2009年1月25日日曜日

【猫哲学27】 猫主体性。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃



 うちの猫に主体性というものはない。

 なにを急にいいだすのか、きさまは以前「猫に心がある」と書いていたではないか、と思われる方もいらっしゃるかもしれないが、どうぞ誤解なきよう。私は、猫は心も精神も意志も魂も持っていると確信するものであるが、主体性のようにめんどくさいものは所有していないといっているのである。

 うちの猫の環境は、彼が選び取ったものではない。私が毎日与えるメシも、彼が選択したものではない。彼の身体の縞模様も、彼の意志とは無関係にあのようになっている。彼はそれらのいっさいに、不満をいわない。というよりも、別の選択の可能性を考えるなど、単にじゃまくさいだけだろう。それでいて、ひたすら平和に満足げにぐーすか寝るのである。これらのどこに主体性などありえようか。というよりも、主体性という言葉が発生する余地が、そもそもない構造になっていることがおわかりだろうか。

 だから、猫の生のあり様を端的に表現する言葉があるとすれば、それは「なりゆき」であろう。ああ、いい言葉だ。「主体性」に比べて何と柔軟で、しなやかで、趣をもった言葉ではないか。猫哲学探求の到達点ともいうべき言葉だな。なあバカ猫、そう思わないか?

 やっぱり寝てるか。

「おまえらは主体性のないやつだ」

 私が中学生のときの担任の教師が、よくそんなことをわめいていた。そういわれたとき私は、自分の内面をじっくりみつめなおし、どこをどう探しても「主体性」なるもののかけらもないことを発見して、「そうか、ぼくは主体性のない子なんだ」と奇妙な納得をしたものである。

 私は今ごろになって、うちのバカ猫を通して主体性というものを語ってみたりもするのだが、そんなもん、ないに決まっている。主体性という概念など、はじめから幻なのだ。

 こんなことをいうと、またむちゃくちゃを書きはじめたかとうんざりなさるかもしれないが、本当なのである。主体性という言葉には、詐欺に近いいかがわしさが満ちていることにどうか気付いていただきたいものだ。

 まず、さきほどの中学校教師(こいつは私をいじめやがったから、先生などと呼ばないのだ)。彼は、言葉の使い方を間違えている。「おまえらには自主性が足りない」といえばよかったのだ。それを、かっこつけやがって主体性などという言葉を使うから、論理矛盾に陥っているのである。素直な中学生だった私に見抜かれなくてよかったね。

 何が論理矛盾なのかを、解説しよう。

 彼(中学校教師)のいいたいことというのは

「おれがいちいち叱らなくても、自主的に勉強しろ」
「自主的に掃除しろ」
「自主的に良い子でいろ」

 というようなことであろう。教師=生徒という役割規定のなかでは、本来的には彼が強制しなければならない立場であるのに、強制する前に私たちが自分から進んで、しかも私たちの選択した行為としてやれというのである。要は楽をしたいだけだろう。しかしこれでは「自主性」を「強制」していることになる。じつに明々白々な論理矛盾である。

 しかも、もし仮に主体性というものが存在したとすれば、「勉強をしない」「掃除をしない」「良い子にならない」という意志を主体的に選び取ることもまたできるわけであるから、教師の目の前にやる気のなさそうな私がいたとしても、それは私によって主体的に選び取られた態度かもしれないではないか。つまり主体性のあるなしというのは、外部からは原理的に観察不可能なものであるはずだ。

 ところがなぜかこの教師が主体性なる言葉を無批判に使うことによって、この構造は隠蔽されてしまっていたのだった。いや、あの教師がそんな狡猾なテクニックを使えるほど頭がいいとは思えないから、きっと自分でも騙されていたのだろう。

 今回は、冒頭から理屈ごりごりって感じだな。いちおう哲学をタイトルにしているんだものね、こんなのもまあ、あっていいでしょ。

 この教師のように、日本人のほとんどが主体性という言葉を間違って使っている。

「主体的に勉強しろ」=「がみがみ言う前に自主的に勉強しろ」=教師
「主体的に働け」=「命令される前に自主的に仕事をしろ」=管理職
「主体的に政治参加せよ」=「さっさと寄付金を持ってこい」=政治家
「主体的に革命家であれ」=「自分から喜んで俺の命令に従え」=革命家
「主体的にドイツ人たれ」=「疑問を抱かず進んでに私の奴隷になれ」=アドルフ・ヒトラー

 つまり主体性という言葉は、本来は強制したいことを、強制される前に自分から選んでそうしたように思わせておくほうが都合がいいので、騙して人を動かそうとするための言葉なのだ。

 言葉の本来の哲学的な意味からすれば、

「勉強をしないことを主体的に選び取る」
「働かないことを主体的に決断する」
「反国家的な態度を主体的に実践する」

 こんな「主体的」な態度も成立するはずなのだが、なぜかこちらは無視されてしまう。そういう習慣になっているらしい。

 だから主体性という言葉は、常に強制とセットになっている。強制されるか、自ら進んでするか、二者択一なのである。ということは、つまり強制と同じことではないか。そしてそれが強制であることを覆い隠すための欺瞞の道具として、主体性という言葉が使われるのだ。何とまあ狡猾な仕掛けであることか。

 でもねえ、いつからそんな風に決まってしまったのだろう。私は、旗振り世代が怪しいとにらんでいる。あいつらに「私の主体性がね…」なんて話しかけてごらんよ、目がうるうるしてくるよ。団塊革命世代にとっては、主体性とはロマンであったのだ。ホントにまったく、なんちゅう頭の悪い連中だろうか。

 おっと、口がすべった。いや、筆がすべった、じゃなくてキータッチがすべった。まあ、本音だけど。

 さて、ここまででいいたいことは尽きているのだが、猫哲学はそのタイトルからくるイメージとは違って本格哲学であるから(え? 知らなかった? 実は私も…)、ここからは主体性の意味を哲学的に解体しよう。

 まず、主体性という言葉は「主体」に「性」がくっついているのだから、いい換えるなら「主体っぽい」「主体みたいな」「主体って感じ」「主体やねんけどな」等々ということだろうか。だが、そもそも主体の意味がわからないので、これじゃあなんにもわからない。

 では主体とは何か。これが皆目わからない。例によって広辞苑にあたってみると…!、…!、…(脱力)、いや、広辞苑は無視しよう。お暇なときにあなたも一度ひもといてごらんになるといい。あいた口がふさがらなくなるから。

 仕方がないので、私の20年来愛用のボロ国語辞典、講談社学術文庫版昭和54年発行でみてみよう。おっと、こちらもすごいことになっているなあ…。

==【以下、引用】=======================
1.他に働きかけるもとになるもの。
2.性質・状態・働きの基になる本体。知・情・意の働きの統一体とし
ての実体。主観。←客体。「個人は自由の--だ」
3.個人に内在し、しかも個人性とは独立した抽象的な純粋自我
4.団体や機械の主要部分
=======================【引用終わり】==

 うえ~! ちっとも参考にならない。これを書いた人の頭はどうなっているのだろう。これで意味が理解できると思ったのかなあ。ぜんぜんだめじゃん。ちょっと分析してみよう。

【再引用】1.他に働きかけるもとになるもの。2.性質・状態・働きの基になる本体。知・情・意の働きの統一体とし  ての実体。主観。←客体。「個人は自由の--だ」

 これを書いた人は、化学や物理現象の主体と、人間の意志や行動の主体を、同レベルのものとみなして統合して記述したかったんだろうな。それにしても、2.の途中から科学的な主体と人間的な主体を突然に並べてしまったので、これっていったいどういうこと、としか思えない。

 科学的な主体というのは、「燃焼の主体は酸素である」とか、「落下エネルギーの主体は重力である」みたいな記述で出てくるやつのことなんだけどね。

 しかしまあ、かなり頭のいい人でも、読んで理解するのは難しいぞ。しかも間違っているし。

 何が間違いかって? それはですね、科学的な主体など、この世のどこにも存在しないからだ。

 うむ、ここんとこ、わかりにくいね。現代科学の認識における誤謬がまぎれこんでおるので、ひどく混乱している。私は、ここでは人間的な主体について書こうと思っているのだが、そのまえにこっちをやっつけておく必要がありそうだ。かなり回り道になるけど、いっときましょうか。

【科学的主体など存在しないぞ的猫哲学論】

「燃焼の主体は酸素である」

 このような記述をよくみかける。しかし、これは間違った認識であり日本語である。以下、説明しましょう。

 酸素と水素が燃えて水ができる。うん、すごいぞ。ロケットだって飛ばすほどのエネルギーだ。さて問題です。このとき燃えているのは水素でしょうか。酸素でしょうか。

 正解は、「両方で燃えている」。

 どちらが欠けても燃焼という事態は成立しないものね。だが、こんな反論はありえるだろう。
「燃焼とは酸化のことである。何かが酸化することを燃焼といっているのだから、この場合は水素が酸化しているので、燃えているのは水素である」。

 なるほど、一見もっともらしい。だが、それは人間の都合で一方から一方を説明したものであり、たとえば右手と左手では右手が主役だなどといっているようなものだ。どちらかに説明の主眼をおけば、どちらかは脇役になる。しかし、水素と酸素は人間の価値観の都合で反応しているのではない。燃焼を酸化と定義したのは人間であり、その定義の必然性も人間の思いこみ以外の何ものでもないのだ。

 ところで、水素と酸素が自然状態で集まってきて燃えるなどというのは滅多にないことなので、この場合は、おそらく人間が水素と酸素を集めてもってきて火をつけたと考えてよい。そのような意味では
「燃焼の主体は、人間である」

 などということもできる。できるが、無意味である。何を言ったことにもならないからだ。そんなことをいい始めたら、宇宙の森羅万象のすべての主体は人間であるともいえる。ナンセンスだけど。だが、このナンセンスを大まじめに論じている方々がいらっしゃるという、超恥ずかしい現実も世の中にはあるのでして。「人間主義」というのですが、あんまりアホらしいので批判すらしないぞ、わが猫哲学では。

 べつの例をあげよう。

「落下エネルギーの主体は重力である」

 という文章がある。これもまた、何をいおうとしているのかがよくわからない。せいぜい素直に解釈するなら

「落下エネルギーを発生させているのは重力である」あるいは

「落下エネルギーの源は重力である」

 みたいなことにでもなりましょうか。これを読んですぐに笑い出したあなたはするどい。そして、この問題の本質を理解している。何がおかしいのか。以下、ご説明しましょう。

 落下という現象がある。ものみな落ちるのである。この現象を不思議に思って一生懸命考えた人が、落下の際に働いている力を重力と呼ぼうということに決めた。落下エネルギーとは、その重力を、一般的なエネルギーと比較できるように形を変えて記述したものだ。つまり、重力の説明の変形である。ということは

「落下エネルギーの主体は重力である」という前にあげた文章は

「重力の主体は重力である」

 といっていることになる。おっと、また出たトートロジー。さあみなさん笑ってあげましょう。

 そろそろまとめにいこう。

 何かの化学的、物理的過程があったとしよう。それは、さまざまな要素からできている。(水素と酸素の例でいえば、熱、光、水、場合によっては、音など)。それらの要素のどれが主役であり、どれが副次的なものであるかを決めることはできない。決めたとしても、それは人間の概念理解の型がそれを決めているだけで、当の現象は、それとは全くかかわりを持たない。別の表現でいうと、知り得ない。

 知り得ないのだから、それは永遠に判断を保留されるべきことだ。そんなことに名前をつけて、何かわかった気になってはいけない。それが科学的現象に主体は存在しないということの意味である。

          ◇         ◇

 では、人間における主体はどうか。実は、これも幻想である。幻想なのだが、心の問題でもあるので、「幻想として実在している」という議論も成り立つ。だから、実在しないとまではいえないのだ。いいたいんだけどね、私としては。なので、何が幻想なのかを語っておこう。

【人間的主体なんて幻想さ的猫哲学論】

 そもそも、主体についての議論は古くからあって、ギリシア時代から考えられてきたのだそうだ。哲学の入門書にそう書いてあった。

 その本によると、昔は神の意志というのが絶対的で、個人の意志というのは些末なもの、自然や運命に弄ばれるどーでもいいもののように思われていたんだと。

 だけどそれってイヤ、納得できない。私とは何かもっと自立した意志の担い手であってほしい、その担い手が私には備わっているんじゃないか、備わっていてほしいな、備わっていなければならないぞ、と考えた人がいて、その何かをとりあえず主体と呼んでみた。これが主体概念の成立の歴史とされている。

 デカルトなんて人が「考える私がある」なんていっちゃったので、よけいに主体の存在がゆるぎないもののように考えられるようになった、なんて歴史もある。

 そんなこんなで今では、人が意志したり行為したりするときの根源的実体として、主体という言葉が位置づけられている。しかし待てよ、本当にそんな言葉が必要なのか?

「私は、かくのごとく意志する」

「私は、かくのごとく行為する」

 これが普通のいい方である。このように本質的かつ簡素な表現が成立しているときに、なにゆえ主体などという曖昧な主語やら目的語やらわからん変な言葉が必要なのだ。私にはまったくわからない。いや、わからない以上に、納得できない。

 さてこのへんで、もう一度さっきの国語辞典の定義を引用してみよう。

【再引用】3.個人に内在し、しかも個人性とは独立した抽象的な純粋自我

 すっげー! なんちゅう文章や。これを読んで理解できた人、手を上げて。いませんね。私も50回は読んでから、やっと何がいいたいのかわかってきました。

 まず「個人に内在し」という、これがいけない。内在どころか存在すらしていないのが主体というものなのだ。さらに、「個人性とは独立した」なんて書いてはいけない。独立であるはずがないのだ。で、「抽象的な純粋自我」ときた。抽象的なのはまあそうなのだが、純粋かどうかなんて関係ないだろうに。ふうー、この文章の解体をやりはじめたら止まらなくなるので、やめておいて、いよいよ結論にいこう。

 主体とは概念である。実体などない。私が神から離れて自ら意志し、行動しようとするとき(つまり意志的に生きようとするときには)ともすればサボりがちの「私」にムチうったりすることも必要だが、そのときにムチうつのは誰かというとやはり私なのである。それは私が私を対象化したときに論理の必然として自動的に発現している構造なのであって、私が分裂したわけではない。自分を概念操作しようとしたら自分のなかで勝手にできてしまう、仮構なのである。わかる?

 私はあくまで私である。それは抽象化する必要がない。だけど、自分に「しっかりせい!」などといおうとしたら、対象としての「私」が存在するかのようにみえてくる。ではその対象を対象化したものは何者なのだと考えたとき、実はそこにも「私」がいる。私がジャンプしただけなのだ。べつに増殖したわけじゃない。それを、勘違いした人たちは、その別の私を「主体」と呼んできた。

 しかしそれはあくまで、言語と論理がそのようになっているからそのようにみえているだけの、仮構である。実体ではない。だから一瞬しか持続しない。自分の心の中身のことをちょっとでも考えてごらん。たしかに考えられるが、いつのまにかそのようなことを考えていない自分に気付くはずだ。つまり、思考するときの単なる仮構が一瞬あるだけなのだ。

 主体という名の私はいない。それは論理構造上の一瞬の仮構である。ただしこの一行は、ウィトゲンシュタインからのパクりではない、笑。

「私は主体的に決意する」
「私は主体的に行動する」

 これらの文章にたいした意味はない。

「私は好きに考える」
「私は勝手に行動する」

 このようにいい換えて、主体など消すことができてしまう。ところが以下のように書いてみると、読者は「主体概念」の毒に気付かれることだろう。

「おまえら、主体的に決意しろよ」
「おまえら、主体的に行動せんかい」

 このいい方そのものが論理矛盾をはらんでいるのは前に書いた通りだが、ここでは「主体という仮構」を利用して、ひとの意志を命令者が乗っ取ろうとしているのである。悪辣な騙しである。ああ革命世代。

 何と多くの人たちが騙されてきたことか。近代で起きた多くの紛争・革命のたぐいで、人々はいつも「主体だ」と叫んできた。そんなもの、ないのである。いるのは私だけなのだ。

 主体という言葉は、自らをも騙すことがある。何かに「主体的にとり組む」ような際に、本当はしたくなくても、それをしてしまうように自らを強制しちゃったりするものなのだ。

 お隣の国の北のほうでは、「主体思想」という見事なスローガンでもって、国民の心を縛っているみたい。これも「主体」という言葉の持つ毒の必然的帰結である。

 問題を広げすぎてしまったぞ、もうやめとこ。今回はずいぶんカタい内容だったな。でもいちおう哲学なんだし。たまにはこんなのも頭の体操ということでいかが? 私はけっこう楽しかったよ。ではまた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 こんなことをとある美女と話しながら食事をしていたら、彼女はこういった。

「あなたがいま、あたしと食事をしていることについての主体性について述べよ」

「あのなあ、だからそんなもん存在しないといっておるだろ」

「あなたは、あたしと食事をしてもよかったし、しなくてもよかった。でもあなたはいま、そうしている。その間にある違いっていったいなによ」

「それは、なりゆきってやつだよ」

「違うわね。あなたがあたしにホレているから。それが主体性ってやつの正体よ」

 なにをこのくそっ! 図々しい女だな! あれ? 待てよ、主体性ってそういうことだったのか!? …哲学的洞察とは、このようなことをいうのかな、あれれ…?


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

0 件のコメント:

コメントを投稿