2009年1月26日月曜日
【猫哲学44】 猫感動論。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
(2004//07/02)
「ああ、桜がきれい」
春になると花見をして酒を飲んで酔っぱらうのが私の楽しみである。で、私が仲間といい機嫌で語らっているところに、よく家族連れが通りかかる。そんなとき、幼い女の子が冒頭のようなセリフをいかにも利発そうに叫ぶことがある。
こんな言葉をきくと、私はとても残念な思いにとらわれる。真に桜の美しさに感動したのなら、そのことは簡単に口にはできないだろうという考えの持ち主だからだ。
ちょっと唐突かな。今回は感動と言葉のおはなしですので、ランボーには遠く及ばないけど、でもアル中のたわごとということで、詩の本質に迫りたいと思います。
うちのバカ猫の話ではないが、猫が感動するのを見たことがある。
それは夏の夕暮れ、お日さまがビルの谷間に沈んでいくのが見えるときのことであった。一匹の野良猫(都会に野良はないから、都市猫ということかな)が、近所の屋根の上で夕日を見つめて、じっとうずくまっていたのだ。ヤツはすぐ側を通りかかった私のことなどぜんぜん無視して、呆然と沈みゆく太陽をながめていた。魂を奪われたみたいというのは、ああいうことをいうのだろう。猫にも魂はもちろんあるのだ。
さる霊長類の研究家は、アフリカのマントヒヒが同じように夕日をながめて20分ものあいだ呆然としているのを観察している。どんな動物にとってみても、自然のダイナミックな営みというのは心を奪われるものなのだろう。
では、人間はどうなのか。結論は、人間だって同じことだということでなにも異論はない。だが、人間は言語というやっかいな道具をもっているので、これが人間を誤らせることがある。
なんのことかって? はい、これから順を追って説明しましょう。
私の知人に、とても才能ゆたかな人がいる。料理をつくらせればプロ級、三味線を習い始めたら二年で師範になってしまった。詩も書くし歌もつくる、お店を経営すれば大繁盛、その他あらゆるところで才能バリバリの人である。その人が新居(億ション!)に引っ越したので、私としては義理もあって、お引っ越しお祝いということで私の超お気に入りのイタリアンレストランに彼女のダンナともどもご招待した。
ところがその人、食事をしながらぶすっと黙っている。彼女は自分を女王様で主役でシンデレラで白雪姫だと思っている人で、しかもおしゃべりでもあるので、沈黙などありえないのはずなのだ。私は、ああ、料理がお気に入らなかったのかも、失敗したかなあと思ってがっかりしたのだが、食事会も終わるころになって「おいしー!」と叫びはじめた。よくきいてみると、前半は感動のあまり食べるのに集中していたのだという。彼女いわく、「感動したら、言葉なんか出てこないよ」。
まさにそういうことなのである。言葉が意味をなさない地平というものがあるのだ。これは、言葉が無力だというのとはちょっと違うけど。
もうひとつ、別の例をいってみよう。
私の知り合いにとてもかわいい女性がいるのだが(なんだか、こんな話が多いね)、彼女にはいろいろと気の毒な事情があったので、なんとか元気をだしてほしいと思い、私は超~!!かわゆいぬいぐるみをプレゼントしてみた(そういうのが大好きで、またよく似合う人なのだ)。
そのとき彼女は、「きゃーん、かわいい~っ!」なんていわなかったよ。彼女はぬいぐるみをみて、ポカンとした顔をして、しばらくじっとぬいぐるみとにらめっこして、それから胸にきゅっと抱きしめて、「いやん」っていった。
ことほどさように、真に感動した心というものは、言葉を失ってしまうのである。そしてそのほうが、感動を素直にめいっぱい味わうことができて、とてもおトクだと思うのだが、いかがだろう。
冒頭で述べた桜の話でいうと、桜の美しさというのはたんに美しいだけではない。かなりな不気味さを伴っている。ミステリアスな感じを含んでもいる。それを「あ、きれい」といってしまうと、そのときに感じた本当の気持ちは意識にのぼる前に雲散霧消してしまうのだ。
その感情は、ありきたりの言葉で表現できるようなものではない。その子がいずれ大人になって、さまざまな経験を積み、自分なりの表現力を身につけて、あるときその感動がどういう意味をもっていたのかに気付いて、それからやっと言葉にできるようになるだろう。そしてそのときの言葉は、誰の真似でもない、また誰にだって真似のできない美しい詩になっていることだろう。やはりこちらのほうがずいぶんおトクだと思うのだが、いかがなものだろうか。
以上で結論までいってしまったので、ここで終わってもいいのだが、私の読者は「そんなあたりまえのこと、知ってるわい。わかりきったことを書くなバカ」といいだしそうな見識の高い方ばかりなので、ちょっと方向を変えよう。
これまで書いてきたことは、なるほど多くの人が知っているはずのことで、ある意味では常識だが、このことをわかっていない人も案外と多くいるのである。しかも、それが教育者であったりする。以下に書くことを読んでいただいて、みなさん、一緒に腹を立てましょうね。
とある小学生のペーパーテストに、こんなのがあったという。
????????????????????????????????
みどりちゃんは野原できれいな花が咲いているのをみつけたので、写真をとって帰りました。あなたならどうしますか。次の3つのうちから選びなさい。
(1)写生をする。(2)つんで帰って、押し花にする。(3)じっと見ている。
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こんなことをテストにすること自体、やろうとした人の見識を疑うしかないが、でもまあ無理してつきあってあげることにして、とりあえず考えていただきたい。
さあ、あなたならどれを選ぶだろうか。
その子がその花をほんとうにきれいだと思ったのなら、その感動を心にやきつけて豊かな経験として記憶に残しておくのにもっとも適切な行為とは、(3)だろう。でも、(3)を選んだあなたは10点満点の0点である。
ちなみに(1)が10点。(2)が5点なのだそうだ。なんでこういうことになるのか理解できますか?
この問題は、みどりちゃんが写真を撮ったという枕の一行がポイントで、花の姿を残して持って帰る方法について聞いているのだ。だから、写生をするのが満点。押し花にすると形が変わるので5点。見ているだけでは何も残らないから0点。
バカヤローッッッ!
写真よりも押し花よりも、心にきざみつけた感動の記憶のほうが数倍どころか数万倍も美しい宝物じゃないか。
私が怒るのも、わかるでしょう。教育者たるものが、しかも児童教育に携わるものが、人の感情と記憶と経験に関してこんなに見識が低くてどうするんだよー!!!
私は、小学校教育の現状を知るのが恐ろしくてならない。本来なら人間に育つはずの子供たちが、工場でロボットに変えられているようなもんだ。少年Aこと酒鬼薔薇聖人があんな怪物に育ってしまったのも、こんな教育を受けていたんじゃしかたがないなあ、とそんなことまで思ってしまうのだ。
あ、思い出したらまたまた腹がたってきたので、疲れてしまった。今回はこのへんで終わりにします。でも教育問題については、いずれ別の角度からやりますので。何を隠そう、私の大学の専攻は教育学だったのだ。どうぞお楽しみに。(いらんかな、そんなもん)。
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「たしかに感動は人を無口にするわね」
めずらしくも例の超美女が私の見解に同意を示すので、私は少し気分がよくなってきいてみたのである。
「ふ~ん、どんな実例があったんだ。教えてくれないか」
「あたしのまわりの男性って、無口な人ばっかり」
…トーフの角に頭をぶつけて、死にやがれ! F-pon
(注) 文中、小学生のペーパーテストのエピソードは、私がむかし愛読した童話作家の立原えりかさんのエッセイから引用したものです。
[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com]
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]
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