2009年1月25日日曜日

【猫哲学13】 猫における自由。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃



 私の姉は、うちの猫には自由がないという。

 私は心底びっくりして姉の顔を2分ばかりみつめてしまった。

 自由だと…。そんな抽象概念を姉の猫たちは知っているというのか。しかも「自由である」ならまだわかるが「自由がある」とはいったい、そのような名詞とも形容動詞ともつかぬ曖昧な概念を、小猫の身でどのように所有しているというのか。驚天動地である。

 姉の話をよく聞いてみると、謎はすぐに解けた。姉は3匹の子猫といっしょに散歩するのが自慢で、うちの猫も散歩に連れ出してやらねばかわいそうだと主張しているのだ。その程度のことに自由なんて大仰な言葉を使うんじゃねえよ、ほんとにもう。

 ふん、人それぞれ猫それぞれ趣味は違うのでね、こちらはこちらで勝手にやらせていただくさ、と私は姉に言葉を返した。だが、その際に、「こっちの自由だ」などといういかがわしい言い回しは使わないところが、猫哲学者たる私の言語への誠実さなのだが、こんなことをいきなり書いても誰もわかってくれないだろうな。

 ともあれ私は、バカ猫への配慮も怠らなかった。ヤツを玄関まで連れていき「散歩がしたければ勝手にしてこい。死んでもしらんけど」といってドアを開けたのだが、ヤツはアホかいなという顔で私を見上げて、さっさと奥に戻っていったのである。

 …かくして「散歩の自由」たる概念は絶対的にバカ猫に与えられ、その自由を行使しない、という形式で永遠に彼の所有するところとなったのであった。

 何のことかわからない? そうでしょうね。この文章を最後まで読んでいただければわかります。なわけで、今回のお題は、「自由を批判分析するぞ」。

 しかし、自由。されど、自由。この言葉ほど、混乱したまま世間に投げ出されている例は珍しい。人それぞれ勝手な意味で使っている。こればかりは広辞苑を読んでも百科事典を読んでも、まともに理解できないのだ。表現の自由に始まって、思想の自由、服装の自由、性の自由、人殺しの自由に至るまで、まるで人間ひとりひとりにそれぞれの自由概念があるかのごとくだ。

 かなり以前のことだが、たまたま近所の悪ガキが猫をいじめているところを通りかかったので、おいこら、そんなことはするもんじゃないとたしなめたら、そのガキ、こう言い返しやがった。

「何でやねん、自由やんけ」。

 私は思わず絶句してしまった。原理的には、このガキのセリフは、正しいのだ。むろん私の側にも、このクソガキをぶちのめす自由というものがあり、その意味において対等なのだから、遠慮なくぶちのめせばよかったのだ。しかし私は、自由という言葉をそんな風にたたきつけられたことが一度もなかったので、言葉を失い、つまり言い負かされてしまったのである。それ以来、「自由とは何か」をずっと考え続けている。(つまり根にもっているのだ、へへへっ)。

 さてそのようなわけなので、姉に怒られたからというわけでは絶対にないが、この自由とやらの概念について、このあたりで私がきちんと整理してしまおうではないか。ああ、長い前置きだった。

 さて、ここから本論。

 まず結論をひとことで言ってしまおう。自由とは「好きなことをするのに制限がない」ことである。制限はないのだ。何をしてもいいのだ。言葉の本来の意味を、純粋に徹底的につきつめれば、そうなる。
 何をしてもいいのだ。歌うのも自由、踊るのも自由。走るのも制限なく自由。ということは、時速1000キロで走る自由だってある。できるんならね。

 だから私には、宇宙を征服する自由だってあるのだ。デスラー総統バンザイ。なぜ征服に乗り出さないのかというと、どうせできやしないからである。しかしそれは、あくまで私の無能と怠惰からくることであって、自由がないということを意味するのではない。私の手元に宇宙戦艦ヤマトの1億隻もあれば、楽しくその自由を行使するのだが。あ、もちろん波動砲は必ね。

 もちろん私と同様、あなたにも宇宙を征服する自由はある。誰にでもその自由は備わっているのだ。さあ、あなたも宇宙征服に乗り出そうではないか。もしも私の宇宙征服と衝突したら? そのときはそのときのことだ。堂々と勝負しましょう。銀河大戦創世記だ。そうする自由もまた私たちのものなのである。だからね、高校生諸君。学校の制服なんてきみの野望に比べれば小さい話ではないか。宇宙を征服したら、全人類に制服を着させてやればいいのだ。(野田秀樹のパクリです。すんまへん)。

 かなりむちゃくちゃに思いますか? そうでしょうね。ではもう一度筋道をたててお話しましょう。

 広辞苑で「自由」の項を調べてみた。何と、5つもの自由の意味が書いてある。つまり、それほど意味が分裂しているといえる。このことひとつとっても、この言葉がいかにウナギみたいにとらえどころのないものなのかが歴然としているが、世間の人はよくもまあ、そんなもの平気で使ったりするものだ。あら…、もしかしたら頭の悪い人に便利な言葉なのかな? ぷ。

 さてここでは、ちょっと面白いので、その広辞苑に書かれた意味を順に批判分析してみようではないか。

=[以下、広辞苑]=======================
1.[後漢書]心のままであること。思う通り。自在。(古くは、勝手  気ままの意に用いた。
======================[引用ここまで]==

 これはまともですね。私が最初に定義したのとあまり変わりはない。つまり古代中国の人は、自由という言葉の意味について混乱などなかったということだ。さすが。

==[以下、広辞苑]======================
2.(freedom,liverty) 一般的には責任をもって何かをすることに障  害(束縛・拘束)などがないこと。自由は一定の前提条件の上で成  立しているから、無条件的な絶対の自由は人間にはない。自由は、  障害となる条件の除去・緩和によって拡大するから、目的のために  自然的・社会的条件を変革することは自由の増大である。この意味  での自由は、自然・社会の法則の認識を通じて実現される。
======================[引用ここまで]==

 これは、とんでもない悪文である。自由を定義するのに、絶対の自由はないといっている。官僚がそう発言するなら、あんたの立場からはそうだろうよと思いもしようが、語の意味の本質を探求するはずの辞書が、「自由は人間にはない」と言って恥じないとは、なんたる知的怠慢か。この文章に関する徹底批判はもっと後半で行うので、読者の方々は「広辞苑2番目問題」としてしばらくご記憶ねがいたい。

==[以下、広辞苑]======================
3.社会的自由。社会生活で、個人の権利(人権)が侵されないこと。  歴史的に成立している重要なものに、市民的自由と政治的自由があ  る。前者は企業の自由、契約の自由、財産・身体の自由、思想・信  仰の自由、言論・集会・結社の自由などを指し、後者は参政権その  他政治的目的のための行動の自由を意味し、両者ともそれらに対し  て国家権力その他の干渉がないことを意味する。
======================[引用ここまで]==

 侵されないことが自由なんだとさ。ここまでくると、怒りがこみあげてくる。何だ、この定義は。日本国憲法にたしかにこのようなことが書いてあるが、それは、「こーゆーことならしていいよ」という許可にすぎない。許可が与えられて初めて、自由が発動されるのか? 唾棄すべき支配への追認にすぎない。そんなものは自由とはいわない。不自由というのだ。

 ここで、私の立場を明確にしておこう。私がいったん言葉の意味を考え始めるとき、それは超越的にして絶対的な意味しか求めていない。人間が歴史のつかの間にどさくさまぎれでつくった憲法とかいう、いつかは消えゆく文章など、歯牙にもかけないのだ。願わくば広辞苑もその立場でいてほしかった。

 脱線するけど、結社の自由って、何やろね。憲法に書いてあるのだけれどさ。私のつたない人生経験で、会社とか教団とか政党とかは見たことがあるのだけれど、結社は知らないなあ…。なんちゃって。ほんとは知っているのです。そのことを追求しはじめたら、日本国憲法が、いかにごく少数の「結社」を守るためのものかもわかっちゃうのさ。はは。これ以上の興味のある方は、別にメールをください。教えてさしあげますです。

 閑話休題。広辞苑に戻りましょう。

==[以下、広辞苑]======================
4.倫理的自由。カントにおいては、意志が感性的欲望に束縛されず、  理性的な道徳命令に服することで、自律と同義。
======================[引用ここまで]==

 カントときましたか。カントがどう考えていたかより、真の自由とは何かを追求してほしかったな、広辞苑さん。カントに責任をおっかぶせるようなことは、やめたほうがいいよ。

 で、カントのいいたかったことですが、要するに、ちゃんとした人間は勝手気ままなことはせず、きちんと自分を制して生きるよ。こういうのを「自律した人」というわけよ、といっているわけだが、あれれ、よく考えると、自由の行使をむやみにしないのが自由な人なのだと定義しているわけだ。んなもの語の純粋・超越を求める私の立場からすると良くて自己矛盾、はっきりいえば詭弁やないかい。カントでさえも混乱していたのか。いや、きっと引用した広辞苑がスカポンタンだったに違いない。いや、ぜったいそうだ。そう思っておく。

==[以下、広辞苑]======================
5.サルトルにおいては、人間は存在構造上自由であり、したがって常  に未来への選択へと強いられており、それ故自由は重荷となる。
======================[引用ここまで]==

 ぎゃはははは。サルトルですか。言葉の純粋概念が重荷になるということは、その人が純粋じゃないことを意味しているのであって、こんな定義をよくもまあ辞典に書いたりするね、新村さん。信じられないよ私は。

 ついでなので、未来への選択を強いられた不純な人サルトルの「自由の重荷」とやらがどーゆーモノなのかを、私が簡単解説しておきましょう。

 以下、サルやんの独白

「…あー、飲み過ぎや。頭痛い。しんどいなあ、人生って。いやだいやだ。それにしても、昨日の編集の姉ちゃん、ええ女やったな…。今晩、ちょこっといてこましたろかな、うへ。あ、しもた。シモーヌ(ボーヴォワール)と約束してたんや。すっぽかしたら怒るかな。このあいだも雑誌で浮気をバラされたし、怖い女や…。ああ、どうしょ。うう、迷うっ。わしって何でこんなにモテるんや、重荷やわ。自由みたいなもん、なかったら気楽やのに」

 はい、自由の重荷でした。広辞苑さん、自由の始末に困り、まず自由を縛る概念を追い求め、法律に頼り、カントの道徳律に頼り、ついにはサルトルまで動員して「重荷だ…」と言わせてしまったのでした。かくして広辞苑により、自由は瀕死の深手を負ってしまったのでありましたとさ。あ~あ。

 楽しかった。広辞苑と遊ぶのってけっこういいカモ。いつか別シリーズでやってみようかなっと。

 ああ、そうだった、自由の話だった。こう長くなると集中力が続かないな。明らかに猫化のせいだ、ふう。

 さて、ここからいよいよ、これまで誰も語らなかった自由についての徹底分析ですよ。猫哲学オリジナルだ、しかもタダです。いっときましょう。

 自由という概念が現代的な意味を持ったのは、フランス革命において「自由・平等・博愛」(注1)というスローガンが定着したときだったと思われる。

 アンシャン・レジーム下、人々は日常を絶対王政に支配され、魂はカトリック教会に支配され、そりゃあ息苦しい毎日だったことでしょう。そんな状況下であれば、自由という概念が本当にすばらしい輝きをともなって受けとめられたことは、まあ想像できる。

 そこでは、自由とは何かを議論する必要さえなかったかもしれない。目の前に彼らを縛りつけている相手が見えているのだから、その敵から解放されることそのものが自由を意味していただろう。

 そして革命は成就し、彼らは自由を手に入れた。その自由概念は、いつしか人類が共有すべき輝かしい成果とみなされ、200年以上たった今では議論の余地なく成立しているかのようだ。だが待てよ。

 西洋人が受け容れた自由の概念は、本当は、超越的絶対的自由ではなかったはずだ。そうではないと断言できる。なぜなら、彼らの前には神がいたからだ。

 神とともにある西洋人は、神による心の支配を無条件に受け容れている。その支配の範囲内での自由なのだ。「汝殺すなかれ」。だから「殺す自由」などどこにもない。明快な論理である。そして、ある種の安定を生み出す。だがしかし、自由の絶対性は議論されないまま終わってしまっていないか。

 ニーチェはこのことに気付き、意識も無意識も神に支配されることを嫌って神を殺してしまった。しかし、そのニーチェも腰が引けている。「神は死んだ」というが、なぜか「オレが殺した」とはいわない。その不徹底が、彼の哲学に曖昧さを残している。

 どひゃ~、マジで哲学読み物だよー。でもね、常識をわかる人にはきっとわかってもらえると思うから、もう少しこの調子でいきますね。

 そのようなわけで、神を信じ神とともにある西欧人が「自由」と叫ぶとき、同時にそれは「神にゆるされた自由」ということになる。ここを注意してほしい、神より与えられた自由、それは「権利」のことではないのか。

 つまり西欧人の自由とは、権利のことなのだ。だから連中は、自由の名のもとに、他者に対してそうとうにえげつないことをやっても平気な精神構造を身につけた。彼らが歴史的に地球の支配側にいるという成功の要因は、この自由=権利に基づいて、他者に好き勝手な暴力を平気でふるえたことが大きいであろう。ごく最近では「砂漠の自由」なんてインチキ侵略戦争がありましたね。(注2)

 しかし、である。西欧人はそれでいいよ(ホントはよくないけど)。日本人はどうなの。日本人は神とともにいないよ。なのに西欧人と同じでいいの?

 西欧人と日本人、その決定的な違いにもかかわらず、日本の知識人たちは自由の概念を西欧式の構造そのままで輸入して、それだけで使っている。だから矛盾が矛盾を生み、自由概念はかくも荒廃するに至ったというわけだ。その典型が、あの広辞苑さまでしょう。

 というわけで、さっき保留しておいた「広辞苑2番目問題」をここで展開しよう。もう一度引用してみるだよ。

==[以下、広辞苑]======================
2.(freedom,liverty) 一般的には責任をもって何かをすることに傷  害(束縛・拘束)などがないこと。自由は一定の前提条件の上で成  立しているから、無条件的な絶対の自由は人間にはない。自由は、  障害となる条件の除去・緩和によって拡大するから、目的のために  自然的・社会的条件を変革することは自由の増大である。この意味  での自由は、自然・社会の法則の認識を通じて実現される。
======================[引用ここまで]==

 まず「責任をもって」といういい方があやしい。誰の何に対する責任だ。それを書かないでおいて「責任」という言葉を使うのは、ごまかしである。西欧的価値観の下では、神を持ち出せばすべて解決する。だがここは日本である。その種の西欧的思考停止を内在しながら何かを定義しても、私は納得しない。

「自由は一定条件の上で成立しているから」というのも同じで、ならばその条件を示せというのだ。どうせ神か法律を持ち出すに決まっているが。そうならば反論しよう。日本人には神はいない、法律とは歴史のなかでうつろいゆくその場かぎりの言葉でしかない。絶対自由を条件的に制約する何らかの力が、これらにはあるのか。反論できまい。

 というわけで、「無条件的な絶対の自由は人間にはない」という言明は原理的に葬り去られるのだ。おお広辞苑、ピーンチ!。

 そして、次の記述の破綻を見よ

「自由は、障害となる条件の除去・緩和によって拡大するから、目的のために自然的・社会的条件を変革することは自由の増大である。」 

 変革が自由の増大だとよ。それなら、ロシア革命の変革で自由は増大したか。中国革命でも同じだが。このあたりは、広辞苑の思想的限界にまで踏み入っているので、本来の哲学論議から離れすぎてしまう。だがしかし、これでいいのかね。私はべつにかまわないけど。

 そして、止めにこうきたもんだ。

「この意味での自由は、自然・社会の法則の認識を通じて実現される」

 社会、自然の認識が高まれば自由が実現されるといっておる。嘘だ。20世紀、社会構造の変化、科学技術の進展はあったが、その間に人間の自由はほんの少しでも増大したか? 今の米帝国をみるがいい、他国を圧する富と軍事力で世界に君臨しながら、米国民の飢えは増大し、教育格差は広がり、圧倒的な数の無知で無力な貧民が米国という名の檻に閉じこめられている。自由なのは支配者と大金持ちだけだ。

 まったくもう、こんなにひどい嘘を辞典にのせていいものか。

 というようなわけで、自由の概念というものは、とてつもない錯乱と混乱のなかに投げ出されている。その原因となったのは、神と対峙する西欧人の概念を、神無き日本人に無自覚に押しつけたせいだ、というのがここまでのまとめ。

 いよいよ最後にまいりましょう。神無き日本人が自由の概念を所有するにあたって、何を必要とするか。

 超越的絶対自由を神なき万人が所有すれば、奪いたいヤツは奪い、殺したいヤツは殺し、けっきょく最も強いヤツがすべてを所有することになってしまうはずだ。しかし、現実はそんなことになっていない。ここが日本人の不思議ってやつでね。

 日本人とは何か。八百万の神を祀り、一木一草に魂の宿るのをみる、ウルトラスーパー・アニミズム教徒がその正体だ。私も、もちろんそうである。宇宙の森羅万象すべてに神(キリスト教の神ではない)を見出し、虫一匹の命さえも惜しむ心の持ち主、それが日本人である。もののけ姫さまにラブレターを送ろう! あ、それからナウシカにも。

 一匹の虫、一草の植物にさえも神がやどるのであれば、同様に、人間一人ひとりにも神はやどる。論理的必然である。そういう意味で、日本人は神なのだ。冗談でいってると思っているでしょう。でも論理的に考えていけば、そんなこと当たり前に、そうなのである。私はかなり本気だよ。

 阪神大震災のとき、私は震度7地帯にいた。

 早朝の地震ですべては壊滅した。呆然の数時間。電気もガスも水道もぜんぶアウト。昼前になると、何かを食べなければならないと気付いて外に出た。買い物に出かけた私が見たものは、商店の前に静かな列をつくる人々だった。みんな黙って並んでいたのだ。文句を言う人もなく列を乱す人もない。商店のドアが開いてお客さんが一人出てくると、列の先頭の人が招き入れられる。誰もが最小の買い物ですませている。列の後ろに並ぶ人たちにも商品が残るようにと思いやってのことだ。沈黙に満ちた時間だけが淡々と過ぎていった。それは荘厳で、整列で、いや清冽で美しい光景だった。

 外人がこれを目にしたら、奇跡というだろう。しかし私たちは、これが当たり前のことじゃないかというだろう。日本人は(庶民だけだが)美しい人々なのだ。神なんだから当然だが。

 だから、日本人が超越的絶対自由の概念を手にするのに、西洋人のように神はいらないのだ。自分が神なんだから。神であるから、自由の使い方も心得ている。他人の迷惑になることなんて、やるわけないのである。それ以前に、思いつきさえしないだろう。ここがカントの定義と違うところだ。したがって、私が冒頭近くで書いた「好きなことをするのに、制限がないこと」という定義は、そのままでいいのだ。広辞苑さんのようにいっしょうけんめい制限事項を考えなくてよろしい。問題があれば、その場でうまくいくようにすればいいのだ。神ならできる。

 こんなことを書くと、私は右翼じゃないかと疑われるかもしれないなあ。そうかもしれない。日本が好きだし、戦艦大和も好きだし。しかし半端じゃないぞ、ウルトラスーパー超越論的右翼だからな。天皇と君が代は大嫌いだぞ。

 えと、そういうわけで自由をめぐる考察の長い旅は、自らに神を発見して終わったのである。お疲れさまでした。それにしても、日本人は神であるとは、すげえ結論だな。

 もちろん例外がたくさんいることも承知で、私は書いている。人を殺す自由や、幼女誘拐監禁する自由や、家庭内暴力で子供を虐待する自由や、賄賂をもらう自由を実践する人たちもいる。しかしそんなのは例外だ。少なくとも猫哲学の少数の読者は、まちがいなく全員が神である。そのことについては自信がある。違うという人、名のり出なさい。小一時間、説教してやるから。

 しかし自由…。私はこんな言葉を日常で使ったことはただの一度もない。この言葉が歴史的に引きずっている下品さ、嫌らしさに、早くから気付いていたからだ。使う人の品格がもろに出てしまうような言葉なのだ。たとえば道を通るときに、「私は道を通る自由、及び権利がある」と主張する人と、「ちょっと通るね、ごめんやす」と呟く人では、どちらが上品なのかは明らかではないか。なわけなので、私はこれからも、よほどのことがないかぎりこんな言葉を口にしないだろう。

 ところで論理の必然として、うちのバカ猫もまた、神ということになる。猫は、古代エジプトでは名のある神だったわけだから、年期はこやつのほうがはるかに上ともいえるだろう。そういえば最近、何だか思索する風の顔のときがあるな。私よりもずっと偉いと思うのは、思索のすえに何かがわかったとしても、語ろうとしないことだ。私のように書き始めるなど、まだまだ未熟の証なのだろう。

 ふん、知ってるさ。でも私だって神なんだからな、いちおう。

(注1) 本来は「自由・平等・友愛(fraternite)」と訳すのが正しい。お友だちだけ愛してあげるという、きわめて了見の狭い概念なのだ。お友だちじゃないやつは、殺してもいいわけさ。これを、博愛などとわざと誤訳した野郎は誰だってんだ。情報操作の臭いがプンプンするわい。

(注2) 自由を叫んでイラクを侵略したブッシュをみればよくわかる。あのバカの論理矛盾は歴然としているのだが、西欧人はその矛盾を感じ取ることのできない構造になっているのだ。 ついでに、ブッシュが「自由」と叫ぶときは「権利」と同じ意味だと指摘しておこう。アメリカの自由(=権利)のためにフセインは倒されなければならない。なるほど。その権利とは、中東石油支配のことである。権利とはすなわち利権である。「砂漠の自由」作戦とは、「砂漠の利権」作戦だったのだ。何とわかりやすい。だけど、もう少しかしこい騙し方はなかったのかねえ。

[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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