2009年1月25日日曜日
【猫哲学26】 猫教育論。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
あいたたたたた。こらっ、いきなり何をするんだこのバカ猫!!
うちの猫が、急に何を思ったか、私の膝によじ登ってきたのである。私のすねに爪を立てて。
「ばかやろう、おまえは見境もなく人に爪を立てやがって」、といいながら私はやつの肉球をつかんで爪を露出させ「これだ、これだよ、痛いじゃないか、こいつを立てるな」といって、ヤツの額に猫パンチを見舞ってやった。
ちなみに猫パンチとは、母猫が子猫に教育的指導をするさいに、前足でストレートパンチを子猫の額に見舞うやつで、これをくらうと猫は急にしゅんとなってしまう。私は猫のこの行動を観察した結果、人差し指と中指の二本を合わせて、バカ猫の額(目と目の間)を、ていっ!と打ち据える教育手段を身につけているのだ。効果は絶大である。でも良い子は、遊びでやらないようにね、かわいそうだから。
しっかし、痛いなあ。こいつは相手によっては爪をたててはいかんということを知らないのか。あ、そうか仕方ないかもな。なにしろ、生まれてすぐに拾われたんだものな、母猫にしつけられることがなかったのだから、無理もないか。
一般に子猫というものは、母猫に育てられる過程でいろいろなことを学んでいく。して良いこと、悪いことを、母から猫パンチを見舞われながら。仲間に爪をたててはいけないということも、兄弟たちとのけんかのなかから学んでいくものなのだが、うちのバカ猫はそういう学習機会をもたなかった。だから、ときどきとんでもないことをやってのけるのだが、そのつど私が猫パンチを繰り出して教えてきたのだ。
まあ、許してやろう。だが、もう一回やったら、猫パンチだけではすまないからな、わかったな、バカ猫。
さて、ここまでの話で、私はものすごーく重要なことを書いたのだけど、わかっていただけただろうか。それは、教育というものの大切さである。
猫いっぴきとってみても、きちんと教育されなければ、きちんとした猫になれないのである。DNAだけで何とでもなると考えているクローン関係の生物学者は多いが※、どっこい、そうはいかないことに気付いていただきたい。
※「浮気もDNAのせいだ」というバカ文化人がいるのだ。遺伝子ではなくて、躾の問題だろうアホ。
教育といっても、私は人の道を説くつもりはない。哲学的原理的科学的教育論であって、道徳教育の話ではない。勘違いしないでね。
人間の赤ちゃんが歩き出すときがある。あれは、周囲の人間が立っていて、なおかつみんなが立つことを期待するものだから、歩くということを始めるのだ。人間がいない環境で育った赤ちゃんは、二足歩行ということをしない。
すごいことをいってると思います? いえいえ、これは科学的に裏付けられた事実なのだ。少々長くなるが、ご説明をいっときましょう。
1940年代(だったと思う)フィリピンで狼に育てられた姉弟が発見されたことがあった。(資料を捨てちゃったので細部をまちがってもごかんべん)。姉が9歳、弟が3歳と推定された。
それにしても狼って、なんでまた人間の子を育てちゃうんだろ。ほんとに不思議ですね。
さて、その狼少年少女だが、人間社会で保護されて、弟のほうは立って歩けるようになった。言葉もどうにか話せるようになった。だが姉のほうは、ついに二足歩行はできないまま。言葉もまったく理解しなかったという。
この姉弟の適応の差は、いったい何に起因するのか。そこで注目されたのが、年齢の差だった。姉9歳、弟3歳。つまり人間というものは、ある年齢までにしかるべき刺激を環境から与えられないと、二足歩行も言語も習得できないのではないか。それが、三歳程度の時期に集中しているのではないだろうかということだ。
この仮説は、その後さまざまな狼少年少女の実例で確かめられて、ほぼ定説となっている。つまり人間は、教えられないと人間になれないのだ。あ、猫もそうだな。教育おそるべし。
ついでに、みなさんあまりご存じないような事例も紹介しておこう。
昭和のはじめに、岩手県の山奥で一二歳くらいの少年が保護された。本当の年齢は不明。この男の子は、おばあさんに育てられていた。超ど山奥の一軒家で、おばあさんと二人きりでこの子は大きくなった。父親母親はどうしたんだろうね。記録は何も教えてくれない。ところで、このおばあさん、ちょっと問題があった。まったく一言もしゃべらない人だったのだ。言語的な障害のある人だったのかもしれないが、たんに無口な人だったのかもしれない。いずれにしても、そのために、男の子も一言もしゃべらなかった。無理もない。言葉を覚える機会が皆無だったんだから。で、けっきょくこの人は生涯、言葉を覚えなかったという。周囲がどんなに教えようとしても、ついにできなかった。どうやら言語というものは、3~5歳くらいまでに覚えないと、身につかないものらしい。教育おそるべし。
人は一般に、教育といえば「学校でいろいろやること」くらいに考えているだろうが、本当の意味はもっと深い。子どもが成長過程で出会うことのすべてが、その子を形成していくのだ。だから、親はよほどしっかりしないといけない。
といっても、親らしくするということはつまり、いつも変わらず、一貫して、ブレない態度を貫けばいいだけのことなんだけどね。いつも完璧に正しくある必要なんてない。間違っていようと何だろうと、いつもどーんと構えてゆるがなければ、子どもはそれなりに育ちますからご心配なく。反面教師も一貫すれば結果的に教師なのだ。要は、自信を持ちなさいってことかな。
さて、環境が人間をつくるという意味において、子どもが出会うものはすべて教育である。全人格教育というものは、このことがわかった人によってなされるべきなのだ。しかし、世の中は一般に学校教育だけが教育だと思っている。これは、ものすごい誤解である。ものすごすぎて目の前がクラクラするほどの誤解である。なぜって学校教育とは、教育ではないからだ。
また無茶苦茶をいうのかと思われるだろうが、こればかりは私が正しい。学校教育とは本当は何かを、私ほど冷徹に認識している者はいないと思う。だって、これから私が書いていく話を、どこかで聞いたことのある人はいるだろうか。そして、否定できる人はいるだろうか。猫哲学オリジナル学校教育論は読む価値がありますよ。
さて猫哲学なのだから、いきなり結論からいってしまおう。学校教育とは、よりよい兵隊をつくるためのものだ。
びっくりした? では解説していこう。
どんな学校にも鉄棒というものがありますね。あれは三八式歩兵銃を軽々と扱う腕力を鍛えるためのものだ。跳箱というのも、そういえばあったよね。あれは戦場で障害物を乗り越える訓練に使うためのものだ。米陸軍の初等訓練では、今でも跳箱が使われている。自衛隊については不勉強なので知らない。マットというのも、米陸軍で訓練に使われているが、日本の小学校、中学校、あれを置いていない学校なんてないんじゃないか。
体育だけじゃない。国語というのは戦場で情報を正確に伝えるために必要だ。理科や科学は砲弾や火薬を扱うときに必要な知識だ。数学は行軍の速度計算や大砲の弾道計算に必要だ。地理や歴史は戦場の環境を理解するためのものだ。家庭課だって、戦場で兵隊が飯を食うのに必要な知識なのだ。
朝礼とは何か。制服を着て一列に並び、全員が同じ行動をするための訓練だ。
遠足だって、今でこそ交通機関が使われるが、戦前は学校を出発して何キロも列をくずさないで歩いたのだ。つまり行軍の練習だ。
私はこじつけを書いているのではない。これは真実なのだ。現代の学校制度というものが制定されたのは明治4年、徴兵制度の施行と同時である。明治政府は、当初からロシアと戦うことを予定にいれていた。それには大量の兵隊が必要である。兵士というものは、戦争になったときにあわてて徴兵したからといって、すぐに使えるものではない。必要な予備教育を、できるだけ早くから始めておいたほうがいい。そのための学校制度だったのだ。富国強兵のきわめて合理的な実践なわけさ。誰かこれを否定してみろってんだ。
戦前の小学校一年生の国語の教科書の最初のページ、私たちが習った教科書では「さいた さいた さくらがさいた」に当たる部分は、こういう文だった。
ススメ ススメ ヘイタイススメ
だからどうだというのだ、と思う方もおられよう。そんな時代だったのだから、仕方ないじゃないか、と。
いやいや。べつに私は昔のことをいまさらどうのこうのと噛みついているのではない。今、まさに今この瞬間、鉄棒も跳箱もマットも戦前そのままの形で学校にあるではないか。カリキュラムも、戦前そのまま何ひとつ変わらないで受け継がれているじゃないか。なんでまた女の子がセーラー服やねん。あれは、英国海軍の制服やど。なあーにが平和教育だ。教育とは何かを少しでも考えたことがあるなら、戦前とまるっきり同じ形で味付けだけ変えた現状の学校教育が、おかしいと思わないのは変なのだ。
ススメ ススメ ヘイタイススメ
これでは平和教育になじまないと考えたあげくが
さいた さいた さくらがさいた
こんなんでええんかい!!けっきょく何も考えてないのと同じやないか、ボケカスクズッ!
ああ興奮しちゃった。ね、みなさんもヘンだと思うでしょ。戦後教育を担ってきた人たちって、この程度だったんですよおー。おっと、社会評論になりつつあるな。哲学に戻そう。
兵隊教育も教育のひとつではないか、と反論される方もあるかもしれない。しかし、そういうあなたは完全にまちがっている。教育とは何かを一度も真剣に考えたことのない人がそんなことをいうのだ。
真の教育の理想とは、個人のなかにある可能性をより多く引き出すことにある。行き着く先は、個々の限りない多様化だ。多様化を嫌い一定の鋳型にはめることを目的とする兵隊教育とは、正反対の方向を目指すものなのだ。
生命の本来的なありかたは、多様化である。だから教育もまた、多様化を理想とすべきなのだ。兵隊教育のために多様化を拒んできたこれまでの教育は、根本から見直されるべきなのである。お、やっと哲学らしくなった。
ついでに、戦後の教育とは何だったのかも語っておこう。これがわれば、戦前の教育カリキュラムがなぜそっくりそのまま保存されたのかもわかるよ。
例によって、いきなり結論からいっちまおう。戦後教育とは、企業戦士を養成するためのものだったのだ。
これ以上、何か説明する必要はありますか? ないですよね。なので教育制度が近代社会で担っている役割とは何かについて、少しだけ学問的に触れておきましょう。
社会的選抜機能。この言葉を聞いた人は少ないと思う。教育者であられる岩根先生も、もしかしたら初耳なのでは。でもこれが、現代の教育制度のほんとうの目的なのだ。
簡単にいうと、優秀な人材を手軽に手に入れるためのシステムということに尽きる。現代の大学は、学問をするために行くところではない。よりよい企業に就職するために時間を過ごすところなのだ。企業の側でも、ある程度選抜された人間が大学の名前でやってくるのだから、当たり外れ歩留まりを考えれば効率が良い。大学のランクである程度の判断ができる。その大学ランクヒエラルキーの頂点にあるのが東大で、だから企業のなかでも最強のものである官庁が、東大生をまっ先にいただく制度が成立しているというわけだ。企業と官庁をいっしょくたにするなって? いや、いっしょだよ。議論がしたかったら、メールでどうぞ。かかってきなさい。
社会的選抜機能というものを解説したのだが、ご理解いただけただろうか。戦後日本の教育制度というのは、この機能を中心にして成立している。体育というのは、健康でよく働くために。国語というのは、職場でのコミュニケーションのために。算数は伝票計算のために…。戦前となにひとつ変わっちゃいないのだ。
先にも書いたが、教育のあるべき姿とは、多様性への導きである。だが、企業戦士にはそんなものは必要ない。むしろよく働く画一化されたロボットのほうが使いやすい。というわけで教育は制度ごと戦前回帰してしまったわけだが、本当にそれでいいのか? 洗脳一元化教育を受けた大人たちは、またぞろ戦争への道を走りはじめているぞ。
いやいや。国家や社会がどうなろうと、それは私に手出しのできることではないので、心配してもしようがない。私が心配しているのは、そんな教育を受けてそろそろ中年から老年になろうとしている人たちだ。その人たちは、本当に幸せなのだろうか。それが問題なのだ。
中高年のみなさん、幸せですか? 教育の真の目的とは、人に幸せを教えることなのに。失業自殺年間1万人。これを教育の敗北ととらえることのできる真の教育者は、いったいどこにいるのだ。
そろそろ結論にいこう。
私は前半で、人間は教育されなければ人間になれないということを書いた。そして後半では、制度としての教育が人間を殺していくということを書いた。前者の教育と、後者の教育は、言葉のうえでは同じなのだが全く違うことで、この違いをきちんと認識していないと、なんだかひどいことになっちゃいますよ、今の日本がそうですよ、ということがいいたかったのだけど、書いてみるとぜんぜんいい足りてないなあ。おそらくこのテーマは、一冊の本を必要とするのだろうな。でも、猫哲学の読者諸子は教養人であるから、みなまでいわんでもわかっていただけると思う。それに期待して、このへんで終わりにします。
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というような話を、後日ある美女としていたのだが、彼女はいきなりこういった。
「セーラー服は、なるほどわかったわよ。でも、ブルマーってなによ。あれをどう説明してくれるのよ」
私は絶句し、すべての論理が崩壊していく音を聞いた。
[上の文章は、約4年前に書いたものです。][original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com][mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]
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