2009年1月26日月曜日

【猫哲学56】 東京ブラボーサービス。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2004/12/17)

 おもちゃのヘリコプターというものがある。

 それほど大きなものでも複雑なものでもない。15センチほどのプラスチックの回転翼がついていて、紐をぐいんとひっぱってそれを回すとみごとに飛び上がるのである。10秒も浮いていないけどね。まあ、竹トンボの進化型みたいなもんかな。

 軍事メカマニアである私は、いい年をこいてそんなものを飛ばして遊んでは嬉しがっているのだが、近頃うちのバカ猫がそれを空中でつかまえるようになった。その姿が、かっこいいのである。

 なにしろ天井にへばりつくほどの高さに飛んでいるヘリコプターだ。こいつをつかまえようとするには、バカ猫はまずソファーの上を二三歩ダッシュして助走をつけ、本棚を経由して天井近くにまでジャンプしなければならない。そうやってヘリを前足で確保したうえで、後ろ足からスタッと着地するのである。着地したときの格好がまたキマッていて、まるで映画『マトリックス・リローデッド』冒頭のヒロインみたいなのである。これらを一瞬のうちにやってのけるのだからいやいや、たいしたものだ。

 しかも着地するときに、床にころがっている本や箱やティーカップやときにはパソコンなどにぶつかったりするのをみたことがない。ということはこやつ、ジャンプする前に着地点まで決めているにちがいない。なんという才能だ。

 私はその姿に思わず感嘆の声をあげ、「ブラーヴォ!」とつぶやいてしまう。(おまえ、その能力をもっとましなことに使えないのかよ)。

 ちなみにブラーヴォというのはイタリア語である。べつに気取っているのではない。私はイタリアワインが好きで、すごくおいしいイタリアワインに出会うと、それをつくったイタリア人のおっさん(たぶん)に敬意を表するにはこの言葉がふさわしいと思い、ひとりでつぶやいているうちにいつのまにか癖になってしまっただけだ。

 イタリア語のbravoというのは英語のbraveと同一の語源をもつものだろう。英語の場合は「勇敢な」と訳されることが一般的だが、おそらく元はもっと単純な感情を意味する言葉で、「かっこいい」とか「すばらしい」とかいう感嘆の表現だと思う。大阪弁なら「ええぞ!」というところだろうか。もしくは「よっ、男前やんけ」。

 だから、よくクラシックのコンサートでアホな聴衆が「ブラボー」なんて叫んでいるのは、「すばらしー!」とでもいいたいのだろうな。どうせなら「ブラララーヴォ!」と巻き舌で叫んだほうがかっこいいと思うが。

 ところで私は、反感を買うことを承知でわざと「アホな聴衆」と書いたのだ。なぜアホというのか、その話をしてみよう。

 バブル経済の頃ほどではないが、いまでもよくクラシックのオーケストラが主にヨーロッパから次々に来日する。彼らは、日本の聴衆をバカにしているそうである。

 なぜかというと、プロのオケだって調子のいいこともあれば悪いこともあるし、演奏をミスってしまうことだってある。だいいち日本という国は湿度が高いので、いいコンディションで古典楽器を奏でられることなんてめったにないんだってさ。そのことを知っているベテラン演奏家たちは、いい楽器を持ってこないのだそうだ。ところが日本の聴衆ときたら、どんなに良い演奏だろうがひどい演奏だろうが、曲が終わるか終わらないかのうちに「ブラボーッ!」そして拍手の嵐、嵐、嵐…。お決まりのカーテンコールにアンコール、それが終わるとまたまた「ブラボー!」、拍手の嵐…。

 来日する音楽家たちは、けっきょくなにをどう演奏しようと同じなのだと気付いてしまったという。ならば、まじめにやるのはばかばかしいではないか。というか、音楽がわからない聴衆を相手に一生懸命演奏しても空しいだけでしょ。そんなわけで彼らは、日本に来たら演奏は手抜をきしまくる。それでもやっぱり「ブラボー!」、拍手の嵐…。

 海外の演奏家たちは日本人のこの奇妙な習性を「東京ブラボーサービス」と呼んでいるという。

 私がまだ若い頃、亡きカラヤン指揮のベルリンフィルハーモニー演奏会に行ったことがある。演目はベートーベンの交響曲だったが、なぜだか金管楽器の数を倍に増やして、これでもかみたいな音量で勝負していた。私の音楽好きの友人はこれを聴いて、「ブラスバンド万歳!」と叫んだという。もちろん皮肉である。

 奇妙なことをやるもんだ、カラヤンの新しい主張なのだろうか。私はそのときはそう思ったが、後にドイツやオーストリアでの演奏をテレビでみたら編成は元にもどっていた。日本人が相手なら、むちゃくちゃをやっても平気だったんだろうな。さすが伝説の人カラヤン。

 オトマール・ズイトナーという巨匠がNHK交響楽団の常任指揮者になった時代があって、これはテレビでみたのだが、演目はモーツアルトだった。なんとまあ、第一バイオリンが間違いを弾いていたのだ。それも何度も。リハーサルすらちゃんとやっていなかったのだろう。こんなもんを堂々と全国放送で流してよく恥ずかしくないなNHK。放送前にチェックしなかったのかよ。おっとまさか、誰も間違いに気付いていなかったのか? い、い、いくらなんでも、そ、そこまでは…。いや…、どうなんだろうね。

 まあ、日本人をバカにするガイジン音楽家もどうかと思うが、日本人のほうもどうしようもないよな。とくに、やたら「ブラボー」を叫びたがるやつら。私の知人にああいう輩はいないので訊ねてみたこともないが、いったいどんな気分であんなことをわめくのだろうか。

 それも、曲が終わってからならまだしも許せるが、終わる前にやるんだもんな。邪魔でしょうがない。

 むかし、名前も忘れてしまったがあるヴァイオリニストのソロコンサートに行ったことがあった。何曲目かにパガニーニのソロ狂詩曲というのが演奏されたのだが、この曲は真ん中あたりで一度盛り上がって、少しポーズを置いて、それからまた続きが始まるというまぎらわしい箇所がある。その曲の途中のことなんだけど、そそっかしいブラボー野郎が曲が終わったと勘違いして「ブラボー」なんて叫んだものだから、周囲の聴衆も勘違いして拍手が巻き起こった。気の毒に、演奏者はムカーッとした顔をして、拍手がおさまってから続きを弾いたのだが、以降をまじめにやるのはつらいものがあっただろうな。

 この例からもわかるように、ブラボー野郎は音楽をわかっていて叫ぶのではない。わからないくせにわかるふりをして、わかっているってポーズを見せびらかしたくて、曲が終わる前に叫ぶのである。はっきりいってゴミやがな。

 そういえば、ブラボーを叫ぶのはいつも男だな。女の声であれをやるのは聞いたことがない。なにか理由でもあるんだろうか。

 ところでコンサートホールといえば、大阪の朝日放送シンフォニーホールは20年ほど前にオープンしたのだが、あのときに広告キャンペーンを担当したのは実は私だった。シンフォニーホールは日本で初めて設計時に残響時間を計算したうえで建築されたホールで、残響2秒というのを自慢にしていた。それまで大阪で良いホールといわれていたフェスティバルホールの残響が0.45秒ほどだったから、違いは明らかである。じっさい、きれいな音が響いた。

 そのとき私は担当コピーライターとして、この新しいホールのために次のキャッチフレーズを書いた。

「せめて2秒、拍手を待ってください。」

 私はいまでもこれを名作コピーだと思っているが、なんということだろうねえ、私は仕事で文章を考えるときにまでいじわるなヤツなのだ。あはは、根性わる~。

 クライアントの広告担当者はこのコピーをみて狂喜したが、それから後どうなったのかはわからない。その直後に私は広島に転勤してしまったので。おそらく、世に出ないままなのではないだろうか。

 まあそんな話はどうでもいいとして、要するにブラボー野郎というのは、音楽をわかっていなくて愛してもいなくて、それなのにわざわざコンサートホールに足を運ぶ迷惑野郎なのだ。

 だいたいやねえ、以前の【猫哲学:猫感動論】でも書いたけど、真に感動したのなら声を失ってしまうものなんだけどな。感動もしないくせに声を出して感動を伝えようとするこの人たちは、存在そのものが自己矛盾ではないか。

 音楽だけではない。美術でもへんなことがある。

 大昔、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』が日本にやって来たことがあった。すごい騒ぎだったね。美術館の前は大行列。一人あたりの鑑賞時間は2秒程度だったという。たった2秒でなにがわかるのかなあ。でもテレビニュースのインタビューでは「感動しました」と答えている人がほとんどだったから、つくづく日本人というのは絵画に関して天才的な感受性をもっているんだなあ。ああ、すごいすごい、ほんとにまったくすごいなっと。

 ちなみに私は、モナリザがどれほどすばらしいのかちっともわからない。ピカソなんかもっとわからない。もちろん、自慢しているわけではないよ。わからないものをわからないといっているだけである。きっと私には、美術に関するセンスってやつが欠落しているのだろう。だからといって恥ずかしいとも思わないけどね。

 ひとりの人間があらゆるジャンルの芸術をわかるなんて無理だろうと思うし、それぞれ得意の分野があってもいいじゃないか。私はブンガクについてはひとかどのセンスをもっているつもりだし、音楽については二流以下だがちょっとはわかる。美術はぜんぜんわからない。そんなもんでいいんじゃないのと思っているのだ。

 料理というのもある意味で味の芸術だが(美術の側面もあるよね)、私は舌の良い人の半分もわかっていないだろう。それはそれで仕方がないのだ。人それぞれ、才能というものには違いがある。

 しかし、私のお気に入りのイタリアレストラン、カフェ・モンテラートの横山シェフは嘆いていたよ。

「うちの料理を食べながらね、雑誌を取り出して、次はどのお店に行こうか、なんて相談しているお客さんがいるんですよー!」

 私は自分が味音痴であることは自覚しているが、でも横山シェフの料理には感動するし、食べるときには食べることを一心不乱に楽しんでいるんだけどなあ。まったくもう、グルメマニアというのもしょうもない連中だな。だけど、こういう人たちが「食通」なんていわれたりもするのだから、世の中はわけがわからない。

 コンサートホールのブラボー野郎も、2秒のモナリザで感動できる人も、このグルメ連中と同じではないだろうか。芸術を前にして、芸術を味わおうとしていない。彼らが味わっているのは、「芸術を前にすることで芸術と同じレベルにまで高められたと錯覚する自分」であろう。なんのことはない、自分がかわいいというだけなんだ。

 そんな気分になるために、評価の定まった芸術を介在として必要とする、そういう点において、そんなものはすでに自分ではないのにね。ああ、そうか。自分が空っぽだから芸術、いや、その芸術に与えられた評価が必要なのか。なんだ、要は自身が、いや自信ないだけなんだ。

 これって、有名ブランド趣味に似たところがありますね。ヴィトンだのプラダだのを持っていればバカにされることはないだろう、てな感じなんだろうな。私なら、ブランドマークを見た瞬間にその持ち主をバカにするのだけど。あ、またまたいじわるになっちゃった。

 さて、ここまでくると今回のテーマがやっとみえてきたと思うのですけど、早い話が芸術の意味について語りたかったのですな。いつもながら余談の長いこと。

 さて、芸術である。芸術とは、なんなのだろう。

 なんてことを語りはじめたらきりがない。本が何冊も書けてしまうので、ここでは「人はなぜ芸術を求めるのだろうか」についてちょっと書いておきます。

 感動を求めてだとか、感性を豊かにするためだとか、どこにでも書いてあるようなありきたりの話は、私はしないよ。なんたってオリジナル追求をモットーとする猫哲学だ。目から鱗の真理を語るのだ。ああ、かなりえらそうやな。少し反省しよ。

 さて、いつも通り結論からいくぞ。人は、なぜ芸術を求めるのだろうか。それは、言語が不完全だからだ。

 わかる人にはこれだけでわかっちゃうと思うけど、以下、蛇足ながらの説明を。

 言語は不完全なのである。これは『週間ウィトゲンシュタイン』でさんざんやったので繰り返さないが、そうなのである。ここでは、ウィトゲンシュタインがこのことについて語っている部分を、引用するだけにしておきます。以下、『論理哲学論考』から。

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※4.0002 (4行省略)
※日常語は人間という有機体の一部であって、それに劣らず複雑なもの である。
※日常語から言語の論理を直接的に取り出すことは、人間にできること ではない。
※言語が、思考に着物を着せる。そこで、着物の外形から、着物を着せ られた思考の形を推定することはできない。というのは、着物の外形 は、からだの形を人に知らせる目的とはまったく別の目的で形づくら れているのであるから。
※日常語を理解するのに必要な暗黙の取り決めは、途方もなく込み入っ たものである。
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 てなわけで、不完全な言語は人の多様な感覚や感受性や感情のほんの一部分しか認識できないし、表現できないのだ。でも、できないからといって、認識したい、表現したいという衝動が消えてなくなるわけもない。そんなときに人が依拠するのが、芸術固有のさまざまな様式なのである。

 つまり、人がもつ深く豊かな心の活動に形を与えるための形式が芸術なのだ。言語もその形式のひとつではあるが、とても粗雑で不器用なものなので、だからブンガクっていまいちなのだ。

 あ、また無茶苦茶を書いてしまった。

 このあいだテレビで音楽番組をやっていて、司会者が「音楽は、国境や民族を超えて語り合える言葉なのです」なんていいながら自分のセリフに酔っていた。なんちゅうことをいうのだアホ。冗談じゃない、音楽は言葉ではないぞ。言葉を超越した形式だからこそ、いろいろな限界を超えることができるのだ。

 美術もきっとそうなんだろうね、たぶん。私にはわからないが。

 というわけで、猫芸術論でした。今回は、哲学は後半のちょびっとだけになってしまったにゃ。まあいいか。

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「あたしはね、芸術がないと生きていけない人なの」

 いつもの超美女と食事をしていたら、彼女はまたわけのわからんことをゆーとる。

「あそ。ふーん」

「なぜ芸術が必要なのか、知りたい?」

「べつに」

「聞いてよ」

「いらんちゅーとるがな」

「聞いてくれないと暴れるよ」

「ご勝手に」

「わかった。いますぐジャコーザの97※をオーダーしてやる!」

(※イタリアの高級ワイン、しかもビッグビンテージ)

「もう、しょーがねーなー。それで、なんで芸術が必要なんだ?」

「あたし自身が芸術だからよ」

 …やっぱり聞くんじゃなかった。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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