2009年1月27日火曜日

【猫哲学89】 悪意ある存在。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2006/02/25)

 猫を殺すのが好き、というやつがいる。

 あの酒鬼薔薇聖斗こと少年Aが有名だ。最近では、母殺しの毒薬少女も猫を殺していたらしい。他にも、インターネットで猫残虐サイトがアップされて大騒ぎになったこともある。

 なぜ猫なのか。犬でも鳩でもゴキブリでもなく、なぜ猫なのか。

 理由は三つ考えられる。

 ひとつは、猫は殺しやすい動物だからだ。最も手に入りやすく、大きさも手頃で、反撃されたとしてもこちらが深手を負うことはない。大型犬と比較していただければ、その違いは明瞭だろう。それに猫は、人間を信頼している。殺された幾多の猫たちは、殺される最後の瞬間まで、人間を信頼していただろう。

 あの小さな身体で、いつ殺されても不思議ではないような大型の人間という動物を信頼して、全身を預ける猫たち。その信頼に(愛といってもいいけど)どれほどまでの意味と価値があるのか、思うだけでもくやしいじゃないか。

 ここまで考えるだけで、私は黒い怒りが腹の底から湧き出てくる。猫だろうが人だろうが、信頼を利用して、その信頼を裏切る。そのような者を、私はけっして赦さない。

 そういう種類の人間が世間にいることも私は知っている。そうした輩に騙されたこともある。だから私は、そいつの人生をたたき壊してやった。今頃どこでどうしているやら。私は後悔も反省もしていない。猫哲学者は、怒らせたら意外に怖い人なのだよ。

 いきなり脱線したが、猫が殺される理由の二つ目は、猫が神秘性を持っているからである。猫は夜の側の生き物だから、悪人どもはその闇に魅了されている。どんな頭の悪いやつでもそうである。いや、これは頭の良し悪しの問題を超えている。やつらは、ほとんど意識さえしないままに、猫を生贄として闇の王に捧げているのだろう。

 三つ目の理由は、これが最も重要だが、猫は人間にものすごく近い動物なのだ。姿形が人間と違うだけで、いつのまにか家族のように同化してしまう不思議な性質を持っている。本当はどんな動物だって同じなのだが、猫はそのレベルがすごく高いところにある。だから、猫を殺すような連中は、猫を殺しているつもりで本当は人間を殺しているのだ。あいつらは、人間を殺したいのである。

 少年Aの場合は実際に人間へとエスカレートした。しかし、その前の段階に止まっている未遂少年Aなどいくらでもいることだろう。最近、いやになるくらい包丁を使った殺人事件が多いが、犯人の心性というのは同じようなものに違いない。犯行の動機がどうたらこうたらとマスコミや先生方が解説していらっしゃるが、世間は最も肝心なことを忘れているのとちゃうか。

 私は、はっきりと書いてしまうぞ。あいつらは、人間を殺すのが好きなのだ。好きで楽しくてしようがないのだ。動機なんて、後からのこじつけにすぎない。ただ単純に、好きで殺したのだ。

 人間は数多くいるから、限りない多様性のなかからあのように極端な変異が現れてくること自体は防ぎようがない。歴史を学んでいれば、同様なことは繰り返し起きてきたことがわる。多くの民話や神話にも残されている。

 しかし、である。いくらなんでもこれほどまで同時多発的に起きるのはおかしいんじゃないか。民話や神話などというのは、滅多に起きないような恐ろしいことだからこそ語り継がれたのだ。それが日常となった現代という時代には、何か問題があるのではないか。

 さてここで、社会心理学的な発想でごたくを並べることなんて誰にでもできることだ。しかし猫哲学者は、平凡なことは言わない。いきなりとんでもないことを言うのである。

 いまの世は、鬼に憑依されているのではないか。

 はるかな昔、狂った鬼がいた。彼がなぜ鬼になったのかは知る由もない。彼は人間を切り裂き、血を啜り、首を切った。人々は彼を恐れ、神に祈り、ついに捕らえて封印した。その鬼が時を超えて、現代に跳梁している。私はそんな気がする。

 鬼は肉体を持たない。鬼は荒みきった者の心を乗っ取る。そして憑依した人間に殺人を犯させ、用が済めばさっさと別の肉体に移り、その別の肉体にも殺人を犯させていく。少年A、佐賀バスジャック事件、小学校襲撃、あれらの事件の背後に、私はいつも同じ鬼の顔が見える。

 時代が鬼を招き寄せてしまったのだ、と書いてしまえば簡単だ。確かにいまの世の中には鬼を呼び寄せそうな精神状態の人間に満ちあふれている。しかし私は、この程度の言明で満足するような人ではない。

 誰かが鬼を招き寄せたのではないか。

 誰かが、何らかの利益を求めて、悪魔と取り引きをした。だから鬼がやってきた。現代は、悪魔に魂を売った連中に支配されているのではないか。

 安っぽいオカルト小説みたいに思わないでいただきたい。世界支配の深奥には魔が居座っている。嘘だと思う人は1ドル札の裏側をちゃんと見てみなさい。13段ピラミッドの上に光る目、あれは「すべてを見通す目」といって、ルシファーのシンボルである。

 読者をおいてきぼりにして、いきなり問題の核心まで書いてしまったにゃ。でも、1ドル札の話は事実なんだからね。

 さて古代においては、このように鬼が跳梁跋扈したときは宗教の出番であった。神官がお祓いをし、祈祷をして、鬼を捕らえ封じ込めたのである。しかるに、今の宗教界は何をやっておるんだいったい。

 有力な宗教関係者のまともな話など、聞いたことがないぞ。うち続く異常犯罪は、もはや心理学では扱えないのだ。異界の領域を扱う宗教こそが果たすべき努めを、ちゃんとやんなさいってば。それともただの葬式演芸屋になり下がったのか、神官坊主ばてれんども。この粗大ゴミ野郎どもめらが。

 さらに言うと、日本においては国家神道のトップは何といっても天皇なんだから、平成天ノーにはこの状況にどう責任を果たすのか明確にしていただきたいもんだね。「自衛隊は平和復興支援のためにイラクに行っています」みたいな小泉ポチ畜生首相を応援する政治的痴呆発言をするようなヒマがあるのならさ、平成低脳さんよ、今の荒みきった世の中に、神の言葉を伝えてごらんよ。

 といっても、あの白痴天プラにそんなことができるわけがないことも知っている。皇室は荒廃しきっているからだ。この話は猫哲学87で書いてしまっているけど、未送信なのでゴメン。

 ところで、話をがらりと変えます(最後につながるけどね)。

 私は青森県の十和田湖が大好きで、通算10回は行ってる。あの高度にあれほど大きな湖があるなんて、ほんとに信じられない。澄み切った湖水も森も空も、奇跡的なまでに美しい。

 十和田湖といえばたいがい誰でも知っているだろうけど、実際に行ったことのある人は少ないと思う。何しろ国内航空運賃がバカ高いから、よほどお金に余裕がないと行けないのだ。大阪=青森往復料金だけでハワイ9日間旅行パックと同額なんだもんな。世の中の人は、どう考えてもハワイを選ぶだろう。

 そんなわけで十和田湖というのは、観光地でありながら、人が行かないせいでまだほとんど荒れていない。自然が自然のままで残っている。国内にあって希有の場所である。一生に一度は行ってみられたらいいと思うよ。

 で、その私の大好きな十和田湖の東側に、新郷村という村がある。戦後にいくつかの村が統合されて新郷村になったのだが、統合される前のひとつに戸来(へらい)村という村(現在は新郷村字戸来)があった。ここにイエス・キリストの墓がある。

 あんまりいきなりな話の展開で、びっくりされる人も多いだろうな。でも事実である。嘘だと思ったら調べてみなされ。

 明治時代に、日ユ同祖論というのが流行ったことがある。今だに信じている人も多いらしいが。日本人とユダヤ人は同じ共通の祖先を持つ民族だというのである。その中心が戸来(へらい)村で、ヘブライと同音だからなんだって。う~む(笑)。

 その人たちが言うにはですな、ゴルゴダの丘で磔になって死んだのはイエス・キリストの弟で、イエス本人は日本に渡ってきて106歳の天寿を全うしたのだそうだ。だから青森県現新郷村には彼の墓があり、大切に守られている。インターネットで写真も公開されているよ。

 …と、ここまでなら、私にはにっこり笑って見過ごすお話なのだ。ところが最近になって、むかつくような事実がわかってきて、私はまたまた腹をたてている。

 2年前のことだが、この「キリストの墓」に対して、何とイスラエル政府が記念碑を贈呈したのだ。

 私は腰をぬかした。イスラエルは、この墓を公式に認めたのか? 

 いやいやいや、そんなはずはあるまいよ。イエス・キリストの墓なるものはエルサレムに厳然と存在している。墓の上は聖墳墓教会という、どでかくも超デラックスな建築物で覆われていて、もちろん全世界から信仰者を集める観光名所である。その正当性をゆるがすような大事を、けちくさいイスラエルがわざわざやってのけるはずがない。

 絶対に何か裏があるぞ。深い深い疑惑を胸に秘めつつ、私はついに当の記念碑を見る機会に恵まれた。そして疑問は氷解した。氷解したと同時に、怒りのために脳が沸騰しそうになった。

 その小さな記念碑、長方形の黒い大理石には、このように書かれていた。「贈・イスラエル政府 2004年6月6日」。

 これだけでわかっちゃった人はセンスがいい。ほめてあげる。でもほとんどの人には何がなんだかわからないだろうから、解説しておく。

 問題は日付なのだ。2004年6月6日。

 これを例の数霊学風に処理すると、666。666とは、聖書ヨハネの黙示録に示された終末の獣(悪魔)の名である。

 日本人はキリスト教徒ではないのでね、日本人のキリスト教徒だって聖書をほとんどまともに読まないのでね、そんなことは知らないだろうけど、666というのが忌まわしい数字であることは、欧米人には常識なのだ。おーめん。そんな数字を記念碑に張り付けて贈ってよこすとはね、ええ根性しとるやないけイスラエル政府。

 我々はバカにされているのである。ちゃかされて面白がられているのである。あいつらは、日本人なんて自分たち以下、動物以下のうすのろとみなしているのである。これに腹を立てないようでどうする。

 新郷村の村長程度の頭では、この悪意に気付かなかったかもしれないなあ。青森県人がアホだと言っているのではない。村長になろうなんて連中の程度の低さを指摘しただけである。

 ちなみに、これも書いておくけど、2004年6月6日というのは、平成16年6月6日でもある。念のいった悪戯ですこと。

 最近のことだが、イスラエルのシャロン大統領が危篤状態になり、各国首脳は続々とお見舞いの電報を送った。その中には日本からの電報も含まれていた。イスラエル国営放送はその電報を読み上げることでお見舞いへの謝意を各国に表明した。そうして読み上げられた電報の中で、日本からのものだけは飛ばされて読まれなかった。

 これがイスラエルという国である。平然とした顔で悪意を露骨に表明してくる。やつらがパレスチナを含む世界各国でやっていることを思い出せば、イスラエルは国家ぐるみで魔に憑依されていると考えて間違いないだろう。

 こんな国に、我が国は毎年30億ドルもの支援をしている。小泉イヌコロ首相は、その額を倍の60億ドルに増やした。その金を使って、イスラエルは核兵器を持っている。去年はバンカーバスター500発をアメリカから買った。もうすぐイランに…、やめとこう。

 なぜイスラエルがそんなことをするのか、私は知らない。知りたくもない。ま、だいたいは想像できるけどね。ただ、やつらがそれを楽しんでやっていることだけは間違いないだろう。私は断言しておく。やつらは、悪をなすのが好きなのだ。

 またついでに書いておくけど、1000円札の裏側には富士山が描かれているね。ところが湖に映った富士山は不自然にゆがんでいて、鏡面対称になっていない。ひっくりかえしてよく見ると、その山の姿はシナイ山のシルエットだ。モーゼが登ったという、あのシナイ山。何で日本のお札にイスラエルの山が出てくるのか、一度よく考えてみたほうがいいいと思うよ、みなさん。

 話を整理しよう。前半は、個人に憑依する魔の話であった。後半では国家ぐるみで憑依された醜悪な政府の話だった。意外にきちんと構成されているでしょ。ぬふ。

 さて最後に、ちょっと哲学をいってみよう。このままじゃあまりにオカルト妄想まるだしで、「猫哲学者はおかしくなった」とか思われかねないもんね。

 で、魔の話である。

 そんなもの、本当に存在するのかと、読者はまだ信じられないというか、実はバカにしてるでしょ。そこが科学信仰に洗脳された近視眼というやつでね。

 よく考えてみてくださいな。これまで何回も書いてきたけどさ、人間の知識や能力なんて限られたものでしょう。自分の理解の及ばない領域のほうがはるかに大きいこともそろそろわかってきたでしょ。

 私が存在する。これは疑ってもしかたがない。

 他者が存在する。これも、経験的にはどうもそうらしい。

 世界が存在する。これも疑うことに意味がない。

 異界が存在する。これはどうだろうか。

 異界とは何かが定義されていなければ議論しようもないが、さりとて「存在するはずがない」と切り捨てるのは短慮に過ぎるというものであろう。むしろ歴史を知り知識を深めれば深めるほど、そのような領域を否定できなくなる。私は自分の限界を知っているから、限界の外側も簡単には否定しないのである。

 神は存在するか。

 神なるものの存在を語ることに意味はないということを以前に書いたが、私はその存在を否定はしていない。むしろ、存在を語る立場にないというのが正確なところだろう。

 悪魔は存在するか。

 神を否定しない以上、私は悪魔も否定しない。両者は同じ論理線上の両端である。というわけで結論。

 神を信じるなら、魔もまた信じよ。

 お話をもう少し分解して書くと、神と悪魔についての一般的な態度とは次のようになる。

(1)神と悪魔、どちらも信じない。

(2)神は信じるが、悪魔は信じない。

(3)神は信じないが、悪魔は信じる。

(4)神と悪魔、どちらをも信じる。

(注)ここでいう「信じる」とは、「信仰し従う」ということではなくて、その存在を認めるか認めないかの限定した意味で使っているのでご注意ください。私は神の存在を否定しないが、さりとて信頼も敬愛もしていない。

 さて、私に言わせるならば(1)はフツーである。が、何も知らず考えたこともない人である。(2)は、ただのアホである。大部分のキリスト教徒がこれにあたる。(3)は悪人である。私はかかわりあいたくない。

 そして(4)。これが私である。

 私は以前に、「すべての人間は生成途上の神である」と書いた。それは光の側である。光があれば、闇もまたある。

「すべての人間の奥には魔が潜む」。

 これもまたどうしようもない真実である。このことに目をそらすことなく対峙してこそ、世界の本当の姿が見えてくる。そしてそのことを、科学合理主義に洗脳されてしまったほとんどの人は、いまだ知らないのだ。

(今回は89回目ということもあり、厄なお話でいってみました)。

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「神と悪魔は、重なって存在するの」

 いつもの超美女がいきなり深遠なことを言い出すので、私はかなりびっくりした。

「ほへー、どういうことだよ」

「男は最初、あたしを女神と言うけど、最後には悪魔と言うわよ」

 どうとでも言われとけ。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com
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