2009年1月27日火曜日

【猫哲学74】 怒りと暴力。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2004/08/26)

 怒りという感情は、まず生物学的な反応である。

 母猫が子猫をしつけているのをみるとよくわかるが、子猫が悪さをしたら母猫は牙をむいて猫パンチをくり出す。そのとき、母親はそれを計算してやっているのではないだろう。感情のおもむくままに、ムカッときてビシッとやっているにちがいない。

 そのように躾られた子猫は、生きていくうえで重要なことを学んでいく。仲間に爪をたててはいけないだとか、危険なものに近づいてはいけないとか、不用意に声をたててはいけないとか。

 つまり母親に怒りという感情があるからこそ、子猫はまともな猫に成長できるのである。怒りというのは、生き物に必要な感情なのだ。

 子育てに必要なだけではない。大人の猫の間でも、縄張りを主張したり仲間どうしの序列を決めたり、あるいは自分の寛容の限界を示すときなどに、感情は利用されている。ときどき猫が「シャーッ!」なんていうのは、そのことを示している。

 これもまた、計算されたものではないのだろう。ヤロー、てめえ! ときたのをストレートに表出しているだけなんだろうな。でも、たいがいシャーッ! だけである。よほどのことがないと暴力は使わない。猫は人間のように愚かな動物じゃないからね。

 人間にだって怒りという感情は必要なものだ。子育てをする母親には特に。だが人間というヤツ、生物学的必然性を超えてまで怒ることがあって、こいつが暴力と結びつくと、この世の悲惨の元になる。

 それのいちばん極端な形が、戦争である。※

(※もちろん、すべての戦争の原因が怒りだというわけではない。怒りに起因する戦争もある、という意味。)

 第二次世界大戦のさいに、ドイツ国民はナチスの下に結集して強力な軍事力を発揮したが、ドイツ国民にそうまでさせたのは、怒りである。彼らは怒っていたのだ。第一次世界大戦の戦勝国が敗戦国ドイツに対してやった仕打ちは、ひどすぎた。それでドイツ国民は怒ったのだ。

 ヒトラーはいつも怒っていたが、彼はドイツ国民が怒っていたからこそ、代表として怒っていたのだ。だからドイツ国民に人気があった。あたりまえだ。人は誰だって、自分が望んでいることをやってくれる者を好むものだ。

 しかしドイツ国民の怒りがいかに正当な理由のあるものであっても、それが暴力と結びついたとき、結果的に悲惨しかもたらさなかった。他国民に対しても、ドイツ国民自身に対しても。

 我々はこうした過去を認識しなければならない。歴史から学ばなければならない。怒りがいかに正当なものに思えても、それを暴力に結びつけてはいけないのだ。そのことに無自覚だと、また同じ事を起こしてしまうだろう。ある古人はこう書いている。

「愚者は自らの体験から学ぶが、賢者は歴史から学ぶ」

 いまわが国では、国民に理由もない怒りを植え付けようとして政府が懸命になっている。靖国だの教科書だのと隣国を挑発し、隣国の怒りが日本人の怒りに火をつけるようにと工作を繰り返している。

 そしてそれは、半分は成功している。愚かで無自覚な右寄りの連中は隣国を憎むようになった。まだ少数派だが、このままだと多数派になるだろう。そのタイミングをもって支配者どもは憲法を改正し、軍隊を組織して、隣国に攻め込むのだろう。連中は2012年までにそれを実現させたいらしい。アホどもが。儲かるのは武器商人だけだぜ。※

(※世界最大の武器商人はアメリカ帝国であり、日本政府はアメリカの使用人である。ゆえに、戦争への道は必然なのだ。このあたりの話は、『世の実★』シリーズで展開中です。宣伝でした。)

 怒りは暴力に正当性という意味を与える。それは動物としての一面をもつ人間の行動の型というか、ある意味でくだらない癖である。幼児性の名残りが言い訳を捜しているようなものだ。倫理的正当性と怒りとを結びつけて暴力を是とする論理には、実は何の根拠もない。

 怒りは怒り、暴力は暴力である。怒りは怒りとして対峙し解決しなければならないが、それは暴力では永遠に解決しない。怒りの拡大再生産が待っているだけだ。

 ところで、私はいつも怒っている。

 この時代の支配者の愚かさ、金持ちの強欲さ、官僚の非人間性、科学者の傲慢と恥知らず、この世には怒るしかないことが多すぎる。しかし私は、それを暴力で解消しようとは思わないし、これまでに一度も暴力を使ったことがない。ただの一度も人を殴ったことがないのだ。そのかわり、言葉で世の中に殴りかかっているけど。

 私は父に一度しか殴られたことはないが、そのときに父が泣いていたことも知っている。これこそが、人間の暴力に意味と価値を与える唯一の例である。他の例外は存在しない。

 個人と個人の関係においても、暴力がもたらすものは悲惨である。

 その暴力のきっかけとなった事がいかに正当性のあるものであったとしても、暴力は心全体を傷つける。暴力を振るわれたとき、その暴力が正当な理由のあるものだとされたとしても、論理で納得するのは心の表層の一部分だけである。心の認識不可能な別の部分、たとえば前意識とか無意識とか動物的な処理を行う部分は、暴力を暴力としてだけ覚えていて、その記憶はいつか思いもよらない形で復讐を果たそうとすることだろう。

 暴力を振るう側もまた、傷つく。暴力というのは、他者に対して簡単には発動できないように、動物的な面での心理ブロックがかかっているという話は、いつだったか女の涙の話をしたときに書いたね。そのブロックをあえて突破するとき、心のバランスは崩れる。理性が衝動に優先権を与えてしまうからだ。優先権を認められた衝動は嬉々として獣性と幼児性を発揮し、そうなってからコントロールしようとしても、易々と主役の座を譲ったりはしない。

 しかもそうした暴力がカタルシスや快感として経験されてしまうと、癖になる。いつしか、暴力を振るわずにはいられなくなる。しまいには暴力を振るわないでいること自体がストレスになって、とにかく理由や相手をでっちあげてでも暴力を振るう。さいきん家庭内暴力で子供を殺してしまう事件が相次いだが、あいつらはみんなこの構造の虜になってしまったのだ。誰も最初は、ちょっとしたことだとしか考えなかっただろうけど。

 一方、そのようにして親に殴られ続けて、運良く殺されるまでいかないで大人になった子供はどのようになるのかというと、大人になればやっぱり子を殴る親になってしまう。悲惨な話だ。この悪夢のような連鎖を断ち切る方法はもちろんあるけど、ここでは書かない。  個人の話を書いたけど、これがこのまま国家間の軋轢のアナロジーになっていることにどうか気付いていただきたい。こうしたことに無自覚なままだと、日本はもうすぐ侵略国家になる。これは、かつて侵略国家であった過去のトラウマを、間違った方法で解消しようという心理プロセスなのである。支配者は、もちろんこのことを知っている。知っていて、悪用しようとしているのさ。

 哲学を知る人は、自らの心をのぞき込むことができる。自らの心をよく知れば、暴力に理由などないことにすぐに気付くはずだ。理由のない暴力は、恥ずかしい。幼児性そのものだからだ。恥を知る人は、だから他者に手を上げない。

 哲学というのはこういう風に、便利なものなのである。ありがたや。

 今回の文章は、やけにカタいな。もちろんわざとである。ちょっと文体練習をやっちゃいました。失礼。

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「なんだか、あたしのことを言われているような気がする」

 いつもの超美女は、今日はなんだかしおらしい。

「そうだよ。気にくわない男だからって、いきなりひっぱたいたりするなよなー」

「そんなのはいいのよ。ぶたれた男は喜んでるし」

「じゃあ、何だ?」

「美しすぎるって、暴力の一種じゃない?」

 …。殴ったろか、こやつ。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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