2009年1月26日月曜日
【猫哲学33】 猫ゴルフ論。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
(2004/11/25)
うちの猫はゴルフボールがお気に入りである。
あのゴロゴロゴロー、と転がる音が気になるのだろう。床を転がしてやるといきなり緊張し、チャンスとみれば飛びかかる。ネコジャラシなんか見向きもしないくせに、妙な趣味のやつだ。
とはいえ、ゴルフといえば人間の大人の大半が好きなんだから、うちの駄猫がこんなものを好きだからといって、不思議がることはないのかもしれない。でもバカ猫と同列に並べられた大人たちは、むちゃくちゃ腹が立つだろうなあ、あははは。
そんなこと平然とをいってしまう私は、もちろんのことだが、世の方々が何であんなものが好きなのか、ぜんぜん理解できないのである。単に、私が変人だというだけのことかな。
いやいや。ゴルフというものがただの球遊びで、パコーンと打って、コロコロすっこんと穴に入れるだけのゲームなのであれば、私だって大好きになったかもしれない。しかしながらゴルフというやつ、歴史を重ねるうちに変なものがいっぱいまとわりついてきて、ぜんぜん楽しめないものになっているのだ。その変なものとは、階級化、賭、マナー、キャディのおばはん、自然破壊、等々である。
じゃあ、そのへんのことを行き当たりばったりに述べていこう。
ゴルフを始めた人は、英国の羊飼いであるらしい。異説もいくつかある。フランス発とか、オランダ発とか。真相はよくわからない。
ただ、15世紀にはスコットランドで大流行していたことは確実である。兵隊たちが特にお気に入りで、朝から晩まで一日中遊んでいたという。兵士としての訓練はどうした、こら。と思う人も多かった。
こんな状態を憂慮したスコットランド王ジェームス2世は、ゴルフ禁止令を出し、違反した者は罰金、投獄された。そんなにまでされてもやりたがったんだから、よほどおもしろかったんだろうな。しまいには後の王ジェームス4世までがゴルフを始めてしまい、そのせいかなのかどうなのか、スコットランド王国はイングランドに攻め滅ぼされてしまった。そんなわけで、ゴルフをことを「亡国の遊技」というのだ。…というのが本当かどうかは、私は知らない。
ところで、はじめは羊飼いたちの遊びだったというこのゲーム、兵隊に気に入られ、やがては王様までが夢中になると、羊飼いなんてのはゴルフ場から追い出されてしまう。そしてひたすら貴族独占の道を歩んでいき、ついには英国特権階級の遊びとなった。私が階級化というのはこのことだ。
英国の貴族階級の遊びとなったもんだから、ゴルフというのはやたらにマナーや服装にうるさく、気取ってプライド紛々たるものになった。日本の初心者が、まずマナーを徹底的にうるさく指導されるのは、この伝統を引きずっている。大人の遊びなんだからマナーはあって当然だとは思うが、それが服装、シャツの柄、靴の色にまで及んでくると、アホかいなという気がするのは私だけなんだろうか。なにしろ、倶楽部の長老たちが目を光らせていて、若い者の服装を罵倒したりするらしい。もったいぶりやがって、ただの遊びだろうが。
他方、ゴルフは17世紀にはアメリカ大陸に渡って、ここでも大流行した。だが英国と違ったのは、当地には貴族なんていなかったことだ。なにせごろつき、あぶれ者、ヤクザがつくった国だからな、ゴルフも気取ったものにはならなかった。そのかわりといっていいのか、賭ゴルフが蔓延した。その賭も、スコアを賭ける、順位を賭ける、ホールごと、一打ごとに賭けるなど複雑きわまりないルールが生まれ、しまいには賭博をやっているんだかゴルフをやっているんだかよくわからないまでに賭博化していった。
現代日本のゴルフもアメリカの影響を大きくうけていて、賭ゴルフが主流である。握り(=賭のこと)をやらないゴルフなんてゴルフではないというのが、大半のゴルファーである。
つまり日本のゴルフというのは、英国の悪いところと米国の悪いところを輸入してくっけたものなのだ。私だけがそういってるんではない、とある高名なスポーツ評論家の言葉だ。
だから、グリーンの上でのゴルファーたちの姿は、けっこう醜悪だ。なにしろ一打ごとに金が賭かっているわけだから、上品さからはほど遠いものになる。相手のじゃまをするわ、口でいびるわ、ミスをごまかすわ、何でもありに近くなっていく。
でもそんなのはまだ可愛いほうである。国会議員とか大企業で地位の高い人とか、高級官僚とか、社会的身分の高い人とやるときには、これは接待であるから、目下の者はけっして勝ってはならない。わざとミスをする、相手のルール違反には目をつぶる、長いパットが残ってもOKを出す。ほんとにもう、どこがゲームなんだか、ボールとクラブを使った、ただの接待である。それも現金つきの。(OKとは、上手な人なら外さない程度の距離のパットを、打たないままで入ったことにする儀礼の一種)。
某建設会社の元会長は、ピンまで5メートル以内ならOKということになっているそうだ。潰れそうな某巨大スーパーチェーンの元会長は、グリーンに乗ったらOKなのだという。そこまで優遇してもらって、賭の金はきっちり取るらしい。品性下劣で金にもきたないとなれば、救いってものがないよな。でも、こんなゴルフなら、偉い人にしてみれば好きでないはずないさね。だって、絶対に勝てるうえに、お金までもらえるんだから。
元日本国首相の森代議士は、民間会社社長と不動産ブローカーと一緒にプレーするのが大好きだそうだ。そりゃそうだろ。絶対に勝てる相手なんだもんな。見返りとして利権誘導してやったところで、どうせ国民の税金だ。懐は痛まない。水産高専の練習船「えひめ丸」がハワイ沖で米海軍の潜水艦に撃沈されて多数の死者が出たとき、当時まだ首相だった森サンは、いつものお気に入りとゴルフの真っ最中だった。秘書官から日本の練習船撃沈、死者多数の連絡が入ってからも、この人はそのままプレーを続け、18ホール終了後に「握り」を精算して、金を受け取ってから首相官邸に帰ったそうだ。
ことほどさように、ゴルフというのは魅力あふれるゲームということらしい。うらやましいかぎりである。おっと、そういう問題じゃないかもしれないけど。
日本にゴルフが入ってきたのは、明治時代である。でも外国人とごく一部の日本人がやっただけで、さほど流行しなかった。もっと普及したのは敗戦後のことである。GHQの将校たちがプレーするために、日本中にゴルフ場をどんどん造らせた。占領軍が去ってもゴルフ場は残り、日本の支配階級がそこでプレーした。日本のゴルフ事情というのが階級化しているのと、米国並の下品な賭けゴルフの両方の側面をもっているのは、このような歴史があるからだろう。
日本でゴルフというものが一般的な認知を得たのは、1957年、霞ヶ関カントリークラブ開催のカナダカップがきっかけになっている。現在はワールドカップとなっているこのカップ戦で、世界の強豪プレーヤーを相手にして、なんと日本人が団体、個人戦とも優勝してしまったのである。このビッグニュースに、日本中が大騒ぎとなった。でも今から冷静に考えてみると、日本人が日本のコースに慣れて、熟知していただけのことなんじゃないかと思うのだが、こんなことをいうと怒られるだろうな。
日本人のゴルフ熱というのは、1980年代のバブル景気で頂点に達した。安サラリーマンから女子大生までがゴルフ場におしかけ、予約は常に満杯状態。会員権は億単位で取り引きされた。ゴルフ場の大造成ブームも始まる。日本中の山林が伐採され、切り裂かれ、ゴルフ場に姿を変えていった。
私が何よりもゆるせないのは、このゴルフ場による自然破壊である。
飛行機で大阪から東京へ行く機会があれば、上空から伊豆あたりの景色を見てごらんになるといい。見渡すかぎり、皮を剥ぎ取られたような山々が広がっている。ものすごく気持ちの悪い、醜い景色である。これが、全山ゴルフ場に変えられてしまった日本の自然の姿である。
単に景観が破壊されただけではない。あのグリーンやフェアウェイが雑草に覆われてはいけないから、大量の農薬と除草剤が使われている。このために、虫や鳥が死んでいく。とくにグリーンはきれいに保たれる必要があるので、強烈な除草剤が使われている。あの緑の芝は、除草剤に耐えるように品種改良されたものなので、芝だけが生きられる世界になっているわけだ。どれくらい強烈かというと、こんな話がある。
私の会社の先輩が、手の皮膚がぼろぼろになってきて、どうしたんだろうと悩んでいた。そこで私はきいてみた。
「さいきん、ゴルフやりましたか?」
「おお、のってるんだよ。毎週だよ」
「グリーンでラインを読むときに、芝に手をついて見てませんか?」
「うんうん、かがんで目線を低くするとさ、よく読めるんだよ」
「その手、除草剤ですね。手をつくのはやめたほうがいいですよ」
その先輩、ゴルフを月一回にひかえるようにしたそうだ。グリーンでは手をつかないと用心した。そしたら、手は治った。
私は、ゴルフ場で人間が危険にさらされていることについては、べつに何とも思わない。どうせ人間のやったことだ。因果応報ってやつさ。しかし、それによって自然が破壊されていくことがどうにもゆるせないのだ。除草剤や農薬は、雨ととともに大地に染み込み、やがて地下水を汚染するだろう。その地下水は、河川にも田畑ににも流れ込むし、飲料水を汚染もする。こういう場合、もっとも犠牲になりやすいのは赤ちゃんなんだぞ。
こんなことに想像力の働かない人間どもが「ゴルフ場って、きれいだねー」などというから、私のイライラはおさまりそうにない。もうすぐ日本はゴルフ場汚染によって滅びるのではないか。まあ、たかが人間のことなど、どうでもいいといえば、どうでもいいことなんだけど。
さて、ここまでの内容だと、ただの文化評論にすぎないな。ここは猫哲学なのだ。もう少し哲学的になってみよう。
というわけで、ゴルフとはいったい何か。
ほんとうに、いったい何だったんだろうね、あのゴルフ熱ってやつ。私はあえて過去形で書く。なぜなら、あのような熱狂はもう二度と戻らないことを知っているからである。
1980年代のゴルフ熱というのは、異常なものだった。土曜日の午後にテレビをみていると、どのチャンネルもすべてゴルフ番組で、私はテレビをぶったたいてやりたくなったものだ。サラリーマンの世間話といえば半分以上はゴルフの話題。通勤電車を待ちながら傘でスイングしている人もいっぱいいた。それが普通にみえてしまっていたあの時代、もちろん私はそこに、おかしなものを嗅ぎ取っていた。
ゴルフというものが、はじめは特権階級のものだったということは、前に書いた。それがあの時代、庶民に手の届くものになった。ここから錯覚が始まっている。
庶民の手に届くといっても、やはり高価な遊びであることに違いはない。プレーフィーやらナントカ施設使用料やらあわせると、簡単に5万円くらいは飛んでいったはずだ。それでもみんなが手を出せたのは、バブル景気を背景とした交際費の乱発だった。つまりみなさん、会社の金で遊んでいたのだよ。その証拠に、バブルがはじけて会社が交際費なんか出してくれない時代になると、ほとんどの人はゴルフ場になど行けなくなってしまったではないか。
とはいえ金の出どころがどうであろうと、やはりみんなゴルフに夢中になっていた。一般に趣味の話をするとき、変なものが好きだというと周囲から変人扱いされるから、人は趣味についてあまり大声で多くをかたりたがらないものである。ところがゴルフは違った。大声で集団で、あられもなく好きだという話をしていた。この違いとは何か。
ひとつには、それは先にも書いた特権階級の遊びだったということにある。お金持ちの遊びなんだから、高尚で良いものに違いないという変な自信である。つまり、権威だな。
もうひとつは、みんなが好きなんだから、大丈夫だろうという安心感である。ゴルフがいくら好きだと宣言しても、誰にも変人扱いされることはないはずだ、というわけである。
この権威と安心感。これにどっぷり浸って、何の不安もなくいられるという心地よさが、ゴルフというものにはあのとき確かにあった。今はなくなってしまっているのだが。
権威と安心感。これはいまのブランド趣味に通じるものだ。有名ブランドだし、見たら誰にもわかるし、いいモノだってみんな認めるし、だからバカにされないし、値段が高いこともみんな知ってるし、というわけでヴィトンって好きなのよねー、ってやつだ。
これをゴルフでいうと、こうなる。オレはゴルフが好きなんだ。いい趣味だろ。誰だって知ってる。誰もバカにできないはずだ。だからオレは高尚な人なのだ。どう、オレっていい人だろ? みたいな。
まあ、これ以上はいいますまい。ゴルフの権威と安心感は過去のものとなった。有名ブランドグッズの価値も、私には裸であることが見えているし、あれもそう長くないだろう。幻想とは、空しいものなのだ。いずれ、誰にもわかるときがくるさ。
ある人がいった。
「ゴルフとは、人生である」
ならば私は、こうお返ししよう。
「あんたの人生は、有名ブランドバッグかよ」
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例の美女がゴルフを始めるというので、私はいってやった。
「農薬でお肌が荒れないように気をつけろよ。特にグリーンでは呼吸をするな、肺によくないからな」
「そんな理屈ばっかりいってないで、あなたもやってみなさいよ」
「へっ、誰がするもんかい」
「あたしが二人っきりで教えてあげるわよ」
「う…」
「あー、いまちょっと迷ったね、アハハハッ」
ばかやろう、そんな話をしているんじゃないんだっちゅうのに!
[上の文章は、約4年前に書いたものです。][original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com][mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]
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