2009年1月25日日曜日

【猫哲学18】 猫飯。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃



「うちの子が、何も食べてくれなくなった」

 三匹の猫を飼っている姉が、私に泣きついてきた。電話で話を聞いてみると最初はキャットフードで十分だったのだが、かわいさにほだされて魚、チーズ、肉、海老、ササミなどを食べさせていくうち贅沢になって、とうとう何を出しても食べてくれなくなったのだという。

 妙な話もあるものだと思いつつ、とりあえず私は姉の家を訪ねた。そこで私が見たものは、あははははははは、笑うしかないや、ブタブタに肥満した三匹の猫たちだったのである。あのかわいかった三匹の子猫たちの面影やいずこ。

 これじゃあ、食欲がなくなるのも当然だ。姉ときたら、こんなになっちまった猫たちに、育ち盛りのときの食欲を期待して、手を変え品を変え食欲をそそろうと努力していたらしい。フォアグラじゃねえんだよ、まったく。とんちんかんな愛情というのは、ときとしてシュールな果実を結ぶものである。

 私は、姉にきつくいった。いまこいつらに必要なのはダイエットだ。一週間や二週間絶食したって、猫は死にやせん。このままだと心臓に無理がきて早死にするぞ。もとのスリムな体型にもどれば、キャットフードだろうが猫飯だろうが何でも食べるようになる。わかったな、こいつらがどんなにおねだりしても、餌を与えてはならん。いいな、それが本当の愛情というものだぞ。

 そして三匹の猫を集めて、厳しくいい渡した。「おまえらも、わかったな。がまんということを覚えるいい機会だ、しっかりダイエットしろよ」。

 三匹のブタ猫は、なさけない顔でしゅんとしていた。太りすぎで動けなかっただけかもしれない。それにしても重かったな。

 前置きが長くなったが、今回のお題は食べることなのである。では猫哲学のはじまりはじまり~。

 猫は雑食である。

 猫は肉食であると思っている人が多いが、それならなんで猫飯を食べる猫がいるのか、考えたことがありますか? 猫は、とりあえずなんでも食べるのだ。

 野生では猫の祖先にいちばん近いといわれるリビアヤマネコの場合、小動物や小鳥、昆虫を捕らえて食べるのと同時に、野菜、芋、果物なども食されるようである。つまり、祖先から雑食だったのだ。
 ただ、猫の雑食は極端にはしる。どうせ何を食べても生きていけるからだろうか、偏りかたが半端じゃない。雑食が極端になると、偏食となる。何のことかわからない? そうでしょうね。では、いくつか事例をあげてご紹介しよう。

■私の友人の猫の場合。

 友人が生まれたばかりの子猫を拾ってきて、牛乳で育てたのはいいのだが、この猫、立派におおきく育っても牛乳しか飲もうとしなかった。キャットフードもアジの開きも見向きもせず、牛乳ばっかり飲んでいたそうだ。それでいて何の不都合も起きず、けっこう長生きしたという。

■次の例。

 私が子供のころ家に迷い込んできた猫は、それはそれは高貴な血統書つきとしか思えないシャム猫だった。体の色はピンクがかった金色。手足と鼻と、それから尻尾の先っちょだけが明るいグレー。尻尾が長くて体とほぼ同じ長さ。まだ子供らしくて、スリムな胴に長ーい手足。それに小さい顔。水色の瞳。あれほどの美猫は、それ以来いちども見たことがない。

 母いわく「いったい何を食べてくれるんやろ、見当もつけへんわ」

 ところがなんとまあ、この美猫が好んで食したのはごはんであった。いわゆる白いごはん。炊きたてがお好み。そして、ごはんだけしか食べなかった。一度かつおぶしをのせてやったら、きれいにそれだけとりのぞいて残してあった。私はなんだか、東南アジアの高貴なお姫様が、ごちそうには目もくれずひたすらお茶漬けばかり食べる姿を想像して、笑ってしまった。

■次に、かなり昔だけど『アニマ』という動物誌に紹介されていた話。

 ある人が飼っていた母猫が、子どもを産んですぐに死んでしまった。まだ目もあいていない子猫をかかえてとほうにくれたその人、ふと思いついて庭で飼っていたウサギに子猫を抱かせてみた。そうしたら、ウサギは乳を出してくれて、子猫を育ててくれましたとさ、めでたしメデタシ。

 ところが、そうして育った猫たちは、野菜しか食べなくなってしまったという。肉も魚も見向きもしない。ひたすら野菜をバリバリしゃりしゃりと食べていたそうだ。その猫たちがその後どうなったのかは、記事にはなかった。私はとても気になるが、いまさら調べようもない。

 いったい、雑食といっていいのか偏食といっていいのか、猫というのはほんとうに変なやつである。

 でも、変だなんていってはいけないな。この猫たちは、子どものときに与えられた餌に全身全力で適応しただけなのだ。この能力があるからこそ、猫は餌に気を使う必要のないとても飼いやすい動物として、広く人間の側で生きのびることができたのだろう。ヤツらは適応の天才なのだ。

 さて話は変わるけど、猫もそうだが、人間も、いったいなぜ食べるのだろう。考えたこと、ありますか? いよいよ猫哲学らしくなってきたぞ。

 なぜ食べるのかと聞かれて、「腹がへるからだ」と答えるのは、ちょっとしたトートロジーです。おもしろいから分析しよう。

「なぜ食べるのか」という問いは、食べることの営為全体への問いである。その全体のなかには「なぜ腹がへるのか」という問いも、当然ふくまれる。腹がへる→食べる→満腹になる→また腹がへる→食べる(以下白鳥座まで)、このような人間のありさまの全体を「なぜ」と問いかけているわけだから、「腹がへるから」という答えは答えとして成立しない。すなわちトートロジーである。

 ああ、書いちまってから思ったけど、こんなくだらないことでやたら論理的になるのは滑稽だな、恥ずかしい。もうやめとこ。

 そうだ、なぜ食べるのか、の話だった。

 そこで、「生きるために食べるのだ」と答えてしまいそうだが、これまたトートロジーを内包している。分析しよう。

 「生きる」というのは、「食べる」ということも含んだ営為である。衣食住すべて、精神生活、○×生活、あらゆる局面全体が「生きる」ことであり、それぞれのどの局面がとくべつ他に優越するというものではない。だから、「生きるために食べる」という言明は「食べるために食べる」という意味を部分的に含んでいることになる。これはトートロジー。

 あ、また論理を使ってしまった。やめようと思ったのに。恥ずかしいなあもう。

 さてそれで、なぜ食べるのかの話だった。ここで、食べたいから食べるといったのでは、またまたトートロジーである。なぜなら、ここでは「なぜ食べたいのか」も同時に問われているのだから。

 そろそろお気づきのことと思うが「なぜ食べるのか」という問いは、どう答えようとしてもトートロジーを含んでしまう奇妙な問いなのだ。トートロジーの金太郎飴なのだ。

 なぜそのようなことになっているのか。答えは簡単である。「なぜ食べるのか」という問いは、実は「なぜ生きるのか」という問いと同じなのだ。そして、後者の問いに対する答えは、ない。(注1)

 まあそのようなわけで、私は考えに考えた末、なぜ食べるのかときかれたら、「しかたがないから」と答えるようにしている。

 だって、しかたないじゃないか。腹がへるのはしかたないし、がまんする理由もないし、食べないでいたら死ぬ。死ぬのはべつに怖くないけど、この年齢でというか、いまの私の社会的役割をいきなり放り出したら周りのみなさんが迷惑する。私は人の迷惑を考えないほどデリカシー欠如の輩ではないので、やはり食べるしかないのである。べつにさほどの苦役重労働というわけでもなしと自分を慰めながら。
 食べないと生きられない。このどうしようもない構造は、私が選び取ったものではない。生まれきて、ものごころがついて、気がついたらそうなっていたのである。

 本音をいうと私は、この構造がじゃまくさくて嫌でしかたがない。毎日毎日、何度も何度も、ひたすら何かをぱくぱくモグモグ食らいつつ生きていくしかないなんて、アホみたいではないか。食事をしている人間の姿というものは、さほど美しいものでもないぞ。あ、美女はべつだけどね。

 早い話、私はカスミを食って生きていたいのである。もしもそれができるなら、どんなにか気楽なことだろう。ほへ。(注2)

 さてこのへんで、世の常識と私の感覚がいかにズレているのかがわかっていただけたことと思う。しかし「食べる」ということを徹底的に考えていけば、こうなるしかないと思うのだが。違うのだろうか。

 世の中には「グルメ」なる方々がいて、ひたすら食の快楽を追求していらっしゃる。それに人生をかけている人もいる。そのこと自体は趣味の領域であり、なにも他者がどうのこうのいうべきことではないが、彼らに「なぜ食べるのですか?」と問いかけたら、先のトートロジー以外のどんな答えが返ってくるだろうか。

 でもやっぱりグルメって嫌いだな。食というものは、食材が植物にせよ動物にせよ、その命を奪って己の命を養う行為だ。そういう構造になっているのだからどうしようもないのだが、さりとてそのかなしき有り様への敬虔な思いもなく、ただ快楽の糧として嬉々として食いまくるグルメというやつは、どこかたがのはずれた存在にみえてしまう。食というものは、少しかなしく、残酷で、祈りをともなうべき営為だと私は思うのだが。

 猫はそのことをわきまえているように思う。うちの駄猫がメシを食うときは、前足後足をきちんと揃えて座りこみ、目をうっすらと閉じ、まるで祈りのように静かにその行為に集中している。ちまたの行儀の悪い人間の大人たちは、ぜひ見習ってほしいものだ。

 今回はまじめな話になっちゃったな。でもまあ、こんなのもあっていいか。今回は食に関する話題だったのだ。ならば私も、神への敬虔な気持ちを抱いてこの回を終わろう。らーめん、なんちゃって。

(注1) なぜ、ないといいきれるのかという疑問をもたれた方は、拙著『週刊ウィトゲンシュタイン』をお読みください。書店では売ってません。私がメールで配信してさしあげます。配信料500円をいただきます。お子さま、学生さん、美女の場合は100円にしときます。(値段は冗談です)。

(注2) 小川悦子注。この筆者はけっしてそんな拒食野郎ではありませーん!和食には吟醸酒、イタリアンに銘醸ワイン、冬には鍋と熱燗、めっちゃ美食野郎ですよー。(反注2)

(反注2) 筆者注!悦ちゃん、それはちがうよ。それは私が君にごちそうしてあげようと思ったときにだけそうしているので、日常の私は質素きわなりない生活だよ。(反注3)

(反注3) 小川悦子注。家にワインセラーもってるじゃないですかー(笑)。ナイスなワインがごーろごろ!(反注4)

(反注4) 筆者注!おのれ、そんなプライバシーをバラしやがって。ああ、せっかくつくりかけた私のイメージが…。ま、いいか。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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