2009年1月26日月曜日
【猫哲学39】 猫哲学論。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
猫の生に意味はない。
いや、意味がないというのは違うかな。目的がないというべきだろうか。実は同じことなのだが。
いま私の膝でぐーすか寝ているこのバカ猫が、何かの意味を持って生まれてきたのだと考えるなんて、とてもできることではない。なぜ私の膝で寝ているのかというと、ホットカーペットよりこちらのほうが寝心地がいいとこやつが判断したというだけのことで、それ以上の理由もないし。
もとよりうちのバカ猫の命に、神より与えられた使命などあろうはずもなく、そんなことはわざわざ書くまでもないことだが、それをあえて書くのは、人間だって同じことだということを強調するためである。
「猫の生に意味はない」。このことならたいてい誰も素直にそう思うことだろう。
「人間の生に意味はない」。こういわれると、ほとんどの人は納得しないと思う。怒りさえ感じるかもしれない。でも、そうなんだもんね。
若い頃は、よく人生の意味について考えたものだ。いったい私は、何のために生まれてきたのだろう。いま生きている理由は何だろう、目的は何なのだろう。でも、考えた末の結論としては、けっきょくよくわからなかった。
若い頃というのは、なぜ生きていることに意味や目的といった説明を必要とするのだろうか。これは私ひとりの性癖ではなく、「若きウェルテル」に世界中が共感しちゃうという現象が証明するように、普遍的な傾向といえる。でも、いったいどうしてなんだろ。そこのところが昔は謎だった。
この歳になってよく考えてみるとすごく明快に理解できるのだが、それは、私というものを他人に説明したいという欲求があったからに違いない。自分をとりまく他者を相手に、「私はこういう人だ」と説明するために、そうした言葉(又は物語)を自分のなかに求めていたということだろう。
若い人というのは、社会的存在としてはまだまだ不安定だし、それだけ不安だということだろう。他者に認めてもらうための、自分の物語を必要とするほどに。無理もない、それが若いということなのだからね。
さて私のように、もう若いなどと誰もいってくれないような歳になると、そんな物語を他者への説明として用意していてもいなくても、人間関係というのは、うまくいくこともあればうまくいかないこともあるってことを経験してきている。だから意味も目的も、必要がないことを知っている。あるいは必要だとしても、それは一種の方便なのだということを知っている。その境地からもう一度、人生の意味について考えてみると、そんなものは元からないことがよくわかるのだ。人生ならぬ猫生に意味がないのとまったく同じことだ。
しかし私は、単なるニヒリズムでこんなことを書いているわけではない。その反対に、意味も目的もない生こそが、真に味わうべき裸の生そのものだということを、わかってしまったということがいいたいのだ。ちょっと抽象的かな。解説してみよう。
たとえば私の生に目的があったとしよう。だとすれば、私はその目的から外れて生きることができない。目的の奴隷になってしまう。それはそれで奴隷としての心地よさはなくもないだろうが、目的と関係のない生き方を選ぼうとしたとき、それは挫折感としてのしかかってくるだろう。そんなのはいやだな、やっぱり。
まだちょっと抽象的すぎるので、具体例をあげよう。
もしも私が戦国時代の零落した大名の家に生まれたとする。その場合は当然、私に与えられた目的はお家再興ということになる。しかし、その私はお家再興などにまったく興味がなく、ひたすら天文学が好きだったとする。結果としてお家再興がならなかったとしたら、私は失敗者といわれることになるし、私も自分を失敗者とみなすだろう。とても不幸なことである。
反対に、もしも私が先祖代々続く天文学者の家に生まれたとしよう。その場合は、私の人生の目的は天文学の継承と発展というふうに周囲は期待するだろう。ところがその私は、天文学なんかにちっとも興味がなくて、ひたすら戦争が好きなやつだったとしたらどうなるか。おそらく戦場で手柄を立てたとしても、ただの変なやつとしか思われないだろうし、私も自分を変なやつとみなすだろう。これまた不幸なことである。
目的がもっと抽象的なものだったとしても、同じことだ。
たとえば私の生の目的とは、ひたすら良い人生を歩むことだと自他ともに認めていたとしよう。でも人生に失敗はつきものだし、病気になるかもしれないし、大事故に遭うかもしれない。大失恋するかもしれないし。あ…、してるな。それで私が、見た目にはあまり幸福とはいえない人生を送ったとしたら、人は私を不幸なやつと思うだろうし、私も自分を惨めに感じるだろう。これもまたまた不幸なことである。
さて、ここに一匹の猫がいる。こいつはひたすら食っちゃ寝、食っちゃ寝、なあ~んにも考えずに日々を生きて、いずれ死ぬだろう。こいつを不幸と誰がいうだろうか。猫の生に目的などない。だから、幸福も不幸も関係ないのだ。こういうのを、ある種の幸福といってはいけないだろうか。猫がうらやましいというのではけっしてないが。まてよ、少しはうらやましいかな。
もう少し哲学的に述べてみよう。生に目的がない(意味がないといってもいい)ということは、実は、あらゆる可能性に対して開かれていることを意味してもいる。すべての可能性を肯定できる立場に立てるということだ。そこにおいては、幸福も不幸も関係ないだろう。うちのバカ猫と同じように。
生に意味を与えようとすると、とたんにその生は窮屈になる。キャットコンテストでグランプリを取ることを使命として飼われている猫を想像するといい。そいつは、うちの駄猫と比較して、かわいそうな猫に違いない。
目的も意味もない生を生きるということを知ってしまうと、人生は急に軽やかなものになる。いま、ここにいることが当たり前のできごとになり、次にどんな行為を選択するにしても、それは正しくも間違ってもいないということになる。悟りというのではない。開き直りに近いな。しかし、若きウェルテルの悩みとは対極に位置して、ウェルテルくんを笑い飛ばすことができるのだ。ああ青春なんか、とんでけ。これが猫哲学の真骨頂、前にも一度書いたけど、「なりゆき」ってやつなのだ。
おお、「なりゆきの美学」。これが究極の答え、ここですべてはおしまいだったら、それはそれでハッピーなことではある。ところが、そこで打ち止めにならないのが人生のややこしいところなのよね。
無意味だということはわかった。でも、その無意味な生を生きるということには、どんな意味があるのだろうか。なぜ無意味なのだろうか。そのことが気になってまたもや考え始めたら、あなたはついに猫哲学者の仲間入りである。そんな問いに、いったい答えがあるのか。ないとしたら、なぜないのか。答えがあるとしたら、それはどんな答えなのか。古今東西すべての哲学は、ここから始まり、ここからただの一歩も出ていない。
ところで、「哲学っていったい何なの?」とよく聞かれる。
プラトンは、「哲学とは驚くことだ」といった。あたりまえのことに驚くことなのだと。哲学の教科書にそう書いてあった。私は読んだことがないが。
日常のあたりまえのことを「あれ?」と思って問いはじめたら、その問いは無限に広がっていく。そして問いには答えがない。ならば、なぜ問うということが成立するのだ。へんではないか。私は、そのへんな様相に気付いてしまい、へんだへんだと考えるのが日常になってしまったので、これが他人からみると「へんだ」とみられるのにも慣れてしまったのだが。
ウィトゲンシュタインという変人哲学者は、このことを次のように語ってみせた。
=【『論理哲学論考』より】===================
世界がいかにあるかが神秘的なのではない。 世界がなぜあるのかが神秘的なのである。
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うう~、かっこいいなあ。たかが猫哲学者の身では、このような決まりすぎの台詞は書きたいと思っても書けないなあ。降参。
この文章の解釈については『週間ウィトゲンシュタイン』ですでにやっているのでくりかえさないが、それにしても哲学とは何なのかを一瞬でわからせてくれる美しい詩であると、私は思う。
つまりよく考えてみると、人生においては、哲学のほかに考えるにふさわしいものなどないのである。だって宇宙が考えろといっているのだから、仕方ないじゃないですか。とまあ、これが猫哲学における哲学的立場なのだった。今頃になっていうなって?
一般に理解されている哲学のあり方とずいぶん違うな、と思われる方もおられるかもしれない。なにしろ世の中には、カントの一章の部分的注解に一生を捧げる職業的哲学者もいらっしゃるからね。ああいうのが本当の哲学者だと誤解している人も多いのじゃないだろうか。
たしかに、哲学というのも歴史を引きずっているので、その歴史こそが哲学そのものにみえてしまったりすることは無理もない。しかし、そうしたアカデミズムとは何の関係もないところで、ひとりひとりの個人の前に哲学は開かれている。
宇宙を前にして「なんでやねん」とあなたが深く問うとき、その問いは老哲学者にだって答えることはできないのだ。それは、あなたが考えるしかないのである。アカデミックな哲学の諸々の論説は、そんなあなたにもしかしたら役に立つかもしれない、おおまかな見取り図でしかない。
地図は、答えではない。旅は、旅することによってのみ、あなたへの答えとなる。哲学もおなじである。
さあ、あなたも船出しようではないか。あの向こうに何があるのか、さっぱり何もわからない奇妙な旅へと。猫もいっしょに連れていってもいいかもね。
「迷惑だニャ」
おいこら、バカ猫。おまえ、いま何かいったか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あら、あたしの人生に意味はあるわよ。失礼ね」
かの超美女とそんな話をしていたら、彼女はいかにもバカにしたような、しかも勝ち誇ったような表情でいうのである。
「ほほう、どんな意味だよ」
「私よ」
「なぬ?」
「私こそが目的であり、価値であり、答えなのよ」
「ぐうーっ。そうきたか。しかしその文句、きみの発想とは思えんぞ」
「へへへ~。ある人のラブレターから拝借したの」
「けっ、気障な野郎だぜ」
「でも真理よ! 文句ある!?」
この女がそういうと、何となく説得力があるのが腹立たしいな。ま、いいか。世界には例外がつきものだし。負けるとわかっている論争は避けて通るのが、君子の心得というものなのである。
[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com]
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]
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