2009年1月27日火曜日

【猫哲学73】 猫は色盲か。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2005/08/12)

 猫は色盲であるらしい。

 いろいろな本の中で、そのように書かれている。でも、その根拠というのは読んだことがない。ただ断定的に色盲だと書いてある。

 犬も色盲だという。これは、中学校の教科書に書いてあったので、よほどしっかりとした根拠に基づくものなのだろうなと思っていた。それで、一度ちゃんと調べてみたのである。そしたら、ものすごくトンデモな話であることがわかってきた。

 わりと最近の犬の色覚に関する研究があったので、例として示してみよう。これがまあ、なんちゅうか、ええかげんにせんかい! と言いたくなる中身なんだよね。

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『イヌにおける色の識別能力』
田中智夫・渡辺民子・江口祐輔・吉本 正
麻布大学獣医学部,相模原市 229-8501

 イヌにおける色の識別能力の有無については,肯定的な結果が報告されているものの,異なる結果もみられ,一般には否定的に捉えられていることが多い.そこで,本研究は,2頭の雌のシバイヌを供試して,行動学的手法により,色覚の有無を調査した.正刺激側のスイッチを鼻で押すと飼料が与えられるスキナー箱を自作し,有彩色(赤・青・緑)カードと,各有彩色と同明度の無彩色カードとの同時弁別実験を行った.各課題とも1セッション20試行とし,カイ2乗検定により1セッション15回以上の正解(P<0.05)を基準とし,その基準に3セッション連続で到達した時点でその色を識別したとみなした.その結果赤と灰,青と灰,緑と灰のいずれの組み合わせにおいても,両供試犬ともに識別が可能であった.1頭について,緑と青との弁別実験を行ったところ,この有彩色同士の識別も可能であった.これらのことから,イヌの色覚は3原色を識別できる程度によく発達していることが示された.

日本畜産学会報,71 (3) : 300-304, 2000

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 なんとまあ、定説に反して犬が色盲ではないことを報告するレポートである。しかしねえ、餌をほしさに犬がボタンを鼻で押して、見せられたのが色つきのカードか無彩色のカードかで色を判別していると考えたらしいけど、それって色で選んでいたのかね柴犬ちゃん。

 この実験に対するものすごく簡単な批判を書いておこう。実験へのつっこみ所は他にも山ほどあるけど、これだけを書いておけば充分だろうし、わかりやす過ぎて笑っちゃうよ。

 あのですね、色つきのカードを犬に選ばせるのはいいけどさ、インクの臭いは、どうするの? 色によってインクの臭いは違うよ。人間は鈍感で気付かないけどね、臭いってものは犬にとって、すごく大切な情報なんだよ。たぶん色よりもずっと。

 という四行の批判だけで崩壊しちまうようなバカな実験を繰り返しながら、犬が色盲だとかどうだとか、くそまじめな顔で議論してきたんだろうな、学者って連中は。

 色覚の話とは違うけど、条件反射で有名なパブロフの犬なんてのも、こんなのと同程度のアホな実験につきあわされて、しかも学説にまでされちゃって、ホントに気の毒な犬だと思う。

 中学校の教科書に出てくるパブロフの犬の絵を見ると、なんかの実験装置に首をベルトで縛りつけられて、頭に電気コード付きの帽子みたいなのを被せられて、顎の下には管をくっつけられている。こんなひどい環境で毎日毎日ベルの音を聞かされ、餌をくれるのかなって思ったらくれたりくれなかったり、こんなんじゃあたぶん、気が狂っただろう。気が狂った犬の反応を生物学の定説にするんだから、パブロフさんって、サディストで詐欺師とちゃうか。

 私はさほどの犬好きではないけど、あの絵の犬(たぶんレトリバー)には同情しちゃうね。私のサラリーマン時代の直接の上司はゴールデンレトリバーを飼っていて、人間よりも愛犬を愛している人だ。なにしろ盲導犬のレトリバーがストラップをつけさせられているのを見ただけで「かわいそうじゃないか、犬を虐待するな」と逆上するほどの人なのだから、パブロフさんに出会ったらきっと鬼の顔をして殴り倒すだろう。

 かなり脱線したけど、いわゆる動物についての実験ってやつのアホらしさを指摘したかったのだ。つまりね、動物を異常な環境に置いて、出てきた反応が正常なものとみなしていいのか。その反応が動物にとってどんな意味があるのか、あるいは無意味なのか。それから、人間が動物に与える刺激が、動物にとっても人間と同じ意味の刺激として受け取られるとみなしていいのか。ちょっと考えただけで変だとわかりそうなもんなんだけどなあ。

 そんな程度の実験を根拠にして、犬は色盲だとずっと信じられてきたわけで、ほんとにもう、世の中の常識ってやつは、ちゃんと疑ってかからないといけませんよ、というお話でした。

 だけど色覚についての話はこんなレベルで終わるものではなくて、実はもっと深刻な問題を含んでいる。哲学の側から言うと、犬や猫の色覚がどうしたこうしたなんて、原理的にわかるはずがないのである。その話をこれから書いてみよう。

 じつは私、色盲である。

 色弱ではない。赤緑色盲と医者が診断したほどの立派な色盲である。だから理系への道を諦めたのだ、というのは嘘だけど。

 医者はそのように診断したけど、私が赤と緑を識別できないわけではない。赤いバラの花と野山の緑が同じ色だなんて思っているわけではない。それどころか、一般の人よりも色彩についての感覚は鋭いと自認しているぞ。

 私は広告デザインなんてことを職業にしていたから、印刷用インクの4原色CMYBなんてことは当然知っているし、C30%+M10%+Y40%というのがどんな色なのかも、見ただけで言い当てることができる。そこらの素人と一緒にしてもらっては困るのだ、えへん。だけど色盲なんだよねー。だって医者がそう言ったんだもん。あ、印刷の専門用語は説明しないけどごめんね。

 なんで私が色盲なのかというと、色盲検査表が読めないのだ。あのごちゃごちゃした色玉モザイクのパターンが、読めないのである。フツーの人ならすぐに読めるはずのパターンが、私にはパターンのないごちゃごちゃにしか見えないのである。

 これって色覚の問題だろうか。それとも、認識パターンの差の問題なのだろうか。

 哲学的な思考にはけっこう慣れてこられた読者のみなさんなら、色盲検査表が読めないことと色盲とは、別々のことじゃないかと気付かれたことだろう。そうなのだ。色盲とは、ヘンな概念なのである。他の人と感じ方が違うということと、見えないということは、全く別の話なのだよねー。

 私の好きな戦争の話をしましょう。南洋の島に敗けに行った日本軍の兵隊は、毎日毎日アメリカの爆撃機が爆弾を落としに飛んでくるので、大切な物資や施設を爆撃機から隠そうと考えた。いっしょうけんめいにジャングルから木の枝を切ってきて、上に被せたのね。チープな方法だけど、上空から見るとそれなりに見えにくかったそうだ。

 そこでアメリカ軍も考えた。日本の連中が迷彩を施しているのなら、その裏をかいてやれ。で、どうしたのかというと、色盲の兵隊を選んできて爆撃機に乗せたのだ。色盲の人が地上の迷彩を見たらバレバレだったそうで、やっぱり日本軍は爆弾でズタボロにされてしまった。

 さて、この話、とっても示唆的である。色盲の人には、そうでない人(つまり正常色覚の人)に見えないものが見えるのだ。そのかわり色盲検査表は読めないんだけどさ。

 このあたりまで話をすると、犬が色盲かどうかなんて、色つきのカードを選ばせただけじゃあわかりっこないってことも何となく見えてきましたでしょ。でも、話まだまだこれからである。

 映画『ローマの休日』でオードリー・ヘプバーンが階段を降りてくる有名なシーン、彼女は水色のスカートに白いブラウスを着ていた。なあーんてね。あれはモノクロ映画だ、色なんてわかるかよ。と考えるのがフツーだが、実のところほとんどの人にはそういう色に見えているはずだ。

 私たちは古いモノクロ映画を観るとき、実は色を感じて観ている。みなさんそうでしょ。そうでない人もたまにはいるが、そういうのを真正の色盲というのだろうね。おっと失礼。

 モノクロ映画に色が見えるということは、色の識別というのが、単なる光の刺激だけで構成されているわけではないことを示している。私たちは、想像力を使って色を見ているのだ。でも想像力というのは、あまりにも曖昧で人それぞれである。だから色というのは、人それぞれ見え方が違うのである。と、いちおうは書いておこう。後でひっくり返すんだけど。

 私は中学生のときに友人と「ボクが見ているこの赤と、きみが見ているこの赤とは、違う色かもしれないな」という会話をしたことがある。そのときは「わかりようがないよな」という結論で終わったのだが、哲学界がこのことに気付いたのはごく最近のことだった。恐るべし、中学生の私。色盲のガキのくせに。

 私が赤い色を見ていたとして、この赤の主観的な質感はいったい何なのかを説明することはできないし、他者に伝えることもできない。この話はけっこう込み入っているうえに大した話でもないので説明しないけど、この質感の起源について、現代哲学界では「クオリア」という名で呼んでいる。

 1994年にデビッド・チャーマーズという哲学者が「クオリア」を提唱して、反論できなかった多くの脳科学や物理関係の学者がひっくりかえった。それの影響を受けて、というか尻馬に悪ノリした日本の哲学者も最近になっていろいろな本を書いている。書店の哲学コーナーへ行ったらいちばん目立つように並べられているから、興味のある方は読んでください。ちなみに私は立ち読みですませた。

 まあそんなことはどうでもいいのだけど、色の認識という問題は現代哲学の最新流行なテーマなのだということだけ覚えておいてにゃ。色だけでなく音や臭いの質感についても同じなんだけど。
(てなことを書いていたら、分譲マンション『クオリア代々木』=東急不動産=の広告が目に飛び込んできた。ああ流行って、恐ろしい)

 さて、その「クオリア」論によれば、色がもつ質感の認識は今のところ起源もわからないし、記述できないし伝達もできないことになっている。しかし猫哲学は、そんなところに立ち止まったりしないのである。色覚とその質感というのは、おそらく誰にも共通する性質を持っているだろうし、私が見ている赤は、おそらくあなたにとっても同じ赤だろうと、直観的に断言してしまうのだ。

 だって色の認識に共通性がなければ、絵画なんて芸術は無意味になってしまうではないか。画家は色に、色以上の思いを込めている。それを他者が読みとれないなんてことになれば、芸術として成立しない。もしもそんな疑いを持ってしまったとしたら、その瞬間、画家は絵を描くことができなくなるだろう。

 でも画家は誰もそんな心配はしないし、画家の確信の通りに絵画はアートとして、コミュニケーションとして成立している。それでいいのである。説明できない、記述できないということと、存在しないということはぜんぜん別のことだ。このあたりを混同したままだから、多くの偉い人が「クオリア」なんて言葉にでんぐり返るのである。

 私は以前に「絵画という芸術がよくわからない」と書いたけど、それはたぶん私が色盲だからだろう。といっても色が認識できないというのではない。認識のパターンが他の人と異なっているのだと思う。ということはですよ、色盲でない人にとっては色の認識に共通性があって、だから絵画に感動できるのだということになる。つまり、色は誰にも同じに見えているということを、私の色盲は裏から証明しているのではないか。おっと、猫哲学では希にみる論理的な文章やな。

 最後に、色覚についての笑える話をご紹介しておこう。

 ある学者が、アフリカのとある部族の少年をつかまえて、色覚と言語についての調査をした。その少年はなんと、赤褐色から茶色に至る20色以上の微妙な色の違いを、ぜんぶ違う名前で表現したというのだ。私たちならふつう「茶色」だけでくくってしまうところだ。せいぜい「レンガ色」あたりまでだろう。

 その部族は茶色の牛を飼うのが生活の基盤だったので、茶色の微妙な色彩の違いを表現する語彙が豊かになったのだな、としきりに感心してそのレポートは終わっていたのだが、ちょっと待てよ。私はいきなりくすくす笑い出してしまった。

 その部族では、牛の群の番をするのは少年の役割だったらしい。といことは、色見本を見せられた少年は、いつも一緒にいる同じ色の牛の名前を言ったんじゃないのかな。色の名前ではなくて。
「これはタロー、これはハナコ。こいつはケンちゃんでこれは与作。これはポチでこれはアイちゃんでこれは…」。ぷぷぷっ。言語の問題じゃないような気がするぞ。

 ところで、おいバカ猫、おまえ虹は何色に見える?

「ナにゃ?」

 七色だと言っておりますよ。あははは。

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 いつもの超美女とこんな話をしていたら、彼女は鼻で笑ってこう言った。

「あなたねえ、女性が何色のファンデーションを使い分けているのか、知ってる?」

 すいません。恐れ入りました。私が愚かでございました。今後、色彩の話は女性にお任せいたします。ほへ。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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