2009年1月25日日曜日

【猫哲学19】 猫笑い。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃



 近ごろ、笑うということをしなくなった。

 おもしろいものが何にもないからである。ときどき哲学の本を読んでへっへっへ、などと思うことがあるが、顔は笑っていないだろう多分。昔はマンガを読んでよく笑ったものだが、いまではちっとも笑わなくなった。

 テレビをつければ、どの局もどの局も吉本系のお笑い芸人が躁状態でわめいている。又は神経症まるみえの北野某とか。だが私は、あれの何がおもしろいのかちっとも理解できない。

 というよりも、テレビの笑いにはみなさん用心されたほうがいいと思うよ。スタジオ招待の観客がげらげら笑っているが、あれはフロアディレクターが「はい、笑ってください」とキューを出しているから笑っているのであって、おかしいから笑っているのではない。

 強制された笑い。みんなが笑っているから、きっとおもしろいのだろうとあなたは錯覚し、やがておもしろくもないのに笑いはじめる。あなたは呼吸を乱されたことで軽い酸欠となり、脳はそれを回復させるために脳内麻薬を放出する。そのためあなたは躁状態となり、やがて「箸がコケても」状態となって、ぜんぜんおもしろくもないのに笑いころげることになる。テレビの思うツボである。悪質な心理操作といっても過言ではない。

 こんな不景気と戦争と異常犯罪とモラル崩壊の社会で、笑えることなどそれほどあるはずもない。だから私は笑わなくなったのだと思う。

 先日、久々に阪神タイガースのゲームを観てとことん笑おうと思ったのだが、その日にかぎって負けやがった。私が観ると負けるのである。つくづくこの世は気に入らないことばかりだ。

 ここで、立ち止まってよく考えてみた。そうだ、笑いとはいったい何なのだろう。というわけで、今回のお題は、笑い。

「人間とは笑う唯一の動物である=ベルグソン」

 笑い、というものが不思議で気になったので、いろいろ調べてみた。そうしたらベルグソンとかいう人が笑いについて書いていることがわかり、ちょっと読んでみた。そしたらこれが、ちっともおもしろくないのである。笑いについて書くなら、笑いをとれよ、ベルグソンさん。努力が足りないよ。

 それに、おもしろくないだけでなく、何か決定的なズレのようなものを感じて、読む気が失せてしまった。そのズレが、引用した一行に集約されている。ぜひもう一度、読みなおして、よーく考えてくだされ。

 どこがそんなにどうしようもなくヘンなのか。我らが猫哲学の読者であれば、パスカルに似ているなーと思ってくれるかもしれない。そんなあなたは、正解のすぐそばにまで来ている。

 さて何がおかしいのか。バラしちゃいましょう。人間が笑うのはその通りだろうが、動物が笑わないというのは本当か? おいおい、うちの猫はしょっちゅう笑っているぞ。このことを原理的に否定できる論拠はあり得ない。

 つまりあの一文は、単なる認識不足だったのである。子どもだって気がつくレベルだよ。

 なぜこのように、へんな誤認識が生じたのだろうか。アンリ・ベルグソンといえば20世紀前半にご活躍の人だから、パスカルっちのような数百年の時代的ギャップで理由を済ますわけにもいくまい。この決定的な認識の亀裂の間には、いったい何があるのだろうか。

 その答えだけど、要するにヨーロッパ人は、動物をみる視点がヘンなのである。どんな動物だって、自然な条件でふつうにおだやかに観察していれば、喜怒哀楽の表情くらいすぐに読みとれるものなのだが、連中は動物を実験室に入れるとか鎖につなぐとか解剖するとか、なにがしか痛めつけておいてから観察する癖がある。だからフランスの猫はいつもシャーシャー怒っているわけだ。※ これでは、動物の豊かな感情表現など観察できるわけもない。

(※猫をフランス語ではシャーといいます。小ネタで失礼。あ、ベルグソンはフランス人です。)

 そのようにして観察した結果、見いだすことのできなかったものを、西洋人は「ないもの」としてしまう。いわく、猫に心はない。猿は言語を解さない。動物は笑わない等々…、アホである。

 このように偏見に満ちた動物観を前提にして、ベルグソンさんも論理を展開しているわけだ。人間が一面では動物であって、動物であるからこそ出現する類いの笑い(ex赤ちゃんの笑い)を、だからベルグソンは見逃してしまう。見逃すだけならまだいいが、ないものとして議論を葬ってしまう。だから、退屈でつまらない笑いの本ができたのだ。

 ところで冒頭のような偏見に満ちた言明は、なにもベルグソンだけの専売特許ではない。以下、例をあげましょう。

■笑いとは、地球上で一番苦しんでいる動物が発明したものである。 =ニーチェ
■人間は笑う力を授けられた唯一の動物である =フルク・グレビル
■人間こそは笑い、また泣くところの唯一の動物である。 =ウィリアム・ハズリット(英・評論家)

 まあニーチェのは、ただの韜晦を含むレトリックの遊びとみなしてゆるせるが、二番目のグレビルさんはひどいね。「唯一の動物」だって。あんた世界中のすべての動物を一定期間じっくり観察したうえでいってるのか? 不可能じゃないのか、そんなこと? ところでグレビルって誰よ。調べてもわかんないよ。

 三番目のハズリットさんにいたっては、泣くことまで動物の能力からうばって人間の専売特許にしまった。こいつが香具師なのは歴然としてるな。だってハズリやん、週末に競馬場へ行ってみろよ。サラブレッドがしょっちゅう大泣きしてるぜ。※ 知らないのかい。競馬はおたくの国の得意分野じゃなかったのか。

(※サラブレッドは、なにか具合が悪くて暴れるとき、目からボロボロ涙をこぼします。それから、勝負に負けたときも。有名な話。)

 さて西洋人とは、なぜかくまでも「笑い」ということの特権性に執着するのであろうか。そこにはひたすら動物と比較することで優越感にひたりたいといういやらしい願望が潜んでいるのであるが、その本音をあまりにも露骨にいってしまった人までいるので、ぜひ紹介しよう。

■人間は笑うという才能によって他のすべての生物よりもすぐれている。 =アディソン

 人間は偉いといいたいのである。しかし笑うから偉い…ってねえ…。ワライカワセミは笑うしそのうえ飛べるから、人間よりはるかに偉いぞなんちゃって。それにしても、なんちゅうガキっぽい論理や。だいいち論理破綻してないか、これって。詳細にはつっこまないけど。しかもこんなもんが格言となって生き残るとは。むかし一人のバカがおりましたという話でなく、まわりのみんなもバカでした、ということがバレておるではないか。まったく西洋人というのは芯からビョーキやね。

 ところで、いろいろと調べていく途中で、同じようなことはギリシア時代からいわれていた、という記述にぶつかってびっくりした。ホントか! いったい誰がそんなアホなことをいったんだ、というわけでマジで調べてみました。だって、あのソクラテスやプラトンがそんなことをいったなんて、嫌じゃん。まさかあの方々がそんなバカはいいますまいよ、と思いつつ調べに調べたら、ありましたがな。

■人間だけが笑う動物である=アリストテレス

 アリストテレスかあ~。この人ならそんなこというかもしれないな。あかんなあ、師匠に何を習ったんだよ、もう。あ、アリストテレスは師匠のプラトンが嫌いだったんだよね、何だかな。ところがこのアリストテレス、困ったことに西欧ではソクラテスよりもプラトンよりもメジャーな人なのだ。その人がこんなことをいったおかげで、後世のバカどもが勇気を得てしまい、先に並べたスカタンな格言が無神経にたれ流されてきたというわけか。アリスちゃん、罪が深いね。はあ。

 カタい文章ですみませんでしたね。でも、たったこれだけで、西洋哲学における笑いへの誤謬、こいつを完膚なきまでにたたきのめしてしまったのだよ。ちょっとは尊敬してね。

 話題を変えて、猫における笑いとは何か。

 うちの猫は、よく笑っている。方頬をひきつらせ、歯をむき出しにして、へっへっへという表情になる。なぜそれが笑いとわかるのか。それは、私がものを落として割ったり、パソコンを踏みつぶしたり、何かにつまづいておっとっとなんてヘマをやっているときに、私の顔をみてその表情になるのだ。笑っているにきまっているじゃないか。

 前々回ご紹介したシャムの美猫は、口を開けて舌をだし、ふにゃっという表情で頭を左右にゆらしたものだ。笑いの表情は猫により異なるようである。人によっても異なるよな。当たり前か。

 これらはあくまで、猫が人間に対して笑いを見せているのである。猫と猫とで笑うときには、表情や声でなく別の要素で笑っているのかもしれない。

 ここまで考えて、私はたいへん重要なことに気がついた。猫のゴロゴロ、あれは笑いではないのか。

 赤ちゃんをかまってやると、たいへんよく笑う。猫を適当にいじってやると、ゴロゴロが始まる。そっくりではないか。そして猫は、子猫同士かたまってなごんでいるときは、いつもゴロゴロいっている。

 ここで、笑いとは何かについての根本的な定義の問題が露になる。

 人間の笑いは表情と声と呼吸困難をともなうものだが、人間以外の動物にとっての笑いが、その動物同士でしか理解できない何かの行為から構成されているとしても、何の不思議もない。たとえば臭いとか、歯ぎしりとか。ならば、ヤツらが笑っていたとしても、人間にはそれが笑いとはわからないということもあり得る。

 かくして私たちは、動物が笑うかどうかについては、本当は何もわかっていないことを歴然と認識するしかない。猫についてはかろうじてわかるが、それは猫が人間にわかるようにやっているからだ。

 ベルグソンさん。あなた、ここまで考えました?

 さて、その動物における不可視の笑いであるが、そんなものが仮にあるとしたら、ヤツらはいったい何がおかしくて笑うのだろうか。

 猫が笑う対象は、べつに吉本のギャグである必要はない。ましてや、ベルグソンのいう19世紀的ヒューモアが対象となる必然性など全くない。気持ちいいから笑う、これが猫の根源的な笑いだろう。だとするならば猫のゴロゴロは笑いでしかありえないではないか。

 ああっ!、ここまで書いてきて私は、またもやすごいことに気がついたぞ。小鳥のさえずり、あれは笑いではないのか。求愛だ縄張り行動だのと動物学者は説明するが、そんなものにあれほどのイントネーションとバリエーション(と音量)は必要がない。ホトトギスもウグイスも、子育てする季節の最中にも歌っているのだから、求愛も縄張りも無関係なのは明らかだ。

 では、あいつらは、何のために歌うのだろうか。私にはわかる。あれらは、世界そのものを笑っているのだ。「うひょー、いいぞー、お日さまはすごいぞー、世界はすごいぞー、おもしろいぞーっ!」と。

 もちろんそれは、このように貧しい言葉でとても表現できるものではない。小鳥は全身全霊で世界と対峙して、命がけで笑っているのだ。それはあたかもモーツアルトの『魔笛』の夜の女王アリアのように、存在と虚無の境界にたつ哄笑のようなものだというべきであろう。

 ベルグソンは、理性にこだわるあまりにこのような種類の笑いを認識できなかった。でも、本当におもしろいのはこのあたりの存在論的な笑いなんだけどなあ。それを無視してしまったから、笑いを書こうとしておもしろくもない笑いの本を書いてしまった。なんだか奇妙なパラドックスではある。

 ベルグソンの後継者として「笑い」について本を書く人は、読者をとことん笑わせるべきであろう。そのとき初めて、笑いが解明されたことが誰の目にも明らかに証明されるのであるから。

 今回も驚くべき結論になったな。猫のゴロゴロは笑いである。小鳥のさえずりも笑いである。私の新発見だろうか。でも誰でもみんな、すでによーく知ってることなのかもしれないね。

 ところでセミやコオロギ、あれは笑いなんでしょうかね。私はツクツクホーシがものすごく気になるのだが。

 ○○せんせい、どう思われます?


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com
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