2009年1月26日月曜日

【猫哲学58】 自分さがしって、なんじゃそりゃ。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2005/01/14)

 自分さがしの旅というものがあるらしいのである。

 イラクで首を切られて死んだあの若者について、いいたいことは数多くあるが、ここではそんなことはほっとく。戦争だ平和だなんぞということは別の話としておいといて、あのときにマスコミが「彼は自分さがしの旅でイラクに行った」と勝手に解釈して、世間も「ふ~ん、そうなんだ」と思考停止したことが、さっぱり解せないのだ。

 というわけで、ためしにうちのバカ猫を呼んできいてみた。

 おいバカ猫、ちょっとこっちへきて座りなさい。相手をしてくれたらチーズをやるから。なあおまえ、自分というのは、探すようなもんか?

「にゃ」

 違うよなあ。そもそも自分がなにかなんて、考えたことがあるか?

「にゃ」

 そうだよなあ。考える必要なんか、ぜんぜんないよなあ。それ以前におまえはおまえだもんなあ。ところでおまえ、おまえが何者かってことを、わかってるか?

「にゃ」

 わかるわけないよな。わかりたいと思うか?

「にゃ」

 思わないよな。じゃ、最後にきくけど、おまえ、自分なんてものが、そもそもわかると思うか?

「にゃ」

 うちのバカ猫は、イラクで死んだあの青年ほどにはバカではないようである。こんなことを書くと、また嫌われるんだろうな。ふん、いまさら誰に嫌われようとかまうもんか。

 さて、今回は自分さがしの話である。けっこう哲学的な話題なのだ。久々に本格哲学をいってみよう。
 さて自分である。そんなもの、宇宙の果てまで旅をしたってみつかるものと思うのか? だって、あんたはそこにいるじゃないか。ここが宇宙の果てだと想像してごらん。それであんたに、なにか変わることがあるとでもいうのかよ。

 若者というのはときとして、ここにいるのは本当の自分ではないと思うらしい。そんな気分になりたいことについてはわからないでもない。誰だって楽に生きているわけじゃないものな。若いときにはよけいにそんなもんだろう。でも、楽に生きていない自分が本当の自分じゃないと思ったとしても、じゃあ楽に生きている自分を想像したとしたら、それが本当の自分か? そうじゃないだろう。

 ああ、くだらん説教になりそうなので、方向を変えよう。

 自分をさがすために旅をする。うん、まあいい。それで仮に自分がみつかったとしよう。みつかったそれが、本当の自分か? どうやったらそれが本物だとわかる? わかるという人がいるなら、ぜひ教えていただきたいものだ。というより、それがわかるんなら、そもそもさがす必要などないんじゃないか?

 実際はもっと矮小な話なのだろう。自分が自分でないと思うのは、要は居心地が悪いといっているのではないの? じゃあ、もっと居心地のいい場所をさがして世界の果てまで旅をすれば、いつかはそういう場所がみつかることだってあるだろう。下手な鉄砲も数撃ちゃあたるってやつで、今の環境が気に入らないなら気に入る環境まで移動すりゃあ、それはそれで気分がいいだろうさ。

 そのことを否定するつもりはぜんぜんない。人生とはだいたいにおいてそのようなものだと肯定しよう。ただ、そのことで自分がみつかったというのは、違うだろうといっているのだ。その人は、たぶん若者だろうが、自分とは環境との相性のことだと考えて、自分をみつける旅をしたのだろうけど、その場合でいうと、みつかったのは都合のいい環境であって、自分ではないんじゃないのと指摘しているのである。彼は自分さがしといいながら自分が生きやすい条件をさがしていたのだ。ということは、さがしていたのは自分ではないでしょ。

 ある人(年下の人である)とそんな話をしていたら、「それって、甘えてるだけじゃないっすか」と彼は主張した。そういういい方もまあ、あまりにざんないとは思うけど、でも彼のいいたいことをくだいていうなら、「今の環境が気に入らないからって、それと戦うこともしないで逃げるなよ」という気分なのだろう。これだってまっとうな意見じゃないかな。異論はいろいろと考えられるけどね。

 おっと、また説教になりつつある。哲学にもどろう。

 なんとなく居心地がよくない。これは感情である。なにかをさがす旅に出よう。これは意志である。意志ではあるが、この場合はさがす対象も場所も明確でないために、衝動と変わるところがない。衝動というのは生物学的反応である。いうなれば感情の一種である。

 つまり、思考や論理ではなく感情で自分を発見したいというのが「自分さがしの旅」というわけだが、感情がなにかを発見するなんてことは永遠にありえない。よって、そんな旅は成立しえない。これが真正面から考えた結論である。納得できない人は多いだろうな。ではこれから、なぜそういうことになっているのかを語ってみよう。

 ほんとうの自分。そんなものは実体としては存在しないのだ。またまた猫哲学らしいむちゃな言明ではあるが、以下、このことを論証しちゃうぞ。

 そもそも自己の主体※が存在しているかのようにみえるのは、言語がそうなっているからなのである。英語のIでもドイツ語のIchでも、あるいはイタリア語のioでもいいが、そうした言葉があるもんだから実体としての主格が存在するかのようにみえてしまっているだけだ。

(※主体なんぞ存在しないという話は、前にも書きましたね。)

 それを証明するために、ここまでは「私」という一人称の主語をいっさい使わないでこの一文を書いてきた。うそだと思ったら、読み返してごらんになるとよい。普遍的な事実を常識で語るにあたっては、主語なんぞ必要ではないのだ。このことをすぐに理解できるのは私もあなたも日本語で考えているからだが、ヨーロッパ語ではそれができないので、妙な自己論がまかり通ってきた。マルチン・ブーバー※とかいう人が書いた『我と汝』などという本が典型だ。それをまた輸入して権威化する人たちがおおぜいいたものだから、日本人の自己意識までおかしくなってきているわけ。

(※シオニズム運動の理論的支柱をなす人物。だから大嫌いなの)

 もうひとつ。この肉体が確固としてあるので、これが私であると考えてしまい、私を実体と感じてしまいがちなのもよくある誤解だ。たまたま私はこの肉体を乗り物としているが、私は肉体を対象化することができるし、その気になれば殺すことだってできる。肉体はただのブツだ。そんなものが私であるはずがない。

 肉体が私だと思っている人は、NHKとはテレビのことだと思っているようなもんだな。もしもあなたの家のテレビがいきなりぶっ壊れたとするね。そのときあなたは「NHKが死んだ」といいますか? いわないでしょ。とまあそんな風に、肉体というのは私のたんなる乗り物なのだ。

 こんなことをいわれても、納得できない人は多いだろうな。この比喩で問題なのは、NHKとテレビの関係は明快だけど心と肉体の関係は明快に認識されていないということなんだけど、じゃあ、明快に認識されていないのもかかわらず私は肉体であるという人は、どうなのよ。完全に短絡してるじゃん。このことについての理解は、とりあえずここまでにしといて、次へいこう。

 私とはなにか。こんなことを考え始めると、終わりはないのさ。

 フロイト流にいうと、まず顕在意識がある。その底に前意識がある。そのさらに底には潜在意識がある。無意識ともいう。ユングはそのまた奥に集合的無意識があるとまで主張しているが、それらの意識の段階はいちばん表面の顕在意識を除いては認識不能なのだ。

 ちょっと専門的になりすぎかな。いや、哲学で自己を考えるさいにはこのことくらいは知っておいてほしいので、勉強してね。これ以上ふれるときりがないので、意識構造の謎については回を改めて語りたいと思います。

 とりあえずここでは、心の内側をのぞき込もうとしたら、底がみえないのだよということだけをいっておこう。要は心というタマネギをむいていったら、最後の最後に真っ暗闇の深淵だけが残ったようなもんだ。つまり、心というのは、認識不可能なのである。

 自分とはなにかなんて、だからわかりようがないのだ。わかるのは、私がたしかにここにいる感じがして、その私が宇宙をみつめているという構造があるということだけなのである。つまり私とは、何者かわからないなにかが宇宙を認識するさいの形式なのだ。この形式を言語で記述するための仮構といってもいい。ウィトゲンシュタインなんて、もっと極端に「私とは、境界である」といってしまっている。いつもウィトさんばかりですいませんね。だって好きなんだもん。

 さらにむちゃくちゃをいってしまおう。論理的飛躍はごかんべんね。私とは、宇宙である。宇宙を認識し、宇宙と対峙し、その意味で宇宙と等価な、もうひとつの宇宙なのだ。そして宇宙とはなにかは、知りようがない。だって宇宙をつくったのは私ではないし、私をつくったのも私ではないからである。

 とまあそんなわけで、私とはなにかなんて、知りようがないのだ。だからね、さがしてもみつからないわけよ。これが結論。

 知りようがないということを知る。しかもなおも知りたいと思い焦がれ、探求する。これが哲学の境地である。これぞ、わが猫哲学の探究の果て。そして真の哲学の始まりである。そこには外国旅行など、まったく必要ではない。

 年の始めですので、わりと本格哲学してみました。みなさま、あけましておめでとうございます。

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「けっきょくさあ、みんな不満なのよね」

 いつもの超美女は正月早々、身も蓋もないセリフを吐くのであった。

「おれだって不満だよ。きみはなにもかも満たされていていいよな」

「あたしは満足ってことを知らないわよ」

「それは贅沢ってやつだろ」

「贅沢が似合う人もいるの。あなたとは違ってね」

 …ふん、偉そうに。その歳で親にお年玉をもらってきたくせに。

「ちょっと、なにをニヤニヤしてんのよ、また悪口を書くつもり?」

 今年も、このおバカな会話は続くのであろう。ま、いいか。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com/
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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