2009年1月26日月曜日

【猫哲学45】 猫憲法。

 
        猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2004/07/16)

 わが家に憲法はない。

 わが家の住民は私とバカ猫だけであるので、そんなややこしいものを必要としないのである。あたりまえだな。

 私とバカ猫の生活には、一応それなりのルールはある。たとえば用を足すのは猫トイレでしてくれとか、メシを与えるのはリビングの東隅であるとか、食卓の足を爪でひっかいたら怒るぞとか、私がパソコンをいじっているときは膝で寝るのを許すとかなんとか、数えていくとけっこうたくさんのきまりごとはあるのだが、べつにそれを文章にしているわけでもないし、きまり破ったらこういう罰則があるぞという取り決めもない。

 つまり憲法など、日常生活には無意味だということだ。猫を相手に成文化した規則を決めている人は滅多にいないだろう。猫に向かって「これは憲法違反だぞ」と主張したところで、猫がいうことをきくはずがないからである。

 ただし、それは猫がバカだからというのではない。人間と猫では、認識の形式が根本的に異なっているからということにすぎない。優劣の問題ではないのだ。生き方の形式の違いの問題なのだ。違うものは違うという、ただそれだけのことである。

 ところで、よく考えてみよう。憲法というのは、猫には必要のないものだということは自明だが、人間にはいったい、本当に必要なものなのだろうか。

 憲法というものが国家存立の基盤であるという論説はよく耳にする。だけれども、私はそれを本当なのかどうだかと疑っているのだ。なるほど憲法というものは、統治を行うにあたってとても便利なものである。そのことについて異論はない。だが、もしも憲法がなかったとすれば、国家は存在し得ないのか。

 いやいや、そんなことはないだろう。憲法は国家がつくったものだ。憲法が成立する以前に、国家が存在しなかったわけではない。まず国家の成立があって、その便益のために憲法が作られたのではないのか。ということは、憲法がなくても国家は存在し得るのだ。

 日本の歴史でいうと、聖徳太子が17条憲法というものをつくった。そのこと自体の価値をここでどうのこうのというつもりはない。ただ、その17条憲法成立以前には、国家はなかったのか? そんなことはないはずだ。まず国家があって、その次に憲法がつくられた、そう考えるほうがまっとうというものではないか。ということは、憲法が国家存立の基盤という論議は、まちがっているのではないか。

 憲法というものが本当にほんとうにホントウに大切な社会の宝なのであると主張する人がいる。憲法学者である。そりゃ大切だろ、あんたのメシのタネだもんな、と考えてしまう私は、ひねくれ者なのだろうか。だって、日本国に憲法が本格的に導入されたのは明治時代のことで※、それ以前は憲法なんてなかったけど、でも日本は存在していたじゃないか。

(※実はそれ以前にも大宝律令といった憲法の同類は存在していたが、日本を実質支配していた武士たちはそんなもん無視していたので、ないのと同じことだったのだ)。

 明治以前にあった社会的規則といえば御成敗式目とか武家諸法度とかで、要は侍の行動指針および罰則規定だった。それ以外では農民は農民の、町民は町民の行動規則が定められていたが、日本国憲法のように自由だの平等だの博愛だの、空論をもって思想まで縛ろうとするものではなかった。それでも、江戸時代はよき秩序の下に穏やかな生活が営まれていたではないか。とここまで考えたとき、憲法というのは、いったいなんのために存在しているのだろうか。

 そんな疑問への答えは実は簡単なことで、憲法とは支配のために存在しているのだ、といってしまえばすべて終わりである。ところが、その憲法を金科玉条のごとくあがめ奉り、平和憲法がどうした、護憲だ改憲だ善だ悪だと執着しまくっている一群の人々がいる。それがまた実にアホな様相を呈しているのである。ここんところが現代の憲法論議の中心問題といっていいだろう。例によって、猫哲学的立場からバカにしましょうね。

 社会党の代議士が典型的だが、憲法改定という言葉をきいただけでヒステリックにわめき出す人が存在する。この人たちによれば、わが国の平和憲法は世界唯一にして至高の理想憲法であり、これに手を加えようなどと思う輩は悪党ゴロツキ人非人らしいのである。

 まあ、その対極の側にナベツネなどという醜悪が人間がいて、読売新聞を使って憲法9条の廃棄を主張したりしているので、上のような態度はほんのちょびっとだけなら理解できる。しかし、まっとうに真正面から哲学的に考えるならば、やはり護憲に執着する人は間抜けである。

 なぜ間抜けかというと理由はふたつある。

 ひとつは、憲法は人間のつくったものであり、つくられた時代と思想の影響を逃れようもなく受けていて、永遠のものだなんてことはありえないからだ。

 もうひとつの理由は、日本国憲法はアメリカ人のつくったものだからだ。アメリカ人が、アメリカの利益のために、日本国を骨抜きにして奴隷化しようとして、日本人にあの憲法をおしつけた。そんなものを後生大事にあがめ奉るなんて、ボケカス犬畜生の営みである。おっと、犬好きの方々、ごめんなさいね。現実の犬は、あの連中よりよほどかしこいよな。

 日本国憲法がアメリカ製だなんてことは、知らない人が多いかもしれない。でも、あの憲法が成立したのは太平洋戦争直後、米軍による占領統治の時代下だったことを思い出してもらえば、少しは納得されるかもね。

 日本との戦争に勝った米国は、軍国主義=天皇制=悪とみなして、天皇主権を軸とした大日本国憲法にかわる新しい憲法が必要だと考えた。そして日本政府に新憲法をつくれと命令した。日本政府は憲法学者を集めて大急ぎで新憲法の草案をひねり出し、GHQに提出した。しかし、マッカーサーはその憲法草案を却下したのである。そして、アメリカ人の学者がすでに書き上げていた憲法原案を日本政府におしつけ、これを議会で承認せよと迫った。これが現実の歴史である。

 だから、日本国憲法の原案は英語で書かれていたのだよ。その英語原文はいまでもアメリカの公文書館に存在する。日本国憲法の日本語が文章的にハチャメチャなのは、英語を大急ぎで日本語に翻訳したからだ。憲法を読んでいてときどき意味がわからなくなると、元の英語はどんな文章だったのかな、なんて想像するといきなり意味がすっきりとわかったりするのだ。ちなみに私は、こうしたことを屈辱だと考える種類の人間である。(そうでない人も多いが)。だからといって国粋主義者でもないんだけど、旧式の思想にそまった人には理解できないかもな。

 憲法9条(戦争放棄)なんてものは、今後日本が未来永劫アメリカに対して牙をむくことがないように、武力そのもの絶対にを持てなくすることを意図して書かれたものだ。それを「世界唯一の平和憲法」などとうれしがっている護憲派の連中を、私はほんとうになさけないと思う。

 しかしその一方では、憲法を改定して軍隊を持ち、もういちど太平洋戦争時代の暴虐をくりかえしたいと夢見ている改憲派の連中も、まったくもって醜悪だと思う。あいつらは、米帝国の暴力地球支配に日本も協力せんかい! という米国人からの要請を受けて、憲法を変えようとしているのだ。戦後60年、日本の骨抜きに成功したアメリカは、今になってみると日本人も戦場に駆り出したくなって、憲法9条ってやつがじゃまになってきたのである。ご都合主義ここにきわまれり。

 とまあこんなふうによく考えてみると、護憲派も改憲派も、つまり左も右も、両方ともアメリカの犬なのだ。ああ、なんちゅう情けない時代に私は生きておるのであろうか。

 さてここで、日本人の誰ひとりとして気付いていない平和憲法の抜け穴を指摘しておこう。おそらく、知っているのはこの私だけであろう。みなさん、びっくりしてはいけないよ、へへへ。

 問題の憲法9条だが、交戦権についての記述はこうなっている。

「国際紛争を解決する手段としては永遠にこれを放棄する」。

 あっははは、「国際紛争を解決する手段」としては持たないということなら、「国際関係を解決しない手段」としてなら持ってもいいということじゃないか。つまり、日本は軍隊を持っていいのである。憲法違反ではないのだ。

 ただし、これを使って国際紛争を解決したとしたら憲法違反である。だから、もしも地球上のどこかで紛争が起きたとしたら、軍隊を送ってひっかきまわして、問題をもっと大きくしてハチャメチャにしたら、憲法の精神にかなうのである。笑ってはいけない。もしもこれを実行したら、軍需産業(主に三菱グループ=防衛庁長官と仲良し)は儲かるし、アメリカ帝国の戦略にもぴったり寄り添うことになるし、株価は上がるし日本は繁栄するのである。

 そういう意味では、人道復興支援を目的にイラクに派遣され、宿営地に引きこもっておとなしくしている自衛隊は、明白に憲法違反である。「国際紛争が解決」されてしまってはまずいでなないか。憲法に忠実であるなら、イラクでぐちゃぐちゃな混乱を引き起こし、秩序をメタクソにぶっこわして、全土を戦乱の巷に引きずりこんでこそ、憲法の文言にかなうはずであるのだ。

 冗談だと思うでしょう。でもね、自民党政府の本当の願望とは、こういうことなんだよ。あ、民主党首脳も同族だけど。いずれこんなことをマジで実行するやつが現れたとしても、私はちっとも驚かないね。

 さて最後に、少々まじめに語ってみよう。(ここまでは冗談なんだから、まじめに反論しないようにね)。

 結論的にいうと、憲法というのは人間のつくったものだから、欠陥だらけで永遠のものではないということは明白である。日本国憲法の場合は特に、アメリカ人が特殊な意図をもってつくったものだし、英語からの下手な翻訳とGHQをごまかそうとして挿入した文章が入り混じっている。「国際紛争を解決する手段としては」という文言が典型で、原案の英語版にはこのフレーズは存在しない。というわけでそもそも日本語の文章としてまともに成立していない、前代未聞のとんでもない欠陥憲法なのである。

 日本人がまっとうな精神と理性を取り戻してこんなものをゴミ箱にポイすることができるまでに、今後いかほどの歳月を必要とするのであろうか。ほへ。

 最後に、ちょびっとだけ哲学的に書いてみよう。

 よく機能する社会的習慣というのは、成文化されずとも守られ、生き続けていく。ちょっと抽象的かな。つまり、いちいち書いてなくても、やっていいことと悪いことなど、大人ならちゃんとわきまえているじゃないか、ってことだ。盗んだり殺したりいじめたりするのは、法律に書いてあるからしてはいけないのではない。悪いから、いけないのだ。

 善い、悪い。じつをいうとこれらのことは、人間の生存の歴史のなかで自然にいつのまにか成立してきたことで、誰だって教わらなくとも身につけることができるしかけになっている。人間が秩序を保って生きていくためには、こうした歴史的習慣さえあればいい。それをキリスト教の「十戒」のようにわざわざ文章にしてみせれば、それは支配という恣意的な行為のための道具になりはて、人間の自由意志までも縛ってしまうことになる。だから私は、憲法ってやつが嫌いなのだ。せいぜい、必要悪として棚上げしておきたいのよね。

 かなり難しいことを書きましたが、これ以上わかりやすく書けないのです。もっとくだいて書けとおっしゃる方には、別の文章を用意しておきますので、メールでお問い合わせください。

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 いつもの美女とそんな話題をしゃべっていたら、彼女は大笑いしながらいった。

「日本人のなかに、憲法をぜんぶ読んだ人って、いるの?」

「まあ、1万人に一人だろうな」

「その人は、読んだことを覚えていると思う?」

「まあ、たいがい忘れただろうな」

「ぜんぶ覚えていて、暗唱までできる人って、まとも?」

「バカか異常者だな、もしくは学者か」

「じゃ、意味ないじゃん」

 そうなのである。この女はときたますごく聡明なことをいうので、私はついつい認めてしまったりしてしまうのだ。これがまたムカつく。不本意きわまりない。こんちくしょう。

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(蛇足。ああ、くだらん蛇足)

 こんなことを書くからといって、私が右翼犬畜生の改憲論者だと誤解などなさらないようお願いしますね。ただたんに、哲学的にみたら日本国憲法なんてゴミだということをいっているだけなのだから。

 むしろ、いまボケカスクズ外道のアメリカ人が「日本人もいっしょに暴力による世界支配を手伝え!」と要求をつきつけている情勢を考慮するならば、「平和憲法があるから、無理をいわれても困りまんがな」という言い訳の道具として現憲法を利用するくらいの知恵はあってもいいなと思っているのだ。これを「バカと鋏と憲法は使いよう論」という。

 ではまた次回。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com/
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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