2009年1月26日月曜日
【猫哲学64】 猫における真実。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
(2005/04/08)
猫の屁は臭い。
ある日、ちょっと買い物をすませて帰ってきたら、部屋が臭うのだ。わが家では、猫トイレも最新式の脱臭機能付きのものを使用しているから、ほとんど猫くさくない。ということは…
「おまえ、やっただろ」
そういってバカ猫の顔をみたら、知らん顔をしてむこうを向いていやがる。まあ、騒いで問いつめるようなことでもないのだけどね。
しかし、だな。なぜ猫の屁は臭いのだろうか。食べ物の種類と関係があるのかな。それとも、腸内のバクテリアなんかの関係だろうか。いわる草食動物の屁の、メタンガスっぽい臭さとは別種の感じだ。
野生状態の猫は、その排泄物の臭気が独自であるために、他の動物、獲物や天敵に存在を勘づかれやすい。そのために、排泄物に土をかけて隠すという習性をもっている。これを人間の側からみると、トイレに関して行儀の良い動物ということになるので、ペットしてはとても好都合なのだ。それはいいのだが、屁が臭いのはなんとかならんか、おいこらバカ猫、きこえているのか。
今回は尾籠な話で始まってしまったが、ここから一気に哲学的命題にすっとんでいくのが猫哲学のすばらしいところである。読者のみなさまにはごかんべん。
さて私は、バカ猫が屁をこいたと思ってここまで書いてきたが、こやつが「していない」と主張したとしたら、どのようになるか。
私は「しやがった」と確信しているが、それは私の鼻が臭気を感じ取り、その臭気の原因として最もありそうなのがバカ猫の屁であると判断したわけだ。それ以外の証拠はない。
誰が見てもわかるような色や形のある証拠は残されていない。臭気もいつのまにか薄れて消えようとしている。
もしも私が精密なガス検出器を所有していて、それを使って室内の空気組成を分析し、バカ猫の屁の主成分に対応するガス等を検出して、そのデータに基づいて「おまえ、やっただろ」といえば、かなりな証拠になると思う。しかしそれをもってしても、じつは間接的な証拠でしかない。そんなことに科学性を求めるのだとすれば、その前に「猫の屁とは何か」が科学的に定義されていなければならない。
猫の屁とは何かなんて科学的定義を探求するほど私は物好きでも変人でもないし、これからだってやらないだろうから、つまりこのバカ猫が屁をしたのかしないのか、永遠に証明できないのである。
したか、しないか。真実はどちらかである。しかし、それは永遠にわからない。これは猫の屁にかぎったことではない。この世の森羅万象すべてである。おっと、いきなり哲学でしょ。
真実とは、わからないものなのだ。
すべての証拠は間接的なものだし、この目で見たと思っても感覚は私に対して嘘をつくことがある。錯覚というのが誰にでもあるでしょ。あらゆる証拠を集めて論証したとしても100%真実かどうかは本当はわからない。認識不能なのである。世界とは、そういう構造になっているのだ。
このことについては、私は卓越した名言を読んだことがある。ぜひご紹介しよう。
【古代ギリシア懐疑哲学者の論理(アグリッパの五つの方式)】
1:あらゆる言明には異論が存在しうる。
2:根拠づけは無限後退をはらむ。
3:言明は観点に相対的である。
4:最初に置かれる根拠は仮説的でしかありえない。
5:根拠を理論体系の内側に求めれば、悪循環に陥る。
すべてのことはここにいい尽くされているので、いまさらこれ以上、真実のわかりにくさについて述べようとは思わない。ちょっと書き方がぶっきらぼうで難しいので解説の必要な方がおられるかもしれないが、でもまあ、わかるでしょう※。ことほどさように、真理とはわかりくいものなのである。
(※解説の必要な方には別途メールをお送りします。遠慮なくご請求ください)
だが、いくらわかりにくいからといって、ないものとみなすのは暴論である。わからないことと、ないこととは違う。でも世の中には、「真実など存在しない」などという輩が多くいる。こういうのを、屁理屈という。
真実は存在する。バカ猫は屁をしたか、しなかったか、どちらかである。真実はひとつである。ただ、それは尻、じゃなかった知り得ない。知り得ないが、あるものはある。それを、ない、などといってはいけない。
こうした議論は、古代ギリシアからすでにあった。屁理屈をいっては人を煙に巻く一群の人たちがいて、「ソフィスト」と呼ばれていた。
そのソフィストたちの知的な不誠実さを徹底的に攻撃したのがソクラテスである。彼はあまりにも容赦なく詭弁家たちをやっつけてしまい、恨みを買ってとうとう殺されてしまった。と、教科書にはそう書いてあるが、本当かな。
先に引用したアグリッパもソフィストのひとりとされているが、引用文を読んでいただければわかるとおり、まともである。知的な誠実さを感じるけどなあ、私は。
ソクラテスは好きだけど、そのソクラテスも、「真実とはこれだ」と明言はしなかった。ただ、わかったようなつもりになっている連中をたたきのめしただけだ。ことほどさように、真実とはわかりにくいものである。
だからといって、「真実など存在しない」などといってはいけない。ソクラテスに水をぶっかけられるよ。あ、奥さんに水をぶっかけられたのはソクラテスか。
ところで現代に話を移すと、知り得ないものをないものとみなす考え方の典型が、「シュレディンガーの猫」という話である。どんな話かを書き始めると長くなるので、ここでは書かない。インターネットかなんかで調べてみてください。きっと頭が痛くなるから。
ここでは、知り得ないものを存在しないとみなす連中には、物理学者が多いということだけを指摘しておく。また、その尻馬に乗って駄論をたれ流す文系の文化人は、もっと性が悪いけど。
それにしてもシュレディンガーさん、なんで猫なの? 犬でもノミでも蛇でもよかったろうに、やっぱり猫をいじめるのって、楽しいのかなあ…。そういえば山寺のポンポコ和尚さんなんかもそうだし。
あ、私はそういう輩ではないぞ、バカ猫。私は楽しくておまえをいじめているのではない。私の猫パンチは、マナーやルールというものを教えているだけなんだからな。誤解するなよ。
あれ? 何の話をしていたんだっけ。忘れてしまった。まあいいか。
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「真実はひとつよ」
かの超美女が急にそんなことをいい始めたので、私はいつものいや~な予感に襲われた。
「待て。きみのいいたいことは、およそ想像がつく」
「男は誰だって、あたしを…」
「黙れ! みなまでいうな!」
「そんなわかりきったことをね…」
「うるさい、聞きたくない!」
「認めたくないなんてバカね、男って」
そう。真実はひとつである。ひとつしかないのだ。こんちくしょう!
[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com/]
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