2009年1月26日月曜日

【猫哲学46】 猫は狩猟民族か?

 
        猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2004/7/30)

 農耕民族と狩猟民族という言葉がある。

 言葉があるかぎり、それをどう使おうとご勝手にといってしまえば話はそれで終わりだが、農耕民族や狩猟民族がまるで実在する(あるいは実在した)かのように語る方々は、アホである。

(※どんなにアホが多いかは、最後に【おまけ】でサンプルを示しますので、興味のある方は読んでみて笑ってください。)

 こんなことを書くと、かなり多くの人に憎まれることになるにちがいない。でも、いいもんね。私は天下無敵の失業者、プータローにして猫哲学者だ。私をいじめることなど、この世の誰に不可能なのである。うははは。

 さて、猫は狩猟動物である。ネズミや小鳥やその他の小動物をつかまえて食べる。だが腹が減ったら芋や果物なども食う。猫草だって食う。その意味では草食動物である。

 わが家の猫は私にメシを強要して出てきたものを食う。自分ではメシを獲得する能力もないくせに、私に命令することで食っている。出されたものは肉でも魚でもごはんでも野菜でもなんでも食う。いわば雑食の寄生動物である。たかがバカ猫一匹だけをとりあげても、これだけいろいろと定義できるのだ。では、人間はどうなのだろうか。

 日本人は、かなり長いあいだ農作を経済の基本としてきた。だからといって農耕民族である、と定義してしまうのは短絡である。日本人のなかには漁民もいる。それも、ずいぶんたくさんいらっしゃる。1000年前から代々漁師という由緒正しい方もたくさんいる。

 その他に、歴史の教科書では軽く扱われすぎているが、日本には古くから海賊が多くいた。村上水軍とか九鬼水軍とかが有名だが、要は海洋民族にして海賊である。この人たちは自分たちが食べるための畑も少しはもっていたが、生活の中心は海上で船を襲ったり沿岸を略奪することだった。これを農耕民族といっていいのかね。日本民族のなかには狩猟で生業をたてている人たちもいた。とはいっても彼らが狩猟民族といわれているわけではない。そういえば、日本人の祖先は騎馬民族だったと主張する人もいたな。

 ほらね、なんだかわけがわからなくなってきたでしょ。日本人のことだけでもこんな風なのに、西洋人が狩猟民族だったのかどうかを検討しはじめると、話はもっと混乱してくるのだよ。

 現代西欧文明の母となったのは古代ローマだったが、帝国の力の中心であった戦士たちは農民だった。しばらく前にローマ時代を描いた『グラディエーター』という映画が公開されたが、その主人公は偉大なる戦士にして有能なる司令官であり、正体は農家のおっさんだった。あれが典型である。

 ローマの前に栄えたギリシアではどうだったか。アテネやスパルタの市民は戦争ばっかりやっていて、農作業なんかいっさいしなかったらしい。だがそれは、古代ギリシアが奴隷制社会であり、農作業は奴隷がやっていたからだ。そういう意味では、ギリシア人というのは戦争民族だといってもいいのだろうが、経済の基本は農業であった。

 では、最も狩猟民族と間違われやすいゲルマン人はどうかというと、彼らは牧畜・農耕の民なのである。カエサルの著書『ガリア戦記』を読めば、ゲルマン人がどのように生活していたのかがわかる。彼らは牛や馬を飼いつつ畑を耕し、放牧・農作業のできない冬場になると軍隊を組織して(というよりも徒党をくんで、かな)周辺を襲うという生活をしていた。これを「困ったもんだ」と考えたローマ帝国が、カエサルに命じてガリア(北ヨーロッパ)遠征に向かわせたのである。

 ではもっと北方、スカンジナビア半島に住んでいたノルマン人、デーン人なんかはどうだろう。この人たちの国土はやせていて気候もやたら寒いし、農業をしても収穫量は少ない。そんな生活をなんとかしようとて、彼らは船団を組み、南方の沿岸地方を荒らしまわったのである。いわゆるヴァイキングね。しまいには、国をまるごと占領してしまう連中まで出てきた。フランスのノルマンディー地方、国としてのデンマークなんてのは、その略奪の名残りが地名になっている。

 しかしノルマン人たちがなんでまたそんなに生きにくい土地に住んでいたのかという原因をたどれば、もともとは黒海沿岸の豊かな土地に住んでいたのが、フン族の大移動によってふるさとを追い出され、北方の辺境に住み着くしかなかったのである。つまり彼らは、もともとは農耕民族だったのだ。

 さあて。ここまで書いてくると、狩猟民族なんていったいどこにいるんだとみなさん思われることだろう。

 アッチラで有名なフン族は、かなり凶暴な人たちだが、でも基本的には羊を飼う牧畜民族である。中央アジア地方は、狩猟だけで食っていけるほど動物が豊かにいる地域ではない。牧畜民族としては、アフリカの有名なマサイ族も牛を飼う牧畜民族である。過去は農業もしていたが、今は土地がやせてしまい、現在どれほど農業に依存しているのかはわからない。

 そろそろ結論をいっときましょうか。狩猟民族なんてものは、どこにも存在しないのである。それも、原理的に存在不可能なのだ。このことをこれから論証しよう。

 ライオンは狩猟動物であるかのようにみえる。たしかに、狩猟をすることで生きている。しかしよく観察すると、ライオンの群というものは草食動物の大群に寄生、依存している特殊な生き物なのだ。
 アフリカの大地には、象を頂点とした鹿、牛、カモシカ、豚等々草食動物の大集団が暮らしている。彼らが暮らす平原の周辺に、肉食動物であるライオンもいる。ライオンの存在は、雑多な草食動物がつくりだす豊かな一大生態系を前提としているのだ。だから、乾期になって草食動物が大移動を始めると、ライオンもついて歩く。草食動物が移動しない季節は、ライオンは草食動物の群の周辺で昼寝をしている。その姿たるやまあ、のんびりしまくってバカみたいである。

 つまり、いつでも楽に獲物にありつける特殊な環境を前提として、ライオンは狩猟動物をやっていられるのである。彼らは獲物を探し回ったりしないし、移動もほとんどしない。狩猟民族なるものが話題にされるときの特徴、たとえば油断のなさ、獲物を求めて旅するための注意力や判断力、飢えに耐える粘り強さ、血に飢えた暴力性、残酷さ、独立心…のような諸々の性質は、ライオンにはぜんぜんないのである。だいたいやねえ、ライオンは固い掟にしばられた群れ動物で、食い物を調達する(つまり狩猟をする)のは雌の役目と決まっているのだよ。

 狩猟民族の特徴としていわれる諸々の性質とは、実は虎や豹のような群をつくらない孤独なハンターたちのものなのである。しかし彼らは、あくまでも個体だけを単位として生活していて、獲物の少ない北方の森をすみかとしている。群になんかなってしまっても、集団での生存を維持できるほどたくさんの獲物をみつけることはできない。つまり、虎や豹は、民族を形成するような生き方をしていないのだ。

 そろそろわかってきましたか。結論をいこう。

 狩猟のみに頼るような生き方をしていたのでは、食える食えないのリスクが大きすぎて集団で生きることはできない。集団でないものは民族とはいえない。よって狩猟民族という存在は、原理的に成立しえないのである。

 これを、猫哲学的民族論の原理という。ついさっき思いついたんだけどね。

 エスキモー(イニュイ)は狩猟民族だぞと思っている人は多いが、あの人たちは夏場は牧畜と農業をし、酷寒の冬になるとカリブー(大型のトナカイ)やときにはアザラシを狩って食べたりする。アザラシもカリブーも、探し回らないとみつからないというような獲物ではない。北極圏にはあふれるほどいる(あるいは、過去にはいた)のだ。つまりライオンの立場と同じことね。だからエスキモーというのは、平和的な人々である。狩猟民族なんて凶悪なレッテルをはっちゃいかんよ。

 さて人類というのは、ある一時期、狩猟民族であったかのように誤解されている。なぜかというと、ラスコーやアルタミラの洞窟壁画に、マンモスや大型草食獣を集団で襲う絵が残されているからである。

 たしかに氷河期の終わりの頃(といわれているが、私は話半分に受け止めている)人類は共同で狩りをしていたらしい。しかし、そんな壁画が残されているからといって、当時の人間が肉ばっかり食っていたと考えるのは短絡もはなはだしい。

 むしろ、あのように狩ができることというのは、珍しいことだったのではないか。希に起きるような僥倖だったからこそ、祈りをこめて壁画に描かれたと考えるのが自然ではないのかと私は思うのだ。

 和歌山県太地町にはクジラ漁の絵巻もクジラ塚もあるが、太地町の住民はクジラばかり食って生きてきたわけではない。むしろ、1年にそう何度も起きないような幸運ということで、クジラがまた来てくれたらいいのになーという願いをこめて、絵画が描かれたのである。もちろん、太地町の住民を狩猟民族と呼ぶバカはいない。

 というわけで、狩猟民族なんてどこにもいないのである。農耕民族だって、本当はあやしいものだけど。

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「でもあたしは、狩猟民族が好きだな」

 例の超美女は、いつものようにまたまた理不尽なことをいう。

「足が長くてかっこいいからとでもいいたいんだろ」

「その通り~。でもそういう意味では、あたしも狩猟民族よね」

 どこか遠くの国の、ジャングルにでも行っちまいやがれ。

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【おまけ】

 狩猟民族・農耕民族という言葉がどのように使われているかのサンプルを紹介しようと思って、googleで検索してみました。そしたら、何百となくヒットしてしまったので、そのいくつかをご紹介しましょう。これを読めば、現代の知的階級がいかに何も考えていないのかがわかるのだな。

 いつだったか、○○先生とこの話をしていたら、「誰がそんなこというてるの?」とおっしゃっていましたが、いまこそお答えしましょう。日本人の大半が、こんな世迷いごとをいうておるのですわ。

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 農耕民族は経済規模の拡大を、耕す面積を量的に増やすことで実現する。このため農耕民族は、自分の土地が少なくなったりすることを恐れる。このマインドは既得権益にしがみつくという、日本人のいじましさにつながる。

 一方、欧米型の狩猟民族には既得権益への執着はあまりない。元々、狩猟民族は価値の勝負をしている。例えば、一発の銃弾でも小さなウサギを殺すのと、大きなマンモスを仕留めるのでは、その銃弾の持つ価値は異なる。つまり結果がすべての価値を決めるということを分かっている。これが狩猟民族の特徴なのだ。だから思い切りが良い。現在三菱総合研究所の経済部長を勤める浜矩子氏によれば「アングロサクソンというのは、元々海賊です。だから思い切りが良い」と言う。思えばロンドンの大英博物館に陳列されているのは、ほとんどが戦利品だ・・・。

㈱重化学工業通信社 ENN編集部

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Q 民法の財産権について

 人類は民族により、2つのタイプ、農耕民族と狩猟民族にわけられます。日本人は典型的な農耕民族といわれています。財産権のうち物権は農耕民族に馴染む権利と考える。農耕民族は物権、それも所有権をもつことにこだわる。それは、農耕の基本となる土地の所有権を持たねばならないからである。土地にこだわり、しがみつき 、はては土地をめぐって争いがおきる。日本人が好んで使う言葉、一生懸命は鎌倉武士が土地に命をかけたことから土地=一所=土地に命をかけてきた一所懸命からきた語源とされている。

 これに対して欧米特にアメリカは狩猟民族の典型とされる。狩猟民族は、土地よりも獲物を重視する。獲物を求め、土地を転々と移動する、狩猟民族は土地そのものよりも、その土地をどのように使い、その土地からどのように儲けるかが、考えの重点になる。これが今日の自由経済=競争社会(悪く言えば弱肉強食社会)の基礎となった。したがって、債権とそれを生み出す取引すなわち第3編債権法に馴染みがあると考えます。ともあれ、日本の如く、土地神話、土地本位制の思想は生まれる余地がない。土地はそもそも、彼らアメリカ人の思想の基礎にあるキリスト教の聖書によれば、神様から与えられた一時の預かりものとの考えがあるからで ある。

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日本的“談合”を守ろう
ビル・トッテン 『Venture Link』誌(1999年2月号)より

 日本人は農耕民族である。だからもともと「競争」という観念はなく皆が同じ場所で生活し、農作物を育て、暮らしの技術を育んできたのである。

 こうした社会にあっては、「自分の方が強いから取り分を多くしろ」などという、弱肉強食の発想は生まれてこない。ともに働いて収穫を分け合うことが原則である。

 一方、狩猟民族である白人は農作物を育てず、獲物を捕って生活していた。だから同じ場所に定住し、同じ仲間と長い間生活するということもあまりなかった。

 時代の変化とともに彼らもある定まった場所に住居を構え、生活を営むようになる。しかし彼らはもともとが狩猟民族なので、より豊かな生活をするためにはよそのテリトリーに進出し、略奪した方が手っ取り早いと考えた。

 そして白人はモノを奪う手段を正当化する実に都合の良いシステム、資本主義をつくり上げた。 @@

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■減点主義から脱却する

 農耕民族であった私たち日本人には「減点主義」が染みこんでいる。毎年、決まった耕作面積で最大の収穫を得るように挑戦する農耕民族の場合、失敗があれば収穫が減ることになるからだ。たとえ失敗を取り戻そうとしても、失敗分をその年の内に取り返すことはできない。当然のことながら、人の失敗をとがめ、自分の失敗を恐れる「減点主義」にならざるを得ない。
 一方、狩猟民族は獲物も狩人も移動していくので猟場に限界がない。狩猟に失敗したとしても、何度でも狩りに挑戦することができる。だから、失敗をとがめる時間があれば別の狩りに挑戦し、成果を上げた方がいいということになり、自然と「得点主義」になる
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 狩猟民族のリーダーは最も強く、経験があり、賢い人を選ぶ。一方、日本のような農耕民族は調整型になるが、危機管理能力が乏しい。マンモスの狩猟では、リーダーが仲間の役割分担を決めないとできない。失敗したリーダーは追放されるしかない。これに対して農耕民族は「皆で渡れば怖くない」式だ。日本の政治・経済の失敗は連帯責任になっている。危機になると、宮沢喜一氏、竹中平蔵氏など老人、民間人に任す傾向がある。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@引用終了@@

 あーっ!! ばかばかしい。

 最後のふたつのうち、前者は日経新聞、後者は毎日新聞からの引用です。これらの文章がいかにバカであるかをいちいち指摘していったらきりないが、たとえばウサギとマンモスを同じ銃弾で倒せると考えている人がいたり(だいたいやねえ、マンモスのいた時代に鉄砲なんてあったのか)、狩猟をするのには縄張りの確保が非常に重要であって、そのぶん土地への執着はより広大な対象に及ぶということを知らなかったり、白人は農作物を育てないで暮らしていたと思い込んでいたり、世の中には牧畜民族というのもいることを知らなかったり、もうまったくハチャメチャもいいところだ。基礎的教養というものが、この方たちには決定的に欠けている。よーまあ、そんなんで人に読ませるための文章を書くよなあ。
 というわけでみなさま、○○民族という言葉を読んだり聞いたりしたら、大笑いしてあげましょうね。ではまた。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com/
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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