2009年1月25日日曜日
【猫哲学5】 世界の果て。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
リビングの床を横切ると広い窓があって、そこから向こうへは行けない。だからそこが世界の果てである。
うちの猫は家猫で、外へは出さないから、そういうことになる。
彼は窓の外をみたりもするが、それがなんであるのかを認識できてはいまい。おそらく奇妙な絵でもながめるように、窓ガラスの向こうをみているのだろう。その証拠に、すぐに興味を失って寝てしまう。外界を自分が参加していくべき対象とはみなしていないようだ。
彼の世界の果ては、床と壁と天井。それで何の不都合もなく、ひたすら満足げに寝るのである。
人間だって、世界の果てとは、歩いて行くことのできる限界と考えておけばよかったのだ。なまじいろいろと欲張るばかりに、大航海したり大冒険したりしながら他者の世界を侵していって、いまではこの地球の悲惨な有様はどうだ。世界の支配者たちは、手のとどくところで得たもので満足する術をうちの猫に学びにくればいいのだ。授業料は安くしておいてやるから。(おっととと、何と下品な)。
しかしねえ、大航海で思い出したが、ざっと世界地図を開いて地名をながめてみると、下品なのが多いね。
ソロモン諸島。あの島々とユダヤ王ソロモンに何の関係があるんだ? マリアナ諸島。聖母マリアならまだ許せるが、きっと下品なスペイン船員の恋人のねーちゃんの名前だろう。 カロリン諸島。キャロラインちゃんの島だとさ。 キティ岬。キティちゃんだよ、おい。
誰がこんなネーミングを流行らせたのかというと、いわゆる大航海時代のこと、西洋人が船に乗って航海したあげく、初めて見る島に片っ端から好きな呼び名をつけていった名残なのだ。そこには住民だっていたのに、住民らはそれなりの名で呼んでいただろうに、ふざけた名前を押しつけやがってほんとにもう、野蛮きわまりない。こんな連中の文明を賛美してばかりいるから、わが国も同様に下品になっちまった。やれやれ。
閑話休題(あだしごとはさておき@二葉亭四迷)、世界の果ての話であった。もっと高級な話題だったのだ。
古代ギリシア人たちは、世界の果てまでいくと、そこは垂直に切り立った崖になっていて、海がどーどーと流れ落ちていると考えていた(らしい)。ホンマかな? プトレマイオスのきわめて正確な地図をみるとギリシア人たちがそれほど単純であったとは思えないのだが。
それに、あのソクラテスにそんな話などしたら、まず絶対にこういわれるだろう。
「世界の果て。それはすばらしい。で、その向こうはどうなっているのかね?」
「にゃあ?」
おっとうちのバカ猫、前回ソクラテスと仮に呼んだので、自分のことを書かれていると思ったらしい。関係ないから寝てなさい。
さて、果ての話。天球儀の概念を創ったアリストテレスは、地上を平らだと考えていたのだろうか。天が球で地上が平面だと、メカニズム的にはとてもややこしいことになるのだが。アリストテレス自身はややこしいことを考えるのは平気だったろうから、矛盾はないと考えたのか。
多くの人にとって大迷惑にもアメリカ大陸を見つけちまいやがったコンロンブスは、世界が丸いことを知っていた。だから、インドに到達する近道は西へ行くことだと考えたのだ。彼がどこでその知識を得たかを知るためには、帆に描かれたマークを見ればよい。かの聖堂騎士団の十字だぜ。(この話に深入りするのはやめとこ。でも深いんだよこの話、うふふ)。
そう、果ての話だった。それで、地球が球体であることがやがて常識になると、どこまでいっても丸い地球。だから、果てはない、という話でしばらくは落ち着いていたのだ。
ところが科学の世紀=20世紀には、飛行機が開発されるわ潜水艦が出現するわ、世界の概念は地球の表面にとどまらなくなってきた。そしてロケット。この開発が、宇宙を世界の概念に取り込んでしまった。そこで始まる大疑問。宇宙の果てはどこにあるのか。う~ん、ロマンであるな。
たしか去年の春ごろだったと思うが、毎日新聞の夕刊に『京大の研究グループが宇宙の果てを発見した』という記事が載っていた。
もう、笑った笑った。大腸小腸ちぎれるくらい笑わせていただきましたよ。だって、ナンセンスじゃん、そんなの。記事によれば、ものすごく遠いところにある天体を望遠鏡で観測したらしいのだが、なんでそれが果てなわけ? ビッグバンだの膨張宇宙だの世迷いごとで頭をいっぱいにしているから、単純な常識がわからなくなっているとみえる。
私が常識というものを教えてあげましょう。いいですか。ものすごーく遠くの天体を観測した。うん、それはよかったね。でも反対に、その天体からこの地球を見たら、ものすごーく遠くに見えるわけでしょ。そしたらあれですか、その天体にとっては、ここが宇宙の果てですか?
科学知識の問題ではない。国語能力の問題に近いね、毎日新聞科学部さん。
哲学的に言えばこうなる。
そこが果てだと証明するためには、果ての向こうがどうなっているかということが述べられていなければならない。果ての向こうが述べられるということは、そこはすでに果てではないことを意味している。ならば、その果ての向こうの果てがどうなっているかを述べようとすると…(以下、白鳥座まで続く)。
つまり、果てなどないのだ。こういうことを、あっという間にわからせちゃうなんて、やっぱり哲学ってすごい。
今回はオドロキの結論が出たな。果てなどない。そのことがわかっているからこそ、うちのバカ猫は、我が家の小宇宙でこと足りているのかもしれない。いや、そうに違いない。なあ、そうだろ。
寝てやがる…。私も寝よう。宇宙の果ての夢でもみるか。
[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com]
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]
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