2009年1月26日月曜日
【猫哲学52】 猫って音痴?
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
(2004/10/22)
そうなのだ。猫は音痴なのである。
正確な実験をして確かめたわけではないが、まずまちがいなく音痴である。だってあのにゃーにゃー声、音感もリズム感にもまったく縁がなさそうではないか。それに、音楽にほとんど反応を示さないもんな。
うちのバカ猫だけではない。姉の家の3匹もそうだし、友人宅の猫もそうだ。その友人はカラオケが好きでいつも家で歌っているのだが、猫はまったく反応しないという。そのくせ冷蔵庫を開けるとその音で飛んでくるというのだから、ホントにまったく、音楽にはぜんぜん興味がないのだろう。
犬は反対に、音楽の好きなやつが多い。ピアノの伴奏で歌う犬までいる。主人が歌うと、いっしょにコーラスをする連中もたくさんいる。なぜ犬と猫とでこんな差が生じるのかというと、犬にとっては声が重要なコミュニケーションの道具であるのに対して、猫は道具としての声を最小限にしか使わないように本能づけられているからだ。
猫が声を非常手段としてしか使わないという話は、過去の猫哲学でも二回ばかり書いたので、ご理解いただけると思う。反対に犬の場合は、狼を思い出していただければわかると思うけど、広い平原で仲間と連絡を交わすのに、遠吠えということをする。遠吠えには声色、音の高低・強弱、リズムやこぶし回しまである。犬が音楽を愛する条件は、生得的に備わっているのである。
では、猫の飼い主たる私は音痴なのだろうか。
私は、カラオケは嫌いである。音楽は…、まあ好きなんだろうな。でもさいきんは、とんと音楽を聴かなくなってしまった。音楽よりも静寂のほうが好きなのである。なぜこんなことになっちまったのかについては、それなりの理由がある。終わりまで読んでいただければ、なんとなくわかっていただけると思う。
ところではっきりいっちゃうと、私は音痴ではない。某国立大学の吹奏楽団でコンサートマスターをやっていたくらいだから、音感は良いほうだ。絶対音感も不完全ながら持っている。そんな私が青春時代にのめりこんだのは、モーツァルトだった。
私はいわゆる、モーツァルトおたくなのである。前回登場していただいたT・E・A・ホフマンもそうだったらしいが。
もう寝ても醒めてもモーツァルトばっかり。ケッヘル番号の1から最終まで、むかしはぜんぶ持っていた。CDで手に入らないやつは、FMラジオの番組をカセットに録音した。楽曲のスコアや関連本もいっぱい集めていた。オペラのレーザーディスクなんかもあった。これらのブツは度重なる引っ越しのうちに失われて、いまはほとんど残っていないのだけど。
そんな私だが、モーツァルトを演奏したことは一度もない。ピアノが弾けないということもあるが、フルートやクラリネットなどの管楽器はそこそこ吹けたのに、モーツァルトを演奏する気にはどうしてもならなかった。
モーツァルトは難しいのである。いくら練習したってサマにならないのだ。あれを弾きこなすには、音符を追いかける才能だけではとても足りない。なにか形容できない才能が必要なのである。音楽への繊細なセンス、ある種の「小粋な感じ」、洒落っけ、そんなものがないと演奏しようとしても音楽になってくれない。それは、大人になってしまってからではどんなに修練したって身につくようなものじゃない、なにか別種の才能としかいいようがない。そんなものは、残念ながら私にはなかった。だからいくら音感が良くても、「ヤボ」で「ヘボ」な演奏しかできないのであった。
このことには、モーツアルトが偉大な作曲家である前に、その時代随一の卓越した演奏家であったことが関係しているのだろう。要するに早い話が、上手い人が演奏するための音楽なのだ。
そんなわけで、私はモーツァルトをひたすら憧れて聴くだけの人だった。ますますおたくっぽいな。
ところでモーツァルトという音楽家は、あちこちで誤解されているように思う。事典なんかをひもといてみると、天才音楽家にして古典主義三大巨匠のひとりとか書かれているが、この人はそんな形容で収まるような存在ではない。
かつて坂本龍一が「真に新しい音楽というのは、モーツァルト以来不可能なんです。このことに気付いていない人は、鈍感だと思う」と述べたが、この表現でもまだ足りない。
彼の真の価値を知り抜いていたのは、同時代の作曲家たちだっただろう。ベートーベンは生涯を通してモーツァルトについて何も語らなかったが、モーツァルトのスコアを研究していたに違いないことは有名である。オペラ『フィデリオ』を作曲するにあたって、4人の登場人物がバラバラの思いをつぶやきながらやがて四重唱になっていくというみごとな構成を採用したが、あれは『フィガロの結婚』からのパクりである。
シューベルトは、いつも友人に語っていたという。「ぼくが死んだとしたら、本当の音楽を奏でて送ってくれ。モーツァルトのレクイエムのような…」
モーツァルトという人は、ただの古典の巨匠なんかではない。純粋音楽というひとつの芸術ジャンルの完成者であり、その世界の幕引きをしちゃった人なのである。
彼以上に完璧で奥の深い、しかも簡潔で純粋な音楽を書けた者はいなかったし、彼以降も存在しえなかった。それゆえあのような種類の音楽は、彼をもって終わってしまったのだ。
たとえば交響曲。モーツァルトが晩年に作曲した(それもわずか数ヶ月のうちに!)4つのシンフォニーを超えるような作品は、それ以降は出現しなかった。
歌劇にしても、モーツァルトの後期の歌劇の音楽性、ドラマ性、思想性を超える作品は、まったく存在しない。
協奏曲にいたっては、モーツァルト以後ひとつの作品も書かれていないものが多くある。ホルン協奏曲、クラリネット協奏曲、オーボエ協奏曲、フルートとハープのための協奏曲、ヴァイオリンとビオラのための協奏曲…、これらは、例外的なものを除いてモーツァルトによって終止符を打たれてしまった。
宗教音楽のジャンルまでそうなのだ。モーツァルトのレクイエム以上の作品は、それ以降まったく見あたらない。
(※クラリネット協奏曲は後にブラームスもウェーバーも書いているが私はそれを聴くとほんとになさけない気分になる)。
彼の後のクラシック作曲家は、ベートーベンのように楽器の数を増やして迫力で圧倒するとか、チャイコフスキーのように民族性を押し出して個性で売るとか、プッチーニやベルディのように演劇の要素を盛り込んで演出に依存するとか、シューマンやサンサーンスのようにやたら玄人好みに走るとか、あるいは楽典(音楽規則)を無視して新音楽に走るとか、まあほんとにいろいろ苦労してモーツァルトと比較されないような方法を選んだ。それしか生きる道がなかったのだ。
モーツァルトの音楽というのは、あまりにも完成され、あいまいな感情をよせつけない部分がある。人々はそれを「美しすぎる」といって遠ざけることも多い。「人間というのは、そんなきれいなものではない」という人も多くいる。
う~む。プラトンの理想が、理想であるという理由で敬遠されるのと似たところがあるな。そんなわけで、現代の人々はモーツァルトをあまり聴かないし、結果としてよく知られていない。だから、よけいに遠い存在になってしまっている。
小林秀雄という人を、私は十分に尊敬しているのだが、この方もやはりモーツァルトに関してはずいぶん的はずれな評論をしている。
彼はその著作『モオツアルト・無常といふ事』で(チョー有名、岩波文庫でも読めるよ)、交響曲40番を手放しで絶賛するのだが、返す刀で『フィガロの結婚』を「くだらない音楽だ」という。そして、「かの巨匠といえども、低俗な台本を相手にしたら、レベルの低い作品しか書けなかった」なんていってしまっているのだなー。
あの、めくるめく美と喜悦にあふれた『フィガロ』の、どこが退屈な音楽だというのだろう。この作品こそまさに、どの音符ひとつとってもそうでしかありえないような、自然で必然で心地よい、人類の至宝というべき完璧なる音楽ではないか。あの曲を聴いて、「ここが良いけどここは悪い」などといえる人がこの世のどこかにいるなどとはとても考えられない。それに、『フィガロ』の台本が低俗だと思う人は、あの物語に仕組まれたものすごい仕掛けに気付いていないだけさ。
私は、こう思う。あの小林秀雄さえも、やはり音痴だったのではないか。真の音楽というものはけっきょく、わかる資格をもった者にしかわからないのだな。というような意味で、じつは私は音痴ではないのである。えへん。
ただし、小林秀雄をあまり悪くいってはいかんかもしれない。なにしろあの時代だから、今のオーディオ環境とはまったく違う。あの人は、おそらくSPレコード盤を蓄音機で聴いたに違いない。それじゃあ仕方ないかもね。
いろいろ長々と書いてしまったが、これは私が死ぬまでに書き上げるつもりの評伝『五大オペラの謎=モーツァルトの毒殺と秘密結社思想』のほんのさわりの一部分である。おそらく400ページを超える本になるだろう。誰も読まないかにゃあ、そんな本。
まあこんなわけで、私は青春時代にものすごい量の音楽を聴いてしまったので、今になってみるともう音楽を聴く気がしないのである。あまりにも多くの音が身体に入り込んでいるので、いつも頭の隅で音楽が鳴っている状態なのだ。その音に耳をかたむければ充分なので、いまさら外からの音楽なんて邪魔なのである。
だから冒頭に書いたように、むしろ静寂が心地よいのだ。というわけで私の家にはステレオは置いていない。ここ20年ほど、一枚のCDも買わなかった。
そんな私だが、今年になってある音楽にハマっている。どんな音楽なのかは、あまりにも恥ずかしいから書かないのだ※。終わり。
(※わが家のワインパーティに来られた方にはバレているだろうな。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
むかし仕事の関係で、例の超美女と東京で落ち合うことになった。都内のある駅で待ち合わせをしたのだが、彼女は電話でこういってきた。
「駅前にモザートって喫茶店があるから、そこに居るね」
モザート…?? けったいなネーミングやな…。たしかに、駅前にその店はあった。ローマ字で大きく MOZART と書いてあった。
モザートねえ…。ふむ。世の中ってものはまあ、その程度のもんなのだろうな。
◇ ◇
「ちょっと! 人にことわりもなく、なにを書いてんのよ!」
「ぎくっ、おっととと…」
どてっ、ガキョッ!(携帯パソコンが床に落ちて壊れた音)。
「あらまあ、アハハハ」
「…、…」
美女の逆鱗にふれると、失うものは大きい。
[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com/]
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿