2009年1月25日日曜日

【猫哲学29】 猫言語論。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃



 ふと気配を感じたので顔をあげると、猫が私をみている。

 あ、わずかに顔を傾けた。これがヤツの最近の「メシをくれ」のサインである。

 昔はやみくもに、にゃーにゃーいっていた。それがいつのまにか顔だけの「にゃ」になり、今ではそれさえも省略しやがるのだ。それだけで通じてしまう私も私だが。

 ことほどさように、コミュニケーションとは変化していくものだ。言語の変化といってもよい。私たちの日常語とは、この種の変化にさらされながら、でもべつに不都合なく推移していくものだ。

 今回のお題は言語論なんですけどね。しかも以上で結論まですべてをいい足りているから、ここでやめておいてもいいのだけど、それじゃあ面白くなさすぎると思うので、以下、蛇足ながらの言語論的雑談にしばらくおつきあいいただきましょう。

 日本語が乱れている、という大人たちがいる。

 こういう発言そのものが、それをいう人の無知蒙昧、考えなし、非論理性を暴露しているのだが、この人たち、いったい何をいいたいのだろうか。

 たしかに、日本語は変化している。私は五代さかのぼっても大阪人ということがわかっている希少種ヤンバルクイナ的大阪人であるから、両親や親戚がしゃべっていた大阪弁といまの大阪弁とが似て非なるものであることに気付いている。そして、そのことを残念に思うことも多少はあるが、だからといって、今の大阪弁を「乱れている」などとはいわないぞ。それは、違うものなのだ。正しい・乱れているなどという価値判断など、関与の余地はない。単純に、それらは違うものなのだ。

 日本語の乱れなどというが、それを判断するためには、そのための基準となる「正しい日本語」が定義されていなければならないはずだ。だが、いったい誰が、これこそが「正しい日本語」なんて決めることができるというのだ。

 江戸時代の日本語と比較すると、明治時代の日本語はずいぶん変化したものだっただろう。その明治時代からみると、現代の日本語はずいぶんへんなものに違いない。

 私の両親は大正時代の生まれだが(うわー、また年齢がバレる)、その時代の日本語と今の日本語はずいぶん違うものだという。両親とも現代を生きるのに不自由がないのは、日本語の変化を同時代の環境として適応しながら生きてきたからだ。言葉は生き物だが、それ以上に人間は生き物なのだから、適応するなんてなんでもないことなのだろう。

 いやいや、それは逆転した論理だな。まったく反対に、人間の生存が変化していくのだから、言葉のほうも変化してきてしまったのだと、私はいいたいけどね。

 というわけで、言葉は生きて、変化していくのである。乱れているというのは違うだろう。どこのアホが乱れているなどというのか。

 そのアホとは、教育者である。学校のセンセーであり、文部科学省の役人である。彼らには彼らなりに、権威を守らなければいけない的立場というものがあって…、みたいなしょうもない事情は、私は斟酌しないぞ。あいつらは、ただ偉そうにしたいだけなのである。だが、連中の周囲の大人たちはともかく、子どもたちはそんな権威などとは関係ないところで生きている。なので子どもたちの言語とヤツらの言語とは違う。しかも子どもたちは、生モノである言葉を理解できない大人をバカにする。そこでムカッときた先生たちは、「教育がなっとらん、言葉が乱れている」などとのたまうのである。

 つまりは、「態度が悪い!」といいたいわけさ。おいおい、それは別次元の問題だろう。言葉のせいになんかするなよ。

 子どもの行儀が悪いのは、きさまらの教育の失敗じゃないか。それ以上に、大人といえども時代とともに変わっていかなければならないものを、ある時点で自らが発達停止してしまって、ミイラ化した言葉で子どもの可能性を縛ろうとしているんじゃないのか。つまり言葉の乱れをいう人は、教育と適応の両方の失敗者なのである。もっというなら、生きていない人なのだ。つまりゾンビね。ああ、いっちゃった。反論できるならしてみなさい、私は楽しみに待っているよ。わっはっは。

 さて、こんな下世話な話だけで終わったのでは、高尚な(どこが?)猫哲学としては情けないので、ここでは言語の変化法則についてのすばらしい研究をご紹介しよう。

 70年代アメリカ。米語のスラングについての、わりとまじめな研究が報告されたことがあった。
 その結果わかったことは、米語の変化の原点が、ニューヨーク・ブロンクスの不良少年にあることだった。意外でしょ。いや、そうでもないかな。

 貧民街の不良少年というのは、仲間には通じるけど一般には通じない隠語を開発していく。シャブとかスピードとかマッポとか、そういう類のやつだ。なぜそんなことをするのかというと、道端でヤバいことを会話するのに、誰にでもわかる標準語で話せば、まわりの人にバレてしまうでしょ。

「お友達のビリーくんがね、麻薬をたくさん持っているので、こっちにも回してもらおうよ、ね」

 天下の往来でそんな会話、できるわけないではないか。

「ブーマーのビーチョが、ロシガメってんクサ!ズラにっちんドートレな、スカンク!」

 こういう風に変形させると、周りは何をいってるのかわからなくなるので、安心しておしゃべりできるというわけ。

 こうして、ある集団の排他的コミュニケーションのために発生する言語変化ってものがあるのだ。日本でもワル少年たちが似たようなことをしてますな。先にあげた教育者のみなさんは、言語のこうした排他的機能について、どれだけわかっていらっしゃることか。

 話はそれるけど、江戸時代の薩摩弁というのは、この排他的言語変化の典型だ。あのわけのわからない鹿児島弁というものは、江戸幕府からの密偵が入り込んできても何を話しているのかぜんぜん聞きとれないように、藩主みずからが方言変化を奨励した結果だという。江戸時代の閉鎖的な藩制というものは、壮大な言語変化の実験場だったのだといってもいいね。日本語の方言というのは、イタリア語とフランス語の違いくらいの差をもっているのだ。田舎の人は、自分の言葉をもっと大切にしてくださいね。

 閑話休題。ブロンクスの話を続けよう。こうしていったん成立したスラングは、しかし使われていくうちに周囲に慣れられ解読されてしまうから(シャブなんて隠語をいつのまにか私たち全員が知っているのと同じように)排他的でなくなっていく。それでは都合が悪いので、不良少年たちは次々と新しい語彙を創造しなくてはならない。ここに、米語における言語変化のエネルギーとメカニズムが隠されているというわけ。

 さて、そうした言語変化が周囲に伝染していく過程だが、まず白人の不良少年がそれをイキがって真似る。そんなやつは、中産階級のクソガキであることが多い。次にウラ社会の大人たちが、便利だからそれを使う。ウラ社会と接触のある表社会の人が、またイキがってしゃべる。ニューヨークの白人社会なんてたいがいウラ社会の世話になっているんだから、米語の汚染は急速に進む。しかも、上流階級ほど言語変化にさらされやすい。というのは、金を持っている階級ほどヤクの売人と仲良しだからだろう。いまじゃ大統領まで汚染されてやんの。

 というようなプロセスをたどって、ブロンクスのガキが創造した言語変化が、米語全体の変化を引き起こすのにさほど時間はかからないという、見事な言語研究があったのだ。私はこの研究者に拍手を送りたい。だけどネタ本を捨ててしまったので、誰だかわかりません。知っている人がいたら、教えて。
 でも、よく考えると、これってアメリカの話にかぎらないかも。日本にだって排他的コミュニケーションを必要とする栗から悶々集団があるわけだし、金持ちほどそいつらに汚染されているよな。日本語における言語変化はさほど急速ではないので気付きにくいが、その変化の起点となっているのは、実はヤーさんではないのか。(あー、変換ミスは冗談だからね)。

 昔の日本の芸能界というのはキレた連中の集まりで、しかもジャズを「ズージャー」などというスラング大好き野郎どもだった。これがタレントや放送局、マスコミに影響を与えないはずはなく、しかも今ではすっかりウラ社会に汚染されてもいるから、日本語はこうした部分を起点として変化してきているのかもしれない。

 つまり日本語の変化というのは、ヤーさんが担っているということになるのだが、さいきんの政治家の言動をみると、納得できるものがあるなあ。おっとさすがに猫哲学。ものすごい結論だ。

 ということは、日本における言語変化とは、限りない下品化と暴力性を必然的にともなうということになる。教育者が怒るわけだ。

 でも、これって自然法則だもんね。教育者の方々、止められるもんなら止めてみな。(あ…、あまり本気にして反論しないように、半分は冗談だから)。

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 むかし、東京本社の同期の社員と話をしていたら、彼は

「ザギンでジョノカとチャブすすってよー」といった。

 話をしていくうちにやっとその意味がわかったのだが、彼がいいたかったのは、

「銀座で彼女とお茶をのんだんだけどね」ということだった。ほへ。

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 こんなことをとある超美女と話していたら、彼女はフフフと笑いながらいった。

「あなたは、ひとつ大きなポイントをはずしているわね。まあ、あなたらしいとは思うけど」

「なんだよ、そのポイントって」

「不良はね、カッコいいのよ」

 …その夜、私は15年もやめていた煙草をふかしてみた。グレてみたのさ。アホである。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com/
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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