2009年1月25日日曜日

【猫哲学9】 猫時間。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃


 猫が時計をみている。

 いま何時だろうと思ってみているのでは絶対にない。秒針の端っこにつけられた飾りの動きに興味をもっただけだ。

 猫に時間は必要ない。腹が減ったらメシを要求し、眠くなったら寝るだけである。時間という概念そのものが、ヤツには理解不可能なものだろう。だからといってバカというのではない、生き方と認識の形式が違うというだけだ。

 どちらがアホかを比較をするなら、時間などというものに縛られてヒーヒーいってる人間のほうが、かなりおバカである。時間など、本当は実在しないのだ。

 いきなりなにを無茶なことをいうかとお思いか。しかし本当に、じっくりしみじみと考えてごらんあれ、時間など実在しないことがわかるはずだ。

「万物は流転する」といったのは、ヘラクレイトスだったかな。

 まさにその言葉の通り、世界は変化している。陽は昇り季節はめぐり人は老い草木は芽生え…(以下白鳥座まで続く)。世界のすべての要素は変化を続けている。時間とは、この変化のなかの周期性を取り出し、その周期性を人に使いやすいように整理したものにすぎない。

 実際、地球や太陽やその他の天体に周期性がなければ、人間は時間など発明しないですんだかもしれない。そんな世界、ずいぶんと生きにくいだろうが。

 太陽のひと巡りを一日、四季のひと巡りを一年、このように記述することは、生活上まことに便利なことではあるのだが、だからといって時間が実在すると思いこむなど愚かなことである。

 ましてや一日を24に分解した「時間」や、それをさらに60に分解した「分」や、またまたさらに10分解した「秒」など、こんなものは人間がつくり出した概念の道具であり、世界のどこにも実在などしていない。

 ここまで書いても、まだ時間が実在すると思いたい人は、私の前にこれが秒で、これが分で、これが時間だと並べてみせてみるがいい。できないにきまっているのだ。

 そもそもだな、一日を最初に24分割して次にそれを60分割し、さらにそれを10分割するなど、なんというアホなことをするのだ。どうにでも割れるものならば、最初から10、次も10、次にも10、と割っていけばよかったのだ。そのほうが計算しやすいじゃないか。時間というものを考えはじめた人々は、ずいぶんと混乱した思考の持ち主だったとみえる。(あ、このあたりギャグですよ。念のため)。

 もう一度いう。時間とは、概念の道具である。観念であって、実在ではない。

 それならばなぜ私たちは、ふだんから時間に縛られて汲々としているのだろうか。

 教えてあげよう。時間とは、人間をそういう風に縛るために発明されたものなのだ。シュメール文明でも、エジプト文明でも、時というものは人間の労働力をコントロールして集中するために、どうしても必要なこととして発明されたのだ。

 想像してみるといい。民衆が自分の勝手都合にバラバラに動いていたのでは、巨石文明などできようはずもない。人々を集めて、そ~れ、と一斉に動かしてなにか大きなことをするためには、タイミング合わせのために時間の概念は欠かせないではないか。

 だから、思い出していただきたい。時計というものを発明するのは、常に支配者の側だった。日本でも「漏刻」が歴史上初の時計として小学校の教科書にのっているが、あれは天皇がつくった、あるいはつくらせたものでしょう。時計とは、つまり時間とは、支配のための道具なのである。

 その時計というやつを、腕時計にしたりなんかして、ロレックスなんかを腕にはめてうれしがっている人を、私は、なんだかな…、と思う。我々が奴隷であるのは歴史的にそうなっちゃったので仕方のないことだが、奴隷であることの印をちゃらちゃら人に見せびらかすというのは、人間としての誇りはどこにいった、といいたくなってしまうのだ。

 話がそれた。つまり、人間の行動を縛るために導入された時間という概念が、人間を縛っているのだ。すべては当たり前のことなのだ。なんというわかりやすい説明だろうか。われながらほれぼれしてしまう。

 ここまで説明してもまだ、現在、過去、未来、それは存在するのだから、それを動かすエンジンとしての時間は、不可欠だろうという方もおられよう。他人がなにを信じていようと、それはそれで私にはべつにかまわないのだが、きちんと論証してあげないと無責任だと思われるかもしれないので、この際だ、一気にやっちゃいましょう。

■猫的時間論・私論■

 今が実在する。それは変化を続けている。なぜ変化しているのかは、あたしゃ知らない。宇宙を創ったのは私ではない。

 だが、変化そのものがなければ、私たちは宇宙を認識できないではないか。なにかをみる、という行為すら、光が飛んできて目に入るという変化に支えられている。それを認識するという生理学的プロセスにおいても、視覚細胞への刺激、ニューロンの興奮という変化に支えられて、「みえる」という事態が成立している。変化がなければ宇宙はみえないのだ。

 変化のない宇宙というものを考えてみよう。そこには音も臭いも、そしてもちろん光もない。そんな宇宙は、認識できない。変化を停止して凍り付いた宇宙は、私たちの目の前から消え失せる。そして私たちもまた、宇宙が消え失せたことすら認識することなく、消え失せる。

 つまり、こういうことだ。宇宙とは、変化するということを必然の様態として私たちの前に現前しているのであって、なぜ変化するのかという問いはなぜ宇宙があるのかという問いと同じことなのだ。

 もっと端的にいうならば、宇宙が実在するということと、宇宙が変化するということは、同義なのだ。これが現在ということの意味である。

 次に、過去のこと。過去は実在しない。人の記憶のなかには実在するが。過去とは変化を続ける今が、かつてそのようにあったということの記憶であり、どこにも実在などしていない。人間には記憶というものがあるので、それを思い出すことができる。だから、記憶の中に実在しているともいっていいが、誰もそれを取り出して見える形で並べることができない以上、ないものはないのである。

 なぜ記憶のようなものがあるのかというと、それは人間が生きていくために必要なのだ。記憶があるからこそ、道も歩けるし家に帰ることもできるし、嫁子が誰であるのかも認識できるし、目の前のごはんも食べられる。経験の反復があるからこそ動物は生きていけるのだ。人間だけではないな、猫でも虫でもアメーバでも、生存の必要のために記憶というものを持っているはずだ。うちのバカ猫でさえも、一度こっぴどく叱られたことは二度とけっしてやらないしな。

 最後に未来。未来は実在しない。今が変化をして、いつか未来になるが、思った通りにはもちろんならない。予測は常にはずれる。宇宙とはそういう風にできているものなのだ。だから私がいくら馬券を買っても儲けることができないのは、宇宙の真理による必然なのだ。真理のいじわる。

 未来という概念もまた、生存に必要なものである。「向こうから大きな石がころがってきた。あ、このままじゃ衝突コースだ、危ない、避けよう」。この一連の思考の中に、未来は自動的に生成されている。たびたびうちの猫で恐縮だが、彼がボールとじゃれるときですら、彼はボールの未来位置を予測してつかまえる。未来位置の構成、このことができなければ、ライオンは逃げる獲物を永遠にとらえることができないではないか。

 だから、未来は実在ではない。私たちが生きるために必要だから、心の中で仮に構成するものである。今が変化して、いつかは未来になるだろうが、その未来はそのときの今である。そのときそこにいる人は、それを未来とは呼ばない。今と呼ぶ。

 けっきょく、今が実在するだけなのだ。そして今が実在するとは、宇宙が実在するのと同義である。
 タイムマシンは永遠に夢物語である。その装置には、行くべき場所がない。

 私たちが過去や未来を構成するのは、生きていくためにどうしても必要だから、認識の道具として生得的にそうなっているからである。なぜ生得的にそうなのかって? 私は知らない。人間も動物も、私がつくったのではない。

 だがよく考えてごらんあれ。過去も未来も実在しないが、我々はそれを想像力を使って組み立てることができる。過去のさらに過去のことを考えることもできる。未来のさらに未来のことも考えることができる。つまり永遠とは、宇宙の側でなく、我々の側にあるのだ。これはすごいことではないか。

 過去の記憶と未来の構成力という生存のための道具を使用して、我々は永遠を夢みているのだといっていい。つまり、今しか実在しないこの宇宙の永遠を、いつのまにか神の視点でながめていることになる。いいかえると、神が、我々を通して永遠を凝視しているともいえる。

 深く考えていけば、永遠というのは、今ここにあるのだ。だから我々もまた永遠なのだ。死など実在しない。それは他者の錯覚としてのみ実在する。(ここ、わかりにくいかも。いずれ「生と死」編で書きますので、とりあえずはご勘弁を。でも、わかる人にはわかると思う)。

 つまりまあ、そんなような仕掛けになっているので、時間という錯覚は神様ぐるみ骨がらみということなのだ。よく考えないとわからなくなるのも無理はない。

 しかし、ここまでわかったとしても、人間が時間に縛られるのは、それはそれで仕方ない。人間社会がそうなっているのだから、私ひとりが「錯覚だ!」などとわめいても、みんながおなじように思ってくれないかぎりどうしようもない。現に私も、明日が締め切りの原稿をかかえていて、こんな駄文を書いている時間など、本当はないのだ。あ、ついに時間を実在させちゃったじゃないか。

 話は飛ぶが、この私だけが時間に縛られて、うちのバカ猫が好き勝手をしていられるのはなんだかくやしいと思うのだ。こやつ、朝寝て昼寝て夜も寝るのだから時間もへったくれもあったもんじゃない。これが憎らしい。

 そこで私は、彼に環境の周期変化というものを学習させ、時間の概念を導き出させてやることにした。私は毎日朝10時になると、寝ている猫を座布団ごとひっくり返すという挙に及んだのである。
 一日目、寝ているところをひっくり返された猫は、なにをするんじゃこやつとでもいいたげに目をまん丸くしていたが、いやはや、その後の学習能力は大したものであった。

 二日目、ひっくりかえしてやろうと思って行ったら座布団の上で起きていた。私が近づくと座布団からおり、座布団がひっくり返されるのを待ってから、また乗って眠りについた。

 三日目、猫は座布団にのらず、すぐそばにいる。私が座布団をひっくり返すと、さっさと乗って寝てしまった。

 四日目、いいかげんアホらしくなってほっておいたら猫の声がする。(こいつはめったに大声ではなかないのだ)。なんだなんだと行ってみたら、猫は私をじっとみつめて、早くしろよとせきたてる。つまり、座布団をひっくり返せというのだ。

「アンタガヒックリカエサナイト、ワタシハネラレナイジャナイカ」

 私はなんだかすごくみじめで情けない気分になって、座布団をひっくり返した。

[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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