2009年1月28日水曜日

【猫哲学94】 猫芸術論。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2006/03/31)

 友人が二胡を貸してくれたので、弾いてみた。

 二胡というのは、みなさんご存知だろうと思うけど、中国の古典弦楽器である。ヴァイオリンの原型ともいわれている。女子十二楽坊が最前列で弾いているあの楽器だ。

 んで、私が借りてきた二胡を、弓で二本の弦をこするように弾くと、バカ猫が反応するのだ。私が弾き始めたときから耳がぴくぴく動いていたし、ハ長調のラとシの間のあたりの音では急に起きあがり、何かを捜すように首をくるくる回した。

 以前に私がフルートを吹いていたときにはぜんぜんなかった反応である。やっぱり楽器によるんだろうな。音程ではなくて、音色だということだ。二胡の音色は、バカ猫にとって心惹かれるものなのだろう。何たってニコとネコというくらいだもんな。あ、くだらないしゃれかも。

 なぜ私が急に二胡なんかを弾いてみたのかというと、やっぱり女子十二楽坊の影響である。あのかっこよさに痺れてしまったのだ。私が弾いたってべつにかっこよくはないけどね。

 いっておくけど、私はミーハーではないよ。(ホントはそれほど自信はない)。私は、女子十二楽坊の音楽性の高さに惚れ込んでしまっているのだ。テレビでしか彼女たちを見たことのない人にはわからないだろう。私はライブにも行ったし、ライブDVDも香港や台湾のものも手に入る限り集めたし、その中には日本で演奏されたことのない曲も数多く含まれている。それらを鑑賞しながら、私はあのグループが持っている技術のとんでもないレベルの高さや、古典として現代にまで引き継がれてきた中国音楽の芸術性、そのエッセンスに感動しているのだ。

 …なんて話を始めたらきりがなくなるし、猫哲学はただのファン感想文でもないから、みなさんの知らない話を始めてみよう。今回のお題は芸術とは何かについてである。

 さて、また話を女子十二楽坊に戻すけど、彼女たちがデビューしてもう5年になる。日本でのデビューは3年前のことで、あのときにはマスコミに引っ張りだこの大人気となったが、ではそれまでの2年間、いったい何をしていたのか。実はその2年間、中国でデビューしたものの、まったく売れなかったのだ。

 売れない2年間、彼女たちがどんなに苦労したのかという話はいまや伝説である。映画にしたっていいくらいだ。あの広い中国でドサ回りをしていたんだからね。移動中にバスがエンストして道ばたで震えていたという話。香港の雑誌に騙されて、きわどい衣装を着せられて、恥ずかしさをこらえて演奏してみたら、それがいかがわしいとスキャンダルにされた話。マイナス20度(たぶん華氏)の酷寒の山中で薄物一枚で映画を撮影した話とか…、きりがないからやめておこう。

 そうして、ぜんぜん売れなかった2年の空しい努力の果てに、なかばやけっぱちで日本へ来てみたらこれが大当たり。あんまり大評判になったので、逆に中国国内からも注目されるようになり、いまや中国を代表する大スターとなって…、という話は一種のシンデレラ物語だな。

 はい、女子十二楽坊の話はここまででお終い。ではいったい、彼女たちが2年間、なぜまったく注目されなかったのか。どうして日本ではいきなり大人気になったのか。ここには、中国人の古典音楽に対する芸術観の決定的な違いというものが横たわっていたのだ。このお話は、まだ誰も書いていない。猫哲学オリジナルの発見である。ぷにゃ。

 中国人が伝統音楽に期待している芸術性とは、いったいどのようなものか。それを最も端的に象徴する伝説をご紹介しよう。

 中国の春秋戦国時代、伯牙という琴の名人がいた。伯牙には鐘子期という友人がいて、伯牙の弾く音楽を鐘子期は伯牙の心そのままに理解した。伯牙が滝を想って弾くと、鐘子期は「滝が蕩々と流れるようだ」と言い、伯牙が深山を想って弾くと、種子期は「深山に分け入るようだ」と言った。

 鐘子期が亡くなったとき、伯牙は「私の音を聴いてくれる人はもう誰もいない」と嘆いて、琴の弦を断ち切り、それから二度と琴を弾かなかったという。

 この話から、真の友を失うことの悲しみを意味する「伯牙絶弦」という言葉が生まれた。はくがぜつげん、と読む。

 また、真の心を分かち合うかけがえのない友のことを表す「知音」という言葉も生まれた。ちいん、と読む。広辞苑で調べてみましょう。

 この話が意味しているのは、「至高の芸術は、わかる人にしかわからない。そして、わかる人というのは、きわめて少数の人である」ということである。ある意味で究極の芸術思想だな。

 そんな思想が一般的だった中国市場に、女子十二楽坊が、白牙が弾いていたのとまったく同じ古典楽器を持って登場したのだ。しかも洋楽中心だと。中国大衆の気持ちとしては、「何だかねえ…」という感じだったんじゃないかな。彼女たちが当初なかなか売れなかったのには、こういう背景があったのだ。

 さて、この中国人的芸術思想は、ある意味で究極的に正しいと私は思っている。音楽を奏でる側にセンスが要求されるのは当然だが、聴く側にだってセンスが要求されるのだ。あたりまえのことである。

 だが、このあたりまえの話は、現代社会の大衆芸術においては絶対に語ってはいけない、ある意味でのタブーである。

 大衆芸術においては、売れることがすべてに優先される。ちょっとセンスのいいやつとぜんぜんセンスのないやつと、世の中にはどちらが多いかを考えてみたら、すぐにわかるはずである。マスというマーケットで勝負するには、より数の多い方を相手にしたほうが儲かる。まともな人間よりもアホを相手にした方が儲かるのが大衆芸術なのだ。例をあげると、SMAPの歌の下手なこと。でもアルバムは売れるんだもんね。

 現代芸術は、「伯牙絶弦」などと言ってはいられないのである。

 この話は、芸術の本質論にまで立ち入っていく難しい話なので、ここではとても語りきれない。ただ、私たちが芸術を何となく考えるとき、現代芸術は本当は抜き差しならないジレンマにはまり込んでいることに気がついておいてほしい、ということを指摘したかったのだ。

 もう少しこの話を補足しておくと、芸術が現代のようなマス・マーケットを指向する前はどうだったのかを思い出してほしい。いわゆるマスコミュニケーションが成立する以前、芸術のスポンサーとは、お金持ちだった。

 王侯貴族、大富豪が芸術を育てていたのだ。そのことの善し悪しを述べるつもりはない。ただ、そのときに成立した芸術の形式は、音楽にせよアートにせよ、あまり変わっていない。ここに歪みが起きている。

 現代の芸術を取り囲む環境は、大金持ちがスポンサーだった時とはあまりにも違う。だから、内容が違うものになるということは当然のことだ。問題は、昔の環境と今の環境との大きな違いを考慮しないで芸術を語る不毛な方々がいることだ。といっても、猫哲学読者のみなさんはそんな連中のことは知らんだろうな。ま、いっぺん芸術関連のマイナー雑誌でも立ち読みしてみてくださいな。私の言いたいことがわかると思うよ。

 ところで、この話が芸術一般についての話に止まっているなら、私はあえてこんなことを書かなかっただろう。でも、そうではないのだ。このことは、どのようなジャンルの表現にも当てはまることなのだ。

 もう一度、整理しよう。伯牙絶弦。真の芸術は、わかる者にしかわからない。このことは、たとえば食べ物の領域でも見事に成立している。





(以下数十行、きわめて個人的な都合によりカット)




 うむむ。レベルの高い対話である。日頃「おいしいものが好き♪」などと言っている人たちの何人が、この話についていけるだろうか。私は半分も理解できない。

 そしてこのことは、食べ物の話に限ったことでもないのだ。例えば、今まさにこの瞬間に、どこかの町工場で、旋盤を前にした伯牙が、図面を手にした鐘子期を陶然とさせているだろう。そんな例はどこにでもあらゆる場面でもあるに違いない。

 わかるかな。たぶんわかるだろう。私たちは、芸術とは何かについてあまりにも多くのことを概念的に整理しないままでいる。そしてそのことが、この世の真の豊かさへの忘却をもたらしてはいないか。今回はそういうお話なのでした。

 これ以上は語らない。まともに精緻に語っていくとしたら、ハイデガーなみの大著になってしまう。ずぼらな猫哲学者には手に余る仕事であるしね。ほへ。

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 こんな話をしていたら、例の超美女はいじわるな目をして言った。

「もしも女子十二楽坊が、あんな風にきれいな女の子じゃなくて、禿げたおっさんばっかりのグループだったとするね。あなたは、それでもファンになった?」

「うう! そんなもん、想像させんといてくれ」

「答えなさい、ファンになった?」

「ムリだ」

「じゃ、音楽性だの芸術性だの、それがどうしたって?」

 ああ、オレはミーハーだよ。認めるよ。くそっ! それにしてもいったい芸術って…。            


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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