2009年1月26日月曜日

【猫哲学32】 猫環境論。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃


 まだ寒くもないのに、ホットカーペットを出してしまった。

 何もかもバカ猫のせいである。

 春先まで床にホットカーペットを敷いていたのだが、バカ猫はそのカーペットが敷いてあったお気に入りの位置を覚えていて、そこで示威行動をくりかえしたのだ。

 わが家のホットカーペットは「半分モード」という機能があって、面積を2分の1に区切って、片方だけをあったくすることができる。主に節電のことを考えて、私はその機能を利用してカーペットの半分だけを使っていたのだが、バカ猫はちょうどそのあったかいほうの半分の位置に行き、「どうしたんだよー、カーペットがないじゃないか、なんとかせんかい」とガンをとばすのである。

 しまいにはフローリングに敷いている(私がひそかに自慢している)ラグマット(スウェーデン製エジプト柄コットン100%)をひっかきはじめたので、こら!ばかもの、何をする、とあわててヤツをブレーンバスターでぶっとばさねばならなかった。

 やれやれ。ホットカーペットを敷くなんてこと、ものの5分もかからないので、私はさっさとやっつけてしまったが、それにしてもなあ。

 あれは、私がぬくぬくと冬を過ごすために大枚はたいて買ったものじゃないか。それなのに、私が「まだ必要ない」と思っているにもかかわらずヤツのせいでそれを敷くことになってしまうとは、まるで猫のために買ってやったように思えてくるではないか。少しくやしいなあ。

 そこで私は、くやしさをまぎらすために掃除をすることにした。電気掃除機を引っぱりだしてスイッチをいれる。ウイーン、ゴーッ、ざまあみろ、バカ猫は飛んで逃げていった。ああ、すっとした。

 …そういう次第でいまバカ猫は、四肢をどでーっと投げ出すようにして、カーペットのうえでぬくぬくと眠っている。少し気温が下がってきたといって、私にちょっとすごんでみせるだけでその環境をがらりと変えてしまうことができるとは、考えてみるとこの猫、じつに大した実力の持ち主といえるな。環境を変えたのは私だが、意志したのは彼なのであるから。私が「寒いじゃねえか、てめえ」などと神さまにすごんでみせたところで、お天気の何ひとつ変わらないことを思うと、ヤツの高等さがわかろうというものだ。いやほんと、猫というのはたいした動物である。だからといって尊敬などするつもりは毛頭ないが。

 さて、今回のお題は環境論である。

 ところで環境をめぐる論説というのも妙なことになっているね。世間では「地球にやさしく」などというが、これが私にはぜんぜん理解できない。少々汚れたからといって、地球さんが困るものだろうか。地球の気持ちなんて本当はぜんぜん知らないくせして「やさしく」もないだろう。どんどん汚れていって困るのは人間のほうなんじゃないのか。地球のせいになんかするなよな。

 人間は生物である。生物であるから、環境と相互作用をする。程度の問題はあるが、地球を汚して生きているのが人間というものなのだ。だからいくら汚してもかまわないとはいわないが、とりあえず生きているかぎり、人間が「地球にやさしい」なんてはずはないのだ。

 世の中には環境原理主義者みたいな人たちがいて、なんでもかんでも「環境が大切!」「環境を守れ!」などと叫んでいる。その主張を理解できなくもないのだが、あまりにいきすぎると、人間よりも環境が大事ということになり、人間さえいなくなればいいのだという結論になってしまうぞ。

 実は私も、そういう結論ってけっこう好きなのだが、しかし世の中で現実的な力をもつ主張になりえないことが歴然としているくらい、ちゃんと洞察できる程度に大人でもある。

 地球温暖化というのも環境論の一種だが、これがいかにアヤシイ代物であるのかは前にもちょっと書いたし、いずれどこかで本格的にやるつもりなので、ここでは触れないでおこう。

 環境といってもその概念は広いので、今回は自然環境と生態系のことについていっときたいと思います。

 野生動物を保護しろという人々がいる。私も動物は好きだからぜひそうしてもらいたいが、これもまたいつのまにか「クジラを食ってはいかん」などというくだらん意見にねじまがっていく。困ったもんだ。

 野生動物を保護すべきなのは、主として好みの問題なのであって、趣味以上の根拠など本当はないのだ。もちろん、保護するなといっているのでも、趣味を貶めているのでもない。人類にとって趣味ほど大事なものはないのだから、野生動物はどんどん保護していただきたい。だがさりとて、飢餓大陸アフリカでそんなことを叫べば、やはり間抜けと思われるしかないと思うが、いかがなものか。

 牛や豚を飼育して食べ、野生動物は保護するべきだという人は多いけど、なんちゅう脳天気な発言か、わかっていっているのかな。よろしいか、牛豚羊を飼育するために広大な土地を囲い込んで牧場にし、野生動物をしめ出しているではないか。また飼料を栽培するための広大な畑だって、やはり動物をしめ出しているよな。野生動物の生活圏がこのような形で奪われることこそ、彼らの激減、あるいは絶滅の原因になっているのだ。そんなことを主張する人は、やはマリー・アントワネット症候群※の空脳というしかないのである。

(※マリー・アントワネットが本当におバカであったのかは、よく知りません。あの言葉には歴史家の悪意を感じるので、ひょっとしたら嘘かも。本当は頭のいいイステキな人だったのかもしれないとも思うよ、そいうえばベルバラ宝塚…。)

 で、環境問題というのがどうしてこんな風にぐちゃぐちゃになってしまうのかというと、やはり世間が環境とは何かを知らなさすぎるからだと思う。本当、これに尽きると思うね。

 では、以下に環境にまつわるよもやま話を書いてみよう。

 戦後すぐのことだが、アメリカザリガニが大量発生したことがあったよね、覚えてる? あまりに突発的で、しかも日本全国の川池沼で一斉に同じことが起こったもんだから、「あれは日本の農村を破壊するために米軍が放った生物兵器だ」などという噂も流れて、大騒ぎになった。で、日本政府はこのことについて何か対策をとったかというと、何もしなかった。本当に、ぜんぜん何もしなかった。まだ戦後復興の途中の時代だから、忙しかったんだね、きっと。

 それでアメリカザリガニはどうなったか。毎年すこしずつ個体数を減らしていき、いつのまにか日本の自然の片隅でひっそりと生きている。激減していったが、絶滅もしなかった。いまではすっかり水辺のおなじみ動物だ。現代の子どもたちは、アメリカザリガニが戦前の日本にはいなかったなんてこと、知らないんじゃないだろうか。

 一般に、外来種が他所の生態系のなかにほうりこまれると、その個体数は爆発的に増えることが知られている。天敵がいないからだ。でも年を重ねるうちに天敵が出現し、いつのまにかその個体数は、生態系のなかでゆるされる一定の範囲に落ち着いていく。

 アメリカザリガニの例でいうと、卵から孵ったばかりの幼生を、当初のうち日本固有の鳥や魚たちは食べなかった。知らないものを食べ物と認識できなかったんだね。だからどんどん増えたわけだ。でも、そのうちいつのまにか「食べてみよ」なんて大胆な鳥さん魚さんが現れる。それが「お、いけるじゃん」なんてことになれば、みんなで真似をするから、哀れチビザリガニ、みんなからおいしくいただかれてしまい、成体になれるのはごくわずか、ということになる。それが自然なのだ。これを生態系の安定化の法則という。

 セイタカアワダチソウというのも覚えている人が多いでしょう。いっときはどんな土地もこの下品な草に占領され、いったいどうなってしまうんだろうかと心配した人も多い。これも40年くらい前のことだな。さて、今ではどうだろう。この草もちゃんと生き残っているが、空き地の片隅でほかの雑草にまじってひっそりと、という感じでしょ。自然というのは、そういう風にできているのだ。

 20年ほど前には、アメリカタンポポが驚異的な勢いで増えたことがあった。日本古来種の和タンポポは絶滅しちまうんじゃないかと本当に心配されていた。北海道がとくに深刻で、北海道の大地がまっ黄色に染まって、生態系が破壊されるぞと悲鳴をあげた人もいた。でも今では、和タンポポと仲良く同数程度になって、ひかえめに生きている。

 もっと古い話でいえば、クローバーって知ってるでしょ。あれもアメリカ産の草です。四つ葉のクローバーを探したことのある人、手をあげて。あれ? 誰もいないの? おかしいな…。

 あの草の和名はシロツメクサ。明治時代、アメリカから工作機械や紡績機械なんかを輸入するときに、緩衝材として木箱につめられていたので「詰め草」なわけ。花は白でしょ。現代の発泡スチロールの役目をしていたんだね。横浜や神戸の港に着いて、そこから広がりはじめて、日本中の土地がこいつに覆われていた時期があった。でも、いま野原でクローバーを探しても、ちょこっとしかいませんね。これもまた生態系の安定化の法則の実例。

 もうひとついっとこう。ムラサキイガイという下品な貝がいるよね。でもあいつはイタリア料理ではムール貝。ごちそうなのだ。これも外来種で18世紀の末ごろに貿易船の船底にくっついて日本にやってきた。いっときは日本の港湾のすべてがこいつにびっしりと覆われていたこともあったものだが、おお気持ちわる、今ではまあ、落ち着くとこに落ち着いたようだ。

 ことほどさように、自然というのはよくできたものなのだ。一時ある種の個体数が目立つようなことはあっても、いつのまにか落ち着くところに落ち着いていくのだから、ほっとけばいいのである。生態系というものは私たちには理解しようもないほど複雑精緻深淵玄妙にできているのであるから、下手に介入なんかしないでじっとみているのが最良なのである。

 ところが、このことのわからないバカ者どもがへんな介入をして、自然を破壊してる例がある。まことにバカは救いようがないのだが、その例とはマツクイムシとブラックバスのことだ。

 まずはマツクイムシからいこうか。こいつもまたアメリカから来た外来種で、日本の海岸線によく植えられている松にとりついて、爆発的に増えた。松がどんどん枯れていくので、これは大変とばかりに農林省が何とかしようと考えた。

 ほっといたらいいのにねえ、先に述べてきた数々の例では何にもしなかったくせに農林省、このときにだけはおバカなことに手を出してしまったのである。戦後復興も落ち着いて、ヒマだったんだろうな。まったくヒマな役人のやることにろくなことはない。

 で、役人のやったことというのは、殺虫剤を撒くことだった。ヘリコプターを使って。

 まったくもう…。いいですか、殺虫剤といったって、マツクイムシだけを選んで殺す薬なんてあるはずないのだ。その周囲にいるありとあらゆる虫や鳥もいっしょに殺していく。死んでいった連中のなかには、いずれマツクイムシの天敵になるはずだったヤツもいただろうに。そいつらをまとめてホローコーストしてしまえば、生態系だって本来もつ安定化の能力を発揮しようがないではないか。

 しかもしかも、しかもである。マツクイムシというのは松の幹に深い穴を穿って入り込んでいるから、殺虫剤がほとんど届かないのだ。つまり殺虫剤は、マツクイムシだけを残して、生態系をぜんぶを殺してしまったのである。なんちゅうアホな。

 それにね、安定化の法則ってことを考えると、マツクイムシだって松をぜんぶ枯らしてしまえば、じぶんだって死んじゃうよね。だから、ほっておけばいつのまにか松を枯らさない性質をもったやつが出現して、そいつが大半を占めるようになるというのが自然の摂理の妙なのさ。でも、この虫の日本出現以来30年もたって、いまだに松が枯れ続けているというのは、実をいうと、松は殺虫剤のせいで枯れているんじゃないのという指摘があったりもする。あー、だんだん腹がたってきたな。私は大声で叫びたい。ほへーっ!  たぶん、専門家はこのことに気付いているはずだ。しかし、マツクイムシ対策はいっこうに変更も改善もされることなく、いまも日本のどこかでヘリコプターが盛大に殺虫剤を撒いているはずだ。何でこんなことになっちまっているのだろう、てか?

 はい、お答えしましょう。このことが、農水省の指示で、自治体で予算化されているからだ。指定の農薬メーカーも決まっている。何億円かしらないが、予算は消化されねばならない。業者の利権は守らねばならない。同じことが30年も繰り返されると、それだけで生きている業者だってできてしまう。彼らの生活は守られねばならないのだ。かくして肥え太ったメーカーと官僚と、殲滅された生態系が残されるというわけである。そして、この利権サイクルを守るためには、マツクイムシは永遠に退治されてはならないのだ。何という偉大な虫であろうかマツクイムシ、恐るべし。違うか、人間が凶悪なだけか。

 次に、ブラックバスもいっときましょうね。

 いま日本の湖沼では、ブラックバスが猛烈な勢いで増えている。こいつは凶悪なアメリカ産の肉食魚で、日本固有のおとなしい魚をぜんぶ食って絶滅させちまうんじゃないかと関係者を恐れおののかせている。

 さて、私がここまでで書いてきた生態系の安定化の法則に従えば、ブラックバスだっていずれは落ち着くところに落ち着いて、しかるべき個体数になっていくと思われるかもしれない。ところがいやいや、それは甘い。こいつだけはその法則に従わないのだ。

 なぜ? ブラックバスって、そんなに特殊な魚なの? という疑問を持たれるかもしれないが、そういうことではない。ブラックバスは、毎年、人間の手で放流されているのだ。

 誰がそんなことをするんだって? それはバス釣りをあおってブームにして、儲けている人々。ルアーやリールや釣竿やその他の道具、ボート、ファッションなんかを売っている連中さ。生態系の安定化の法則が正常に働いて、バスが激減しちゃったら(アメリカザリガニのように)その人たちは金儲けをできなくなるがな。だから毎年、闇にまぎれてこっそりと、バスの稚魚を放流してやがるのさ。

 いくら生態系に安定化の能力があるからって、こうも毎年毎年くりかえして破壊されたら、いつか弾性限界を越えてしまうときがくるかもしれない。そのとき自然界にどんなに恐ろしいことが起きるか、私は心底おびえているよ。

 だからな、糸井重里。あんたの底なんてもう割れてるのさ。マスコミに出てどんな偉そうなことをいおうと、モラルの壊れたやつのいうことなんか、まともに聞くわけがないじゃないか。さっさと消えろよこの売国奴。

 おっと、話が脱線した。つまり、ことほどさように自然は偉いが、人間はバカなのだ。みなさん、笑いましょう。…って、笑えないよね。

 ついでに山火事の話もしておこう。毎年世界のどこかで山火事が起きて、消防ヘリが出動するなどえらいことになっているが、私はそれを見ながらいつもつぶやく。

 消すなよ。そんなもん、ほっとけ。

 山火事は自然の摂理である。森林というのは、年を重ねるうちに、最も高く成長する一種類の木が全体を覆い尽くすことになる。地面がその木の陰になってしまうので、他の植物が繁殖することができないのだ。だがその木にも寿命がある。ところが木というのは丈夫なもので、枯れたからといって倒れるわけではない。かくして、山は年老いた木と不毛の地面になってしまうことになる。これを極相林という。※
 しかし実際には、滅多にそんなことにならない。そんな状態にまで至る前に、山火事が起きるからだ。ついでに、火事の原因のほとんどは落雷である。火事のおかげで老いた木は燃えてしまい、お日さまがいっぱい届くようになった地面からは、多種多様な植物が一斉に芽を出すというわけ。木が燃えてできた灰は絶好の肥料にもなるしね。

 森というのは、こういうことを数百年単位で繰り返しながら、多様な植物の生きる場所になっているわけ。その山火事を、消してしまったらどうなんの? 森は次第に老いていき、ますます山火事が発生しやすくなるだけではないか。

 いま世界で起きている山火事のほとんどは、こうした誤解が積み重なって発生しているものだ。中途半端に消しちゃうもんだから、森がどんどん老いてきて、火事になりやすくなっているのだ。元気のいい若木は水気たっぷりだから、そうそう燃えたりしませんぜ。

 こんなことをいうと、その森の近くに住んでいる人はどうしたらいいんだ、生活をどうしてくれるんだという声がきこえてきそうだな。でもね、山火事というのは生命のサイクルなのだ。台風が毎年くるのを止めることはできないように、数百年ごとの山火事も絶対に避けることのできない自然の営みなんだから。
 だったらどうしたらいいんだって? うん、教えてあげよう。森の近くに家を建てたりするなら、その森が極相林化していないかどうか、よく調べることやね。それでもどうしても家を建てたいなら、燃えても平気だと思って建てることだ。燃えてもいいじゃん、建てなおせばそれでいいでしょ。それに一度燃えたら、あと数百年は山火事はないって安心したらいい。

 今回は、自然環境とその神秘的な能力についてのお話でした。んで、キーワードは、ほっとけ。

 どだい環境をコントロールするなんてこと、たかが人間の身でできることではないのである。とはいっても、環境についてよく知り、次に何が起きるのかを予測し、準備をすることはできる。ところが現代社会では、何も知らないくせにコントロールしようとし、準備できるはずのことは怠って、まるで反対のことをやっている。よく考えると、とても簡単なことなのにね。いやはや人間というのは、あたりまえで簡単なことというのが、実はいちばん苦手だったりするのかもな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 こんな話をとある美女としていたら、彼女はこういった。

「そうよね、お部屋の掃除だって、ほっといたらいつのまにか何とかなってるもんね」

「おいこら、それはきみの母さんが、見るに見かねてやってくれているんじゃないのか」

「だからそういうことも含めて、環境って大切にしなきゃね」

 うぐ…。女と会話していると、私はときどき失語発作に襲われるのである。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

0 件のコメント:

コメントを投稿