2009年1月25日日曜日

【猫哲学21】 トラキチ、あるいは愛国心について。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃


 私は必ずしも猫好きとはいえないが、トラキチである。つまり阪神タイガースファンである。

 なにをいまどきミーハーな、などと思ってほしくはない。かれこれ38年来の阪神ファンなのであるから、そんじょそこらのトラキチと比較してもらっては困る。筋金入りで苔が生えているのだ。

 田淵のホームランを甲子園球場でみたことがあるし、江夏のダブルヘッダー連投連勝はラジオで聴いた(相手は巨人である)。いまテレビで偉そうにわめいている川籐なんか、高校を出たての新人のとき、代走でデビューしたのをちゃんと覚えている。

 というわけで、トラキチであるという点は否定のしようもないが、しかし昨今話題になっている、道頓堀に飛び込んだりするような騒がしいトラキチとは、私は別種の動物である。あいつらはやかましすぎる。

 甲子園球場に野球を観にいくと、はっきりと2種類のファンがいるのがわかる。野球を観ている人と、観ていない人と。前者は野球を観にきているのだからあたりまえなのだが、よくわからないのは後者である。彼らは、通路に立ってスタンドを向いて、ひたすら騒いで踊っているのである。野球を観ていない。

 なぜそんなことが平気なのだろう。私なら次の一球一打が気になってたまらないから、フィールドに背を向けていられるなんてとても信じられない。彼らは彼らなりの満足があってそこでそうしていられるのだろうが、野球という媒介を経て球場にいるのであるから、野球を観ないで騒ぐだけで満足しているというのは、どうにも理解できない。それどころか、迷惑である。

 なぜ迷惑かを語るのに話は大きく回り道するが、でもまあ、読んでください。

 昭和54年11月4日、私は大阪球場にいた。広島と近鉄の日本シリーズ第7戦、勝ったほうが日本一という大勝負、9回裏1点差で広島がリード、マウンドには江夏。あの『江夏の21球』で野球ファンの心に強烈に刻み込まれた伝説の舞台を、私はナマでみていたのだ。1点差、ノーアウト満塁のピンチを江夏がいかに切り抜けたのかは、それは伝説が語るからいいとして、その場に立ち合ったものとして伝えたいのは、あのときの静寂である。

 今では誰も問題にしなくなったラッパ鳴り物での騒々しい野球応援。あれは、当時の広島ファンが開発したものだった。そのラッパ隊は当然その日の大阪球場にも来ていたし、初回からうるさいほど元気だった。しかし回が進むほどに、彼らの音はしなくなっていった。野球に魅入られたに違いない。それほど、あの日のゲームは緊迫感に満ちていた。やがて雨が降り始める。

 そして、問題の場面がきた。9回裏1点差、ノーアウト満塁。

 私は呆然として野球を観ていた。これ以上、何の結果もほしくなかった。江夏が打ちのめされる結末など、見たくなかった。でも一方では、近鉄の西本監督が敗北するのも悲しすぎた。ここまでいい野球をみせてくれてありがとう、この後に訪れる勝者も敗者も、もうみたくない。ここですべてを終わりにしてくれないだろうか。そんな気持ちでいた私の記憶に深く残っているのは、音、あるいは静寂である。
 3万人のファンをのみこんだ大阪球場、なのに咳払いひとつ聞こえない。誰もが凍りついたようにグラウンドをながめていた。

 私に聞こえるのは傘をたたく雨の音、ファースト衣笠が江夏に向かって何かを言うカン高い声、江夏がモーションに入り、キャッチャー水沼のミットにボールが収まるバシンという音。近鉄佐々木がファールを打ったゴキという音。たぶん一生忘れることのない音がそこにあった。いまのトラキチは、その体験の邪魔をしている。

 球場には音がある。スポーツという豊穣な意味にあふれた音が。私はそのことまで含めての野球を楽しみたいのだが、ライトスタンドで踊っているあのトラキチには、永遠にその音は届かないだろう。
 なんちゃって。いや、私はスポーツエッセイを書くつもりなど毛頭ないのだ。だからここまでは、単に筆が、いやキーボードがすべっただけだよ。猫哲学はここから始まるのだ。

 阪神ファンであるということは、いったいどういうことか。

 なぜファンなのかという理由を語りはじめると、頭の中が飽和状態になってしまう。巨人ファンは「強いから好きだ」と単純にいえてうらやましい。なにせこちらは、万年最下位の球団を応援しているのだ。注ぐ情熱に比して、報われることのいかに少ないことか。

 ファンである理由とは何か。かっこいいから? ぜんぜんかっこよくないよ。歴史と伝統のある球団だから? そんなもん無意味だと知ってるよ。 関西の球団だから? それなら近鉄や阪急と変わらないやないか。…いろいろ考えるのだが、どうしてもわからない。

 野球が本当に好きになったのは、江夏という投手を見たおかげだ。巨人V9の最中、ONが健在だった当時の巨人を相手に、彼はたった一人で戦っていた。1人対9人の野球だった。男らしいぜ、しびれるぜ。それ以来、私は阪神ファンなのだが、江夏が南海に放出されていなくなっても、阪神ファンであり続けている。江夏を追いかけて南海ファンになるということもなかった。不思議なことだ。

 好きなプレーヤーがいるからというのは、だからファンである理由にならない。これほど長くファンでいると、どんな名選手もやがてトレードや引退でいなくなってしまうので、10年も経てばまったく別の選手や監督がフィールドに立っている。掛布もバースも真弓も、もういないのだ。あの頃との共通項といえば、阪神タイガースというチーム名とタテ縞のユニフォームだけで、それ以外はまったく別のチームなのだ。

 つまり、私が愛してやまないのは、時とともにうつろいゆくチームの中身ではなく、阪神タイガースという抽象物であるということになる。何かへんだな。私としては、そんなつもりは一切なく、もっと具体的な何かを応援していたつもりだったのだが。

 いったい、なぜなのだろう。ファンであることに理由をみつけようとすると、奇妙な罠に引っかかって抜けられない。こんなことに理由を求めても無駄なのかもしれないな。人は、まずファンであるという自分に気づいて、それからにファンとしての行動を選びはじめるのではないだろうか。

 幼い子どものときからのファンというのは、実にわかりやすい。これは、要は「刷り込み」である。アヒルの雛が最初に見たものを親だと思いこむようなものだ。

 あるいは、ファン心理というのは恋に似ているのかもしれない。この世に何億人と女性はいるのに、特定の彼女に惚れてしまい、その理由というのがよくわからないような。もとより、理由のある恋なんて、恋ではないしね。

 そうであるならば、阪神タイガースファンというのは、つくづく性悪女に惚れてしまった男のようなものだな。なんと報われることの少ない愛だろうか。いや、愛は報われなくてもべつにいいのか。

 さて、ファン心理について長々と語ってきたのは、実は別のテーマを考えたかったからなのだ。そのテーマというのは、愛国心。

 ファン心理と愛国心というのは、似たところがある。理由もなく心が引きつけられているという点で、同質の感情といっていい。愛国心を分析することで、ファン心理についても何かがわかるかもしれない。
 ちなみに私は愛国心などかけらもない男で、政府も国家機構も徹底的に軽蔑しているし、天皇制即刻廃絶、君が代は廃歌せよという、強硬な主張の持ち主だ。その私がである、サッカー・ワールドカップともなれば無意識のうちに日本チームを応援してしまったりするのだから始末が悪い。何なんだろうなあ、これっていったい。

 こうした思考と行動の乖離は、どこからやってくるものなのだろう。検証してみよう。おお、やっと哲学らしくなった。

 なぜ阪神タイガースのファンであるのか。なぜ、持つと決めたわけでもない愛国心が私の奥底に潜んでいるのか。その答えは、思いのほか簡単なところにある。

 猫の群というものを考えてみよう。彼らは一族どうしなれ合い、いつくしみ合い、協力して狩りをし、食べ物を分け合い、子どもができれば一族でめんどうをみて、共通の敵にはチームで立ち向かうし、メンバーが死んだりすれば等しく悲しみに沈む。そういう面で、猫というのはとても情緒ゆたかな動物である。これはべつに、猫にかぎらないが。

 彼らをそのように行動させているのは、そう振る舞うことによって効率よく生きる、あるいは生きのびる可能性を高めるような性質が生得的に備わっているからである。(注1)

 外部からみればそのように記述できるが、猫一匹一匹はそんなことまでは考えていないと思う。仲間は愛しい、敵とは戦う、子どもはかわいい、ただそれだけのことだろう。

 その自然な感情を言葉で解釈しようとして人間の抽象名詞に置き換えると、仲間意識、連帯感、帰属意識というようなことになり、それをさらに抽象化すれば、トラシマ平三一家、ニャン太郎組、ショーヘア・インスティテュートといったような具体的な集団幻想が立ち現れてきて、その延長上に国家というものも意識されることになるだろう。猫国家というものはこの世に存在しないが。

 猫は、そこまでに至る抽象化の以前に、思考を止めるに違いない。まったく無駄なことなのだから。猫は、生得的な行動に意味づけが必要なわけではない。そんなものが必要なのは、人間だけである。

 猫の行動と人間と、いったい何の関係があるんだって? それは、人間というのもまた、生物としてながめた場合、猫とよく似た群動物だからだ。

 猿という動物がほとんどすべて群動物であることはご存じのことと思う。だから、人間もまた群動物であることに異論をさしはさまれる方はいないだろう。文明的要素をすべて取り去って人間というものを生き物として明確に定義するなら、人間とは平原に群れる猿である。ついでに猫の祖先は、平原に群れる小型野生猫である。

 ラスコーやアルタミラの壁画をながめてみると、古代の人間が、平原をチームを組んで走り回り、狩猟をしていた様子がよくわかる。その点からみても、人間という動物は、どう考えてみても群動物である。
 群動物であるからには、さきほど猫の集団でみたような、仲間同士の秩序を維持するための性質、行動が、生得的に備わっていることも当然である。

 要は、人間同士というものは、誰もが、とりあえず仲良くやろうよという本能のようなものに支えられているということだ。なぜそうなのかを、人間に聞いても答えることはできない。なぜなら人間は、自分が人間であるということを意識する前に、すでにそういう性質が備わっていたからだ。(現代社会では、この本能は壊れていることにもご注意ください)。

 しかし人間というヤツは、意識化されてしまうとそれを言葉で語りたがる。それが先ほども書いたが、仲間意識、連帯感、帰属意識、といったものから、愛国心につながる一連の観念である。

 ところがそれらは、いったん言葉として定着されてしまうと、それ自体が自律した意味の体系へと変貌し、もともと人間に自然に備わっていた性質までも縛ろうとする。

 いわく、仲間のやったことはみんなの責任だ! 愛国心のないやつは日本人じゃない! 等々。

 私はよく親から「教育勅語には良いことが書いてあるよ」といわれたものだが、その代表として示されるのが次の一節であった。

「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ…」(教育勅語)

 親兄弟を大切にして、夫婦仲良く、友人とは信じあいなさいといっているわけだが、私はこれを読むたびにムカムカしてくる。

 あのなあ、そんなことあんた(=天皇)からわざわざ命令される以前に、普通のことやないか。人間が自然に生きていれば、そんなことは自然に勝手にそうなるのだ。猫だってやっていることではないか。それを「天皇の命令である」と定義することによって、個々の人格が本来もつ自己決定能力と美徳をかすめ取る、きわめて悪辣な詐術がここにみてとれる。

 お父ちゃんお母ちゃん、あんたらけっこう仲のええ夫婦やったけど、それって、天皇に命令されたからやってたのか? 

 だいたいやねえ、天皇の命令だからという理由で仲の良い猫なんかいるわけないやろが、アホ。

 まあそんなわけで、教育勅語というのは、人間の自然な美徳を横領して支配に役立てようという、支配者の悪意のたまものだ。こんな下品なものを現代に復活させようと狙っている勢力が、いまどんどん力をつけている。教育者であられる岩根せんせい、どうぞお気をつけてくださりませ。

 このへんで少し整理しよう。仲間を愛するのは、猫も人間も同じ、自然で生得的な性質である。しかし連帯意識、国家意識というものは、支配者が人間に押しつける観念である。

 問題なのは、これらの感情あるいは観念の間に、理性的な境界線がひけないという点である。私がこれほどまでに国家というものに嫌悪を抱きながら、同時にサッカー日本代表を応援しちまうのは、この、「境界線がない」という理由によるものだ。ああちくしょう。

 つまりこういうことだ。私は自然発生的に生得的に日本を愛しているのである。それは私が選び取ったことではない。動物の私が愛しているのだ。理性としての私は日本を嫌悪している。しかし人間が動物である以上、いかに理性が理屈を述べ立てようと、時として動物の私が顔を出すのを避けることができないのである。そういうわけで愛国心。「ニッポン、チャチャチャッ!」。

 国家を心から愛している人たちは、私のようなジレンマを感じる必要はないから、うらやましいなあ。(巨人ファンがうらやましいというのも、同様の構造である)。しかし用心しないといけませんよ、あなたたち。国家を愛しすぎると、美徳も感情も国家に支配されたロボットになっちまうよ。先の世界大戦に邁進したのは、そういうロボット人格の群れだった。天皇陛下万歳。まあ、私が心配することではないかもしれないが。

 やれやれ。とうとう「国家とは何か」を語らないまま「愛国心」について語ってしまったぞ。今回はご納得いただけましたでしょうか。あなたが猫の心を少しでも持っていれば、簡単にわかっていただけるはずなのだが。にゃあ。

(注1) 生得的と書いたが、遺伝的という意味ではない。行動がDNAを介して遺伝すると考えるR・ドーキンスや竹内某女史の説は、トンデモ説としか思っていない。もちろん遺伝する行動も一部はあるだろうが、それよりも、子どものときに学習する行動こそが本質的であり、そのことを含めて生得的という言葉を使った。おっと、論文じゃねえんだよ、こんなカタい注が必要か? ま、いいか。

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 話を戻すけど、甲子園球場で野球を観ないで応援するトラキチたち、彼らはひょっとするとすごい存在なのかもしれないと思えてきた。

 阪神タイガースというものが、特定の選手だとか監督だとかで記述できるものではなく、抽象概念であることはすでに書いた。であるとするならば、彼らはそれを知ったうえで、野球さえもただの夾雑物として払いのけて背を向け、ひたすら阪神タイガースという純粋概念をただただ純粋に賛美するために、あのような行動をとるのではないか。これはもうファンなどと呼んではいけない、トラキチという名の修行僧たちなのかもしれないではないか。

 そんな話をとある美女にしてみたら、彼女は微妙に微笑んで、こう言った。

 「違うわよ。トラキチはね…、トラキチを観ているのよ」

 う~む…。女は深淵である。ごくたまにだけなんだけどさ。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com/
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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