2009年1月28日水曜日
【猫哲学100】 死について。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
(2006/05/05)
最終回は、予告していたように死のお話である。
ところで私は死んだことがない。だから死を知らない。経験のないことを語ることはできない。これで終わり。
これで終わりです。みなさんさようなら。
本当にこれで終わりなのだ。これ以上語ることなど何もない。だけどそれでは納得できない方もおられるだろうから、周辺の話題などをあれこれ書いておこう。
猫哲学もついに100回目を迎えた。以前から宣言していたように、これで最終回である。といっても私は、どこかの文豪のように猫を殺して終わらせたりするようなことはしない。バカ猫は今日も元気である。間違いなくあと10年は生きるだろう。
おいバカ猫、おまえも最後の出番だぞ。何か言いたいことはないか?
…寝てます。まあ、そんなもんでしょう。
ところで「死」についてである。今回はこれを真正面からやっつけるのだ。世の中にはこれを扱った本などなんぼでもあるが、はっきりいってまともな論説にめぐりあったことがない。前回の恋の話でもそうだったが、わからないからこそ議論が絶えないということなのだろう。
私も、わかっているわけではない。でも、わからないということを真正面から見据えて書くので、凡百のわかったつもり論よりもよほど上等なことを述べる。てな感じで、あいかわらず猫哲学者は、最終回に至っても偉そうなんである。ふニャ。
さて、死には二種類ある。他人の死と、自分の死である。
まずは、他人の死からいっとこう。これだって、現代社会は概念の混乱の嵐の中にある。私が扱いたいのは自分の死なのだが、こっちのほうを整理しておかないと次に進めないので、ちょっと我慢して読んでね。
私たちは、他人の死について、何を知っているだろうか。親しい誰かが死んで、もう会えない。それは誰もが経験していることだ。だからといって、それはあなたの死ではない。死んだ誰かが経験した「死」そのものは、あなたの経験ではないから、あなたにはわからない。
あなたが経験したのは、その誰かが死体となって、葬儀その他いろいろなことが起きて、もう二度と会えない、そういう事態とそれに伴う感情のあれこれなのだ。その人の「死」そのものはその人が経験したことであって、しかも二度と会えないのだから、その人から教えてもらうこともまたできない。
誰かの死に立ち会って、その悲しみのなかで死について何かをわかったつもりの人は、死を知ったわけではない。その人は、自分の感情を見ていただけである。
もう少し整理しよう。他人の死にも二種類ある。肉体の死と心の死である。
肉体の死は、わかりやすい。機能停止し、冷たくなり、腐敗し始めたら完全に死だ。だけど、このわかりやすいことに、現代医学はまったく別の定義を持ち込んでいる。という話は後ほど。
心の死は、これはわかりにくい。肉体が生きていても精神が死んでいるような状態もあるし、逆に肉体が完全に失われても心が残っているという感じもある。前者を植物状態、後者を霊という。
心がいつ死んだか、あるいは永遠に死なないのか、私たちはわかっていない。というわけで、他人の死を定義づけることができないのだ。
う~ん。理屈っぽいな。でも、知り得ないことを知り得ないと知っておくことは、大切なことである。あなたが、もしも他人の死について、何か知っているつもりでいるなら、この世の重大な悪に荷担してしまうことになる。
急な展開だけど、びっくりしないように。
死を定義している連中がいるのだ。本来は定義不可能なことをもっともらしく定義して、しかも法律にしようなんて連中がいるのだ。何のためにそんなアホなことをするのかというと、もちろん連中にとっては金になるからだ。
そんな連中はほっておけばいいのだが、我々の生活に介入してくるのが面倒だ。めちゃ迷惑である。何の話かというと、ドナーカードの問題である。
あいつらは、臓器移植のためにより新鮮な臓器がほしくて、むりやり「脳死」を死と決めた。脳死体というのはね、身体がまだあたたかくて顔色もあって、臓器をバラそうメスをいれたら悲鳴をあげるし暴れる。そこをむりやりよってたかって押さえつけ、死体だということにして解体されるのだ。本当のことだよ。そんな実状を、みなさん、知ってた?ショックかもしれないけど、事実である。本当のことを知りたいなら、私が教えてあげるから、メールでお問い合わせください。
閑話休題。あだしごとはさておき、って、いいのか、それで。
まあ、この世に悲惨で無惨なことは他にいくらでもあるし、あたしゃ関係ないさ、勝手にやってればええがなとは思うけど、この私にまでドナーカードを持ちなさいと強制するのだから困ったもんである。
「あなたの生き肝がほしいから臓器提供に同意しなさい。何が死なのかは私たちが法律で決めてあげる。ついてはお金はあげませーん。私たちは手術代、免疫抑制剤なんかでがっぽりもうけるけどねー」
これがやつらの本音である。そこから発展した死体ビジネスや誘拐ビジネス、人身売買から戦争ビジネスまで、言いたいことはあまりもたくさんあるけど、ここでは触れないでおこう。
話がかなり脱線した。ここで指摘したいことというのは、私たちの誰も、他者の死を知らないということなのだ。
彼とは、彼の肉体ではない。彼の心である。腕の一本や二本失われたとしても彼は彼である。彼が彼の心であることは、ことほどさように自明なことである。
彼が死ぬとき、彼の肉体の死はどのようにでも観察し記述することができるが、彼の心の死だけは、誰にも観察できない。彼の心がいつ死んだのか、死んでどうなったかなんて、我々は誰も知らないのだ。
知ったふりをしている連中はたくさんいる。宗教関係者、特に新興宗教の連中が偉そうなことを言う。オウムの麻原なんかがその典型だ。しかしそいつらは、金儲けのために嘘を言っているだけだ。だからあいつらが逮捕された後は、死を怖がってびくついておるだけではないか。ここではっきりと書いておくけど、ローマ法王だってあの連中とそう変わらない。私は徹底的に軽蔑している。
もう一度いう。この世の誰一人として、他者の死を認識できる者はいない。ものすごくあたりまえの話である。だって、私は他者ではないのだから。でも、このあたりまえなはずの話が、あたりまえの話としてかつて話されたことがあっただろうか。
宗教哲学科学医学雑学など、どのジャンルからでもいいから、「わからないものはわからない」と、誰か言ってくれ。誰も言ってくれないから、この無名の猫哲学者が叫ばねばならないのである。
わっかりまへーん、てば!
次に、自分の死についていっとこう。自分の死にも二パターンある。死後の自分が存在しないという考え方と、死後の自分が存在するという考え方である。
まずは、前者のほうから。死後の自分が存在しないという立場で考えてみよう。自分の死は、認識できるか。
という問いを立てた瞬間に、この問いそのものが論理的に成立しないことは、賢明なる読者のみなさんにはすぐにおわかりいただけることだろう。
認識するというのは、自分が生きているから可能なことであって、自分が消えたりなくなったりしたら、もちろん不可能である。ものすごくあたりまえだ。
だから、死を恐れる気持ちというのが、私にはぜんぜんわからない。認識できないのだから、そこにもう自分はいないのだから、恐れることすらできない。そうやおまへんか?
人間は生物であるから、命の危険を予測してそれを回避するよう本能づけられている。その予測能力が恐怖という感情とリンクしている。猫にだって恐怖の感情はある。しかしそれは具体的な危険に対応するためのシステムであって、知らないものまで恐れはじめたら、人はのべつまくなしずっと恐怖を抱きつつ生きなければならない。そういう人が実在することも知っているけどね。
つまり死を恐れる人というのは、生物学的本能的な恐怖が、死という抽象概念にまで延長されて、頭の中がぐちゃぐちゃになっているのだ。ちゃんと考えなさいね、とここでは言っておこう。
自分がなくなる、認識できない状態というのは、寝ているようなもんだ。死を恐怖する人たちは、ちゃんと睡眠がとれているだろうか。死が怖いのなら、眠るのだって怖いはずだ。そうやおまへんか?
私は、死はぜんぜん怖くない。その前段階に痛い苦しいがあったら嫌だなーとは思うが、それは痛い苦しいが嫌なのであって、死そのものについてはぜんぜんどうでもいいと思っている。
さて、自分の死のもうひとつのパターン、死後の生というものがあったりした場合について考えてみよう。
すべての宗教は、死後の生を有るものと考えている。死後の生が本当の生で、いま生きている生がかりそめのものだという主張も多い。
私は、それを全面否定するつもりはない。だって、死んでみなくちゃわからんものを、どうだこうだと言ってもしかたないじゃないか。
しかし世間でいろいろと語られている死後のなんとかかんとかというのは、どこかヘンである。
たとえば立花隆が分厚い本を書いていた「臨死体験」というやつ。あれなんて、キリスト教徒が臨死体験したら天使が出てくるし、日本人が臨死体験したら仏様が出てくる。死んでまでこの世の文化伝統時代背景に束縛されるのかね。それなら死ではなく、生そのものではないか。ただの夢とどこが違うのだ。
宗教関係者が言う天国地獄なんてのも、はっきりいってナンセンスである。坊さんがいくら勉強したからといって、一度も死んだことのない者が死後の世界など語れるはずがないではないか。しかも、宗教書にある天国地獄の様相は、それが語られ記述された当時の歴史的文化的背景に完全に束縛されている。そんなもん、宇宙の永遠と比較したら、薄っぺらな紙切れ以上のものではない。
私は、私がもうひとつの宇宙であると何度も書いてきた。私がいま有るということは、はてしない時間と空間の特殊な結節点として有るということだ。もちろん私だけではない。あなただってそうだし、パスカルさんがバカにした葦だってそうだし、バカ猫もそのようにして有る。
(ここで時間という言葉を使っているけど、あくまで便利な比喩として使っているので誤解なさらないでくださいね)。
そして私は、この結節点から宇宙を観照する。無限の時間空間、あらゆる次元はこの心の中にある。いま私が有るということは、宇宙の全層全時間を貫いて「いま有る」ということなのだ。
じゃっかん宗教的かな? いや、私は感情を凍り付かせて思い切りクールにこの文章を書いているから、ものすごく理性的に考えてやっぱりそうなのである。そういう立場で「死後の私」というものがもしもあったら、と考えてみよう。
死後の私なるものがもしも存在したとしたら、やはり認識運動をするわけだから、つまり命としての私であろう。命としての私には、当然のことながら始まりがあり終わりがあるはずだ。そこで死後の私は、いまの私と同じように、きっと次のように考えるだろう。
「私が死ぬとは、どういうことか」
死後の私がその死後のことを考えるわけだから、その私とは「死後の死後の私」ということになるな。ところで、またまたその「死後の死後の私」がその死後のことを考えたとしたら、「死後の死後の死後の私」ということになるが、その「死後の死後の死後の私」がさらに死後について考えたとしたら「死後の死後の死後の死後の私」ということになるわけで、さらにその「死後の死後の死後の…(白鳥座まで続く)」。
無限連鎖である。その一点に立つこの私は、いまそれを生きているという意味において、他の無限の点とは明らかに異なる。異なりつつ、特別な価値があるというわけでもない。全宇宙の無限点は、いまここに集約されている。べつにここでなくてもいいんだけど、私から見たら、たまたまそうなのだ。以前にも書いたけど、私と宇宙とは等価なのだ。
というわけで、今を大切に生きましょう。悪いことをして「死後の死後の死後の死後の私」あたりが後悔したり恥をかいたりしたら、かわいそうでしょ。というお話になってしまうのだった。
どうだい。天国地獄神様なんてところで思考停止しているアホどもと較べたら、よほど上等な死生観だしょ。
ああそれにしても、なんちゅう平凡な結論であることか。ほへ。
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こんな話をしていたら、いつもの超美女はにやりと笑って言った。
「そんなに死にたいなら、殺してあげようか」
「いや、わざわざお手を煩わしていただかなくても」
「まあまあ、遠慮なんかしないでいいわよ。ちょっとそこでじっ※□△て?$※…」
☆★◎※‰(∝∵∝)※!!
何が起きたのかよくわからない。どうやらキスされたらしいのだが、そうと気付く前に私は気絶していた。
そうか、これが死か。
終わり。(ご愛読ありがとうございました)。
[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
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