2009年1月25日日曜日
【猫哲学10】 名前。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
わが家の猫には名前がない。
私がつけるのをサボっているだけなのだが、だからといって何の不都合も起きない。彼と私の間では、名前を呼び合う必要が一切ないからである。なぜなら家には猫は一匹しかいないし、ついでに人間も私一匹しかいないのだから。
熱烈な愛猫家であるわたしの姉は、「信じられない!」といって私を非難する。愛情がなさすぎるというのである。
はいはい、愛情なんてありませんよ、こいつは友人に押しつけられて仕方なく飼っているのでね。実はめんどうでたまらないのだ。私は姉に向かい、「猫という立派な名前がすでに与えられているんだ。それで十分だろう」などと屁理屈をいって、非難を逃れる。ぜんぜん逃れてないか。
名前というのは不思議なものだ。なぜか人というのは、あらゆるものに名前をつけたがる。事物を言語的に認識する手段として、それはまず必要されているわけだが、愛情との関係などとはいかなるものか。おっと、これでは猫哲学らしい文章ではないな。もっと、にゃあ、って感じじゃないといけませんね。
子供って、名前を聞きたがるものですね。これはなに? これはなに? あるとき甥が絵本を見ながら「これはなに?」と言うので、「消防車」と答えたらそれだけで満足されてしまった。消防車とは、火災を消すために出動するのであり8000馬力のエンジン高圧ポンプで構成され最高速度80キロ定員7~8名…、などという説明は完全に無視された。彼らはとりあえず名前を知ればそれでいいので、その意味や中身などはどうでもいいようなのだ。
私たちは、意味内容がまずあって、後にそれに名前をつけるという風に思い込んでいる。しかしそれは、本当に正しいのだろうか。子供のように、まず名前があって、内容は後から適当についてくるものなのだろうか。どちらが正しいのか、私は自信を持っていい切れない。
名前というのは、いったいなんなのだろう。もしうちのバカ猫に名前をつけるとする。与吉。いい名前だ。兵助なんてのはどうだろう。それなりかな。正雪ときたら、どうかな。何かえらそうだな、好きなんだけどな、などとたまたまわが家に来ていた姉に相談したら「ふざけるな」と叱られてしまった。彼女のお気に召さなかったらしい。なぜなのかはよくわからない。
そういえば友人に、飼い猫にシーザーなんて名前をつけていたやつがいたな。血統書付きで、なんだか偉そうな目のペルシャだった。そいつを真似るとすると…、ハンニバルなんてのはどうだ。うむ、このアホにはあの悲劇性が似合わないな。いっそアレキサンダーってのはどうだ。おい、アレキサンダー、おまえの名前は決まったぞ。…そっぽ向いてやがる。まあ、似合わないよな。
名前は、記号である。記号であるが個性をもっている。誰にどんな名前をつけるのかはまったく勝手なのだが、つけられたとたんに、それは彼の一生を縛っていく。
相撲取りの名前でいうと、長谷川と千代の富士ではイメージがまったく違う。長谷川さんなんて、いかにも弱そう。官僚やサラリーマンの名前だよ。でも昭和40年代に、長谷川という大関は実在した。相撲が強かったのか弱かったのか、よく覚えていないけど。
人間の名前というのも不思議なもので、一度名づけてしまうとなかなかそのイメージから逃れられないものだ。陽子ちゃんが暗い子だとまずいだろうし、ツヨシくんが弱い子だったらしゃれにならないよな。
昔の武士は、幼いときには幼名で呼ばれ、元服して大人になってから成人の武士としての名を名のった。だが案外、幼名の方がその人の運命を支配しているかもしれないなと思って、調べてみた。
□徳川家康=竹千代 さすがに大らかで、愛される感じの名前だな。
千代というのが徳川三百年を暗示しているし。
□織田信長=吉法師 う~ん、スキがない。法師なんて気軽に声をか
にくいし、早死にを連想させもするし。
□豊臣秀吉=日吉丸 自己主張がぜんぜん感じられない。日に吉に丸
だもんね。いいもん全部持っといで、て感じ。
□石田三成=左吉 ひねくれた名前やね。左というのは、日陰者を
意味している。好かれないだろうな。
と、並べてみると、おお、幼名のほうが見事にその人物の運命をいい当てているではないか。(かなり無理がある?まあ、見逃してちょ)。
名前というのは、ただの記号であることを超えて、人の人生を支配することもあったりするから恐ろしい。じっさい、他人に名前を教えると魂を支配されるので、他人にはうその名前しか教えない部族とかがあったように記憶している。おっと、これって『千と千尋の神隠し』の世界観とまるっきりいっしょじゃないか。
名前とは、呪縛である。けっしておそろかに考えてはいけない。
世の親たちは苦労しているんだろうな。もちろん、名を与えられた子供たちのほうも大変だが。
だんだんやりずらくなってきたよ、なあ、バカ猫。もうしばらく名無しのままでいろよな。べつに何も不都合はないし。
名前もけっこう恐ろしいが、単なる記号だけでも、かなり怖いことになることがある。そんな話を紹介しよう。
アメリカのある大学で、社会心理学の実験が行われた。入学してきた学生たちに、君はAのグループ、あなたはBのグループという符号をつけて二分し、後はほったらかしにした。AとBとは何が違うか、分けるとはどういうことなのか、その説明はいっさい無しで。
学生たちは最初はとまどっているだけだったが、やがてAはA、BはBと固まって行動するようになった。Aの集団にBが一人混じっていると、何だか気まずいという雰囲気になっていった。そのうちはっきりとAのグループとBのグループは敵対を始め、ついには喧嘩、暴力沙汰まで起きるようになった。
大学側は大慌てで「これはただの実験で、意味なんかない」と学生側に説明したが、一度ついた名前の魔力は消えない。反目は彼らが卒業するまで続いた。
A、Bという、最初は何の意味もなく与えられた記号が、人間の日常を縛り、最後は憎しみの根源にまでなるとは。民族・国家の紛争なんて最初の最初はこんな下らないことから始まっているのかもよ。だとしたら人間というやつ、根本的に救いはありませんがね。
命名論というのは哲学の中心課題で、けっこうたくさんの論文があるのだけど、ここは猫哲学。このへんの表面的なところで、神秘だけ示して終わりましょう。
全然話が違うけど、サックスを吹く人はなんというのだろうか? トランペッター、ピアニスト、バイオリニスト、だったらサクサー? サクシスト? どちらもしっくりこないなあ。誰か教えてくれないかな。ところで、チェロを弾く人たちは、今ずいぶん困っているだろうな。ちょっと訛るだけでテロリストやもんね。お粗末。
[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com]
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