2009年1月27日火曜日

【猫哲学83】 ふくぽん的時間論(私論)。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2005/12/30)

     =時間は実在しない。それは錯覚である=

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 え~、今年もすっかり押し詰まってまいりましたニャ。

 今年の冬はどえらく寒いので、ホットカーペットの上に寝そべってぐだぐだするのがホント、気持ちいいのだ。うちのバカ猫も私の横にどてーっと気持ちよさそうに寝ている。平和だなあ。

 こういう気分のときこそ、何にもしないで何も持たないで天井を見つめ、抽象的なことを考えるよい機会である。眠くなって寝てしまうまでの短い間だけど。

 それでは、年末にふさわしい話題ということで、時間について考えてみたい。

 以前に【猫哲学2】で時間について書いたけど、内容はほぼ同じものである。ただ、あのときは無理して文章化しようとしたので、ちょっと語りきれない部分もあった。今回お送りするのは、あれからさらに一年前に書き付けておいた時間に関する断章なのだ。文章的には飛躍が多いけど、かえってそのほうが直感的につかみやすいかもしれない。

 では、年末の何かとお忙しいおりですが、時間がないのも承知のうえで、時間についてちょっと考えてみましょう。

[エッセイ1]========================
 海岸に私はいる。じっと波を見ている。くりかえし、くりかえし、はてしなく波が打ち寄せる。波のどれひとつとして、同じものはない。大きさも、形も、色も、ひとつひとつすべて違う。波は海岸にあたってくだけ散るが、水平線ではまた新しい波が生まれている。同じこと。延々と続く同じこと。しかも細部がすべて異なるがゆえに、けっして同じことではなく、ただ一度きりの、でも同じこと…。 私は、ただそれを見ている。言葉も自意識も、どこかへ行ってしまった。私は目そのものになっている。波の動きを、理解も解釈もせず、ただじっと呆然と見ている。ひたすらそれが快い。どこか心の深いところで私は直観している。これは宇宙を見ることと同じだ。細部においてすべて異なりながら、マクロでみればパターンがある。海は宇宙だ。宇宙のパターンをそのまま共有している。私は深い安らぎに落ちて行く。

 さて質問です、ここに時間は実在するでしょうか。
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■私的時間論

1.世界と変化と私

世界が存在する。 (注1)

世界は変化している。

世界は絶えず変化を続けている。日は昇り、沈む。川は流れる。人は生まれ、生き、老いる。猫はにゃあといい、女は何よっ!といい花は咲き、萎む。虫はとび、魚は泳ぎ、…(以下、白鳥座まで続く)

世界がなぜ変化するのか。それは、知ることができない。世界を創ったのは私ではない。 私は変化し続ける世界の内側にあって、外に出ることはできない。

世界の変化がなぜ認識できるのか。それは時間があるからではない。私自身が変化しながら、世界の変化を観察できる位置にいるからなのだ。

私が変化しつつ、(生きることそのものと言っていい)なおかつ世界が変化するのを観察している。私は経験的にこれらのことを知っているが、なぜかを語ることはできない。気が付くと私はここにいたし、そのときすでに世界は変化し続けていたのだ。それも、太古の昔から。

2.時間概念の発生

時間概念は、約束事である。

時間の前に、変化がある。

さまざまな変化のなかには、周期性のあるものと、周期性のないものがある。(本当はそれも錯覚なのだけど。)

周期性のある変化、例えば太陽の運行などに支えられて人類はカレンダーをつくった。アステカとかエジプトとか、歴史の始まりの時代には暦というものがとても重要視されていることがわかる。

農耕上の必要性などがよくいわれるがそれではマヤの220日金星暦などいったい何の役に立ったのだろう。

太古の人々は、天空の星々の何万年も先の周期変化を使って何を読みとろうとしていたのだろう。
ここでヒントになるのは、マヤ金星暦が太陽暦よりも誤差が少ないことなのだが、そのことはまた別の機会に。

でも、太陽暦は実のところ誤差まみれなのだ。しかも太陽の運行が、より大きな軸(例えば銀河の中心)からみると、本当に規則的なのかは、誰も問うたことがない。

問うたとしても答える方法がないのもまた、自明のことだが。

おっと話が脱線した。

カレンダーの話でした。そして、暦が創り出された。太陽の公転周期が見いだされた。一年は365日の周期である。

ならば一日はどうだろう。これを24時間周期と決めたのは、人間である。1時間=60分、1分=60秒、これは人が決めた約束事だ。

時間が発見されたわけでも何でもない。

変化する世界を測るための道具として、時計そして時間概念が創り出されたに過ぎない。時間という実在など本当はどこにもありはしない。メートルやリットルという単位が約束事であり世界のどこにも実在しないのと同じことである。

実在するのは世界、そしてその変化である。

時間がなければ変化が認識できないでしょう、という人がいる。それは逆である。

まず変化が実在した。変化は、事物の根元的な様態である。時間概念はそれを記述するための道具である。

宇宙に時間概念の物差しを当てて操作するような試みは宇宙の変化そのものとは何の関わりももたない。

もっと端的にいえば、変化こそ世界の本質である。私が生きているというのも、同じく変化そのものである。

凍り付いた世界に静止した私がいたとしても私は世界を認識できない。どちらも動いているからこそ、認識可能となる。もしも宇宙が絶対静止したら、それは目の前から消え失せるだろう。光も、音も、そこでは静止するのだから。

3.時間意識の発生

変化は不可逆的である。というより、仮に逆転したとしても、私はそれを認識できない。「あ、逆転した」という認識が仮にあったとしても、それは意識にとって連続した正の変化として感じとられるだろう。
変化の速度は一定である。というより、確たる変化周期を持つ対象(例えば太陽)を基準に変化をとらえているのだから、一定という感じにしかとらえようがない。

変化が真に不可逆であり真に一定速なのかは、知りようがない。それを知るためには、世界の外に出なければならない。

変化し続ける世界と、変化し続ける私が交わるとき時間意識が生まれる。それは意識であって、実在ではない。道具である。

素朴な時間意識は、まず生理的に会得される。だからそれは、心の状態によって長くなったり短くなったりする。

「え? もうこんなに時間がたったの?」「何だか長い一日だなあ」これが素朴な時間意識である。
人は社会生活を送る必要から時間意識を他者と共有するようになった。素朴な時間意識よりも上位にみなされる公共的となった時間意識とは、1日24時間というもので、時計で測られる。

いつしか人は、その公共的な時間意識にからめとられ、時間が実在しているかのように思い込む。
それだけならいいのだが、学者は時間を定数として、計算式に埋め込む。マイナス時間、虚数時間など…。妄想である。

ただの学問の遊びとしてなら面白いが、そんなことに意味があるはずもない。本当にマイナス時間をつくりたいなら、まず世界の変化を止めなくてはならない。それができたとしても、観察者としての私がそのままなら時間はプラスとして感じとられるだろう。ビデオの逆転再生を見ている私の時間は、逆転しているわけではない。

時間の流れとは、紙の上に直線を引いて、その前後関係で概念操作できるようなものではない。時間の流れとは、泉のように絶え間なくここに湧き出し、生成する一点である。

その一点を表現するのに、今という言葉が使われている。

時間意識とは、今、ここで(意識の中に)生成しているものである。それは、変化する世界に、時間概念の物差しを当てる。そうすることで世界は認識しやすくなるが、同時に世界の動的な有り様、つまり変化そのものは霧のむこうに遠ざかる。

変化する世界そのものは(あまりの多様さのために)認識しにくいが、時間概念は理解しやすい。だからといって時間概念が道具であることを忘れると世界認識がゆがんだものになる。
誰か、アインシュタインに水をぶっかけてくれ!!

4.過去、未来

「過去はどこにあるの?」とよく聞かれるが、それはどこにもない。過去は実在しない。かつては実在したが。

過去は、かつて実在した今のことである。そのかつての今は、それから変化を続けて、この今に至っている。その意味では、過去は今、ここにある。

歴史は記憶の束である。ただし、ひどく歪められた記憶の束である。

未来はどこにあるの? ともよく聞かれる。未来は実在しない。今が変化を続けて、いつか未来になる。その変化の可能性はあまりにも多岐にわたるものである。したがって未来予測など、本当は誰にもできない。

というわけで、タイムマシンなど夢幻である。もうない過去と、まだない未来へなど、行けるわけがない。タイムマシンには、行くべき場所がない。

[エッセイ2]==========================

 子供のころ、時計をながめるのが好きだった。コチ、コチ、コチ…。特に秒針が好きだった。短針は、なんだかもったいぶってなかなか動いてくれないので、ちょっとイヤなやつだったな。針と針が微妙に重なる瞬間があって、ジャストタイミングで三針が重なるとになると妙に嬉しかった。 そんなことをしているうちに日が暮れる。こんなに時間が経ったのかと驚いて、慌てて宿題にとりかかる。 私は、それが時間というものだと思っていた。時の流れを目にしているのだと思い込んでいた。 ある日、突然に気が付いた。時計の針を動かしているのは時間ではない! 時計の針を動かしているのはバネとゼンマイと歯車である。それは、事物の変化である。時間はどこに行ったのだ。時間と時計を結びつけているものは、いったい何なのだろう。 それ以来、ずっと考え続けてきた。時間とは何か。今はわかる。時間は虚構である。世界を認識するために便利な虚構だが、実在はしない。そう、時間は実在しない。

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(注1) 世界の存在すら疑う人々もいます。でも、そんな人たちを説得するエネルギーはないので、あくまで常識で突っ張ろうと思います。この文章には、常識しか出てきません。だからこれは、哲学に値しません。私の直観のエッセイとして読んでください。

(注2) 世界がなくなる、と言っているのではありません。念のため。世界を認識する手段がなくなれば、それは消え失せたと同じように感じられるでしょ、ってことです。

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■「時が過ぎ、月がまた昇った。」

 この表現は間違いというわけではない。だが、正確ではない。

■「地球が回転運動して、月がまた見える位置にある。」

 これが正しい。つまらん表現だけどね。

 さて、前の文と後ろの文で違うのは何か。それは、前者では時間が実在とみなされていることにある。

 時間を実在とみなすことによって、地球がぐるぐるっと回って月が見えてきた、という動的な関係への想像力は働く必要がない。

 前者の場合、そこに見えているのは2枚の絵だけである。ゆうべ(過去)の月の絵と、今の今の月の絵。それを隔てているはずの恐るべき宇宙的ダイナミズムは、時間という概念を使うことによって見なくてもよいことになっている。

 もちろん、私は日常の言葉にこんなややこしい操作をもとめているのではない。「時間とは何か」をきちんと考えていくうえでの手続きとして、この場だけがまんしてもらいたいのね。すまんの。

 時間は抽象概念である。それは人間の作ったイメージである。

 現実にあるのは変化である。日は昇り、鳥は歌い、四季はめぐり、蝶々は舞い、花は咲き、米は実り、(その他諸々白鳥座まで続く。しつこいって)。人間は生きるのに便利という理由でそれら森羅万象に周期性を見いだす。

 しかし見いだされたそれ、周期性は、錯覚にすぎない。すべての事物は、本当は一度きりの常に新しい変化を続けているだけである。だが、それを周期性ととらえず、次の瞬間なにが起きるかわからないという認識の下で生きるのは、大変である。明日、阪神大震災が起きるかもしれないことは、厳密な意味で誰も否定できない。だからといって、その可能性まで考慮しながら日常を生きることなど誰にもできない。そんなことをすれば、日常が死んでしまう。

 そう、時間とは、日常のための道具なのである。私は時間を考えるとき、日常にはいない。いつも超越と絶対を意識しながら考えている。

 だから私の言葉は、日常しか知らない人には届かないのかもしれないな。

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 いつも「時間は実在しない」と書いているのは、上のような考えが基になっています。少しはご理解いたけましたか?

「ぜんぜんわからん」「間違いだらけじゃ」って? まあまあ、もうすぐお正月。いい機会だから、あなたの時間論を考えてみられてはいかがですかにゃ。

 でわまた来年。

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 今回は、さすがにあの超美女は登場しない。正月休暇で外国にでも行っているはずだ。さあ、事務所の大掃除もすませたし、帰るとしよう。

 バタッ! いきなりドアが開いた。

「いたわね」

「なんできみが出現するんだ。もう登場しないと書いちゃったぞ」

「来て。これからクライアントと打ち合わせ」

「きみは今日が何日だと思っとるんだ」

「早くして。あさってまでに仕上げるんだから」

「あさってだとお! 元日じゃねえか」

「時間は錯覚でしょ」

「なへ?」

「大晦日も錯覚、お正月も錯覚でしょ」

「それはやなあ…」

「つべこべ言わない。男なら信念を曲げないわよね」

 ぐぎぎぎぎ…

「さっさと来なさい!」

 ふえ~ん、泣。みなさん、よいお年を…。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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