2009年1月25日日曜日

【猫哲学6】 同一性って、ドイツ製?

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃


 目に前に一匹の猫がいる。

「にゃあ」

 なかんでよろしい、私はこれから深い深い思索に入るのだから邪魔するなよ。で、この猫は他のどの猫とも異なっている。

「にゃあ」

 うるさいな、あ、メシか。悪かった悪かった。

 …と目の前でメシを食っているこいつは、明らかに猫ではあるが、たとえば姉が飼っている3匹の猫とは、何もかも異なっている。いやいやこんないい方をするより、もしも目の前に1000匹の猫がいたとしても、私はひと目でこいつを見分けられるだろう。

 それは、こいつが特別個性的だからというのではない。どの猫も、その飼い主がバカでなければ、同じように発見できる。そういうものなのだ。一匹の猫は、明らかに、他の猫とはぜんぜん違う存在なのである。

 世の中の猫といわれる動物に猫一般という概念を押しつけるのは、人間の思考の癖である。分類学や進化論(=駄論)のためには便利な概念であろう。しかし、それは概念である。一般的にして典型的にして普遍的な猫というものはこの世には存在しない。猫は一匹一匹ぜんぶ違う。これは人間も同じだが。

 それでも概念操作の道具として、学者は猫一般の共通項というのものを考えたがる。いわゆる足は4本、目は二つ、毛並みがあり、尻尾は一本、肉食、おならをする、などとすべての猫に共通する要素をくまなく記述すれば、猫とは何かを語りうると考えた。これを猫の同一性というらしい。ドイツ観念論あたりでやり尽くされた手法である。最初はデカルトかな?

 しかし、このような同一性をいくら並べ立てても、たった一匹の猫を何も記述できない。ある猫がこの猫であるということのなぜ、を語るには何の意味も持たないのだ。百科事典で猫とは何かを述べる猫一般の概念的記述をいくら読んでみたところで、おたくのタマちゃんの何がわかりますか? ね、そうでしょう。

 今回はいささか、猫をめぐって理屈っぽいな。でも、こんなにいっぱい書いてもらって、うれしいだろう、おいバカ猫。

 …寝てるよ、まあいいか。

 このあたりのことはプラトンがしっかりと語っている。プラトンによるならば、我々は地上の個別の猫をみるときに、「天上の猫のイデア」を通してみているのだという。

 猫一般は地上にはいない。それは天上のイデアとしてある。個別の猫はそのバリエーションで、一匹として同じものはない。

 わっかりやす~。なっとくナットク。ところが、理屈の好きなドイツ人たちは、「イデアは実在するか」「それを認識する我々の認識とはいかなるものか」などと思索しはじめて、またまた同一性の破綻に近づいていくのである。

 私がプラトンの語った「イデア」についてもっとわかりやすく解説しましょう。

 あなたが道を歩いていると、向こうから犬がやってくるのがみえる。「あ、犬だ」と思ったあなたは、犬一般の概念「イデア」を見ている。次にあなたは「なあんだ、お隣のケンちゃんじゃん、お散歩かな」と思う。そのときあなたは、もうイデアを見ていない。ケンちゃんを見ているのである。そしてケンちゃんは断じて犬一般でもイデアでもない。

「あ、犬だ」に替えて、「あ、ゴールデンレトリバーだ」でもいいし、「あ、ダルメシアンだ」でもいいし、「あ、ポメラニアン」でもいい。和犬が好きなら「あ、土佐犬」でもいい。めったにいないが。

 あなたはその瞬間、ゴールデンレトリバーのイデア、ダルメシアンのイデア、ポメラニアンのイデア等々をみているのである。別のいい方をすると、あなたの観念にあらかじめ備わったイデアを通して、その存在を認知しているのである。イデアとはつまり、そういうことなのだ。

 プラトンって、わかりやすいでしょ。

 さてここに於いて、かのライプニッツが述べた「すべての個物は異なる」という表明は、大いなる意味をもってあなたに立ち返ってくるのである。なんちゃって。たかが猫自慢したいだけで、そこまで大きく出ることないじゃん、ってか?

 違う違う、ここまでが前半なのだ。ここから後半。後半において私は近代文明の陥った誤りを、鋭く指摘しようというのである。もうちょっと続けて読んでね。

「すべての個物は異なる」。つまり世の中のひとつひとつ、みんな違いがある、という意味。なんとなく当たり前のような気がするが、深く考えていくとすごいことになるのだよ、お立ち会い。

 猫は一匹一匹ぜんぶ違う。このことは、よくわかっていただいたと思う。じゃあ、リンゴだとどうなるか。一個一個すべて違うのである。細部にわたって完璧に同一のリンゴをみつけて、ふたつ並べることが可能ならばやってごらんなさい。これは、お店に並んでいるリンゴの模様をみて、「お、こいつがうまそう」と思って買う体験をなさっている方にとっては、自明なことのはずだ。

 では、もっと小さいもの。お米なんかどうかな。そこで私は台所からお米を持ってきて並べてみたが…、違うのである。数百個ぜんぶ違う。みればみるほど、お米はひとつひとつ個性豊かなのである。こんどからよくみてごはんを食べようね。

 もっと小さいものでいえば、私は子供のころ、花粉を顕微鏡でみて驚いたことがある。ぜんぶ形が違っていたのだ。

 こうした経験から私は、自然界の何ものもすべてひとつひとつ違っていると思う、「すべて異なる」という考えの持ち主なのである。何を当たり前なことをいうかって? まあ、待ちなさい。それなら、水素原子はひとつひとつすべて異なるというと、どう思いますか?

 水素原子。そんなものは誰もみたことないから、なんとなくみんな同じだろうと思っている人が大半だ。しかし私は、水素原子にもトラシマ水素原子、ミケ水素原子、アメリカンショートヘア水素原子、ヒマラヤン水素原子等々、よく見るとすべて異なっているに違いないと主張するのである。これを否定する根拠は、どこにもない。むしろ、自然界の目にみえるすべてのものがひとつひとつ異なっている以上、これらも異なっているだろうなと考えるほうが大人の分別というものなのだ。

 さらに、もっというぞ。これよりも小さい電子、中性子、果てはボソン、レプトン、クオークまで、それが実在するなら、一個一個ぜんぶ異なるに違いないのだ。文句あるか。

 無茶苦茶だな。だいたい、観測することだって四苦八苦している素粒子。その一個一個の違いなど、考えてみた人はいないだろう。しかし、私は考えるのである。そして、違うといってしまうのである。

 原理的に絶対にそんなことはない!と反論できる人手を挙げて。はいいませんね。ざまみろ、私は正しいのだ。

 というわけで、「すべての個物は異なっている」。ライプニッツも、いくらなんでもここまでは考えていなかったかもしれないけど、でも、彼は正しかったのだ。

 ここまでで、けっこう違和感を覚えたかもしれませんね。そんな小さなものに、大きなものの差異を同じように想定するのは、無理があるのじゃありませんか、って反論がすぐに返ってきそうだな。

 そのようなお声には、こうお答えしよう。大きい、小さい、それは人間がなんとなく自分を基準に感覚的にとらえていることであって、本当にそうなのかどうかは、原理的にわからないのですよ、と。

 地球と水素原子。どちらが大きいかを決めているのは人間の感覚の癖からきたことなので、本当は決めることはできないのだ。これが哲学の真骨頂。わかるかな。

 科学の世界で、とても小さいものを観察するために、顕微鏡がつくられた。発明された当初はずいぶん大きなものだったそうで、一部屋まるまる占領するような。やがてもっと小さなものを観察するために、電子顕微鏡がつくられたが、これは建物一個を占領しちゃうものだったそうだ。

 そして現代。素粒子を観察するための機械は、電磁石を何キロも連ねてループにして、直径5キロという大がかりな円形の粒子加速器の装置(サイクロトロン)となっている。これを動かすのに必要な発電所まで含めるとひとつの都市ともいえる大施設である。ノーベル賞で有名になったスーパー・カミオカンデは地中に5万トンの水を溜め、1万個以上の検出器で周りを覆った、21世紀の戦艦大和。

 そこまでして、素粒子検出器でいろいろな素粒子を検出した結果は、さらに詳しく調べるためにはもっと大がかりな検出器が必要だということになっている。その規模とは、火星軌道に達する電磁石のリングが必要なのだという。私はこのへんで笑いが止まらなくなるのだが、要するに、極限に近い小さなものを見るのには極限に近い大きな装置が必要だということなのだ。つまり、極小と極大は等価なのである。

 前回私は、果ての果ての話をした。同じことが極小に向かう世界で起きている。しかし、よく考えてみなさいな。大きい、小さい、それはあなたが自分の感覚で決めたことでしょう。実際の自然がそのような秩序であるのかは、本当はわからないのだ。であるならば、小さいと思っているその秩序が、実は閉じたものではなくて、無限に開いているとしたら、どうします?

 小さい、ということの尺度をある小ささで決めるとする。すると、その小ささはもっと小さい要素からできている。では、その「もっと小さい」を小ささの尺度として決めるとする、すると、(以下、白鳥座まで続いて終わらない)。つまり、果てなどない。

 極大に向けて開いている宇宙は想像しやすいけれど、極小に向けて開いている物質世界は想像しにくいね。そのことはわかる。しかし哲学的にいえば両者は同じなのです。

 かくして、我々は新しい世界認識にたどりついたのである。極大に向けても、極小に向けても、無限に開いている宇宙。

 もっと想像力をたくましくするならば、極大の無限と、極小の無限、それはどこかでつながっているのだろうな、そんな夢想がわいてきますが、これ以上は宗教の範疇になったりしますので、ここで止め。

 猫の個性の話をしているつもりが、壮大な宇宙論になっちゃった。まあ、そのいいかげんさがこの文章の真骨頂でもある。

 うちのバカ猫は何も語らないが、彼が夢の中で見ているものは、このような宇宙論であったりするのではないか。

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 そんな話をある女性の友人にしてみたら、

「バカねえ、猫は寝てるときに、よだれ出してるよ。食べ物の夢にきまってるじゃないの」

 私が深い敗北感を味わうのは、このような時である。けだしロマンとは女と語り合うものではない。

[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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