2009年1月26日月曜日
【猫哲学42】 猫幾何学。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
(2004/6/3)
猫はまっすぐ歩かない。
よく観察するとわかってくるが、ヤツらが歩くときにはかならず右に振れ左に振れ、うろうろへにゃへにゃと歩く。そのふらふら行動には、周期性や規則性もない。なにかに驚いて飛んで逃げるときはまっすぐ最短距離をいくようだが、それもよくみるとジグザグに走る。
なぜそうなるのかというと、これにも生物学的な理由があると私は思っている。まっすぐ直線的に歩けば、他者からみると動きを予測しやすい。外敵にふいに襲われるときなど、動きが読まれてしまうとつかまりやすくなってしまうではないか。ふだんから読まれにくい動きをしていれば、生き残る確率はたかまる。これは、猫のような小型の動物にとっては、けっこう重要な習性なのである。
だから猫にしてみれば、直線というのはあまり親しみのある概念ではない。不規則な曲線こそが居心地のいい世界なのだ。もともと、直線など自然界には存在しないしね。
さて、ここから話は一気に幾何学へ飛ぶのである。いつもながら強引な展開だな、へへ。
あ、さて。
自然界に直線は存在しないのである。自然界に、ということはこの世に直線など存在しないといいかえてもべつにいい。また例によってむちゃくちゃを書きはじめたな、と思われるのはご勝手だが、それは事実なのである。私はいつものように正しいのだ。むはは。
嘘だと思う方は、紙にボールペンで定規を使って直線を書いてみられるといい。もちろんそんなことは簡単だが、書かれた直線を顕微鏡でみたとしたら、インクのムラ、にじみ、紙のでこぼこに影響されて、ぎざぎざガタガタにみえるはずだ。それは直線ではない。曲線によって構成されたある種の形である。
この事態を免れる方法などない。どんなに精密に磨きあげられた表面にどれほど細い線を書いたとしても、それは拡大すればぎざぎざな線になってしまう。極限にまでなめらかな表面をつくったとしても、原子そのもののでこぼこを超えてまでなめらかにすることはできない。ゆえに完全な直線を描くことは不可能なのだ。
直線は、あくまで観念なのである。観念として実在していることまで否定しないけどね。その観念は、いろいろと便利に利用できるし。
たとえば、2点間の距離を求めるときに、直線を想定すれば距離を決めることができる。距離もじつは観念でしかないのだが、その距離という観念を利用すれば、こっちからあっちまで歩くのにどれほどかかるかをある程度まで予測できる。これはとても便利である。
歩くだけでなく、車で走るときや大砲の弾を敵艦に当てたいとき、ロケットを飛ばすときとか星の軌道を計算するときなんかに、直線や距離の概念はとても便利である。だから、とても便利よねこれって、といっておけばよかったのだが、世の中はそれでだけは終わらなかった。
直線や距離の便利な使いかたを集大成した人がユークリッドである。この人のおかげで、星の軌道計算までできるようになった。「ユークリッド幾何学」という名前で知られているが、エウクレイデスというギリシアの人である。(アメリカ風の発音はきらいなので念のため)。ユークリッドの幾何学を高等数学でさらに洗練・完成させたのがニュートンさんで、だからニュートンはリンゴばっかりながめていたのではないのだよね。
なんの話だったっけ。あ、そうだ。直線は観念だという話だった。
観念なのだけど、とても便利なのである。だから、いつのまにか実在すると勘違いしてしまう人も多い。そこでまた、その勘違いをひっくりかえしてやるぞと意気込んだ、おせっかい、あるいはヒマな人もいて、直線でなく曲線で構成される幾何学をうちたてる人も現れた。ロバチェフスキーやリーマンとかいう人々である。彼らの幾何学を「非ユークリッド幾何学」という。「リーマン幾何学」とは、サラリーマンとはなんの関係もありません。
さてこのあたりで、猫哲学者である私としては、わけがわかんなくなってしまうのである。わからない点はふたつある。
ひとつめのわけわからん。
曲線が曲線と認識されるためには、直線の概念が必要なのではないだろうか。曲がっているとわかるには、まっすぐとの比較が必要なんではないの? ここんとこが、どうしてもわかんない。
直線が必要とされるのであれば、それはユークリッド幾何学から一歩も出ていないことになる。なぜそれが、ユークリッド幾何学の否定につながるのだろうか。誰か私に、わかりやすいように教えてくれないものだろうか。
ふたつめのわけわからん。
曲線というものが直線との比較においてしか認識されないのであるとすれば、それは直線の観念に別の要素を付加したものと定義することができる。というか、それ以外に定義できないのではないか。
だとすれば、単純に記述できるものをわざと複雑にいっちゃいかんだろうという、「オッカムの剃刀」※的立場からの批判をどう免れているのだろうか。(オッカムさんについてはそのうち詳述するけど、気の短い人は哲学事典でもみてください)。
あるいは、もう少しだけややこしめに考えれば、直線というのは曲線の概念を基準にすると、ある特殊な曲線と解釈される。これらは、おなじことをいっているということに気付かれるだろうか。難しい? でもちょっと考えればわかるはずだよね。
つまり直線は、ある種の曲線だといっていいということなら、非ユークリッド幾何学というのは、ユークリッド幾何学となにが違うのだ。
その違いとは、その概念を操作する数学の違いといってしまおう。乱暴だけどね。といってもそれは、それほど絶対的な違いでもない。1次方程式と2次方程式の差ほどの違いだ。ニュートンの開発した数学技法を使えば、おなじものとして扱えるような程度の差しかない。
にもかかわらず、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学が全く違うものと考えられているのはなぜなのだろう。私はほんとうにぜんぜん、よくわからないのである。
観念の遊びというのなら、それでいい。私は遊びが大好きだ。でも、相対性理論というのが、ユークリッド幾何学では説明できなくて、非ユークリッド幾何学でなら成立するなどといわれてしまうと、「なんでやねん!」と大声で叫びたくなってしまうのだ。
告白しよう。私は高校生のとき、物理を赤点のままで卒業したのだ。自慢ではもちろんない。それほどボクって頭が悪いのだとずっと思っていた。だがこの歳まで生きてみると、学者といわれている人たちがいかにアホかということもだんだんわかってきた。だから、あのとき私が物理を理解できなかったのは、物理学のほうが間違っているんじゃないのか、もしかすると私は天才だったのかもしれないではないかと思い始めているのである。
そんなわけで、私は相対性理論を理解できない。だが、理解できないのは私の頭が悪いのではなく、相対性理論のほうがまちがっているのではないかと思っているのだ。あっはっは。かなりむちゃくちゃですな。かなり、どころではないか。ふへ。
ここから先は、相対性理論を多少とも知っている人のほうが、楽しめるかもしれない。でも、あまり知らない人にもわかるように書くので、まあ読んでね。
相対性理論にとって、とてもとっても大切なのは、光の速度である。アインシュタインは光の速度でもって時間と空間を定義した。だから光の速度よりも早い速度があってはいけないのだ。そんな速度があったりしたら、時間が逆行してしまう。
しかし、よく考えてみましょうね。光の速度というのは、点Aから点Bへ光が到達した時間でAB間の距離を割ったものである。その速度とは約30万キロメートル/秒であることが知られている。
しかし待てよ。私は冒頭で、自然界に直線は存在しないことをくどいほど書いた。ところで、光は点Aから点Bに直線で到達するということになっているのが相対性理論だが、そんな保証なんてどこかにあるのかな?
この世の観察しうるかぎりの物質の運動は、不規則な螺旋を描くのが一般的だ。ツバメの飛行もミサイルの弾道も鉄砲の弾もそうだ。例外はない。実は、原子だって電子だって螺旋軌道を描くのだ。地球も彗星も小惑星もそうだよね。完全な直線という軌道を描いて動いた物質が観察されたことは、ただの一度もない。では光はどうなのだ。
光は粒子であり波である、二重性をもっているなどと現代物理学はいう。でもね、よく追求してみるとなんのことはない、よくわからないといっているようなもんだ。で、その光は、確かに空間を伝わる。その伝わり方が直線であることを証明できた人は、いないのである。いるという人がいたら、私の前に連れてきなさい。いやまあ、本か論文だけでもいいからよろしくね。
話をわかりやすくするために比喩的にいうが、光がもしも光子という粒子であるなら、そいつが空間をまっすぐな直線を描いて飛ぶなどということは、自然をよく知る人にとってはナンセンス以外のなにものでもない。光子は不規則な螺旋を描いて空間をぐりんぐりんと飛んでいくと考えるほうが、常識的には蓋然性が高いのである。だって、レプトンやボソンなんて、みんなそうじゃないか。んでもって、ここまで考えてみたとき、相対性理論を多少とも知っている人なら、ありゃりゃあ? と思われるはずだ。
点Aから点Bまで伝わる光の速度を光速度という。しかし私の常識からの主張は、光はA-B間をまっすぐ飛んでいないということだ。直線などないというのが私の大々々前提なのだからね。ということは、光子はA-B間を伝わるのに、まわり道をしながら、A-B間の距離以上の距離を飛んでいるということなる。つまり光は、超光速で飛んでいるのだ。
ぐはははは。「光の速度は超光速である」。これは矛盾だ。哲学的には破綻している。では、いったい何が間違いなのだろうか。
結論からいおう。光の速度が30万キロメートル/秒としたことが間違いなのである。光の速度はもっと速いのだ。
東京=大阪間の直線距離はだいたい350キロほどだが、それを3時間半で結ぶ新幹線の速度は時速100キロではない。新幹線はもっと速い。300キロ近い速度をだせる。しかし鉄道線路というのは直線ではないし、駅を通過するときには速度を落とさなければならないから、時速100キロでは6時間以上かかってしまうだろう。だから新幹線は、倍以上の速度で走るのである。では、光はどうなのだ。
相対性理論では、超光速を禁止している。光より速い速度は、あってはならないことになっている。しかし理論が禁止したからといって、自然がそれに従うものだろうか。自然と理論と、いったいどちらが先にあったのだ。
しかもアインシュタインは、「空間が曲がる」などという。おいおいホントかよ。空間とは、曲がるようなものなのか?
空間とは物質ではない。物質が存在しているとき、その存在のための場とみなされているのが空間である。物質があるから、空間というものが想定できる。つまり、物質を認識するための意識の道具が、空間である。ほんとうに空間が実在するかどうかなんて、議論をはじめたらわからなくなってしまうようなものなのだ。そいつが「曲がる」だって?
空間がもしも曲がっているとしたら、それはどのように認識できるというのだろうか。「光が曲がる」と相対性理論一派は主張する。だが、光が曲がったからといって空間が曲がったと考えるのは、アホな論理のきわみである。だって、光が水の中を通るとき、光は屈折するではないか。じゃあ、水と空気の境い目では、空間は折れ曲がっているとでもいうのか。
空間が曲がるとすれば、その空間の内部にある物質はどうなるんだ?やっぱり曲がるのか? じゃあ、いったいどうやってそれが曲がっていると認識するんだ?
あるなにかが曲がっているかどうかを知るためには、そのなにかにまっすぐな定規をあてればいいが、その定規が曲がっていたら、まっすぐなのか曲がっているのかぜんぜんわからないでしょ。
つまり曲がっている空間が曲がっているということを認識するためには、まっすぐな空間と比較するしかない。そのためには、我々は空間の外に出て、曲がっている空間と曲がっていない空間の両方を比較するしかない。いったいそんなことが、どうすれば可能だというのか。
ここで、とっても哲学的なことを述べよう。
空間は、人間には定義できないのである。なぜなら、人間は空間の中に住んでいるから。真に空間とは何かを定義するためには、人間は空間の外に出なければならない。そんなことができるもんなら、やっとみろってんだ。しかもこのようなことは、カントがすでに200年も前にいっちゃっているのに、なんでみんな知らないのだろう。
そんなわけで、私は相対性理論をまったく理解できないのである。高校の物理は落第だったしな。ほへ。
やれやれ、今回は幾何学の解体のさわりだけで終わっちゃいました。でも本当は幾何学というのはものすごくおもしろくて、魅力的な学問なのだ。そのあたりはいずれまたやるとして、現代物理学の欠陥に気付いてほしかったのが今回の主題なのでした。
というわけで、猫哲学はまだまだ続くのであります。
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「この世に直線は存在するわよ」
と、またまた例の美女が勝ち誇ったような顔でいうので、私はムカッとしてきいてみた。
「ほほー、いったいどんなものが直線だというのだ」
「あたしの心よ」
「…よよよ、よよ、よりによって、き、きき、きみのここ、ここ、心が、ま、ま、まっすぐだとお??!!」
「失礼ね! あなたは心が曲がっているから、わからないのよ」
そうだ。この女とはもう口をきかないと、前回で決意したはずだったのだ。後悔しても、もう遅いか。
[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com]
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