2009年1月26日月曜日
【猫哲学63】 口下手で悪かったな。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
(2004/03/25)
猫は無口な動物である。こんなことは前にも書いたよな。
わが家のバカ猫は、さいきんではほとんど声を出さなくなってしまった。たまに声を出すのは寝言をいうときぐらいなものだ。それはそれでべつに異常だというわけでもない。猫を飼っている人なら誰でも知っていることだが、やつらは大人になるにしたがって、どんどん声を省略するようになっていくものなのだ。
以前にも書いたが、猫はさまざまなコミュニケーションの道具をもっていて、そのなかで声というのは、最後の非常手段なのである。それ以外の身振りや表情だけを使って、できることならなにもかも済ませてしまいたいというのが連中の生き方なのだ。
もともと捕食動物であり、しかも小型で力の強くない猫は、獲物にも天敵にもできるだけ存在が気付かれないでいることが望ましい。それで声という手段は、可能なかぎり使用しないよう本能づけられているというわけだ。
だから私とバカ猫との生活は、へんな静けさに満ちている。私もじつは無口な男なので、おたがいにまったく声を出さないままあらゆることが進行していく。
たとえば猫が私にメシをくれというときには、本を読んでいる私の視野のぎりぎり片隅の、かろうじて目にはいるところまでそっと歩いてきて、私にちらっと視線を送るだけである。それだけでヤツの要求を了解した私は、だまってメシを用意してやる。
またヤツが私の膝で寝たいと思ったときは、私の横にきて10秒ほどじっとしている。それを私が無視したら、膝で寝ていいぞというサインである。駄猫はするりと私の膝にのって丸くなる。私がそれを拒否したい思ったら、ちらっと猫の顔をみる。そうしたらヤツは諦めて、座布団の上までいって寝てしまう。この間、なんの音も声もない。
こうして書いてみるとずいぶんへんな感じだが、猫を飼っている人たちの日常とはだいたいにおいてこんなものである。こんなようになっていないとしたら、その人は猫を飼うことに失敗している。猫が飼い主に声をだすということは、飼い主が猫の意志をわかっていないということなのだから。
こうした状況は、私にとって心地よい。先に私は無口な男だと書いたが、それはハンパじゃないのだ。一日中だれとも口をきかないですごしたとしてもまったく平気である。一日どころではない。口をきく必要がなければ、三日だろうが一週間だろうがぜんぜん平気なのだ。以前に十日ほどひとり旅をしたことがあったが、その間、まったく誰ともしゃべらずに過ごした。たまに声を出したのは、飯屋で食べ物を注文したときだけだ。「あのー、ほっけ定食お願いします」。私はそれでも生きていけるやつなのである。
ある女性とそんな話をしていたら、「うそでしょー!」といわれてしまった。彼女は、私をおしゃべりだと思っていたというのだ。ことほどさように、自分が自分に抱いているのイメージというのは、他人が受け止めているものとの差があるということなのだろう。
まあたしかに、私は広告業界のようなところにいたから、なにがしか話をしないと生きていくことはできなかった。しかしそれは、必要にせまられてしかたなくやっていたことで、好きこのんでおしゃべりなんかしていたわけではない。できることなら口をつぐんでいたいのが、私の本来の性格なのである。
[突然ですが、小川悦子・注] 筆者のいうことを、あまり信じてはいけませーん。私は仕事をごいっしょしたこともあるけど、この人、しゃべるしゃべる。
[筆者・反注] あ!こらっ、悦ちゃん。あれはだな、仕事なんだからしかたなくやっていたんだぞ。読者に誤解をあたえるようなことをいうなよ。
[小川悦子・反注] そーっすかー? でも楽しそうでしたよー。
[筆者・再反注] だ、か、らー、仕事なんだよ。笑顔のひとつも必要なんだって。
[小川悦子・再々反注] そっかなー。たしかに口数は多くないけど、いうことはきついから、けっきょくおなじことじゃないっすかー?
ゴホンッ! なんだかへんなじゃまがはいったが、つまり私は無口な男なのである。(悦ちゃん、だまってないと、次のパーティでよさげなワインを飲ませないからな!)。
ということなので、私はプレゼンテーションというのがとても苦手だった。
[アハハ、うそうそ:小川悦子・注]
[ていっ!猫パーンチ!:筆者・反注]
いや、マジに苦手だったのである。プレゼンというやつが。
なぜなら私は、プレゼンの場でほんとうのことを話そうとしていたからなのだ。いまごろになって気がついているのだが、べつにほんとうのことを話す必要などなかったのだ。プレゼンを聞く側というのは、聞きたいことを聞きたがっているものなのである。だから、それを話せばよかったのだ。いまさら気がついても遅いが。
立て板に水という表現がある。それほどよどみなく、すらすらと言葉が出てくる人を私は知っている。それこそがプレゼン巧者である。しかし私は、そんな人の言葉を信じることができない。そのようにして出てくる言葉は、軽いのだ。口調こそ明瞭で筋が通っているように錯覚するけれども、「けっきょくなにをいっていたのかな」、とあとでよく考えてみると、なにもいっていないことがほとんどなのだ。しかし世間ではそういうのが説得力をもつことが多いのも現実だ。私はそんな人の才能を、うらやましいなーとずっと思っていた。
ところが数年前のある日のことだった、私は自分にもその才能があったことにいきなり気がついてしまったのである。
それは、いつものようにとあるプレゼンテーションにのぞんだときであった。弁士は私である。その前日、すべての準備を終えてほっとしていた私は、とても気楽になって酒を飲みにいった。いい気分で酒を飲むと、どんどん飲んでしまうのは酒飲みの正しくも哀しい性である。翌日のプレゼンのことはもちろん頭にあったが、それは夕方の予定だったのでまあいいか、てなもんであった。
私の携帯電話が鳴ったのは、もう日付が変わった頃だった。若い営業担当が電話をかけてきたのだ。
「明日のプレゼンなんですけどおー、朝一にしてください」
「え~っ!!」
「お得意があ、どうしてもそうしろっていうんですよおー」
「じゃが…」
「準備はできてるじゃないっすかあ」
「それはそうじゃが」
「ではよろしくうー(プチッ、ツーツーツー)」
「あのな…」
翌日は二日酔いである。私が朝にたいへん弱いことは、猫哲学第1回で書いたくらいだから自信がある。しかし、仕事はやらねばならない。これでメシを食っているのだからあたりまえだ。私は、やぶれかぶれでプレゼンに臨んだ。
朝一の会議室、私はまだ酔っていた。頭は通常の半分も働かない。なにも考えずに、ただしゃべるだけしかない。ところがそれが、いわゆる立板に水。さらさらつるつるどんどんと説明は進んでいく。そのとき私は初めて知ったのである。ただしゃべるだけなら、頭など使う必要はないのだ。それは一種の反射運動と惰性の連続で充分で、そのほうがむしろ流暢にいくのであった。
そのとき以来、二日酔いでプレゼンにのぞんことは何度かあった。そしていつも、ふだん以上にうまくいった。なんということだ、いったいどうしてこんなことになるのだろうか。
さて実をいうと、ここからが哲学なのである。いつも無駄口ばっかり多くてすいませんねえ。
いつものように結論からいってしまおう。多弁と能弁に、頭はいらない。それはある種の反射神経と惰性と、記憶力と無神経があればできることなのだ。
もっともらしいことを羅列するのならば、どこかで聞いたことのあるようなありきたりの言葉の行列さえあればいい。そんなものに思考力は必要ない。適度の記憶力さえあれば、出たとこ勝負でどうにでもなる。少々「ちがうかな?」と内心で思ったとしても、え~い!、いってしまえばそれで勝ちなのだ。だが反対に、目の前で起きている課題や質問に全力の誠意をもって対応しようとするなら、まず考えなくては言葉は出てこない。
私は以前の猫哲学で、この世にあるものはひとつひとつぜんぶ違うもものだと書いた。おなじように、この世で起きるできごとは、一回一回ぜんぶ違う。当然、そのできごとを記述したり表現したりする私たちの言葉も、すべて違ったものになるしかない。それらの言葉をできるだけ当を得た正確で誠実なものにするためには、私たちはそのつど創造的な作文を頭の中で組み立てる以外にないのだ。けっこうたいへんなことを私たちはいつもやっているのである。
私は、そうしたことをなんの苦労もなくらすらとやってのけることができるほど器用でもないし、頭の回転も速くない。当然、言葉を見失ったり口ごもったり、つっかえたりどもったりしながら、汗をかきかき懸命にしゃべることしかできない。私はそんな自分を、「不器用なやつだな」と自嘲してきた。
しかしよく考えてみると、そのように苦労して発された言葉というのは、その場でしか見出すことのできない、しかもそこでこそ意味を輝かせる、ひとつながりのオリジナルな詩になっていたはずだ。その価値というものは、わかる資格をもった者にしかわからないが、一度きりにして永遠の創造物なのである。
そんなにたいへんなことを、たいして努力もせず気楽にちょいちょいとやってのけることができるヤツなんて、どこにもいやしないぜと、今は気がついている。できるとしたら、神様だけじゃないだろうか。いやいや神様だって、この世をずいぶん不器用に創造したではないか。おそらく神様は、かなり口下手な野郎だろう。そんなことを、さいきんは自信を持って断言できる私なのである。
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「あなたのいいたいことはわからないでもないけど…、でもね、世の中には天才ってものがいるのよ」
いつもの超美女は、例によってなまいきなことをいう。
「まさか、きみがその天才だっていうんじゃないだろうな」
「へっへへー、実はそうなのよね」
「きみが口数の多いほうだとは、思わないが」
「天才には言葉も必要ないのよ」
この女、どこまで口のへらないやつなのだ。
[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com]
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]
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