2009年1月26日月曜日

【猫哲学35】 猫権。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃


 人権という言葉が嫌いだ。

 なぜ嫌いなのかはこれから書いていくが、もしも人権などというものがあるのなら、猫にだって猫権というものがあるはずだ。

 腹がへったらメシを食う権利。

 け飛ばされて眠りをさまたげられない権利。

 ときどきおならをする権利。

 寒いときには私の膝の上で寝る権利。

 ときどき壁をひっかく権利(そんなもの、認めないぞ!)。

 食卓の上に飛び乗る権利(ダメだといっとるだろうっ!)。

 私の腕を枕にして寝る権利(こそばいんだよ、もー!)。

 イワシを焼いたら1匹はもらえる権利。

 猫権とは等々のことをいう。

 もちろん私は冗談で書いているのだが、動物愛護協会の人たちなんかには、当然これらの権利が実在していると思っているだろうな。だが、そんなもんはないのである。

 もしも私がサディストの本性をあらわにして、バカ猫にメシを食わせないわ暴力をふるうわ、寝ているのをみたらけ飛ばすわ、ムチャクチャをやりはじめたとしよう。それは猫の権利をふみにじる行為というわけではない。権利などという概念がはじめから幻想にすぎないことを示しているだけなのだ。

 さて、猫権はおいといて、人権についての話をしよう。

 昭和初期、日本の繊維業界は科学へのチャレンジ精神で、植物セルロースを分解して繊維をつくり、それを布に織り上げて商品化した。合成繊維の第1号である。その布は綿や麻にはない絹のような光沢があったので、人工の絹という意味をこめて、「人絹(じんけん)」という名で呼ばれた。

 じんけんの話でした。ちゃんちゃん♪

 もちろん冗談である。

 世の中にはいつのまにか、世界人権宣言というのができていて、その第一条にはこんなことが書いてある。

「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利について平等である。人間は、理性と良心を授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」

 いやはや、ほとんど全文が嘘である。

 すべての人間は、生まれながらにして自由ではない。自由であったらいいのになとは思うが、そういう風にはできていない。重力から自由になれないし、食欲からも自由になれない。いや、これも冗談だが。

 でもあなたが日本人なら、日本国民であるということだけで日本国憲法、法律から自由ではないし、成人するまではいろいろな制約がある。成人すればこんどは税金を払わなければならないし、法律を守らないとブタ箱行きになる。このような社会構造のなかに生まれてくるということは、自動的にその社会構造から制約を受ける。その意味において自由に生まれてくる者などいないのだ。

 次の、尊厳と権利において平等である、というのも嘘だ。平等であったらいいのにな、というのならわかるが、現実には貧者と富者の権利は大きな差がある。貧乏人は税金を払わずに生きていくことができないけど、大金持ちは税金を払わなくてもいいのである。西部の堤康義明社長の納税額は、ゼロだぞ。ついでにロックフェラー一族もゼロだ。

 尊厳についてはいうまでもない。イエス・キリストと麻原彰晃が尊厳において等しいなどと誰がいえるのか。例が悪いというのなら、ジョージ・ブッシュと私の尊厳は等しいのか。そんなにひどい侮辱はないぞ、私をあんなバカ外道と一緒にしないでくれというのだ。というわけで、尊厳は人によって違うのである。

 1条の後半にいこう。人間は、理性と良心を授けられているというのだが、真に理性的で良心的なのは動物である。人間は、理性と良心がこわれているのだ。だから戦争もするし、侵略もするし、爆弾は落とす、大量殺人などもやってのける。

 で、最後の文章の、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない、というのは、動物なら自然に普通にできることを、人間の場合は強制しないとできないことを意味している。

 この世界人権宣言というやつ、第30条まであるのだが、全編こんな調子の嘘ばっかりの文章である。ぜんぶ紹介していったらきりがないので、あとひとつだけ取り出して終わりにしよう。

 第27条「すべて人は、自由に社会の文化生活に参加し、芸術を鑑賞し、及び科学の進歩とその恩恵にあずかる権利を有する」

 そんなステキな生活なんて、金があってこそ可能なことだろう。「サントリーホールでヴェルディのオペラを観にいこうよ、チケットは12万円なんだけどさ」ということのできる権利など、もっと別のことが満たされていてこそ行使できるんじゃないのか。そして、それが満たされている日本人なんて、ほんの一部だぞ。全世界でみれば、もっと少数派だろう。アフリカ大陸で電気洗濯機を持っている人は、ごく一部分なんだぞ。

 まったくもってほとんど小学生の作文だな。いまどき、中学生だってもっといい文章を書くんだぜ、知ってるか。

 さて、ここまで書いてくると、この「権利宣言」というやつ、何か勘違いしていることに気付かれるだろうか。

 ここに書かれていることは、すべて願望なのである。○○だったらいいのにな、という気分にすぎないことを、あたかも現実に存在しているかのように断定口調で並べ立てているのだ。だから、これを素直に読んだ人は「権利」なるものが実在していると勘違いしてしまう。

 権利なんてものはないのだ。「権利がある」という習慣、お約束こそあっても、権利という抽象物が実在しているわけではない。誰もが、権利がある、という嘘を暗黙の了解事項とみなして日々を送っているために、成立している風にみえるだけなのだ。

 本当はありもしないその実体を、あたかもあるがごとくふるまい、人それぞれが上品に他者を気遣って生きていくなら、そもそもそんな言葉は必要ないはずだ。いや反対に、そうして静かに生きてきた人々の生活を暴力で破壊するときに、それまで意識されることのなかった習慣が実体のような言葉をともなって定義されてしまった、それが権利ではないのか。

 いわゆる自然的、伝統的な権利とはべつに、憲法、法律が保証する権利というものがある。教育を受ける権利、投票をする権利、健康で文化的な最低限度の生活をする権利、などである。

 これは、国家が国民に対してするお約束事である。これはただの取引きにすぎない。その証拠に、税金を払わなければそんなもん、保障してもらえないじゃないか。

 まじめな方々なら、私のこんな難癖に対して、怒りをこめて反論するだろう。「権利というのは、民衆が歴史的に権力者との闘争を通じて、命をかけて勝ち取ってきた宝物なのだ。これを粗末にあつかうなど、けしからん!」。だいたいこのようなセリフは読めている。

 はいはい。17世紀イギリスの「権利章典」にしたって、勝ち取ったのは貴族・商人連合なのであって、けっきょくは力と力の奪い合いであり、民衆(特に、当時は農民)など何の関係もないじゃないか、という反論は心の中にしまっておいて、この先輩のおっしゃることを認めたとしよう。

 だが私が本当にいいたいのは、「権利」という言葉をふりかざして力のあるものに戦いを挑むのなら何も文句はないのだが、今の社会では、その言葉をもって私たち庶民を殴りつける武器となっているのが気にいらないってことなのだ。

「人権教育」なんてことが、その最たるものだ。私たち庶民は上品だから、他者の権利の侵害なんてやるわけがない。そんな教育をしたいのなら、官僚、政治家、天皇家を教育してやらんかい。それなのに、なぜか私たちが「教育」の対象になっているのだ。腹が立つ。

 私たちは、日々をポケっと生きているだけであって、しかも力なんかぜんぜんないので、他者の権利を侵害するなどできるわけがない。ところが世の中には「人権家」なんてわけのわからない連中がいて、「何も知らないで、何もしないでいることが、差別だ」というのである。そもそも日本語として破綻していないか、それ。

 この論理を徹底すれば、赤ん坊にも猫にも差別者の烙印を押すことだって可能だ。私はこのへんまでくるとキレてしまって「勝手にしろよ」と思っている。もう、関わりたくもない。できるだけ遠くでやっていてくれ。話しかけないでくれアホどもが、という態度で通す。しかし「人権家」たちは、そんな私を非難し追求し、弾劾する権利があると思っているのだ。なんか変だと思わないのかね。

 話はちがうが、国連には「子供の権利事務局」なるものがある。1989年、「子供の権利条約」の批准をうけて設置されたものだ。世界中で虐待を受けたり飢えに苦しんでいる子供がいたら、なんとかなるように努力しましょうねという麗しい理想をもった機関だ。

 あるとき、この権利事務局に、日本の子供たちが提訴にいった。7人くらいの集団で行ったらしい。わざわざニューヨークまで高い旅費を使って。何を提訴したのかというと、彼らが通う中学が制服を強制しているので、これは服装の自由という権利の侵害なのではないかと、訴えたのだ。ほへー、そんな権利もあったとはね。

 このガキども、偉い人に会うんだからといって、よせばいいのにめいっぱい良い服を着て事務局に入っていったよ。女の子なんか、フリフリのブラウスを着ていやがった。もう、笑ったのなんの。

 で、そのとき国連の偉い人は、日本の子供に向かってこういった。

「あなたたちが何を訴えたいのか、さっぱり理解できない。私たちは、制服だろうと私服だろうと、それを着ることさえできない子供たちのために努力しているのだが」。

 門前払いみたいなもんである。ま、当然だが。しかしこのガキども、ちっとも納得した顔をしていなかった。権利意識なんてものに過剰に目覚めちまうと、こういう恥知らずな人間ができてしまう。
 だが問題は、こんな頭の悪いガキどもに「国連を利用しよう」などという知恵がそもそも働くはずがないのであって、裏で糸を引いていた大人がいるということだ。私は、その大人の顔をとくと見てみたい。人生を生きるうえで、こういうやつには近づかないほうがいいよという、格好のサンプルがそこに確実にあるにちがいない。

 さてここまで書いてくると、読者のみなさまは「権利っていったい何やねん」と混乱されてきたことだろうと思う。当然だ。私だってぜんぜんわからないのだから。

 なにしろ、「イラクの市民の頭上に爆弾を落とす権利がある」というどこぞの大統領までいるくらいだ。しかも「復興支援事業は優先的に受注する権利がある」ともいってるぞ。つまりここでいう「権利」とは、「オレがやりたいことを黙ってみていろ」「手を出すと承知しねえぞ」という意味なのだ。要するに「権利」とは「利権」である。この場合はつまるところ石油利権のことだが。

 このことは以前、猫哲学「猫における自由」のところで徹底的にやったが、「神に与えられた自由」=「権利」=「利権」とストレートにつながって何の疑問も感じないのが幼児的思考停止アホバカ暴力チンピラヤクザ卑怯者ゴミクズ外道人非人のアメリカ人なのである。これはもはや21世紀の常識なのであって、だから「権利」という棍棒であたりかまわずぶん殴っても、やつらは兵器なのだ。いやまちがえた、平気なのだ。だって神様がいいといったもんね、てなとこだろう。

 しかし私は、平和的で無欲で他者へのデリカシーを大切にする生き方をこそ信条とする者であるから、ヤツらの醜い姿には腹が立ってしょうがない。だからといって何ができるわけでもないしね。なわけなので、この21世紀というのは、私にとってとてもうっとうしい時代になりはじめている。

 私は、いまの世の中が大嫌いだ。でも、生きていかないとしょうがない。だから、せめて「人権」などといういかがわしい言葉を使わないようにして生きていきたいものだ。私は、上品に生きたいのである。な、バカ猫、おまえだって同じだよな。

「にゃあ」

 返事しやがった。どこまでわかっているのかな、こいつ。

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 いつもの美女とこんな話をしていたら、彼女はいった。

「私とデートする権利を手に入れた男は、喜んでるわよ」

「ほれみろ、やっぱり利権じゃねえか」

「ちがうわよ、幸せってことなのよ。あなたにはわからないかな」

「おおおっ、権利とは、幸せのことだったのか」

「そうよ。あなたって、不幸な人よね」

 何でそうなるんだよ。女の論理というのは、ときとして理解不能である。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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