2009年1月26日月曜日

【猫哲学41】 猫アノミー。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃


 子猫を育てるには、毛布か毛皮が不可欠である。これなしでは、まともな猫に育たない。

 ホントか? なんでやねん…、と思われる方も多いかもしれない。これはとても大事なことなので、今回はこの周辺のことを書いておきたいと思う。

 もう一年ほど前のことになるが、まだ目もよく開いていないチビ猫を友人に押しつけられた私は、腹を立てるのと同時に、とても困惑していた。冗談じゃない、私の孤高のひとり暮らしに、こんな椿入者を受け入れてたまるか、そう叫びたかった。だが当の友人は、すたこら去ってしまったのでもういない。いかに迷惑だからといって、こんなに小さな命を殺したり捨てたりなんてできる私ではないのである。

 ああ、ちくしょう。しょうがない。覚悟を決めた私が最初にしたことは、いつも椅子に置いて使っている毛皮のクッション(もちろんフェイクね)をくるくる巻いて筒型にし、チビ猫ともども段ボール箱に放り込む、ということだった。

 予想した通り猫のやつ、毛皮のクッションにしがみついてぐーすか寝てしまったのであった。

 なんで私がこんな知識をもっているのかというと、大学生のときに教育学と動物学を学んだからである。幼い動物にとって何が最も大切なのかを、そのときに知った。知っただけでなく、チビ猫にすぐさま応用できるところが、私のえらいところなのだ。えへん。

 さて、この場合の毛皮のクッションに何の意味があるのかといえば、それは母猫のかわりである。子猫は母猫にしがみついて寝ることで、深い心地よさと安心感に満たされる。やがてこの豊かな感情は分化していき、落ち着き、やさしさ、思いやりというような大切な性質を発育させる源になる。このタイミングで充分な安心感が得られなければ、おどおどびくびくした気の短いヒステリー猫になってしまうのである。

 私の家には母猫はいないし、どこかで雌猫をスカウトしてきたとしてもチビ猫を育ててくれる保証はないし、ならば次善の策として母猫の代わりになるような感触のものを、というわけでクッションを流用したわけだ。毛皮がなければ、毛布の切れっぱしでもよい。とにかく、暖かくてふわふわしたものがよい。

 以上のことは、実は動物学者が実験で確かめた事実である。有名な実験なので、ご紹介しよう。
 猿という動物は、子供のときには母猿にしがみついて育つ。ところが動物園などという異常な環境では、子猿を抱こうとしない母猿がときどきでてくる。母に見捨てられた子猿をどうしようか、とある動物学者は考えて、小猿にザル※に抱きつかせてみた。母猿のかわりにザル? 何でやねん! みなさんそう思われるだろう。私もそう思う。動物学者というのも、きっと変人が多いにちがいない。

(※竹籠を編んで、いちおう猿のような形にしたもの)

 その実験では、ザルを抱かされた小猿は成長しても行動異常を示し、(雌猿だったそうだが)子どもを生んでも育てようとしなかった。

 そこでその動物学者は、また別の見捨てられた子猿に、こんどは毛皮でくるんだザルを抱かせてみた。(まだザルにこだわってますねえ、この人)。そしたらその猿は、成長しても異常行動を起こさず、子育てもきちんとできたという。

 子どものときに触れていたものの感触の違いが、後になるとこんなに大きな動物としての性質の差異をもたらすという研究である。ぜひ覚えておいていただきたいものだ。なぜなら、人間だって同じことなのだから。

 猿や猫がそういうことなら、人間の場合はどうなのか。このことを端的に教えてくれる、ある事例を紹介しよう。これも有名なので、知っている人は知っていると思うが。

 さてお話は、英国はロンドン。19世紀に起きたことである。

 この時代のロンドンというのは世界有数の大都会で、しかし下水道などは発達しておらず、とくに下町やなんかは不潔きわまりない街だったらしい。そのためか(いや、もろにそのせいだろう)、19世紀のロンドンは三度もコレラの大流行に見舞われて、何万人もの死者がでる被害にあった。感染した人の数は100万人のオーダーだろう。

 ロンドン市当局は、最終的には下水道を完備することでコレラの流行を克服するのだが、下水道工事には何年もの時間が必要だった。その工事の間、ロンドン市の衛生担当官は、コレラ感染に最も弱い乳幼児を、不潔な下町にそのまま置いておくのではなくて、設備の整った施設に収容し、集中して衛生管理すればコレラから守れると考えた。

 しかしその時代、大病院なんて施設はまだほとんどないし、他に適当な施設もないというので、教会と修道院が乳幼児の集中隔離施設として利用された。

 だが問題は、何万人もの赤ん坊のめんどうをいったい誰がみるのかという人材の確保で、これが決定的に不足していた。下町の女を雇ったんじゃあ隔離したことにならないからね。結局、平均100人の赤ん坊を一人の修道女がめんどうをみるという人手不足きわまりない事態となってしまった。

 そして三ヶ月も過ぎる頃から、異変が起き始めた。収容された乳幼児のほとんどが、発育異常、授乳障害、免疫障害などの症状を示し始め、コレラではなく単なる風邪のような、ありふれた感染症でどんどん死にはじめた。何が原因なのかわからない。ついに収容された乳幼児の死亡率が90%を超えると、ロンドン市当局は恐怖とともに自らの失敗を認めるしかなかったのである。

 あまりにも苦い失敗であった。しかも原因がよくわからない。ところがそこに、ある修道院での奇妙な話が伝えられた。その修道院でも人員は足らず、一人の修道女あたり100人の赤ん坊の世話をやいていたという。そこでもやはり赤ん坊はバタバタと死んでいったのだが、あるひとりのシスターが受け持っていた部屋だけが、死者ゼロなのだ。死者どころか、100人全員がいたって健康なのだという。中世だったらこのシスター、魔女だってことにされて火あぶりだよ。

 さっそくそのシスターが呼び出され、いったいどんな魔法を使ったのか、厳しく質問された。彼女いわく

「いいえ、私は先輩シスターたちと全く同じことしかしていません」

 そんな返答だけで、引っ込むわけにはいかないよな。衛生担当官たちは、とにかくしつこく重箱の隅をつつくごとくシスターを問いつめた。やがてシスターも必死になって思い出そうとしながら「そういえば…」と自信なさそうにいった。

「私は、朝昼晩、赤ちゃんひとりひとりに声をかけていました」

 これがすべてへの答えだったのだ。赤ん坊というのは、ミルクだけで育つのではないのである。必要なあるべき程度の人間的なふれあいがなければ、栄養状態がどうであろうと死んでしまうのものなのだ。赤ちゃんは、淋しいから死ぬのである。なんてこった。あまりにもあたりまえで、でも、それまで誰も気がつかなかったんだよねー。

 この現象は現代では常識になり、ホスピタリズム(=施設病)という名もついて、看護婦さんなら誰でも知っている当たりまえの常識となっている。だが、施設が問題なのではもちろんない。このことの最も本質的な意味とは、人間が生きていくために本当は何が必要なのかということへの、決定的な答えなのだ。いや、人間だけの話ではないな。猫でも猿でもいっしょだね。みんなそうなんだけど、必要なときに必要なだけのやさしい刺激が与えられないかぎり、猫は猫になれない、猿は猿になれない、人間は人間になれない。そういうお話なのである。

 私は話をわかりやすくするために、バカ猫にとっての毛皮のクッションを例をあげたつもりである。ザルでもいいけどね。では、あなたにとっての毛皮のクッションとは何だったのか、一度よく思い出してごらんになるといい。とても穏やかな気持ちになれるはずだ(注)。

(注)それを思い出せば、穏やかな気持ちになんか絶対になれない! という人がいるのも知っている。その人に必要なのは、カウンセリングですね。そういう人は、ザルを抱かされて育ったのだ。気の毒に。でも修正はきく。思い出し、認識することで、その修正への一歩をすでに踏み出している。大丈夫、安心しなさい。

 あ、さてさてさて。とても長い前置きだったが、今回で私が書いておきたかったのは、いま世間で流行っている、というか目立つので気になる家庭内暴力のことである。児童虐待ね。

 家庭内暴力というと、20年ほど前は子どもが親に暴力を振るうのが典型的だったが、最近は親が子供を虐待するのが目立つ。よく考えるとそれって、同じ連中がやってるんじゃないかと思うのだが、こういう指摘は誰もしようとしないな。

 しつこいようだけど、もう一度書く。つまり20年前は親を殴っていたガキどもが、今は親になって、子どもを殴っているんだろうといいたいわけだ。まったくもってろくでもない連中だなとは思うが、私はあまりあいつらを責めようとは思わない。むしろ、かわいそうだと思う。

 これは人でも猫でもいっしょだが、まともな育ち方をすれば、他者に血を流させるような暴力をふるうという一線は、なかなか超えられないものなのである。まして、親や子に対してなんて、自分のアイデンティティのすべてをかなぐり捨てるような覚悟がなければ、殴ったりなんてできないはずだ。ちょっと小突く程度でさえ、ものすごい思い切りが必要なのだ。嘘だと思うのなら、一度やってごらんなさいって。

 だから、ああいう暴力を振るう連中は、まともな育てられ方をしなかったのだ。はっきりいうと、親の責任である。親はいったい、どんな育て方をしたのか。

 そういう意味で、あの酒鬼薔薇事件にしても、福岡バスジャック包丁殺人事件にしても、当の少年を分析するだけでは何もわからないと思っている。必要なのは、母親の分析である(注)。母親自身がどんな育てられ方をしたのか。そして母親は少年をどのように育てたのか。これがわからなければ、謎を解読するキーは得ることができないだろう。

(注)もちろん父親にも責任があるが、どうせ不在だったに違いないので、異常行動の分析においては、何の参考にもならないのである。

 それにしても、親が子を虐待するような事件が、こうも一時期に集中して起きているということは、社会全体がある種の病気にかかっていることを意味している。その病気とは何か。社会学者デュルケムは、この現象をアノミーと呼んだ。

 デュルケムが定義したアノミーとは、革命や戦乱で世の中が乱れると犯罪、自殺、病気などが発生しやすくなり、その主な原因は倫理規範の崩壊である、というものだ。

 近代的なアノミー概念の成立は、第一次世界大戦後のドイツの経験からもたらされた。敗戦により崩壊した社会秩序の下で犯罪や自殺が増加するのは、まあ当然のことだが、社会学が注目したのは子どもたちだった。少年の非行が増えたのはもっともだとしても、多くの子どもたちが発育不良や感染症でバタバタと死んでいった。単なる栄養不良では説明できない数がその犠牲になった。

 ここで読者のみなさんには、19世紀のロンドン、修道院でバタバタと死んでいった赤ちゃんたちを思い出していただきたい。同じようなことが、ドイツの少年たちに起きたということなのだ。

 社会が混乱し、倫理や規範が崩壊して大人たちがダメになってしまうと、それを見ている子どもたちは、生きるエネルギーを失ってしまうのだ。近代的なアノミーの概念で最も重要なのは、この点である。
 わかりました? ちょっと難しい話を書いてしまいましたが、アノミーという言葉は、覚えておいてくださいね。なぜかというと、いまこの日本でまさに進行中なのが、このアノミーなのだから。

 日本は敗戦国である。

 敗戦国でありながら、物質的、経済的には崩壊したものの、倫理的な意味では崩壊しなかった。国民の主人である天皇がそのままだったからだ。社会秩序は維持され、道徳は荒廃せず、人々は一斉に再建に向けて働いた。それが、戦後高度経済成長の頃のことだ。

 だが心の深いところでは、崩壊は徐々に進行していた。国民の誰もが天皇は偽物であり、嘘であることを、本音のレベルでは感じ取っていたからだ。フロイト流にいうと、無意識までは騙せないということだな。

 心の崩壊が最も端的に現れたのが、家庭教育だった。親が子に、本当は何が正しいのかを教えることができない。親だって知らないのだものな。そして、そういう教育を受けた(つまりまともな教育を受けられなかった)若者たちは、暴力的で思いやりがなく、無責任な、くだらない連中に育った。いわゆる暴力革命世代である。彼らが暴れることで、日本における敗戦後アノミーが目に見える形になったといっていい。この世代を、敗戦後アノミー第一世代と呼ぼう。団塊の世代ともいう。

 ちなみに暴力革命世代=アノミー第一世代は、今では彼らが若かったときにあれほど悪し様に批判した大企業の幹部になって、乱脈経営、汚職、腐敗、政治癒着の主役となってご活躍中である。日本経済が沈滞している真の原因は、この連中なのである。ほんとにもう、ろくでもないやつらだよなー。ナベツネって野郎は、東大共産党セクトのキャップだったんだぜ。オレは、ああいう連中を一生信用などしないし、許しもしないからな。おっと、暴走しちゃった。

 で、そのろくでなし連中の子どもの世代は、どんな家庭教育を受けたのか。まともな教育など、受けていないさ。親が、子どもを教える資格なんてゼロの連中だったんだからな。このかわいそうな子どもたちを、敗戦後アノミー第二世代と呼ぼう。彼らは、まともな家庭教育を受けたのか。そんなことあるわけないさ。家では母親も働きに出て、ひとりでほっておかれた。親父は酒に麻雀にうつつをぬかして深夜まで帰ってこない。しかも、この子たちが学校に通うような年齢になると、学校までが崩壊していた。校内暴力の時代だ。

 そして、この第二世代が、今では大人になり、結婚もして、生まれた子どもを虐待しているというわけだ。「敗戦後アノミーによる家庭教育崩壊の世代間連鎖」と、私が呼ぶ現象だ。その彼らの子どもたちである第三世代が成長してくると、日本はいったいどうなっていくのだろう。荒廃が進行するのは、まず間違いない。あんまり長生きしたくないのよね、私としては。

 敗戦後アノミーのゆるやかな進行は、社会のあらゆる面での崩壊をもたらしている。これが今の日本だ。しかもどうしようもないのは、この現象を引き起こしている当の本人たちに、まったく自覚がないことだ。くわえて政府も、文部科学省も、こうした実態にまったく関心がない。

 ま、私ひとりが腹を立ててもどうなることではない。猫といっしょに昼寝でもしようっと。

 さて、こんなことまで書いちゃったら、あまりにも希望がなさすぎるので、最後に、お口直しをひとつ。人間が、本来はどんな力を持っているのかについて教えてくれる、心理学からの症例をご紹介します。

 ある精神病院の病棟に、ひとりの少女が入院してきた。推定12歳。彼女は何を聞いても見ても全く反応しない子だった。ベッドに寝たきりで、手も足も動かさない。視線さえ動かさない。何も食べようともしないので、強制的に流動食をとらせていた。

 普通こういう症状は、何か神経的な疾患が原因とみなされて、積極的な治療の対象にはされないのだが、この子を見た担当の女医は、何か気になる感じがあったので、放っておけなかった。

 女医はそれ以来、一日に一度は必ずこの女の子を見に行き、ちょっと声をかけたり、あるいは彼女のベッドの傍らで本を読んで過ごしたりすることもあった。こんな日々が一年ほど続いた。

 変化は突然にやってきた。その日も女医は女の子の側で本を読んでいたのだが、ふと気がつくと、女の子の視線がこちらを向いている。いつもじっと天井しか見ていなかった少女の目が自分を見ていることだけでも医者としては飛び上がって驚くところだが、驚きはそれでは終わらなかった。

「あなたは、私のお母さんですか?」

 と少女は、はっきりとした声でいったのである。

「いいえ、私はお医者さんですよ」

「そうですか。いつも私のそばにいるので、お母さんだと思いました」

 この少女がどんな育てられ方をしたのかについて、記録はない。しかし、まともな人間的コミュニケーションを与えられないまま育てられたのは確かであろう。そうして失われてしまった正常な発育過程は、この女医のような注意深く忍耐強い愛情をもってすれば、埋め合わせることができるのである。人間はロボットではない。失われたものだって取り返すことのできる、柔軟性をもった強い生き物なのだ。

 だからこそ、ですね。子どもはちゃんと育てようね。そのためには、あなたがちゃんとした大人になろうね。というのが、今回の教訓なのであった。ああ、ちょっと疲れた。

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「そういえば、ひとつの世代にかたまってるよね、あの連中」

 いつもの超美女は、笑いながらそういった。

「そうなんだよ。団塊の世代なんていって、数が多いんだ」

「あなたはどうなのよ」

「そのすぐ下の世代さ。人数も少ないし」

「いじめられたんでしょ」

「うん、実は」

「いつまでも根に持つんじゃないの」

「そういう話をしているんじゃないだろ!」

「よしよし。でも、あの世代って、いいオトコが多いのよね」

 …いま決めた。もう、この女とは口をきかん。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。][original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com][mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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