2009年1月25日日曜日

【猫哲学11】 猫OS。

 
      猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃



 私はいま、たいへんに怯えている。恐ろしい。たかが猫と暮らすというだけのことが、私を根本から脅かしているのだ。

 うちのバカ猫が私の脳に細工して、基本プログラムをマッキントッシュ7.0から猫ニャッキントッシュ・バージョン7.5に書き換えてしまったことについては、以前にも書いた。最近、それがさらにバージョンアップされているようなのだ。猫ニャッキントッシュ8.0か、あるいはOSニャイン(9)までいっているかもしれない。私が何も気付かないうちに。ああ恐ろしい。

 昨日のことだ。ヤツがいつものようにぐーたら寝ているところを私が通りかかった。するとヤツは片目だけ開けて、チラッと私を見た。その瞬間、私はヤツが「メシをくれ」と要求していることがわかってしまったのだ。

 ニャンということだ。私は日々、こやつにとって便利な存在へと改変させられているのだ。こんなはずではなかった。オカルトである。ホラーである。1年後私は、執事の制服を着て、こいつの前に控えさせられているかもしれない。

「犬は人間を主人だと思っているが、猫は人間を召使いだとみなしている」というよく知られた言葉があるが、あれは正確ではない。「猫は人間を召使いに変えてしまう」といういい方が正しい。

 ある女性にこの話をしたら、「何を大げさな、猫かわいさのあまり、猫の仕草を誤解しているだけでしょ」と大笑いされてしまった。

 違うのだ。それはまったく違う。私は猫の態度を誤解するような甘ちゃんではない。猫の生態を熟知し、冷静に観察しながら、しかもなお、こんなことになってしまっているのだ。

 私がいかに猫の態度を誤解などしないか、いくつか例をあげよう。

 私が家の中で立っていると、猫はときどき私の足に首をすりすりして甘えるような仕草をする。しかし私は知っている。これは甘えているのではない。

 猫の首、耳の少し後方には臭腺という器官があり、個体それぞれ固有の臭いを発している。それを私にこすりつけるということは、マーキング、つまり私に臭いをつけて私の所有権を他の猫に対して主張するということなのだ。

「おっとー、こいつを他の猫にとられたらあかんからな。臭いつけといたんねん、すりすり」という意味の、きわめて利害まるだしの行為なのだ。甘えているなどとは、とんでもない。世間の猫好きは、この行動を誤解しっぱなしで、「かわいい~」なんて悦にいっとる連中がほとんどだが、私はもちろん誤解などしないのである。クールなのである。

 私が姉の家に行くと、3匹の真っ白な猫が寄ってくる。まだ子供なので、遊んでほしいのだ。3匹のうち猫Aは(注:もちろん名前があるが恥ずかしくてここにはとても書けない。宝塚系、とだけいっておく)、でその猫Aは、座っている私に駆け上がり、胸元までやってくる。猫Bは私の足をなめている。猫Cは少し距離を置いたところにじっとして、近づこうとしない。

 姉はこの光景を見ると、「まー、オスカルちゃんったら(あ、書いちゃった。姉の趣味である。私は一切関知していない)、いつもフレンドリーねーっ! それに比べてフェルゼンちゃんはシャイなんだから~」と言うが、実はそういう問題ではない。

 子猫ながらすでに群として成立している3匹の猫の間には、確固たる序列が形成されている。その序列の表現として、いちばん上位のやつが私に対する所有権を主張しているだけである。それぞれを正しく解釈すると以下のようになる。

猫A「おっとー、このおもちゃ(=私)はオレのもん。オレのやで」
猫B「しゃーないな~、でも端っこ舐めるくらい許しなさいよ」
猫C「ちぇ、まいいか、でもあいつらが目を離すまで見といたんねん」

 実に冷厳な利権闘争が表現されていることになる。このような行動を「きゃー、かわいいー」などと受けとめている輩は猫素人である。

 ついでにいうと、このように3匹の猫が3匹ともまったく違う行動を示すのは、動物の生き残り戦略としてきわめて正しいことなのだ。これを行動の多様化という。

 ある動物の群の中のすべての個体が同じ行動をしていたら、危機に陥ったときにはぜんぶ死ぬかぜんぶ生き残るか、オール・オア・ナシングになってしまう。群のなかに素直なやつもいれば勝手気ままなやつもいてこそ、危機的な事態が起たときにはどいつかは生き残る。これが生物の生き残りにとってもっとも大切な多様化の法則である。

 姉の3匹の例でいうと、私がいい人だから猫Aはいつもいつも遊んでもらえることになるが、もしも私が怪しい猫獲りのおっちゃんだとしたら、猫Aはあっというまに誘拐される。猫Cは確実に難を逃れることができるだろう。猫Bの生き残り確率は50%というところか。

 かくして、3匹の子猫の一見きゃーわゆい行動も、生物としての必然性に貫かれた厳然たる法則の下にあるのだ。

 どうだ。私は猫の行動なるものに一切の幻想も誤解も抱かない、クールな観察者なのである。おわかりいただけただろうか。

 その私がである、何ということだ、うちの猫にみごとに改造されてしまったのである。一般人のパソコンのバージョンアップどころの話ではない、私はいまだにNECのDOSパソコンで日々の仕事をこなすほどの頑固者なのだが、その私が爆弾フリーズの不覚をとったという驚天動地なことなのだ。わかるかな? わかんないだろうな。

 私は恐ろしい。いや、私は十分に成熟し余裕をもった大人なのであるから、少々猫用に改造されたとて、それを受け入れ、楽しむことすらできる。改造されたことが恐ろしいのではない(ちょっとムカつくが)。

 そうではなくて、これから先のことを恐れているのである。この猫があと何年生きるか知らないが、いつか突然逝ってしまうときが必ずくるだろう。そのときに、私の脳を、親切にも元の由緒正しいマッキントッシュ7.0に書き換えていってくれるわけなどあるはずもない。そのとき私は、猫用のOSニャイン(9)を頭にインストールされたまま、バカ猫の不在という事態を生きねばならないのだ。この恐ろしさがおわかりいただけるだろうか。

 そのとき、もう、猫はいないのである。なのに私は、猫中心のOSを生きねばならないのだ。いったいどうしたらいいんだ。どう解決できるというのだ、この猫不在を。

 私は恐ろしい。いつか必ずやってくるその事態におびえながら、私はいまだに答えをみつけることができない。

 ところでクイズです。姉の猫Bの名前は何だと思います? ヒントは雌猫。

[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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