2009年1月27日火曜日
【猫哲学82】 猫映画論。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
(2005/12/16)
またバカ猫がテレビの上で寝ている。
こら、私がせっかく映画でも観ようと思っているのに、その尻尾が邪魔だ、何とかせい。と言っても、バカ猫はぴくりとも動かない。
しょうがねえなあと思いつつ、やつの尻尾を引っ張ってテレビの後ろに回したら、こんどは寝返りをうちやがった。尻尾はくるりと回ってやっぱり画面の前に…。
ムカッ! い、いやいや、私は理性を持った大人なのだ。猫ごときを相手に腹を立てるようでは人間ができていない証拠だ。いかんいかん。ここは冷静に。そーだ、どうせこれから観るのはやくたいもないハリウッド映画だ。バカ猫の尻尾が邪魔になるほど上等なもんじゃない。
というわけで私は、猫の尻尾をそのままにしてプラズマテレビとハードディスクプレーヤーのスイッチをONにし、コーヒーを片手にテレビ鑑賞モードに入ったのである。
観るのは『ハリーポッター3・アズカバンの囚人』。べつに興味はないが、たまたまWOWOWでやっていたので録画しておいたのである。タダやし、まあええかてなもんさ。
冒頭15分を観たところで、やめた。たったそれだけで、気持ち悪くて醜くていやらしくて劣等感を刺激する映像のてんこ盛り。こんなセンスなら、最後まで観たところで気分が悪くなるばかりだろう。私は速攻でハードディスクのデータを消去した。こんな作品、わがハードディスクプレーヤーの汚れである。あ~あ、ハリウッドって、もう終わってるなあ…。
アメリカ映画が不振だそうなのである。
観客収入が激減。最盛期の半分程度にまで落ち込んでいるらしい。原因はいろいろとあると思うが、つきつめればたった一つである。映画が面白くないのだ。
やっと気がついたか、アメリカ人。ハリウッド映画なんてものはだなあ、アホかガキか脳足りんの観るものなのだよ。あ、アメリカ人のほとんどがそうか。
昔はそうではなかった。映画とは、美と夢とユーモアに満ちたものであった。それがこんな風になってしまったのには、もちろん深い理由がある。いや、べつに深くもないけど。
まずは、とっても昔の話からしてみよう。
映画創生期だった1910年代、映画はものすごくゴージャスな夢そのものだった。未来技術の結晶、科学の奇跡、光の芸術であった。クラシックコンサートやバレエやオペラを凌駕する憧れの高級娯楽として、淑女はドレスに着飾り、紳士はシルクハットを被って映画館に出かけたのだ。上映中のお帽子はご遠慮ください。
有名なD・W・グリフィス監督による『イントレランス』という作品なんか、3面マルチ画面、フルオーケストラの生伴奏付きで公開されたのだよ。知ってる? 私は復刻版をフルオーケストラつきで観たことがあるけど、それはまあけっこうなものでございましたね。
当然の事ながら、その頃の映画にはとほうもない予算が注ぎ込まれ、映画監督といえば下手な大統領よりも尊敬されていた。映画をめぐるこうした状況に、不況に苦しんでいたヨーロッパの芸術家たちも目をつけた。すぐれた技能を持った俊才がこぞって新大陸に渡って、映画芸術に参加した。作品によっては演出が英国人、美術はイタリア人、音楽はオーストリア人なんてこともよくあった。映画はどんどんかっこいいものになっていったのである。これがハリウッドの最初の頃の物語。
それがどうだ、今や映画は安物の娯楽の代表となり、映画館は、ろくに学校にも行っていない黒人のガキどもがポップコーンを頬張りながらコーラを流し込んで、くだらない俳優の下品なギャグにゲタゲタと大笑いする場所になってしまった。そうした連中から金をむしり取るためには、映画そのものも連中のレベルに合わさなければならない。映画の質が低下するのも無理もないさね。
(こんなことを書いているけど、私は人種差別主義者ではありません。違いを際だたせるための、ただのれとりっくね)
おっと、先を急ぎすぎた。
今ハリウッドでは、映画は誰のために、誰によって、どのように制作されているのかを書いておこう。
1940年代から60年代にかけてがハリウッド映画の黄金時代だった。MGM、WB、コロンビア、パラマウントなどの巨大映画会社が競って大作、問題作、話題作、娯楽作を制作し、歴史に残る名作の数々が創られた。あの頃の映画は、これから100年たっても名作として残り続けるだろう。反対に『ダイ・ハード』や『リーサル・ウェポン』シリーズなんて、痕跡すら残らないだろうさ。
ところがその時代に、テレビというものが登場する。人々は家に閉じこもり、映画館へ行かなくなってしまった。大映画会社はどれも経営難となり、作品は小粒になるばかり。起死回生を狙った映画会社はスクリーンの大型化と大作主義に走る。そして、見事にコケた。70ミリシネマスコープとかシネラマ大作とか。おお懐かしき『クレオパトラ』『偉大なる生涯の物語』。赤字だ赤字だ。経営危機だ。
ついに1980年代になると、映画は小口資本家たちによる投機の道具となった。そうなると、映画の価値はいかに「儲かるか」がすべてに優先されるものとなる。
今、腕利きといわれる映画のプロデューサーたちが映画製作の最初にやっていること、そして最も重要視していることは、投資家たちへのプレゼンテーションである。
「じゃんじゃかじゃーん、投資家のみなさま。企画書をごらんくださいませ」
「この企画はめちゃんこ魅力にあふれていて子供から大人まであらゆるターゲットを映画館に呼び込むことができ、さらにテレビ放映、DVD化、ネット配信、キャラクタービジネスなどの二次使用、三次使用まで含めると○○○万ドルを確実に稼ぎ出します。ついては制作費がいくらで広告費がいくらで、スポンサーのみなさまには○○%の配当が確実ですから、どうかお金を出しておくんなまし」
そこへまた、投資家たちにくっついている映画専門のコンサルタント(たいがい弁護士)なんかが登場して、話をややこしくする。
「この企画では、テーマが難解すぎて16歳以上でないと理解できないだろう。少なくとも、9歳の子供が観てもわかるようにしろ」
「なるほど女性には受けるかもしれないが、男性にはアピールが足りないんじゃないか。ここは主役としてハードな男性が必要だな」
「このキャスティングでは弱いね。ここは有名女優が必要だろう」
「前半が説明的だな。3分に一度は笑いをとるべきだ」
「エアラインのスポンサーを取ってきてやるから、機内のシーンを追加してくれ」
「老人も重要なターゲットだから、かわいい子供のキャラクターが要るぞ」
「カーチェイスをやってくれないと、自動車メーカーが金を出さん」
「ライフル協会が、ガンを最低1000発打ってくれといってる」
「ロケ場所は国内でなくモロッコにしてくれ。理由? ははは、言わないでもわかるだろうが」
「エキストラで松田聖子を使うように」
「政府が、悪役はテロリストにしろといってきた」
これらすべてのことに「はい、承知しました」と言うやつが有能なプロデューサーなのである。そうしないと金が出ないもんな。
さらにややこしいことに、アメリカの芸術大学には映画学部というのがあって、最近の監督はたいていそこの卒業者である。どんなことを教えているのかというと
「主人公は映画開始後3分以内に登場しなければいけない」
「開始後10分以内に、主人公のプロフィール、家族構成、映画の世界観、悪役の存在等のすべてを説明しなければならない」
「主人公を男にすると観客は男女の偏りがなくなるが、女にすると女性観客に偏るので不利である」
「子供から大人まで、男女を問わずすべての観客にアピールするためには、主人公は20歳から35歳までの男性にするのが有利である」
「アメリカは多言語国家であり、米語を解さない観客も多いから、台詞は最小限にして映像表現に依拠すべきである」
「脇役としてトリックスター的なキャラクターが必要であり、有色人種を配するのが望ましい」
「映画のテーマとして普遍的なのは、家族の対立から和解への愛の物語である。SFだろうとパニックだろうとホラーだろうと、この要素を基本とすべし」
まだまだあるけど、いいかげんアホらしいからこれ以上は書かない。これらすべての条件を満たす映画がいったいどんなものになるのかというと、そう、今のハリウッド映画のようなものになるのだ。
現在のハリウッドで活躍する監督やプロデューサーのすべてがこんなヘタレ理論を信じているほどアホとは思えないが、例の投資家側のコンサルタントはこれを信じている。というか商売の武器にしている。そして企画やシナリオに介入してくるわけさ。投資家はいい映画を創りたいなんてぜんぜん思っていない。1ドルでも多く儲けたいだけだから、どんな映画だって紋切り型のパターンから一歩も出ることができないというわけだ。
以上が、ハリウッドがはまり込んで抜け出すことのできないドロ沼。当然、いい映画なんてできるわけがないでしょ。
こうした構造から逃れようとて、ごくたまにだけどお金持ちでお人好しのスポンサーをうまくだまくらかして、監督が好きなようにやっちゃった映画が創られることがある。当然、低予算のB級映画だが、これがやたらに面白くて大ヒットしたりすることがある。
そうしたヒット作品を、投資家たちはほっておかない。大金を投じて『パート2』が創られることになるのだが、監督は前回のように好き勝手にさせてもらえない。予算こそ前の100倍くらいついているけど、企画からシナリオ、キャスティングに至るまで投資家たちが介入してくる。そのようにして出来上がった『パート2』は、やっぱりつまらないのである。ホント、よくある話。読者のみなさんにも、心当たりがたくさんあるでしょう。
さらにさらに、まだまだもっとややこしい話がある。アメリカ国内での売り上げに限界を感じたハリウッドは、海外市場に目をつけたのだ。ハリウッド製大作映画の5分の1から4分の1の売り上げは、海外のマーケットに支えられている。そこで、いっそ最初から海外を意識した映画を創ったら、もっと売り上げが伸びるのではないかと連中は考えたのだ。ワールドワイドでグローバルスタンダードなハリウッド!!
でもねえ、アメリカが世界の中心で、世界中の民族が米語で話していると考えているアホどもがだよ、海外の観客を喜ばせようとしたらどのようになるか。どうせ頓珍漢なものになるにきまってまんがな、ゲイシャフジヤマスシニンジャ。
ああああ、ここで、話すのも汚らわしいことだが、その海外市場の大部分を支えているのは日本人なのである。日本人の7割がアメリカに憧れ、アメリカ大好きなので、ハリウッド映画はどんなヘボであろうとイモであろうとゴミであろうとカスであろうとクズであろ(以下、白鳥座まで…)、日本ではそこそこ売れるのだ、情けなや。そこで、アホなアメリカ人が間抜けな日本人を意識して映画が製作されるようになった。どんな作品になるのかはだいたい想像できるだろうけど、その代表作が『ラストサムライ』である。
最近は『シャルウイダンス』や『リング』なんかのリメイクがハリウッドで制作されて、「日本映画が見直されている」などと喜んでいる脳天気な連中も多いけど、違うぞ。あれは、日本人に観てほしくて創られたのだ。もちろん金のために。
そしていよいよついに、真正面からハリウッド製日本映画をめざして制作された超大作『SAYURI』が、今や堂々公開中である。こともあろうにゲイシャガールの物語ね。しかも主演女優は中国人。
…なはほへふひひひぽよ。私は大口を開けて呆れた後、涙をこらえつつ笑い転げたのであった。
(哀れチャン・ツィイー。好きなのに…)
ここで韓国映画の話をしたいのだけど、やっぱりやめとこう。論旨を大きく損なう恐れが大である。やめとくぞ。やめるのだ。ええいこら、これ以上書くな、理性を失うな、ええかげんにこの…、F.O.
ところでこれって、哲学と何の関係があるんだろう。ほへ。
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こんな話をいつもの超美女としていたら、彼女は軽蔑しきった目をしてこう言った。
「あのね、『ハリポタ』って、ホラー&スプラッターでしょ。あなた、あれを何だと思って観てたの?」
「だから魔法ファンタジーだと…」
「いまどきのガキはそんなもの喜ばないわよ。ガキうけするのはおどろゲログロじゃん。『ハリポタ4』なんて、とうとうPG13指定になっちゃったんだからね」
「ふえー、そんなことに…」
「知らないの。ばっかねー」
私はショックを受けつつも、あることに気がついて気分をとりなおしたのである。
「つーことはだな、奴ら、失敗したんじゃないか」
「何が」
「ガキうけを狙ったはずの過剰演出が、逆にガキを映画館から閉め出してしまったわけだろ」
「…ったく、どこまでお気楽なの。いまどき大人なんていないのよ。世の中はぜんぶガキなの。ハリウッドだってバカじゃないわよ」
負けた負けた。完全に負けた。帰って寝よう、ぐすん…。
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(注)PG13指定: ご存知かと思いますが、あまりにどぎつい映像のある映画だと、13歳以下の児童は、特に保護者の承認がないかぎり原則入館禁止とされる制度。『ハリポタ』がPG13指定になったのはアメリカでの話。日本では制度が異なりPG12指定となるが、日本で指定されたとは聞いておりません。
[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com]
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