2009年1月27日火曜日
【猫哲学90】 宮沢賢治にゃお。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
=[宮沢賢治『春と修羅』序文より引用]==========
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電灯の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電灯の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電灯はうしなはれ)
これらは二十二箇月の
過去とかんずる方向から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅しみんなが同時に感ずるもの)
これまでたもちつづけられた
明暗交替のひとくさりづつ
そのとほりの心像スケッチです
これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがえませうが
それも畢竟こころのひとつの風景です
ただたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたとほりのそのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度までみんなに共通でもありませふ
(すべてがわたくしの中のみんなであるように みんなのおのおののなかのすべてですから)
=[引用終わり]=====================
今回はいきなり引用から始めてしまった。猫哲学では初めてのことである。私としては、ここで終わってもいい。言いたいことはすべて尽くされている。しかも詩的でかっこいい。無粋な猫哲学者には真似のできない境地である。
とはいっても、これだけではわかる人もわからない人もおられるだろう。特に、上の文章をただの詩だと勘違いしている人たちのためには、野暮は承知で解説が必要だと思う。
…というわけで、いつも調子に戻るのであった。
宮沢賢治は猫が嫌いだったという説がある。
宮沢賢治はその短編『猫』で「(私は猫は大嫌ひです。猫のからだの中を考えると吐き出しさうになります。)(どう考へても私は猫は厭ですよ。)」と語っている。でも本音だろうか。ただの表現だろうか。
この人の作品の中には、猫がずいぶん重要な役で登場する。『注文の多い料理店』『セロ弾きのゴーシュ』『どんぐりと山猫』等々。『猫の事務所』という短編もある。だから、猫が嫌いだったとはどうしても思えないのだが。
むしろ彼は、猫が好きだったのではないかな。好きなのと同時に、闇の世界の生き物である猫の神秘性も十分に感じていて、それってまともに考えていくと「気持ち悪い」わけだし、それであんな文章を書いたような気がする。
うちのバカ猫だって、じっくり観察しているとかなり不気味な部分もある。だが私は、それを目にしても「勝手にやってやがれ」と思考停止してしまう。宮沢賢治はまじめな人だっただろうから、そこで思考をやめずにもっと深く哲学的に探求してしまったのだろう。そりゃ、気持ち悪くもなるわな。
宮沢賢治は、旧制東北高校生だった時代に『西洋哲学史』読み、当時の哲学状況も知っていたそうだ。だから、彼の書くものに哲学的な臭いがあるのは不思議ではない。というわけなので私は、冒頭に引用した序文を読んだとき、ひっくりかえって喜んで手足をバタバタさせてしまったのであったのだ。だったのだ。なのだ。なのよね。
それでは今回の本題、宮沢賢治『春と修羅』序文、この文章を、私が哲学的に解説してしまうのだ。
ではまいります。(以下、『』内が宮沢賢治からの再引用)
まず一行目から。
『わたくしといふ現象は』
これを読んだだけで、私は瞳がうるうるするほど嬉しくなってくる。この一行は、「私という存在のはか
なさ」を表現しているのだと世間では解釈されているようだが、その程度の理解ですむ話ではない。
筆者は初めてこれを読んだとき、こう思った。「おおお、デカルトに喧嘩を売ってるじゃん」。
私は「現象である」と宮沢賢治は言うのである。筆者もそう思うよ。いつも書いていることだけど、私とは肉体と宇宙の境界でゆらめいている何かであって、実体ではない。
デカルトは有名な「ゆえに我あり」という言明をすると同時に、私とは実体であるとも言っている。実体でなければ存在しているとは考えられなかったのだろう。当時の思考の限界かな。(実は、今でも限界なんだけどね)。で、デカルトは、気体か流体か何かわからないけど、私とは考える実体であると考えて、その実体のことを「思惟実体」呼んだ。そしてその実体と肉体とは、松果腺でつながっているとまで書いちゃっている。アホ。
おそらく宮沢賢治は、デカルトのそうした言明に対する知識は持っていただろうと思う。そして、「実体じゃないよ、現象だよ」と書いたに違いない。筆者は確信を持っている。
でも現象だからといって、実体のように確かなものではないという意味ではない。むしろ実体であることの限界を超えて心は思考する。喩え方が悪いけど、金が大事か誇りが大事かというのと同じである。金は実体だが誇りは現象だ。だが、誇りを失った者に金など何の意味があるだろうか。
そのような意味で、私というのは何よりも大切な、そして確として実在する現象なのだ。
たった一行を解説するのに、こんなに長くなってしまったぞ。こんな調子で大丈夫だろうか。と不安を抱えつつ次へ行こう。
『仮定された有機交流電灯の ひとつの青い照明です』
ここで述べられているのは「私とは青い光です」ということである。「仮定された有機交流電灯」というのは、本当はそんな電灯なんかないのだけど、とりあえずあると仮定したならその光のようなものが私だよというわけ。
「有機」というのはもちろん「無機」の反対で、命を持っているよという意味。「交流」というのも比喩で、方向なんかないし、プラス極マイナス極が激しく入れ替わる。だけど「電灯」のようにずっと確かに輝いている、それが私だというわけ。
デカルト一派のアホで無神経な記述と、この繊細でゆらめきつつ、でも確かに何かを伝えようとする誠実な記述を比較してみなさいな。でも待てよ、デカルトと宮沢賢治を比較しているのって、私だけか。
次の一行。
『(あらゆる透明な幽霊の複合体)』
これは、正直いってよくわからない。「わたくし」が複合体であるというのは何となくわかる。私は宇宙のすべての層に浸透して思考しているわけだから、それぞれの層に別々の私がいることはわかる。それに、後半で出てくるけど、宮沢賢治は「私はみんなであり、みんなは私である」と考えていたようで、それならば「私はすべての私の複合体」であるというのも論理的にはわかる。
ただ、猫哲学者という人間は我が強くて、「オレはオレじゃい、他人のことなど知るか」と思っているようなやつなので、そこまでは透徹できないのだ。私は基本的に「世界なんぞ勝手にやってりゃいいじゃん」という態度でいるわけで、つまり世界を愛していないのだ。宮沢賢治の心とはまるで正反対である。だから、上の一行が理解できないのも仕方のないことかもしれない。論理的にわかっただけでいいとしよう。
では次。
『風景やみんなといっしょに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電灯の ひとつの青い照明です』
ここで言われていることもけっこうすごいことで、私というのは「風景やみんな」といっしょでなければ認識できないということなのだ。
光は、光そのものとしては認識できない。何かに当たって反射するとき、その物の姿として目に入る。「わたくし」が電灯でありその光であるなら、「風景やみんな」があるからこそ認識できる。私は私単独としては存在しえないという様態を、最初の一行は表現している。
そしてその光、「わたくし」という光は、いつも同じ強さ確かさで存在しているのではない。せわしなく明滅しながら存在している。そして私が明滅するのと同時に、世界もまた明滅し、しかし否定しようもなく確かに存在しているというのだ。何という美しい世界観。
「因果交流電灯」という表現は、「わたくし」は理由もなく意味もなく存在しているのではなくて、原因があって存在していることを意味している。同時に、私が単独で存在するのでもなく、他者との関わりとともに存在していることをも意味している。
「青い照明です」というのはさっきも出てきたけど、「青い」というのはつまり温度がないことを示唆している。その光は、いくら灯り続けたとしても世界を温めることはないのだ。なんとまあ、凄みさえ感じさせる表現力。
次へいこう。
『(ひかりはたもち、その電灯はうしなはれ)』
これは冒頭の「仮定された」を引きずっている。私は光ではあるが、その源となる電灯など本当はないのだよ、と念を押しているわけ。
さらに次へ。
『これらは二十二箇月の 過去とかんずる方向から』
ここは、ちょっとわからない。「二十二箇月」というのが何かを暗喩しているのかどうか、判断できないからだ。単に『春と修羅』を書くのにそれだけ時間をかけたという意味にとれなくもないけど、そんな単純なものではないような気がする。
「過去とかんずる方向から」というのは、いつもおなじみ、「時間など本当はない」ということを意味している。過去も未来も本当はないのだけど、錯覚としての時間で仮にいうと「過去」といっておこう、というわけ。
さらに次。
『紙と鉱質インクをつらね』
あえて「鉱質」という言葉を使うところがおしゃれ。文章そのものは「わたくし」の命のしたたりの言葉なのだけど、無機的な名詞を並べることでその命を強調しているわけですな。
『(すべてわたくしと明滅しみんなが同時に感ずるもの)』
私という光が照らし出したもの、それは誰にも共通に認識できる構造を持っているはずだから、つまり誰もが感ずるはずのものでしょ。(これらの作品はそういうものです、と宣言しているわけ)。
では次。
『これまでたもちつづけられた 明暗交替のひとくさりづつ そのとほりの心像スケッチです』
最初の「これまでたもちつづけられた」というのは、ひとつ前の「紙と鉱質インクをつらね」を受けている。つまり、書きとどめてあったから残ったということ。続く「明暗交替のひとくさりづつ」というのは、解説しなくてもわかりますよね。私は光である。だから私の言葉は明滅する陰と光であるということ。ここまで読むと「紙と鉱質インク」という物質的なものの対極に言葉がある、という意味がよくわかるし、その詩的な対比が美しいでしょ。
「そのとほりの心像スケッチです」という一行は有名だけど、すごく誤解されている。「心像」という言葉を、世間の人々は「何となく心に浮かんだ情景」だと思っている。だけどここまで読まれたみなさんは、そんなもんじゃないでしょ、と思っていただけるはずだ。
私とは何か。私とは光である、と宮沢賢治は言う。心像とは、私という光に照らされた世界そのものである。だから「心像スケッチ」というのは、宮沢賢治が見た世界、つまり宇宙のことなのだ。もちろんその宇宙は自分自身をも含むから、彼が『春と修羅』で描こうとしたのは、生の哲学そのものだったのだ。
これらは、猫哲学者流のひねくれた解釈かもしれない。だが、誰か反論できるものならやってみやがれ。あ、ちょっと暴走した。
後半へいきましょう。 『これらについて人や銀河や修羅や海胆は 宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら それぞれ新鮮な本体論もかんがえませうが それも畢竟こころのひとつの風景です』
ここは、猫哲学風の超カンタン文で言い換えてみよう。
「(私がこの文集のなかで書いた)これらいろいろな観念について述べると、人間も銀河も修羅もナマコも、宇宙塵や空気や水や、それぞれの食べ物を食べて(つまり生きて、活動しながら)、それぞれびっくりするほどユニークな哲学を披露するでしょう。でも、つまるところ、それもまた人間や銀河や修羅やナマコや、それぞれの心に映ったそれぞれの風景です」
つまり、ナマコから銀河に至るまですべては生命であって、その命は等価であり、それぞれがそれぞれの哲学を持ち、それらのすべては等しい価値を持つということを言っている。
さらに次へ。
『ただたしかに記録されたこれらのけしきは 記録されたとほりのこのけしきで それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで ある程度までみんなに共通いたします』
つまり銀河であろうがナマコであろうが、それらが描写したそれらの哲学は、違いはあってもどれが正しいとか間違いとかいうものではなくて、たとえ「虚無」が考えたとしてもそれはその通りのもので、しかもすべては部分的にすべてへの共通項を持っているというのですな。
「虚無」については、よくわからない。おそらく極端な比喩のようなもだと思う。それらが、ある程度共通するものを持っているのかどうか、それもよくわからない。宮沢賢治が何を根拠にそういうことを言っているのか、無知無学にしてぐうたらな猫哲学者は想像しようもない。でも宮沢賢治はそう思っていた。それでいいじゃないですか、とりあえず。
では最後。
『(すべてがわたくしの中のみんなであるように みんなおのおののなかのすべてですから)』
私はみんな。みんなは私。これはそういう意味である。だから、わかるはずだ。わからないはずがない。宮沢賢治はそう問いかけている。
そうであればいいのにな、と筆者も思う。でも、本当にそうなのかどうか、確信がない。まあ、いずれわかることかもしれない。それよりも観念として美しいから、その美しさを鑑賞しておくことにしよう。
以上で解釈を終わります。いつものように強引な猫解釈でした。本当はこの序文、まだ前半分である。後半はあえて書かない。機会があったらぜひ読んでみてくださいね。
『春と修羅』は詩集ではない。宮沢賢治自身も、詩集であることは否定している。では何なのかというと、哲学だというわけにもいかなくて、「心像スケッチ」ということにしておいたのだろう。
宮沢賢治は28歳のときにこの文集を発表した。田舎の無名の青年が作品を世に問うわけだから、いったい誰が書いたのかは明確にしておいたほうがいい。普通に誰でもそう思うだろう。
そこで宮沢賢治は考えた。自分を紹介するにしても、その自分とはいったい何だろう。そうして考えに考え抜いたあげく、あのような序文を書いたのだろうと思う。「わたくしといふ現象は…」。
あの~、ちっとも自己紹介になっていないと思いますが、笑。
そんなわけで、この作品集は全く注目されず、誰の関心も惹かず、何の評価もされなかった。だけどね、賢治さん、言葉は永遠だ。いつの日かこの言葉たちは、もっと多くの人の心を照らすだろう。あなたが亡くなってずいぶん経つけど、ほらね、あなたの言葉はいま私の心を照らしている。もうすぐ、猫哲学シリーズの読者の心をも照らすだろう。
時間など実在しない。永遠とはこういうことだ。
と今回は、格調高く終わってみせるのだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そんな話をしていたら、いつもの超美女は遠い目をしてこう言った。
「あたしがさー、海外出張するときに持っていく唯一の日本語が、岩波文庫の宮沢賢治なのよねー」
「嘘だ」
「嘘じゃないってば」
「いいや嘘だ。その話、いま作っただろ」
「本当だっていうのに」
「信じないぞ。きみはそういうタイプじゃないし、宮沢賢治に失礼だ」
「何が失礼よ」
「きみの存在すべてが宮沢賢治に失礼だ」
「よーし、そこまで言うなら、今夜は宮沢賢治について徹底的に語り明かそうじゃん」
「おっしゃあ、受けて立つぞ」
「いいワインを飲みながらね」
「そういうオチか?」
「そういうオチよ」
さすがに彼女も、今回はつっこみようがなかったらしい。
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