2009年1月25日日曜日
【猫哲学15】 猫と神。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
人類に新しい神話を提供しよう。
この神話を受け容れれば、世の中少しは平和になるはずだ。これを、猫神話と呼ぶにゃー。
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【猫神話】神は退屈だったので自分の姿に似せて猫をつくった。でも猫だけだとちょっとたよんないし苦労が多そうなので、猫のしもべとして人間をつくった。だから人間よ、あんまりよけいなことを考えないで猫を讃え、猫を崇め、猫の世話だけしてなさい。そうすれば、猫はあなたに必ずや愛と平和と幸せをくれるだろう。
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今回は重いよ。神のお話だ。キリスト教を信仰しているアナタは読まないほうがいい、ぜったいに腹が立つと思うので。
さて、神である。キリスト教の影響で、日本人の神概念は混乱したままぐちゃぐちゃになっている。だからどうだということはないのだけどね、なんだか滑稽ではないか。べつにこんなこと、本当は考える必要なんてないので、よくわからないままそれなりに一生過ごしたとしたら、それはそれで大変にけっこうなことなのである。問題なのは、よくわかっていないくせに神という言葉を使う人。こういう人たちの、かみ合わない議論を聞いていると、思わず吹き出したくなる。
ところで突然ですが、告白しましょう。実は私、大学生のときに○一協会のアイドルだったことがある。おっとと、引かないでね。統一協会に入っていたというのではない、やつらのやってる「勉強会」とやらに誘われて参加しちまったのだ。たった一回だけなんだけどね。
あんまりしつこい勧誘だったし、学生なのでヒマだったし、勧誘の姉ちゃんがちょっと美形だったし、いや何よりも、世界の真理を見極めるヒントでも得られればという純粋かつ高邁な望みを抱いてであるな、私は蛇の巣を訪れたのである。
結果は、退屈でつまらん講義をきかされただけ。感想をいえというので、あそこが論理的におかしい、あそこは歴史的にまちがった解釈だ、あそこは事実関係をねじまげていると指摘し、神の存在証明の不可能性を論じたうえで、おまえらが神というときその神はどの神だ、神をちゃんと定義しろとわめいて、蛇どもを唖然とさせてしまった。
それからというもの、やつらは私のスカウトに懸命になったらしい。電話は何度もかかってくる手紙はやってくる、学内でも待ち伏せされる等々しつこい追撃をうけた。教会に取り込んで、将来のエリート幹部にでもするつもりだったのだろうか。私は、アホと話す暇はないという態度をつらぬいて、やつらの追求をのほほんと切り抜けたのでした。
今でも統一協会にひっかかる若者は少なくないのだが、あんな幼稚な論理に騙される人もいるんだな。ホントに幼稚だったんだよ。
その一例。[○一教会による神の存在証明]
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光があれば闇がある。男がいれば女がある。生物がいれば無生物がある。とかくこの世は二元論である。では宇宙の二元論的対極とは何か。神である。神しかいない。よって神の存在は証明された。
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アホかいな。私は言ってやりました。二元論なんて頭の悪い奴の逃避論理だ。男と女の間にだって無数のバリエーションがあるのを知らないのか。生物と無生物の境界だって、曖昧なものだ。光と闇ときた日にゃあ、あいた口がふさがらない。それは存在ではなくて様態の強弱であって、一元論で説明できるぞ云々。これが神の存在証明だって? ただの連想ゲームじゃないか。似たものをみつけてきて強引に並べてるだけ。発見も感動も意外性も説得力もなあ~にもないよ。こんなもので金を取ってるとしたら、あんたらサギやで。
ことほどさように、本当に幼稚なのである。この程度のことで騙される連中がいくらでもいるということは、神の概念というのは、一般的な日本人にとって、かなりな盲点になってしまっているのだろう。
だからいっちょ、私が神の存在ということを徹底分析しようではないか。今回は広辞苑にも先人の論説にも頼らない。私が、自分の頭の中だけで組み立てた言葉を使って構成しようと思う。なぜなら、他人の言葉や概念を使って語るというのは、神のような絶対概念を語る場合、結局は他者の概念に依拠する危険があるからだ。裸の思考と裸の言葉、これでどこまで追求できるかで勝負しないと、私が納得できない。なのでこれ、また力作になるかも。いや、失敗作かもね。
さて、語ろうではないか。神とは何か。ところが私は、神とは何かをまったく知らないのである。だって見たことないもの。あなたは見たことありますか? ないでしょ。だから神の概念は虚である。これで終わり。ちゃんちゃん。
私が話を始めると、とんでもなく早く終わる。ものごとは単純に考えたほうがいいのだ。あまった時間は、おいしいものを食うとか酒を飲むとか、あるいは寝ることに使えばいい。つまり猫化である。単純でわかりやすい人生に乾杯! こういうのを世間では脳天気というらしいのだがフン、何が悪い。
というわけで、では読者のみなさん、次回またお会いしましょうね。サヨナラ×3。
…そんなわけにもいかないんだろうな、もうちょっときちんと考えてみよう。
私は神を知らない。これは確かな事実である。では、知っている人はどれくらいいるだろう。ここで私は断言する。一人もいない。知っているつもりの人はいるだろうが、真に知っている人はいないはずだ。これは原理的にそうでしかありえないのである。なぜなのかは、後半に書きますので。
話はちょっと飛ぶが、鬼畜米英がアフガニスタンにどかどかと爆弾を落として女子供まで無差別に殺しまくっていた頃、侵略戦争も終わりに近づき、これでやっと死人がでなくなるとほっとしていたら、M7クラスの大地震がアフガニスタンを襲った。これでまた数千人の死者がでたという。
神も仏もあるものか。この話を聞いた日、私は日記に「神はいない」と書いた。ほんとにひどい話だ。でも近ごろの私は「そういうことを望み、楽しむ神がいる」と考えるようになってきた。血も涙もなあ~んにもない、いやあな神がいるのだ。こんな世界に私は住んでいるということになる。あああ恐ろしい。
笑っちゃいけませんよ。本当にそうなのだ。ちょっと想像力を働かしてごらんなさい。この恐怖から、あなただって逃れることはできないのだよ、ふっふっふ。だからね、私にいますぐ百万円寄付しなさい。私があなたのために神様と話をつけといてあげるから。百万円が高いだと?何をいうのだ。あなたの魂が救われるかどうかの瀬戸際なのだ。地獄に落ちてもいいのか。いますぐ免許証または保険証を持って、無人くん、アコム、アイフル、武富士へ走りなさい。おっとと、かなり話が脱線しているぞ。
そうだった。私は神を知らないという話だった。それで、統一教会の連中に、「神とは何だ、神を定義せよ」といったとき、彼らは創造主、造物主、第一原因などと答えやがった。要は、世界をつくったのが神だといいたいらしい。なるほど世界をつくった者がいたかもしれない、それを否定はしないが(もちろん肯定もしないが)、そいつがどんな性格だったのかを、なぜあなたはわかるのだ、信じたりできるだ。会ったこともないくせに。というのが私の反論だった。
○一教会さんは、「聖書に書いてある」といった。ここで私はキレてしまった。
聖書だとお、そんなもん、どこかの古文書のつぎはぎ捏造盗作のかたまりやないか。ギルガメッシュ叙事詩に聖書とそっくり同じエピソードが書かれていることをどう説明する。あっちのほうが2千年ばかり古いぞ。だいたいやねえ、現存する最古の聖書とはどこにあるもんか知ってるのか? 知らない? じゃあ教えてやろう、エルサレム博物館所蔵のもので、紀元前200年頃に書かれたそうだ。それで、何語で書いてあると思う? ユダヤ語? ラテン語? ぜんぜん違うね、ギリシア語だよ。聖書というのは歴史のなかで編集改竄誤訳加筆されてきたものだ。ぜんぶ人間が書いたのだよ。神の言葉ではない。人間の言葉だ。そんなもん頭から信じるなよ。
死海写本って知ってる? 知らない! 何にも知らないんだなあんたがた。自分が信じている聖書というものの正統性を、真剣に追求したことが一度もないのか。じゃあ教えてやるよ。死海写本というのは、死海の畔の洞窟で偶然発見された巻物さ。破片をいれると数千点にもなるという。何が書かれていたかというと、旧約聖書と同じ内容の文章だったのさ。紀元前400年頃のものと推定されている。つまり現存する最古の聖書文献ってわけだ。何語で書かれていたか? おお、よく聞いてくれましたね。古代ヘブライ語の方言にあたるアラム語で書かれていたのさ。さっき話をしたエルサレム博物館のものと、どっちが正統性が高いか、よく考えてみなって。
ローマカトリックはえらい金をつぎこんでこの写本を手に入れ、限られた数人の学者だけが解読に取り組むこととなった。あたしゃ、そのレポートを待ち望みましたよ。今の聖書と比較すると、むしゃくちゃおもしろいかもしれないじゃん。ところが、学者グループは写本全体の2%にあたる部分を速報として出してきただけで、それから40年、何の発表もしなかった。なぜかって? そりゃ、まずいことがあるからに決まってるじゃないか。これを死海写本スキャンダルという。
もしも死海写本の文章と現行の旧約聖書の文章が完全に一致したと考えてみなよ、ローマカトリックは大喜び、その正統性が完璧に保証されたとて華々しく大々的にお祭り騒ぎで発表するさ。最高の奇跡ネタじゃないか。それができないということは、死海写本の中身は聖書とくいちがうんだよ。それ以外にありえない。今の聖書と死海写本の中身が違っていたとして、いや、正しいのは今の聖書で、最古の聖書の方はまちがいだらけでしたなんて主張しても、誰も信じやしないさ。ローマカトリックの権威は、まあ半減しますな。だから出せないんだよ。みんなが忘れてくれるのを待ってるのさ。どうせ、5百年もすれば誰もが忘れるだろうし、バチカンは永遠なり。ああ疲れた。
だからね、聖書なんて信じてる人は、猿蟹合戦が史実だと信じているようなものだ。そんなものに人生をかける気かい、アホ。
以上のようなことをまくしたてたのだが、さすがに誰も反論はしなかったよ。「でも私たちには精霊体験があるから信じます」なんていってた女がいたな。議論では勝てないと気付いたか。精霊体験だと? オレにはそんなもんないよ。合同結婚式だろうが野菜売りだろうが、好きにやってりゃいいんだよ○田淳子。
(※精霊体験の正体については、後述。)
おおお、ひどく脱線しているぞ、何の話だっけ。そうだ、私は神を知らないという話だった。そいで、創造主なるものがいたとして、何でそいつが愛に満ちて神聖で超越なんだ? もしかすると、能力だけはあるが、品性下劣でサディストな野郎かもしれないじゃないか。会ったこともないのに何でわかるんだ、というとこまできてたんですね。
ところでナグ・ハマディ写本って知ってる? こいつは新約聖書がらみなんだけどさ…おっと、しつこいからやめとこ。(※興味のある方には、メールでお教えします)。
脱線ついでにいっとこう。キリスト教の神、あれはよくないね。人を呪う、無理難題ふっかけて試す、気に入らないやつは殺す。異教徒に対しては奪いまくり殺しまくる(女子供無差別)。いやなやつですわ。絶対にお友だちにしたくないな。あんなものに祈りを捧げる人の気持ちがぜんぜんわからん。私の周りの信者って、ちっとも幸せそうに見えないし。
そのいや~あな神が、この地上に降りてやってることが鬼畜米英の連続戦争だ。他国にいいがかりをつけては無理難題を押しつけ、果ては無差別殺戮。旧約聖書の世界が、今まさに現実の歴史として展開されている。ジョージ・ブッシュはまことに忠実な神の使徒といってよい。地震も後押ししてくれる。おお奇跡…。何という世界だ。しかしこれが真実なのである。キリスト教の理想世界がいまここに実現しておるのだ。おめでとう、よかったな、喜べキリスト教徒。あ、変換してたら凶徒と出てきた。
今回は脱線が多いな。でも、そうみせかけてきっちりとキリスト教批判をして、その神概念を裸にしてやったぞ。うへ。
ここで、話をもとに戻そう。私は神を知らないという話でしたね。だって見たことないもん、しょうがないでしょ。でもそんなことをいってばかりいるようでは、話が前に進まないので、観点を変えましょう。
そもそも「神」という言葉があるからといって、神の実在云々をいうのは転倒した議論である。何か絶対的な超越者が目の前にいて、それを神と呼ぼうとみんなで決めたというのなら話は別だが、誰も見たことのないものには名前などつけないほうがいい。いるかどうかさえ、わからないのだから。私は見たことあるよという人、手を挙げて。はい。きみにはこういう言葉を贈ろう。嘘つき。
だいいち、もしも神が実在したとしても、それを人間は認識できないのである。ここがポイント。いいですか? 人間の能力には限界がありますね。思考と言語にも限界がありますね。これは『週刊ウィトゲンシュタイン』でやった通りなので詳しくは述べません。人間の五感にも限界があり、生命としての限界もある。その限界アタマでいくら考えても絶対や超越が認識できるわけがないでしょ。想像と思考は可能だろうけどそれは認識とは別、妄想と区別できないからね。よって人間は、神を認識できないということになる。ここに意外というか、ビックリの盲点があったのだ。
もしも私の前に神が現れて「私が神だ」といったとしても、それが本当なのかを判断する能力は私にはないのだ。もちろん、あなたにも。だから、神という言葉を議論に持ち出してくるやつは、馬鹿か卑怯者なのである。ここんとこがわかるかな、飯星景子。
もっと極端な話をすると、もしも本当に神がいたとしても、そのお方は「私は神である」なんていわないだろう。なんせ、超越にして絶対にして全知全能なんだから、わざわざ人間を導くまでもなく勝手に人間は導かれちゃうだろうさ。何だって自動的に思うようになってこその全知全能だ、それなのに「私は神だ」と名乗り出て、いうことをきかない連中をおしおきしたりする旧約聖書の神、あれはいったい何だよ。神の名をかたる半知半能の存在だ。やることなすことことごとく中途半端で、そのつど自分は神ではないことを証明してやがる。あいつの正体をバラしちゃいましょう。悪魔です。それで、西欧に支配されたこの世は、どんどん荒れ果ててくるのさ。
話はまたまた思いっきりズレますけど、友里ちゃんが最初の危篤状態になった3月19日は、アメリカのイラク侵攻開始日と重なっていて、つぎの日、私は超ささくれだった気分を抱えて帰宅途中の天満商店街を歩いていました。そのとき、何やらわけのわからん二人組が私の前にたちはだかったのです。一人は、いかにも頭の悪いアメリカ人って外人で太って大柄。一人は気の弱そうな日本人ちっくで小柄。こいつらが私の足を止めて、いいました。
「アナタワ、カミオ、シンジマスカ~」。
私の気分を想像してくださいよ。親しい人が死にかけている、海外ではインチキ戦争が始まった、そんなときに、なんでわざわざよりによってこの私にこんなのが寄ってくるんだ、がーっ!
私は本当にキレそうになりましたが、ちょっと待て、と思い直した。もしかすると、これは運命なのかもしれない。私がこんな一生に二度とはないような最低気分のときに、神が手をさしのべようとなさっておられるかもしれないではないか。よっしゃ、滅多にないことじゃが、こいつらの話を聞いてやろう。
(以下、「」内が私。『』内は二人組。)
「なんじゃい、モ○モン教かよ。オレに何の用だ」
『アナタに、神のジヒを知っていただきた~い』
「おーおー、イラクにミサイルぶっ放しやがって女子供が死んでるぞ。慈悲深い神もあったもんやな」
『カンケーないじゃアリませんか』
「どこが関係ないんだよ、いまこの世界で起きていることだろ、あんたのいう神に全面責任があるんだよ。慈悲ってものがあるんなら、こんな平和ボケの日本じゃなくて、イラクへ行って魂を救ってやれよ」
『ワタシはいま、アナタに、語りかけタ~イ』
「おおそうか。わかったよ、何でも聞いてやるよ。話をしてみな」
『神ワ、お父さんのヨウに、ヤサシイ存在なので~ス』
「そうか、よかったな。せいぜいかわいがってもらえよ。それで、いったいその神というのは、どの神だ?」
「神ワ、ひとつデ~す」
「あっそ、やっぱりあの神か。それで?」
『人の生命ワ、永遠なので~ス』
「知ってるよ、そんなこと。だからどうだっていうんだ」
『知ってる、スゴイで~スね~』
「何をいってんだ、ただの常識じゃねえか」
『生と死について、カンガえたことがあ~りまスか~』
「友達がいま病院で死にかけてるよ。そんなもん、とっくの昔に考えたよ」
『生も死も、本当ワ幻ナノで~ス』
「知ってるって。当たり前だろ、そんなこと。だからどうした」
『スゴイで~すね~』
「すごいくない。普通だよ、この程度。それで? このオレにいったい何がいいたいわけ?」
『アナタワ、イマ、シアワセデスカ~?』
「おお、幸せだよ。というよりそんな感情、とっくの昔に超越しちゃったよ。幸も不幸も、感情が構成するものだ。状況と解釈とは別ものだ。いまさらそんなもんに動かされやせんよ」
『スゴイデ~スネ~』
「あのねえ、人がせっかく足を止めて話を聞いてやろうというんだ、もうちっとましなことを話せないのか」
『この世にワ、不幸な方がいらっしゃいま~す~』
「あっそ、それで?」
『ワタシワ、神の大いなる慈悲を~』
「それはさっき聞いた。たくさんの不幸な人をほったらかしにして戦争なんかに夢中になりやがって、何てまあ慈悲深いカミサマじゃねえか」
『ソレワ違いま~す』
「どう違うんだ、説明してみろ。神はひとつだって、あんた、さっきいったじゃないか」
『…(沈黙)…』
「何か、中身がない人たちやなあ…。よっしゃ、オレがいまから3分間沈黙してやるから、あんたらのいいたいことをしゃべってみろよ。口をはさまないで聞いててやるから」
『…私ワ、…カミの愛が、ヤサシクテ、深くて、…大きなものであることをイイたいデ~す…(以下沈黙)…』
「…まだ30秒もたってないじゃないか、それはさっき聞いた。それ以外にいいたいことはないのかよ」
『…(沈黙)…』
「もういいよ、わかった。相手が悪かったな。人に何かを語りたいならもうちょっと勉強してからにするんやな」
『ここっ、このパンフレットをみてくださ~い。ココに書かれていることが、ワタシたちの集会に来ると、ワカルのでーす』
「どれどれ、宇宙、魂、生と死、宗教…。悪いね、この程度のことはみんな知ってる。時間の無駄だ」
『アナタワ、カンペキでスか!(怒りの表情)』
「違うよ。不完全だよ。ただ、このレベルのことなら知ってるといってるんだ。世の中にはもっと深くて不可解なことがいっぱいあるのさ」
『ワタシたちの集会に…』
「時間の無駄だといってるだろ」
二人のモ○モン野郎は、ムカムカした顔をして去っていきました。なあんだ、けっきょく集会に来てくれといいたかっただけか。それにしてもあんな低脳野郎に布教をさせるとは、モルモンも質が落ちたもんだ。外に出して恥ずかしくないのかよ。まてよ、あれでも布教できるほど、日本人はレベルが低いってことかな。
さて、この一連の会話で問題なのはいったいどこだろう。それは、やつらが神のことを私に伝えたいと思っていたくせに、神とは何かを自分でも知らなかったことだ。だから説明できないのだ。それで神概念の周辺をうろうろしながら何とか語ろうと必死になったが「知ってるよ、それがどうした」の必殺技に手も足も出なかったというわけだ。では、彼らが神と信じているものは何だろう。
私はいろいろ勉強したおかげで知っているのだが、あの輩が神と信じているものは、具体的な実体ではない。ある種の感情なのだ。どんな感情なのか、以下、とっても科学的に説明しましょう。
一般的に、宗教的なサークルというのは、勉強会というのをやる。セミナーともいう、よくあるやつだ。その中で初心者は、プログラムにしたがって、寝不足と緊張状態に置かれて、答のない問いを考えさせられる。神とは宇宙とは、なぜ私は生まれてきたのか、なぜ地球に悲劇はなくならないのか、云々。周囲からは、教団員たちが絶え間ない質問をあびせてくる。
こうした異常事態に置かれると、脳は疲れきってしまい、眠れば簡単に回復するのだが周りが寝させてくれないので、その苦しさから逃れるためにドーパミンという脳神経伝達物質を大量にどぱーっと分泌する。ドーパミンは脳内麻薬といわれていて、要は気持ちいいらしいのだ。それ自体は脳の緊急避難の装置として生命的にまことによくできたメカニズムなのだが、すごく気持ちいいのだ。これが誤解のもとでね。
私は残念ながら未経験なのだが、ホントにいいんだって、このドーパミン。目の前には星、虹色のクラクラ、全身をゆさぶるカイカン、開放感と高揚感、何もかも満たされた、これでいいのだって感じ。周囲のあらゆるものが甘美な刺激を放ち、これで世界のすべてがわかった、って思うらしい。脳内麻薬というくらいだからね。これを、ものを知らないやつは神の啓示と勘違いして受けとめるわけだ。ただのトリップにすぎないんだけどさ。だが、実体験であることも事実。否定はできない。それで、この感動を多くの人に伝えたいってことになって、あの哀れなモルモン野郎なんかが街を徘徊するわけさ。
だから、あのモルモン連中は、神とはどんなものかを体験として明確に知っていると思っているつもりなわけだ。だけどそれは脳内麻薬で誘発されたただの感情にすぎないから、明晰な論理と言葉を欠いている。だから説明しろといわれるとできなくなってしまうというわけ。ある意味で不幸な連中である。騙されているんだものね。統一教会もオウムもみんなこれと同じ。ついでにいうと自己啓発セミナーもこのメカニズムを悪用している。それからヤマギシ会も。統一協会の連中がいう「精霊体験」というのも同じことだ。
あああ、すごい脱線をしてしまった。とはいいながら、世間で神といわれているものの正体をちゃんとバラしちゃってもいるな。みなさん、おかしな宗教から攻撃を受けたときは、このことをぜひ思い出してくださいね。
さて、ここからは本当にまじめに語ってみよう。神とは何か。今までまじめじゃなかったのかって? うん、ごめん。ちょっとふざけてた。だって、神様の話をまじめにするなんて、恥ずかしいじゃないか。
これまでのところで、脱線しながらも重要な指摘をしてきたので、おさらいしましょう。
□絶対者としての神が存在するとしても、人間はそれを認識できない。人間の能力はとても限定されたものなので、絶対も超越も認識することは不可能である。
□「私は神である」という者は、神ではない。真に全知全能の神であるなら、名のる必要がない。その必要があるということは、全知全能ではないことを示している。神をかたって信仰を強いる者を悪魔という。
上の二つのことを前提によく考えてみると、絶対者としての神は、いてもいなくても同じだということになる。絶対者としての神は認識できないし顕れもしない。だからいない、とまではいわない。実在を議論することが不可能であり無意味なのだとだけいっておこう。
では、絶対者ではない神を考えよう。
絶対者でない神。その定義からして微笑ましいが、そういう存在があることを私は否定しない。
私が存在し、世界を観察している。このことは確かな事実である。ならば私以上の認識能力をもった何ものかがこの世界にいて、同じように世界を観察していることは、あり得ることである。その者からみれば、私などとるに足らない存在ではあるが、同時に、世界そのものを愛するように私も愛してくれているかもしれない。私はときどきその存在と一体化するような感じを覚える。ただの錯覚かもしれないが。
しかし、その者にとっても、世界を思うように動かすことはできないのだろう。だから世界はかくも不完全なのだ。
さて、そのような存在としての神がいたとして、それを神と呼ぶのは何か違う気がするのだが、そうであるならばその神のさらに上位存在としての神が存在することも否定できない。さらにその上位の神のそのまた上位の…(白鳥座までやってなさい)。つまり、何だかよくわからない。
わからないのは当然であって、私は人間であるから人間としての限界の内側でしか思考も認識もできないのである。しかし永遠に続く神の階梯があるとすれば、人間としての私もまたその一員であることは確信できる。人間だけではない、猫も、草木も、虫の一匹も、やはりその連続の一部であろう。ミミズだってオケラだってアメンボだって、みんな友達なのだ。
それぞれがすべて神なのである。そして、壮大無辺な神の連続体がいつか一体となって、この世界を観察しているのだ。これが日本的な八百万の神の構造である。でも私は右翼じゃないよ。天皇は嫌いだしね。
さて、今回はけっこうしんどかったな。でも、絶対者の観念を丸裸にできたのでちょっとうれしいかも。
ああ、バカ猫がメシを要求してキーボードを封鎖しにきた。しかたないなあ、こいつも神なんだからな。でも待てよ、私だって神なんだからちっとは愛想というものをしろよ、この駄猫。
不完全な神たちの日常は、かくも不完全にして滑稽である。ほへ。
□猫哲学休筆のお知らせ。
ここんとこ、何だか意識状態が激変して、文章が書けなくなっています。猫哲学でやりたいテーマはまだまだあるので、終了するつもりはまったくありませんが、無理をして文章を書きたくもないので、しばらくお休みさせていただきます。秋になったら、再開できると思います。それまでしばらくごきげんよう、でございますう。 作者でした
先日お送りした猫哲学で、「男と女の間には無限のバリエーションがある」と書きとばしてしまいましたが、納得いただけたでしょうか。もしも、「それは違うんじゃないの」と思われた方は、以下の補足をお読みください。
■補遺、男と女のバリエーション
人間の中にも、雌雄同体の人がいます。肉体機能的には、男にでも女にでもなれます。そのなかには、自分が男と思っている人と、女と思っている人がいます。たまに両方だと思っている人もいます、よくわかんないと悩んでいる人もいれば、けっこう面白がって世の中を生きている人もいます。
男と女を決める性染色体は、ご存じの通りXY、XXです。ところがまれにXXY、XXXYなどとダブってしまう人もいます。その表現形が雌雄同体かというと、必ずしもそうでもないようです。XXXXXYなどというとんでもない染色体をもっている人は、自分を何だと思っているのでしょうか。私は不勉強のせいでそこまでは知りません。
ところで人間とは、その精神です。肉体ではありません。ここんところがひっくりかえっている人が多くいます。性同一性障害という言葉が一般的になり、ご存じの方も多いでしょう。このことから、男と女の間には次のバリエーションが存在してます。
肉体が男なのに、自分は女だと思っている人。 肉体が女なのに、自分は男だと思っている人。
しかし話はこれだけでは終わりません。
肉体は男なのに、自分は女だと思っているので、男に抱かれたい人。 肉体は女なのに、自分は男だと思っているので、女を抱きたい人。
肉体は男なのに、自分は女だと思っているが、でも女を抱きたい人。 肉体は女なのに、自分は男だと思っているが、でも男を抱きたい人。
これだけでも4通りのパターンが出てきましたが、世の中には両刀使いというのもいらっしゃるので、このバリエーションはさらに増えることになります。この世界の奥は深いですね。
まだまだありますよ。
肉体は男で、精神も男なのだが、自分の肉体は女だという妄想をもっていて、しかもホモの傾向があるので男に抱かれたい人。
これは気持ち悪いよ。女の肉体(妄想=実体は男)を武器に男に迫るんだから、かなり錯綜したオカマの姉ちゃんですね。
では反対にこんなのはどうかな。
肉体は女で、精神も女なのだが、自分の肉体は男だという妄想をもっていて、しかもレズの傾向があるので女を抱きたい人。
う~む、よくわかんない。
でも、「肉体は男だが、自分は女だと思っていて、そのうえ心はレズなので女を抱く人」というのは、なんなんでしょうね。男が女を抱いているのと何が違うんでしょう。
みなさんも一度、この無限のバリエーションを想像して、笑ったり気持ち悪がったりしてはいかが?
[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com]
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]
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