとんどを手にしている驚異的な若手演技派である。しかもかわいい、美人、清純派。この映画でも胸が痛くなるほどの熱演を見せつけている。

 で、この二人の大スターがメロドラマを演じるわけで、ただのラブストーリーに収まるわけがない。なにしろ、主役二人の泣きのシーンを撮影中に、カメラや照明などのスタッフ全員が泣き出してしまったという恐るべき演技者たちなのである。監督まで泣いちゃったんだってさ。おいおい。

「もう優しくしないでいいよ、どうせ忘れちゃうから」

「きみが俺を忘れたら、またナンパしてやる。新しい恋の始まりさ」

「記憶がなくなったら、愛も消えるのよ。魂も消える。私、怖い」

「魂は消えない。俺がきみの記憶できみの心だ。ぜんぶ覚えておく」

 などと美しい台詞を重ねながらも、病気は容赦なく進行していく。アルツハイマーというのは最近の記憶から順に忘れていくものなのだそうで、やがて妻は昔の恋人の名前で夫を呼び始める。そして「愛してる」とささやく。

 ショックを受け苦悩する夫。彼女が本当に愛していたのは自分ではなかったということなのか。

 その直後、夫を昔の男の名前で呼んでしまったことに気付き、愕然とする妻。愛する夫を傷つけてしまった。そうではないのに。本当に愛しているのは夫だけなのに。

 同じことが続けば夫をもっと傷つけるだけ。そう考えた妻は、夫の前から姿を消す。

「失われていく記憶の中で、最後まで残っているのがあなたとの日々でありますように…」という手紙を残して。

 はい、私は泣きました。恥ずかしいけど告白します。

 映画館の中ではかなりの人が泣いていた。ハンカチを目に当てたまま立ち上がれない女の子も何人かいた。韓流おそるべし。

 さて、猫哲学は映画評論ではないわけで、そろそろ哲学にいきましょう。今回のテーマ、記憶とは何か。記憶が消えれば、愛も消えてしまうのか。

 以前に【猫哲学72】で記憶のことについて書いたけど、あれは思い出したくもない記憶がよみがえってきて苦しいという話だった。

 この映画はその正反対である。忘れたくないのに、記憶が消えてしまう恐怖。では、記憶は私なのだろうか。記憶とともに愛も失われてしまうのだろうか。

 私は恋愛経験というものがないので愛について語る資格はない。なので、記憶と自我との関係について語っておきたい思う。

 いつものことだけど、結論からいくぞ。記憶とは情報である。私とは情報と、それを統合しながら判断し、意志するものの総体である。だから私は、記憶に還元できない。うわあ、ほんまにすごいことを、二行半だけで語ってしまったにゃ。

 記憶というのは不思議なもので、思い出せない記憶もあれば思い出したくもないのによみがってくる記憶もある。

 転生論のときに書いた退行催眠の例なんかでも明らかなように、人は驚くほど多くのことを細部にわたって覚えているものだ。ふだんは、それを思い出せないようになっているだけなのだ。

 では、それほど多くの記憶が、いったいどこに蓄えられているのだろうか。ほとんどの人は、それは脳に蓄積されていると思っている。でも本当にそうなのだろうか。

 いちど頭を空っぽにして散歩してみてください。風を感じるでしょ。光も感じるでしょ。それを感じているのは脳ですか。違うでしょ。手であり、足であり、顔であり背中であり、目であり耳であり皮膚でしょ。風が風であると、光が光であると感じるためには、記憶がなければならない。記憶がなければ、目の前の情報を処理できない。つまり認識できない。ということは認識とはつまり記憶であり、記憶を構成しているのは全身なのだ。

 情報を処理しているのは脳であって…、みたいなつまらないことはいいなさんな。脳はそのための一器官なのであって、それ以上でもそれ以下でもない。唯脳論なんてのはデカルト以来の素朴実在論から一歩も出ていない。さっさと捨てなさいそんな思いこみ。と書いてしまうのはあんまりにも乱暴かな。まあ、このあたりのことは近いうちに「宮沢賢治の自我論」なる別稿で書きますから。なんで宮沢賢治なんだって? ほら、「わたくしといふ現象は…」のあれですよ。詳しくは後日。

 んで、記憶の話の続き。

 アルツハイマーの場合、忘れていた記憶が急に復活することがある。映画『私の頭の中の消しゴム』でも、そんなシーンが描かれる。記憶が脳細胞に蓄積されていたものであるなら、脳が侵されて忘れてしまった記憶は脳細胞とともに失われたはずだから、こうした記憶の復活はありえないではないか。これをいったいどう説明すればいいのか。

 端的に書いてしまうと、記憶は脳細胞に蓄積されているのではないのだ。壊れてしまったのは脳という記憶処理の装置であって、記憶そのものではないのである。

 記憶は、一度は壊れてしまった脳の中の回路をさまよいながら、あるとき別の回路を発見して復活してくるのだ。じゃあ、記憶はいったいどこに蓄積されているのかって? それは心臓である。というのは冗談だけど(この洒落がわかるのは私だけか)、おそらく記憶は全身に蓄積されているのだろう。

 答えになってない? そうでしょうね。実は私、記憶がどこにあるのか全くわからない。脳がその場所でないことだけは、アルツハイマーの症例が示しているけど。むしろ事故で腕や足を失った人が、特定の記憶をなくしてしまうことがあるのも知っておいてね。

 猫哲学的に言うなら、私とは私と宇宙とを境界づける構造である。そして私は、もうひとつの宇宙である。つまり私とは、宇宙と宇宙とを境界づけ相互にコミュニケーションさせる構造なのである。そして記憶とは、そうした構造の中を行き来する情報の大系である。

 私という上部構造を肉体や脳という下部構造でいくら語ろうとしても無駄である。パソコンという機械が考える機械ではあっても、ハードディスクやCPUが考えているわけではなく、ソフトという上部構造がなければ無意味なのと同じことなわけ。

 これは、誰が言っているのでもない。私の言っていることである。猫哲学オリジナル自我論である。だからヨタかもしれない。しかし、いかなる哲学論よりも説得力があると思いません?

 なんかミーハーな話をしていたと思ったらいきなり本格哲学になってしまったにゃ。

 これほどまでに深刻な哲学的課題を奥に秘めた恐るべき韓国映画『私の頭の中の消しゴム』は、ただのラブストーリーと誤解されたまま全国大ヒット上映中である。主人公の二人はどうなるのかって? 教えてあげません。美しいラストシーンが用意されているとだけ書いておこう。映画館へ行くべし。

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「あたしの頭の中にも…」

 例の超美女が何か言いかけたので、私はすかさずフォローした。

「消しゴムがあるんだろ。知ってるって。天然アルツハイマー女」

 バコッ!

「いてっ。本気で殴るなよ」

「あたしが本気を出したらこの程度じゃすまないからね」

「はい、すみません」

「でもさあ、記憶がなくなるってそんなに悲劇? 気楽でいいじゃん」

「愛する人の記憶なんだ。忘れるのはたまらんだろ」

「あなた、愛を知ってるの?」

「ぎく」

「愛された記憶なんてあるの?」

「ぐげ」

「なら、何でその映画で泣けるわけ?」

 うええ。そ、それだけは…、聞いてほしくなかったぞ。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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