2009年1月26日月曜日

【猫哲学36】 猫的自殺論。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃


 猫は自殺をしない。あたりまえか。

 10年ほど前に、マンションのベランダからジャンプする猫が続出したことがあるが、あれは自殺ではないと思う。ただ飛んでみたかっただけだろう。15階の高さから飛び降りたやつもいるが、命に別状はなく骨折しただけだったそうだ。さすがというかなんというか、猫の身軽さというのも尋常ではないな。

 なぜ猫が自殺しないのかというと、やつらにはそもそも時間の観念がないからである。とはいっても、すぐにはわからないかもしれないな。今回は時間の話ではないので、この話題は捨ておいて先へいく。

 今回は人間の自殺の話である。

 人間はなぜ自殺をするのか。これは考えても無駄である。そのようにできてしまっているのだから、仕方がないのだ。自殺が可能であるということが、意志の実在を証明しているという側面もある。人間はどういうわけか自殺をする動物なのだ。それ以上のことは、自殺する本人に聞いてみてください。おそらく、理由などいっぱいあるだろう。

 では動物は自殺するのかというと、困ったことにアリストテレスという人が「動物も自殺をする」といってしまっていて、これが定説みたいになっている。ほんとにもう、とんでもない哲学者だな、この人。

 アリストテレスが何を根拠にそんなことをいったかというと、次のようなことがあったそうだ。

 ある雌馬と、彼女の息子である雄馬をかけあわせようとしたところ、雌馬はこれを拒み続けて逃げ出したあげく、崖から落ちて死んだのだそうだ。アリスっちはこれを馬の自殺ということにしている。(女性の読者の方々、ゴメンね。それにしても下品な話を出してくるなあ、このおっさん)。

 あのねえ…。私は反論する気さえ失せるよ。だってこの話、そもそも自殺なのか事故なのか、さっぱりわからんじゃないか。なぜにまた自殺と断定するよ、アリテレくん。最近、猫哲学では見切りをつけられはじめているぞ、あんた。

 まあ西洋人もパカではないので、これに対する反論もある。どんな反論かというと、動物にはそもそも心がない。だから自殺などするはずがない、とこれまた脱力しそうな論理になっている。西洋ではこの程度の議論しかなされていないようなので、とりあえず動物の自殺の話はおいといて、人間の自殺の話をしよう。

(私は以前に、クジラの自殺のことを書いたが、あれは例外中の例外、奇跡のようなものとして、忘れておいてくだされ)。

 人間は自殺をする動物である。

 自殺というとすぐに思い出すのが「華厳の滝」。あの場所を自殺名所にしたのは一人の青年だった。名前を藤村操という。

 この人の話は、私の両親の世代であれば超有名な常識なのだが、今ではあまり知らない人もいるだろうな。なので少し詳しくお話しましょうね。

 明治36年5月22日、日光華厳の滝で若い男の死体が発見された。滝の上から飛び降りて自殺をはかったらしい。藤村操、18歳、第一高等学校第一年生。ここから飛び込んだと思われる場所のあたりに一本の巨木があり、その幹を削って次のような言葉が書かれていた。

■巌頭の感■========================

悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此の大をはからむとす。ホーレイショの哲学、竟に何等のオーソリチーに価するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉す。曰く、「不可解」。我この恨を懐て煩悶終に死を決す。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを。

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 この自殺は当時の社会に衝撃を与えた。一高生といえば今の東大一回生。そんな前途洋々たる優秀な若者が、哲学的な悩みのあげくに死を選ぶとは何たることか。

 同時代の若者たちは、自分はこの人ほど真剣に、死をかけてまで、宇宙とは何か生とは何かを考えたことがあるだろうかと思い詰め、仲間と一晩語り明かしても尽きることのない問いをかかえたまま、勉強不足と寝不足に悩まされたのでありました。

 酒の好きな連中は、酒を飲んでは語り合い、ちっともうまくない酒を暴飲して二日酔いの毎日を送ったんだと。

 さてはたして、ことの真相はそうなのだろうか。哲学的問いというのは、死に至るようなものなのだろうか。藤村君18歳は、そんなことのために死んだのだのだろうか。私は激しく疑う。哲学とは、そんなものではないぞ。

 哲学的問いとは、何でもない日常のことを考えていくうちに「あれ?なんか変だぞ」と気付くことから始まる。

 宇宙のこと、生と死のこと、時間のこと、言語のことなど、対象はなんでもよい。「なんかへん」と思いつつ考えていくうちに、その問いの底が抜けていることに気がつきはじめる。

 そこで、「あっちゃーっ。こうなってたんだー!」とびっくりして、ぽかんと口をあけて存在の前に座り込み、「気付いちゃったら、引き返せないよなー」とぶつぶつつぶやきながら、果てのない問いの繰り返しをまたぞろ始めてしまうのだ。

 これが哲学的な問いを前にしての自然な態度である。ここには日常の感情や、まして絶望など介入の余地はない。はために見たとしたら、どちらかというと、お間抜け、お笑い系である。ひかえめに表現したとしても、「へんなやつ」ってところだろう。

 ね、なんだか藤村君18歳とは違うように感じない? 彼の哲学的態度とは、猫哲学の側からみると「なんかへん」なのである。では、この方の自殺とは何だったのか、猫哲学的に解体してやろう。

 まずは、「巌頭の感」とかいうところの文章の解体からいくぞ。

 だいたいやね、哲学的絶望から自殺しようかってときに、遺書なんか残すものだろうか。全宇宙の不可解を知ってしまったのなら、世間も不可解、自分も不可解、言葉も不可解、不可解すら不可解なのだから、遺書なんぞになんの意味がありましょうかね。誰に、何を伝えようというのだ。不可解を相手に不可解を語り残そうというのか。そんなことは無意味だからやめなさい、と私ならアドバイスするがね。

 しかも付近の老木に刻みつけたというんだろ。何をするんだよ。幾星霜を経て巨木に至る生を長らえてきた植物に、どーでもいいこと書いたりすんなよ。どーでもいいことじゃないつもりだったのか? じゃあ、文明の母たる紙とペンという偉大な発明が君の周囲にごろごろしているだろう。それを使いなさい。巨木の年ふりたる生を冒涜し、人智の歴史を構築してきた偉大なる筆記用具を粗略に扱うとは、おのれは何様のつもりなんじゃい。

 あ。明治青年を叱るうちに、使用語まで硬くなりつつあるな。読みにくかったらごめんなさいね。

 では、問題の文章を解体してみましょう。

 まずは[悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此の大をはからむとす。]ときたもんだ。

 気取った文章やね。○○先生ほどの教養人であれば、読むだけで何のことかすぐにわかるだろうけど、読者のなかには古い文章が苦手の方もいらっしゃいましょうから、私が現代語訳をつけちゃいましょう。


ぽん訳:「天も地も広いなあ、歴史も時間も長いなあ、でもこのちっこい165cmの身体で、その大きさを測ってやろうじゃん」

 まあ、ブンガク青年としてはなかなかいいとこまでいってますな。宇宙と時間をオレが認識してやるんだぞーい、とは、若者らしい大望であります。拍手。

 でも、その次でもう馬脚を顕していますね。[ホーレイショの哲学、竟に何等のオーソリチーに価するものぞ。] 

ぽん訳:「ホーレイショの説く世間知なんぞ、何の絶対的根拠もありゃしないのさ」

 ホレーショというのは、ハムレットの友人役で出てくるキャラクターで、まあ、あたりまえのことばっかりいう人物を揶揄したつもりでしょう。しかし、ここでシェイクスピアを持ち出すとはね。明治の文人の悪しき衒学的気取りポーズが、18歳にして早くも露呈してやんの。しかも「オーソリチー」だって。何で日本語を使わないのかなあ、かっこつやがって、気色わる~。おっと脱線した。つまりここでいいたかったのは、人間的な日常のあれこれなんか、宇宙にくらべればなーんも意味ねえよ、てなことでしょう。

 さて、いよいよ問題の箇所にまいりましょう。[万有の真相は唯一言にして悉す。曰く、「不可解」。]

ぽん訳:「すべての存在の真実は、一言でいい尽くすことができる。つまり、不可解ってことさ」

 不可解。それがすべて。どうせなんもわからへんのじゃ、ということでしょうか。その点については私も同じ気持ちです。どうせ何もわからない。そうはいっても、わからないと知りつつ、やはり考える。考えるしかない。他に大事なことも思いつかないし。というのが私の猫哲学的態度なのだが、藤村君18歳は違っていた。

 で、次の箇所。[我この恨を懐て煩悶終に死を決す。]

 あー、わからない。ぜんぜん理解できない。不可解だというのがなんでまた「恨み」なのかがわからない。世界がそうなっているのを恨んだところで、それで何も変わらないではないか。「煩悶」というのもまたわからない。恋の悩みじゃあるまいし、万人に開かれた世界の謎に対して、ひとりでうんうんうなってみたところで解決に一歩でも迫れるもんでもあるまいし。「終に死を決す」というのがこれまたぜんぜんまったくわからない。なんで死ぬのよ。それで何が解決するのよ。ところであんた、死ぬとは何かを知っているの? と聞きたくなるね。

 私も、もちろん知らないよ。死とは何か、まったくわからない。死とは「不可解」の最たるものだといってよい。なのに「不可解」を「恨」んで「死ぬ」とはどういうこっちゃ。どこか、決定的におかしいとは思わないかね、藤村君18歳。

 では最後の文にいきましょう。[既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを。]

 いよいよ岩の上に立ってみたら、べつに何の不安もない、というのですな。で、大いなる悲観は大いなる楽観に一致する、だって。要は、いろいろ悩んで苦しかったけど、死ぬと決めたらすっとしたぜ、ということだろう。平凡な男だな。

 おいおい、藤村18歳。哲学的悩みとはそんなことで解消するようなものだったのか? あんたが生きようが死のうが、謎は謎のまま残っているぞ。ほっといておさらばかよ!

 レベルの低い文章を彫りつけやがって、木がかわいそうだろ。痛がってるというんじゃないよ、恥ずかしがるじゃないか。もしも桜の木だとしたら、羞恥のあまりピンク色の花が咲くぞ。

 この若者は、けっきょく自分が何を悩んでいるのかもはっきりしないまま、意味の通らない遺書を書いて、死んでしまった。そんな程度のことについて、私はあーだこーだとはいいたくない。勝手にすればいい。自意識過剰のエリート臭ふんぷんたるガキが死のうとどうしようと、私はいっさい関心がない。だけど迷惑なんだよな~。

 何が迷惑なのかというと、自殺というのは伝染して流行するものだからだ。藤村18歳が死んでから、後を追うようにして死ぬ若者が続出した。場所もあろうに華厳の滝から飛び降りる輩も後を絶たなかった。藤村君、きみはそんなことの引き金を引いてしまったのだよ。くだらないと思わないか?

 オレには関係ないじゃないか、というかもしれない。しかし、きみに影響されて死んだバカどもは、きみがそんなことをしなければ、けっこう長生きしたかもしれないのだ。責任をとれとはいわない。ただ、自分の行為が他人に何をもたらすかをよく考えれば、自殺のように下品な行為はあえてしないのが人の道というものなんだけどな。

 別の例をあげてみよう。

 1774年9月、ゲーテが書いた青春小説『若きウェルテルの悩み』がヨーロッパに一大ブームを巻き起こした。その内容というのは、若きウェルテル君が美貌の人妻ロッテとの恋に悩み(バカかよ…※)、ついにピストルで自殺してしまうというものだった。ヨーロッパ中の若者がこの小説を読んで泣き、自殺する者が続出したという。この自殺流行を「ウェルテル効果」といって、いまでは社会心理学の研究対象となっている。

(※不倫がバカだといっているのではない。そんなことで死ぬなんて、ロッテの気持ちも考えろといっておるのだ)。

 記憶に新しいところでは1986年4月、アイドル歌手の岡田有希子さん18歳が所属プロダクションのビルの屋上から飛び降り自殺した。その影響を受けてこの年は若者の自殺が多発し、特に彼女の自殺直後の2週間で30人以上が飛び降り自殺した。これでわかる通り、自殺というのは、ただのブームなのだ。

 なんでこんなことがブームになるのか、理由は簡単だ。人は誰だってひとつやふたつ悩みや苦しみをかかえて生きているもので、特に若い人の場合は、いま目の前にある悩みが人生の一大事にみえてしまったりすることがある。だからといって、みんな人生を放り出すことなく、うんうん唸りながら生きているのだけどね。

 ところがここで、急に「カッコよく」死んじゃうやつが現れたらどうなるか。「あら、あたしもあんな風に死
んでみようかしら、そのほうが楽そうだし」と考える連中も出てきてしまう。つまり、「おっと、その手があったか」とバカに気付かせることになってしまうのである。岡田有希子ちゃんはかわいくて好きだったが、そんなアナタが自殺するなんて、カッコよすぎてとても罪深いことなのだよ、わかる?

 だからね、どうせ死ぬなら目立たないように死にゃあいいのに、自殺するのにどえらくまあカッコつけやがった藤村18歳という人は、とても下品なことをしたのだということになる。死者をあとから鞭うつなんてマネを私だってしたくはないが、世間があまりにこうしたことに無知で、誰もきちんとしたことを教えようとしないから、あえて私がやっちゃいますのだ。

 こうまでいわれちゃうと、頭のいい人なら自殺するのが恥ずかしくなるだろう。その意味で、この文章は役に立つと思うよ。

 では最後に、藤村操18歳の最後の言葉が、いかに哲学的には甘い中途半端な思考の産物であるかを語っておこう。

 一切は不可解である。不可解というのは、不思議とか理不尽とかいうのとはちがう。知り得ないということである。その点は、その通りである。だが、それを理由にして、なぜ死ぬのか。死とは、不可解ではないのか。死は知り得ないのではないのか。きみは死について何を知っているのか。

 死んだら終わりだ、と思っているとしたら、それはただの憶測予断にすぎない。本当に何が起きるかは、死んでみなければわからない。終わりではなかったらどうするつもりだ。

 死は不可解である。生も不可解である。どちらも不可解であるなら、なぜいま、死を選ぶのだ。求めても求めなくても、死はどうせいずれやってくる。ならば、不可知なる死を知ろうとするのは、そのときでいいではないか。目の前に不可解なる生があるのであるから、その不可解を味わい尽くしてから死に向かうのが、真の勇気だとは思わないのか。

 生も死も不可解である。その片方に見切りをつけて、別の片方に飛び込むというのであれば、きみは生と死の両方についてなにがしかの認識を得ているわけで、それらの差についてなにがしかを語れなければならない。いったいそこまで達し得たのか。そうであるならば、「不可解」と一言残してそれでこと足りるはずはないし、その時点で生と死は「不可解」ではない何かになっているということになる。そうだろ、そうではないかね。

 どうせそこまで考えていないに違いない。気障にカッコつけた捨てゼリフひとつ残して、要は煩悩の苦しみから逃れたかっただけではないのか? 例の謎の美女にかかれば、きみなんかこんな風に切って捨てられちゃうぜ。

「どうせ、失恋でもしたんじゃないの?」

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 藤村操の自殺当時、世間が哲学的自殺だと騒いでいるのを笑った希代の皮肉屋である宮武外骨は、「あれは実は菊池文部大臣の娘松子を恋していたのだが、美濃部達吉に奪われたので、それで自殺したのだ」などと暴露して、やっぱり世間の顰蹙を買ったそうだ。

 ノンフィクション作家・土門公記が書いた『藤村操の手紙』(下野新聞社刊)には、こんなエピソードが紹介されている。

 なぜ、自殺したのか。その核心部分について、当時の一高の英語教師だった夏目漱石は回想する。「5月20日の授業で、漱石は再び藤村操を指名したが、また予習をしてきていない。漱石は怒って、『やる気がないのなら、もうこの授業には出なくていい』といいわたした。ところが5月22日に投身自殺をはかり…漱石は驚いた」。

 なんだ。やっぱりその程度のことか。ほへ。

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 いつもの超美女とこんな話をしていたら、彼女はいった。

「以前、あたしも自殺しかけたことがあったわよ」

「なぬ? そんなかわいい時代もあったのか、信じられん」

「睡眠薬を飲んでも眠れなくてさ、いつもの倍のんだら眠れるかと思ったら、翌朝、救急車をよばれちゃった」

「それを自殺とはいわないんじゃないか」

「そうかしら。意外とみんな、そんなもんじゃない?」

「たいていの自殺は、睡眠薬の飲み過ぎみたいなもんだというのか?」

「そうそう」

「そういえば、太宰治は5回も自殺したんだよな。あれも睡眠薬だった」

「ほら、やっぱり」

「う~む。意外と深いな、おぬし」

「当然よ。あなたと違って、大人だもん」

 まただ、この女。こんちくしょう。やっぱりこいつが自殺しようとしたなんて嘘だ。ぜったいに嘘にきまってるぞ。あれ? 何の話をしてたんだっけ…。

[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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