2009年1月25日日曜日
【猫哲学25】 鯨の話。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
うちの猫は海を知らない。
外に出さないのだから当然なのだが、海くらい一度は見ておきたいと思うだろうか。おいバカ猫、どうだ、海を見たいか?
知らん顔してやがる。興味ないかもな。
以前、芦屋の近くに住んでいた頃は、日曜日ごとに芦屋浜周辺をサイクリングしたものだったが、たまに猫を連れて海岸を散歩する人をみかけたことがあった。そのとき猫が、えらくおびえた様子だったのを覚えている。もしかすると猫は、本能的に海が苦手なのかもしれない。やつらが泳げないことははっきりしているし。そうだ、うちの駄猫で実験してみようか。
おいバカ猫、やっぱり週末は海だぞ。…ありゃ、行っちまった。
ところで海といえば、このあいだ変なことに気が付いたのである。
~海は広いな 大きいな~
この歌のことなのだが、海は広くて大きい、それはまあいい。
~月はのぼるし 陽はしずむ~
おい待てよ。月が昇るのなら、陽だって昇るんじゃないのか。その海では地球の自転はどうなっとるんだ。逆回転するのか?
私のこの指摘に対して、いやいや、そうではないよと反論した人がいた。彼によれば、この君は船に乗っていて、大海原にいるのだ。360度視界はぜんぶ海だから関係ないのだよ、と。
これに対して、私は反論した。この歌の二番目をみなさいって。
~海にお船を うかばせて~ ~行ってみたいな よその国~
この人物は船に乗っていないことを表明しておるではないか。まだ陸にいることは明白。だからやはり地球の自転が変なのだ。
ここまでの議論を聞いていて、とある美女が口をはさんだ。三番の歌詞をみろというのである。
~海は大波 青い波~ ~揺れてどこまで行くのやら~
「いい? 海は大波で、しかも波頭の立たない青波でしょ。荒れた大海原ってことよね。海岸では、波は打ち寄せるものときまっているから、どこへ行くのやらわからないということは、この人物は海岸にはいないことになる。海岸でなければ、海の真ん中。では揺れているのは誰? 流されてどこまで行くのかわからないといっているのは誰? しかも船に乗っているのではないとすると…」
ひええーっ! そうだったのか。ある人が海で遭難して、もう一昼夜たつというのに、海はあれていて、どこまで流されるのかわからない。意識が朦朧としてくると、人はあらぬことをつぶやいたりする。うーみーはーひろいな…。
うわー、知らなかったなー、そういう歌だったんだ。ほんとに知らなかったなー。
童謡って奥が深いね、といいつつ、三人は少し不気味な印象を胸に抱いて別れたのであった。
そうなのだ。まことに海は広く、大きく、とても深いのである。だから、海のむこうからいきなり何がやってくるかわからない。まったく想像もつかないことが起きる。
いきなり鯨がやってくることもある。
台風は毎年やってくるし。
軍艦が大砲を積んで「開国せんかい、おらおらあっ」とやってきたりする。
たまには占領軍がやってくることもあるし。
島国に住むということは、なかなかにたいへんなことなのである。
ところで、鯨というのはへんなやつですね。急に何を思ったか、海岸にのしあげてきて、そのまま動かなくなってしまう。
昔はそういう場合、海岸の住民が喜んでおいしくいただいてしまったものだが、現代人は何を考えているのか、また海に戻してやろうと一生懸命になったりする。でも、せっかく戻してやっても、次の日にはまた同じ海岸に打ち上げられていたりする。いや、実に鯨とはへんなやつである。
なぜ鯨はそんなことをするのだろう。実のところ、原因はまだわかっていない。環境汚染で鯨の感覚が狂ったからだと、何でもエコロジーに結びつけて考えるお方もいるようだが、同じようなことは何千年も前から起きてきたという記録があるし、ポリネシアの汚れていない海でも同様のことは起きているのだから、汚染は関係ない。おそらく鯨はもう何万年も同じことをしてきたに違いない。
そこで私は、想像力を総動員してあれこれ考えてみた。で、結論。ひょっすると、あれは鯨の入水自殺、いや出水自殺ではないだろうか。いきなり飛躍しすぎだって? まあ、ゆっくり続きをお読みください。
そういえば鯨の精神生活って、いったいどうなってるんだろう。あんまり聞いたことないな。確実に想像できることは、人間よりもはるかに豊かなものだろうということ。ぜったいそうに違いない。
まず彼らの生活圏は、人間のものと比べものにならないくらい広い。人間が地上の表面でしか生きられないのに比して、鯨の暮らす海は地上よりもはるかに広いというだけでなく、深さというものまである。海の表面から数千メートルの深海まで、鯨の生活圏は三次元なのだ。人間でいうと、空を飛べるようなものだ。
それと、彼らの言語。人間の可聴閾をはるかに越えて、超音波まで扱える。しかも複数の音を同時に出せる。われわれの言葉を縦笛にたとえるなら、鯨の言葉はオーケストラだ。いや、シンセサイザーかな。彼らはこの複音和音超音波つきの言葉で、いったい何をしゃべっているんだろうか。
以前、私は音声言語を選択した人間はかなりオマヌケなのではないかと書いたが、鯨はしょうがない。光の届かない海中では、音声言語しか手段がないのだ。それに音は、水中では地上よりもはるかに伝わりがいい(速度、音量とも)ので彼らの声は、場合によっては地球の反対側まで伝わることがあるらしい。すごいと思われないだろうか。この世のどんな大声の人間だって、地球の反対側まで聞こえるような声は出せないと思うよ。これが私の単なる誤解にすぎないのであれば、そんなことのできる大声の人を、ぜひぜひ紹介してほしい。大量破壊兵器に使えるはずだ。※
(※「音波砲」というものが、B29を撃ち落とすためにけっこうまじめに旧軍によって考えられていたので、笑ったら昔の人がかわいそうですよ)。
あ、脱線した。それで、鯨はいったいその言語で、何を語るのだろうか。いきなり結論をいってしまおう。それは、哲学にちがいない。詩といっても同じことだけど。人間だってヒマになってすることがないと、哲学なんか考えちゃうわけだ。あるいは詩とか。鯨が忙しいなんてわけはあるまい、サラリーマンじゃあるまいし。ヒマがいっぱいあるのは間違いない。そうであるならば、世界の大洋の表層から深海までを旅した彼らは、世界とは何か、生命とは何かを思い、語らないはずがないではないか。
鯨の深い知性、精神性、それらを我々は全くといっていいほど知らない。知らないから、ないものとみなすという態度は、お浅薄な科学者だけにしておいてもらいたいものだ。もっとストレートにいうと、鯨はきっと、むちゃくちゃに賢いに違いないのだ。文句あるか。
そこでさっきの問いに戻るけど、鯨の海岸上陸、あれは存在論的絶望感からの自殺なのではないだろうか。つまり世界とは何か、宇宙とは何か、私はなぜここにいるのかを、鯨の人間よりはるかに高度な言語で考え抜いた末、やっぱりわからないということに気付いて絶望し、自暴自棄になったあげくの行動ではないかと思うのだ。
くりかえすけど私は、鯨はめちゃくちゃに賢い動物だと思う。なぜなら思考とは言語であり、その言語のレベルが、鯨は人間よりはるかに高いところにあるからだ。しかしその賢さをもってさえ、世界の内側にいるものは世界の外側に達し得ないこともありえるだろう。ならば、鯨の運命には深い諦めか深い絶望以外の選択肢はない。そして、その何割かの深く絶望しちゃった鯨さんがですね、自殺しょうとするんじゃないかな。純粋すぎる精神にはよくそんなことが起きる。ウィトゲンシュタインなんて、自殺しなかったことのほうが奇跡といわれるんだから。
ふー、なんだかしんどい文章だな。鯨さんのレベルを追っかけようとすると、私もけっこうたいへんなんですよ。
さて、こんなにまで鯨のことを持ち上げるのだから、私は捕鯨反対論者かというと、ぜんぜんそんなことはない。鯨を食うという行為は、何万年も前から日本人が営んできた文化なのであるから、それを小学生じみた好き嫌いかわいそうなどという感情論でどうのこうのといってほしくない。それなら牛豚馬羊を食うのはどうなのだ、本質的に何が違うのかと反論したいくらいだ。
だいたいやねえ、鯨を絶滅の危機に追いやったのは、捕鯨反対なんて叫んでいる毛唐野郎どもなんだぜ。
18~19世紀のことだが、西洋では室内の灯りのために鯨の脂を使っていた。そのために、捕鯨船が海を越えて大冒険なんかをやっていたことがあったのだ。メルヴィルという作家が『白鯨』を書いた時代のことさ。
ところで毛唐というのは、鯨の肉は食べない。脂を取ったあとのじゃまな肉は海に捨てていた。喜んだのはシャチと鮫だ。捕鯨船が捨てる肉のおかげで、個体数がどんどん増えていった。シャチは賢いので、捕鯨船に出会うと後からついてきたという。やがて増えすぎたシャチたちは鯨を襲いはじめる。こういうときに犠牲になるのは、たいてい子どもということになる。典型的な種の絶滅の始まりだ。
こんなむちゃくちゃが繰り返されたので、鯨は大西洋と北西部アメリカ沿岸から姿を消してしまった。
しかしそのとき、日本沿岸には大量の鯨が群れていたのである。毛唐どもはそいつをなんとかやっちまいたいと切望した。なんだか金の話を書いたときに似てきたな。
ところで、当時の捕鯨船なんてちゃちな帆船にすぎないから、アメリカからはるばる太平洋を越えて日本沿岸で鯨猟をするためには、どうしても上陸して水と食料、薪なんかを補給しなければならない。ところが日本はそのとき江戸時代、鎖国していたからそんなことをしようとしても追い返される。どうしたもんか。
そうだ、大砲をぶっぱなして日本政府をおどせばいいではないか。というわけで、黒船ペリーの登場とあいなったわけだ。
それで脅されて開国しちまう江戸幕府もどんなもんかなと思う。歴史ってやつをしっかり省みると、腹の立つことは多い。江戸のサムライたちは、そんなの鯨にわるいじゃん、とはおもわなかったのかいな。んなわけないよな。ほへ。
かくして鯨は日本近海からも駆逐されていき、遠い南氷洋しか安心して泳げる海はなくなったのであった。
やがて欧州では石油が出回りはじめる。灯油はしだいに石油原料のものに切り替えられていき、その後エジソン発明の「電灯」が普及することで、捕鯨という行為そのものが、西洋の歴史から消えた。あの大量殺戮は忘却の彼方に沈んでいったのである。
私は、いまさら過去の歴史をほじくりかえして、アメリカ人を断罪したいわけじゃない。そのアメリカ人が、同じ口で、「捕鯨反対。野蛮じゃん」などというから、怒っているのだ。あの連中の鉄面皮、無教養、暴力性、自分勝手、低脳鈍感ぶりは本当にもう、救いがたい。バカヤローおまえらまとめて地獄へ行っちまえ!ちゅうねん。
おっと、興奮しすぎだ。何の話だっけ。あ、鯨の話でしたね。
わたくし、鯨さんには本当に本当にお世話になりました。敗戦後、日本がまだまだ貧しかった昭和三〇年代、鯨の肉というのは日本人の安くて貴重な蛋白源だったのだ。そのために、日本の捕鯨船団はわざわざ遠く南氷洋まで出かけていき、それでなくても追いつめられていた鯨を、激減させちゃいましたよ。すまないことでございました。
お母さま、鯨ステーキに鯨カツ、おいしゅうございました。おかげで私はこんなに丈夫なヤツに育ちました。
しかし、ステーキもカツも生姜焼きもいいが、やはり最高は水菜のハリハリ鍋やね。あのただの青草を、鯨さんのおかげでどんなに腹いっぱい食べたことか。いや、このへんは大阪ローカルな料理なので、深入りするのはやめとこう。しかし、徳屋はゆるさん。(注1)
何の話だっけ。そうそう、鯨の話。だから私は、鯨がいかに深い精神性の持ち主かを知りつつも、鯨を食べるのである。鯨だけではない、豚肉を食べるときだって豚の命を思って涙しているのだ。食べるということは、どうしてもこの切ない構造から逃れられないようになっているのだから、受け入れる以外にどうしようもない。
むしろ鯨を食するということは、日常は忘れ果てているこの切ない構造を、あらためて深く認識するのによい機会となるではないか。捕鯨反対を叫ぶ連中は、この構造を認識することから逃げているのだ。そんなわけで、鯨を食べる人は、食べない人よりも高度な認識と精神性を有していることになる。わかったか毛唐ども、ザマーミロ。
みなさん、鯨を食べましょうね。
(注1) 鯨のはりはり鍋を売り物にした徳屋という有名店があるのだ。なぜゆるさんのかは、個別ににお答えしますが、ムカついておるのだ、私は!
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そんな話をとある美女にしてみたら、彼女はこういった。
「鯨ってさ、臭くない?」
私は脱力し、言葉を見失った。女性との会話というのは、なぜにかくも徒労に似ているのだろう。
[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com]
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]
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