2009年1月25日日曜日

【猫哲学31】 猫感情論。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃


 うちのバカ猫の機嫌が悪い。

 いつになくメシを要求しないので、おいこらどうしたと様子を見にいったら「触るんじゃねえ、てめえ」という目をしたので、ほっておいたのだ。

 それでしばらくしたら、あれれ、舌を出してのびちまっているではないか。これはいかんと近所の犬猫病院に連れていった。

「インフルエンザですねえ」と、医者はいう。

 ほへー、そんなものがどこで感染ったんだろと、いったら、

「人間からも感染るんですよ」といわれてしまった。

 けっきょく注射と点滴をしてもらって(近ごろは、猫まで点滴するのだ。えらい時代になったものだ)家に帰ると、いつのまにかケロっとして「おらおらメシだ」と、えらそうに命令しやがるのである。まあ、くだらない心配をするよりよほど気が楽だが。

 さて私は猫哲学者であるから、猫の機嫌がよくなったというところで思考をやめないのである。というわけで今回のお題は、感情とは何か。

 悲しい淋しい怖い嫌い好きうれしい…感情にはさまざまなものがあるが、それらはいったい何のためにあるのだろう。たとえば一人で酒を飲んでいて泣いたり笑ったりするのはアホである。そういう人がいるのも事実だけどね。(実は私がそうである)。

 なぜアホっぽいかというと、やはりそのような感情表現というのは、親しい誰かに見てもらってこそナンボという、暗黙のお約束があるからだろう。つまり感情というのは、コミュニケーションの道具なのだ。

 ここで、ものすごく重要なことに気付かれただろうか。感情というのは、とても個人的で私的なものであるとふつう思っているよね。ところが、コミュニケーションの道具となれば、他者との関係において機能するというか、成立していることになるではないか。

 ちょっとビックリ、コロンブスの卵。気付かなかったでしょう。不本意きわまりないかもしれないけど。でも、感情の本質を起源までさかのぼって考えると、それが当然なのだとわかってくるのだ。では以下、猫哲学的考察をいってみましょう。

 原初の感情は、まず生物学的なコミュニケーションである。乳児はそれを使って親との関係を調整する。泣く、笑う等の感情表出は、結果的に親に何らかのアクションをとらせることになり、立派にその機能を果たしている。とはいえそれは計算されたメッセージというわけでもないんだろうな。乳児は、泣くとき、本当に悲しいのだろう。でも、いったい何をどう悲しいと感じているのか。それは、わからない。私は赤んぼではないので。

 ところでぜんぜん話はそれるが、私の会社の後輩に身長1m90を越える、しかも手足の長い大男がいて、彼の姉に男の子が産まれた。甥ということになるね。で、その赤ちゃんを姉のダンナが「高い高い~」ってあやしていたので、彼も「高い高い」をやってあげようとしたんだって。そしたら、赤ちゃんは彼をじっと見て、恐怖の表情になったんだそうだ。いくらなんでも高すぎることに、気付いたんだね。かしこい赤ちゃんである。

 閑話休題。感情の話にもどろう。大人の感情は、乳児のそれを引きずってきたものである。ただし、悲しみ、喜びの対象は、幼児期とはずいぶんと異なったものにずれていると考えるべきである。乳児は、漫才を聞いてもたぶん笑わないだろうから。

 さて、ここからは大人の感情について述べていく。

 大人の感情もまた、生存のために必要なものである。

 恐怖という感情を例に考えてみよう。ヒトが森の中で突然にトラと出くわした場合、彼は「あ、トラだ」「命が危ない」「逃げなきゃなあ」「右がいいかな、左がいいかな」などというような理性を働かす余裕はない。急激に襲いきた激しい恐怖の感情のままに、右も左もなく逃げ出すか、あるいは戦うために身構えるか、どちらかだろう。この恐怖という感情がなければ、自然の中に放り出された人間はすぐに死んでしまうに違いない。このことは、以前にも「森虎ケース」ということで書いた通りだ。

 不安というのも、同じく生存の側に必要な感情である。これは、まだトラと出くわす前に働き出す。「森の中が妙に静かだ」「風に乗って流れてくるニオイがいつもと違う」等々の、意識にのぼってくる以前の情報処理が、ヒトを何か落ちつかない気分にさせる。この感情が意識までとどいて知覚されると、「何か変だ、引き返そう」となり、生存の可能性が高まることになる。

 しかし現代のコンクリートジャングルに、トラはいない。人々はいったい何に不安や恐怖を感じているのだろうか。それは生存を脅かすようなものなのだろうか。

 トラより恐い人間がいるじゃないか、という人はいるかもしれない。しかし、人間はよほどのことがない限り人を殺さないものだ。殺す奴もいるが、この文章はそのような人とつきあっている方に有用なものではない。ごめんなさいね。その方に必要なものは、まず警察と弁護士でしょうね。

 というわけで、恐怖も不安も生存に必要なものであり、肉体の属性である。

 では、喜びや悲しみはどうか。さきほども触れたように、この感情は幼児期に起源を持つ。だが、その対象は幼児期とはズレたものになっていて、身近な人や所有物に向けられていることが多い。

 原初の感情は、まず人間関係の調整に役立てられている。全く感情を表わさない人を想像するといい。周囲は何となくやりにくいだろうし、その人も生きるのに苦労するだろう。(ミスター・スポックは、実は感情出しまくりである。あれを参考にしないように。あ、初代スタートレックなんかみんな知らんかな)。

 感情を使って関係を調節する例の最もわかりやすいのはイヌである。彼らは人間と同じく群の動物だから、群に受け入れられるための儀式として、派手にうれしそうに跳ね回ってみせる。もちろん、イヌは計算してそれをやっているのではないだろう。きっと彼らは、本当に嬉しいのに違いない。

 犬と同じく群動物であり、群として生きていくしかない人間は、群に自分の存在を同化させる必要がある。そのために感情が使われている。言葉は嘘をつくが、表情は嘘をつかない(ことが多い)。だから群に受け入れられるために喜怒哀楽を見せることが大いに役に立つのである。群の話ばかりしているが、これを「社会」と置き換えても同じことである。念のため。

 もちろんこれらのプロセスは、意図的に行われるのではない。自然な衝動の赴くままに進行するのだろう。集団と同化するということは、個体の全存在をかけておこなわれるのだと思う。個体と集団は命がけで同一化するのである。だから仲間の誰かが死ぬとひどく悲しい。誰かが死んだということは、自分の肉体の一部が失われるのと同じことなのだ。これが死への悲しみの正体。(さらっといっちゃったけど、けっこうすごいことをいってるのだ、気がついた?)

 これらのことは、人間という動物が、より効率よく生き延びていくために必要な生物学的能力として、生まれながらに個体に備わっているものだと考えてよい。※ べつに人間だけではない、どんな動物だって同じである。猫というやつは、その応用編として、人間との関係調整にそれを役立てやがるのだ。その意味では、ヤツらのほうがちょいと上手といえるな。何だかくやしいけど。

(※それが有効に発現するために、教育が必要であることはいうまでもない。猫教育論参照)。

 そんなわけで、ほとんどの感情は生存に直結していて、肉体の一部であるとみなしてよい。

 ところで私は、私の肉体ではない。私は、私の肉体を殺すこともできる。つまり私は、単なる肉体の属性ではない。むしろ意識の一部は、生存を一義とする肉体と対立している。(人間は体によくないことを平気でする。大酒を飲むなんて行為が特にそう)。

 そして感情は、生存を一義とする肉体の属性である。では、私は感情なのか、感情は私なのか。

 ここまでくると、もう自明であろう。私は、感情の束ではない。感情は肉体の側に属する。感情は、ときには私の邪魔になる。それは、肉体の生存を維持していくための高度な装置なのであるが、しかし私は感情をコントロールすることも可能だ。悲しみをこらえたり、淋しさをまぎらしたり、嬉しさを隠すことなどは、ちゃんとした大人なら誰でもふつうにできることではないか。

 だが、ここのところを、多くの人が誤解している。感情にとらえられるあまり、それが自分だと信じてしまう。怒っている人は特に。

 自我は、感情の束である。刺激に対して対応していくための一時的なシステムとして、脳内に構成されるものだ。つまり、感情を統合する仮のシステムが自我なのだ。私は、それを対象として突き放して見ることができる。そして必要のないときには、自我は存在を消す。

 春の心地よい光の中で、ソファーに横になり、眠るのでもなくただじっとしているとき、心を騒がせるような心配事が何もないとき、自我はその機能を最小限にする。感情など、どこかに行ってしまう。そのときに居るのが私である。私がむき出しになるのは、自我が機能する必要のないときなのだ。逆にいうと、むき出しの私というのは、滅多にお目にかかれないともいえる。みんな、人生ってやつの日常にたいへんなのだからしょうがない。

 さて。そんなときに意識されている私が、本当の私である。人はそれを精神といったり魂といったりする。このことに気付いている人は、意外に少ないかもしれない。

 ちなみにうちの猫は、これに気付いていると思う。だから普段はほとんど感情的にならず、いつものほほんとしている。その悟り猫であるこやつにしたところで、身体がしんどいときには感情のかたまりになってしまうというのが、冒頭の不機嫌というわけなのである。てなわけで、猫感情論はぐるっと冒頭にもどっておしまいなのだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「あなたは、私の前でも感情をコントロールしてるわけ?」

 ある日、とある美女とそんな話をしていたら、彼女はいった。

「そうさ。おれの得意技なのだ」

「じゃあ一生、恋愛なんて無理ね」

 やかましい! どうせおれは、モテたことがないさ。一生独身だよ。それで何が悪い、ちくしょう!! …あ、こんな風に怒っている私は、真の私なのだろうか。うむむ。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

0 件のコメント:

コメントを投稿