2009年1月26日月曜日

【猫哲学61】 猫進化論。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2005/02/25)

 チータというのは、かっこいい動物やね。

 細くて足が長くて、顔が小さい。顔つきも上品である。きっと、顎がいかつくないからだろうな。

 なにもかも、うちのバカ猫とは大違いである。こいつときたらほんとにもう、…あ、なんだか不愉快そうな顔をするじゃないか。悪口を書いてることに気付いたのかな。妙なとこだけ勘のいいやつだな。いまさら書き直したりする気はないぞ、寝てろよ。

 とにかくチータは美しい。しかも、なごんでいるときにはゴロゴロいうんだよ。大型の猫族ではチータだけがゴロゴロいうのだそうだ。かわいいでしょ。足が速いうえに姿がよくて、性格までいい。文句のつけようがない。まことに進化の極致である、などと進化論者ならばいうだろうか。

 私はいわないよ、そんなこと。進化論が駄論であることを知っているからである。

 今回はダーウィンに喧嘩を売ってやるのだ。19世紀、20世紀を騙してきた進化論というのがいかにアホであるか、猫哲学的に暴露してやる。進化なんて言葉が好きな人は、これ以降を読まないでおくことをお勧めします。

 では、なぜ進化論が駄論であるのか。チータの話を続けてみよう。

 チータは時速80キロで走る。これはアフリカの草原に住む生き物のなかでは最速である。だから獲物を捕まえるのに、さほど苦労しない。ほんとにとってもすばらしい。しかしその後が、けっこう笑えるというのか、かなりかわいそうなの。

 まず獲物を捕まえても、息の根を止めるのに手間がかかる。早く走れるのとひきかえに頭蓋骨が軽くて小型なので、顎の力が弱い。獲物の首筋にくらついても、相手はなかなか死んでくれない。そうこうするうちに逃げられちゃったりすることもある。だから、なるべく小さな獲物を狙うように心がけていらっしゃる。

 さて、めでたく獲物の息を止めたとする。安全なところに運んでいって、さあお食事だー。子供をかかえている母親も多いから、おチビのところに運んでやらないといけない。スリムな身体で、自分よりも大きなインパラなんかをくわえてとことこ歩く姿は、なんともいえずいじらしい。

 ところがところが、それをジャッカルが狙っているのよねえ。

 ジャッカルは足も短いし顔もでかい。そんなに早くも走れない。でも大荷物をかかえてよたよた歩いているチータなら、簡単に追いつける。そこでジャッカルはチータさんに凄んでみせるのだ。

ジャ:「おいこら、その獲物、こっちによこしやがれ」

チー:「やーよ。なんてことをいうのよ」

ジャ:「つべこべいわずにさっさとよこせ。痛い目にあいたいのかよ」

 チータとジャッカルが喧嘩をしたら、チータは勝てません。早く走るためにスリムで身軽になったぶん、腕力は弱いのだ。

チー:「いやーん」

ジャ:「へっへっへ、こいつはもらっていくぜ」

チー:「ああ、悲しい。あたしにもっと力があったなら…」

 力があったらね、こんどは早く走れないのよ、チータさん。気の毒だけど。

 イソップ物語ではない。今日もサバンナのどこかで繰り広げられているありふれた情景だ。私はテレビで何度もその光景をみている。なんて不自由なのチータさん。あなたも苦労が多いね。

 これっていったい、進化したの? それとも退化したの?

 このチータの例が、進化論が哲学的にはアホ論議であることを示す、最もわかりやすい例なのだ。なんのこっちゃ、って? まあ、いずれわかってきますよ。もう少しおつきあいくださいな。

 進化とは何か。ダーウィンの進化論について一般的に思い込まれているのは、「生物種がより有利な生存を求めて、複雑で高度なものに変異していくこと」のような感じだろうな。※

(※ダーウィン自身は、一度も「進化」という言葉を使っていないらしいので、これは現代で一般的な定説のことと思ってください。広辞苑にもそう書いてあるし)。

 しかし、ここで哲学的に問いかけてみよう。

 複雑なことが、良いことなのか? 高度なことが、良いことなのか?

 チータの例でわかることは、より早く走れるということは、必ずしも有利にはならないということだ。早く走るために、別の有利な要素を捨ててしまっていることに気付いていただきたい。

 ジャッカルなんて、さほど大きくもなければ早く走もれない、たいして特長のないやつなのに、腕力がちょっと強いというだけでチータよりも優位に立てるんだもんな。

 チータは、高度に変異することによって、かえって生きにくくなっているんじゃないの? げんにアフリカでは絶滅を危惧される種のひとつに数えられている。

 複雑なことは、いつも良いとはかぎらない。 高度なことは、いつも良いとはかぎらない。

 生物界では、むしろシンプルで原始的なもののほうが生き残りやすいんじゃないのかな。ゴキブリなんてのはその典型だ。では、チータよりもゴキやんのほうが優れた生物だというのか。あいつは、チータよりも進化した生物なのか?

 なにがなんだかわからなくなってきたでしょ。

 別の例をあげよう。

 時計は、進化する。 自動車も、進化する。

 時計にしても自動車にしても、より正確に、より高性能に、より便利に、よりかっこよく、どんどん進化する。なぜそれが進化といえるのかというと、それは人間が使うものだからだ。良いもの、優れたものという判断は、人間がしていることなのだ。これを価値判断という。

 つまり、より価値の高いものに変化していくことを、「進化する」といっているわけなのだが、どこが、どんなふうに価値が高いのか、そこのところを決めるのは人間なのである。誰が価値判断をしているのかが明瞭であるからこそ、AはBよりも価値が高いと認識可能なわけ。

 そして、もしもそのAが、Bが変化してできたものであったとき、AはBよりも進化しているといっていいのだ。かなり理屈っぽいな。でも進化という言葉を使う場合には、価値判断をする誰かが必要だということはおわかりいただけたと思う。

 価値判断をともなうからこそ「進化」という言葉が意味をもつ。価値判断と無関係ならば、「変化」といえばいいのだ。たんに「違う」というだけのことさ。このへんの違いが、わかるかにゃ? 

 つまりね、変異の果てにチータみたいにかえって生きにくくなっているのなら、それを「堕落」といってもべつにかまわないわけでしょ。ならば、進化と堕落の違いをなにか説明できる? できるわけないよね。いわゆる「進化論」というのは、「堕落論」といいかえても意味はまったく同じじゃん。ならばそれを、たんに「変化」となぜいわないの?

 どうしてまあ、こんなバカなことになっているのかというと、価値判断という認識のプロセスが無視されているからなわけよね。

 では時計や自動車なんかではなくて生物種の場合、その価値判断をいったい誰がやるの? 人間か? それってヘンじゃないか。だって生物は人間の創ったものではないでしょ。

 地球は、人間がいなくなっても存在するかもしれない。いや当然、存在するだろう。その地球には、生物だっているだろう。その生物が、より高度だの複雑だの生存に有利だの、いったい誰が価値判断をするというんだ? それとも、人間のいる地球では生物は「進化する」が、人間がいなくなったら「進化しない」とでもいうつもりか。

 あっほー。

 ここまでが、進化論に対する猫哲学的批判である。これで議論は終止符をうたれている。論理破綻は明瞭に示されたのだ。これでおしまい。これ以上なにをいってもムダ。でも、納得しない人は多いだろうな。

 くどいけど、もう一度いうね。進化とは、価値判断を前提とする言葉である。人間の作ったものは、人間による価値判断が可能だ。だが生物は人間が創ったものではない。だから人間による価値判断はできない。ゆえに進化論とは、空論である。

 ついでにいっとくと、神なら価値判断が可能だろうが、人間は神ではない。

 誤解のないようにいっておくけど、私は生物種が変化しないといっているわけではない。ましてや創造論の信者でもない。生物の形がいまのようなものなったのには、それなりのメカニズムとプロセスがあったのだろう。しかし、それは未知のものである。その未知のものを、まるでわかったかのように語り、さらに愚かな価値判断まで味付けして喜んでいるバカどもを、笑っているだけだ。

 ここまで、あまりにもシンプルすっきりと書いてしまったので、これだけでは理解できない方も多いと思う。ならば世間でいわれる進化論の常識にそった形での批判をくわえてみようかと思ったのだが、よく考えると以前に『週間ウィトゲンシュタイン』でやってしまっていることを思い出した。なので、ここではそれを全文引用しようと思う。かなり手抜きであるな。でも、同じことは同じ文章でしか書けないのだ私は。まあええやんか、どうせタダやし。

 それでは、『週間ウィトゲンシュタイン』より、進化論批判編です。

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【(まだまだ週刊)ウィトゲンシュタイン】 Vol.6 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

今回はちょっと脇道にそれて、ウィトゲンシュタインから離れます。とはいっても、出発点はウィトゲンシュタインそのもの。まず、次の一行をみてください。

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※4・1122※ダーウィンの理論は、自然科学の他の仮説以上に哲学との交渉がある とはいえない。=============================

 この文章は、前後関係不明に、不意に出てきます。ウィトゲンシュタインは、このことをよほど言っておきたかったんでしょう。訳文だと控えめな印象ですけど、この意味は、

「ダーウィンの進化論なんて哲学的に見たらゴミじゃん」

ということなのです。

 もとよりダーウィン嫌いの私は、この一行を読んで、嬉しさのあまり躍り上がりましたね。ああ、私と同じ考えの人がいる。なんちゅうまあ心強いことじゃろか、ってね。

 で今回は、ウィトゲンシュタインの考察からちょいと離れて、ダーウィン批判を展開しちゃいます。とはいっても面白いからまあ読んでね。ウィトゲンシュタインがたった一行で言いたかったことの解説でもあるわけだし。

【ダーウィンを哲学的に批判すると、こうなる】

 まずダーウィンの学説の最重要ポイントを整理しておきましょう。

1:適者生存  生物は、より適応した個体が生き残る。
2:突然変異  ある種に生じた突然変異が、新種を生み出す要因になる。
3:環境斉一説  環境の激変は変移の原動力ではない。地球環境の激変はなかった。

 ? と思うでしょ。ダーウィンの有名な著作は『種の起源』。なのに種がどこから来たのか、その起源については何も語っていない。しかも1、2、3の中のどこにも、進化という言葉は出て来ない。まことに嫌らしい逃げ道を張り巡らせた理論なのです。

 まずはっきりと言えることは、「進化論」と高らかに言うのならば、「進化とは何か」を定義しなければならない。ところが、これを未だに明確に定義した生物学者はいません。

 例えば、猫とチータはどちらが進化しているのか、あるいはモンゴル馬とサラブレッドはどちらが進化しているか。なるほど、違いは、あります。でも、優劣などありませんね。では、バクテリアと朱鷺はどちらが進化した生物か。ナンセンスな問いですね。両者は違うものです。比較してもしょうがない。ただはっきりいえることは、バクテリアはこれから数億年後も確実に生き残っていることでしょう。朱鷺は絶滅したけど。だから、バクテリアの方が進化した生物? (爆笑)

 さて、では猿と人間はどちらが進化しているのか。ここで人は間違いやすい。「人間のほうが進化してるに決まっているでしょ」という人がいる。そりゃあ、自分のほうが偉いと思いたいのもしゃあないけど、その人は決定的に間違えている。科学的であるべき判断にいつのまにか、自分は偉い、かわいいなどという主観を持ち込むからそういうことになる。哲学的には、猿も人間も一緒です。猿は、山に適応した霊長類。で人間は、文化環境に適応した変な霊長類。違いはありますが、優劣などありません。

 客観的であるべき自然科学の考えに、いつのまにか好みや優劣といった主観を忍び込ませたのがダーウィン理論。何で、世の中の人は、これは科学じゃないと気が付かないのだろう。

 ではこれから、先に並べたダーウィンの主張1、2、3を徹底的に馬鹿にします。

1:適者生存

 ここでは、「適者」とは何かが問題になります。生存に適した者、と解釈できますが、例えば特別デカイとか腕力があるとか、美人であるとか、早く走るとかいう個々の要素は問題になりません。強いやつだって病気に弱かったりする。弱々しくてヘロヘロなやつが病気には強かったりする。結果として生き残るのは誰なのか、予測することは絶対にできません。目に見える差異は判断の材料にならないのです。で、現代生物学が到達した「適者」の定義とは何か。それは、「より多くの子孫を残した者」とされています。ふむ。

 では、続く「生存」とは何か。よりよく生きるという意味なんだろうけど、これもまた、大金持ちになったとか、喧嘩で勝ち続けたとかとかいうのは自然科学の対象になり得なくて、「生存」する、よりよく生るとは、「より多くの子孫を残すこと」、ということにされています。

 つまり「適者生存」を平たく言うとこうなります。

「より多くの子孫を残すものが、より多くの子孫を残す」。(爆笑)

 こういうのをトートロジー(同義反復)といって、哲学的には何も言ってない以上にお馬鹿なこととされています。

 次に行きましょう。

2:突然変異

 ダーウィン理論が生まれてほぼ150年。あらゆる生物種は安定したままで、どのような進化も起こりませんでした。その間、生物学者が何人いたのかは知らないけど、彼らの目の前で起きた「進化」の実例を報告をできればノーベル賞は絶対確実だったでしょうに、今に至るも、ただのひとつも観察されてはいません。その間、さまざまな突然変異個体が観察されはしましたが、すべて一代かぎりで死んでいきました。

 現代生物学の観察の成果で、突然変異体はほとんどの場合、生殖能力を持たないことが知られています。また細胞は、突然変移したDNAを正常なものに修復する能力をもっていることもわかっています。

 つまり、突然変異は、種の変異をもたらさない。ははは。

3:斉一説 はどうでしょう。

 ダーウィンとその取り巻きは、地球の環境はずっと一定で、安定していたと主張しました。環境の激変は、進化の要因ではないと。

 でも、地層や化石の記録から、過去の地球をとてつもない大激変が襲ったことは、いまや常識です。これもただの迷信。

 ね、変でしょう。こんなオンボロな理論が今でも真理として教科書に載っていて、批判すると変人だと思われるんです。世の中どうかしちまってるとしか思えない。科学文明だ21世紀だといわれる現代って、実はとんでもない迷信を抱え込んでいるような気がします。アインシュタインとか、ビッグバンとか…。何だかねえ。

 最後に、なぜこんな進化論のようなクソ理論が支持されてきたのかだけ書いておきます。

 あの時代は、ヨーロッパがアフリカ、アジア、南アメリカでひどい侵略行為をしていた時期と重なっていました。だから、白人には便利な理論だったのです。「我ら白人は、この土人たちに較べれば進化した種なのだから、何をやっても許されるのだ」という、正当化のための屁理屈として。だから白人は、今でも進化論を捨てられないのです。

 白人が有色人種に優越感を持つために支えられてきた空理論を、我々有色人種が信じるなんて、とても醜悪なことです。きっぱりと捨てましょう。お釈迦様によると、すべての動物の価値に優劣などありません。

 ちょっと長くなっちゃいましたねえ。ではまた。

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 以上が、この世に数冊しか存在しない幻の拙著『週間ウィトゲンシュタイン』からの引用である。

 では最後に、上の引用の終わりのほうにもあった、進化論の根元をなす西洋人のバカな人種偏見を、もっとも端的に示す例をご紹介しよう。これを読んだら、知識人たちの多くはひっくりかえるかもしれない。とくに「進化」なんかにロマンを抱いていたあらゆる論者は、赤面のあまり二度と人前に出られないかもよ。

 下に引用するのは、進化論のカリスマ的な論者であるティヤール・ド・シャルダンの手紙からの抜粋である。初めてこれを読んだとき、私は腰が抜けるほど笑い転げた。そしてその後で、寒気がしたね。

 この人物をご存知ない方にちょっと解説しておくが、ティヤール・ド・シャルダンなる野郎は北京原人の発見者として有名な博物学者。同時にイエズス会士にしてフリーメイソン、悪名高い異端神父で、あの有名なピルトダウン人の捏造にもかかわったとされるいかがわしい坊主である。社会進化論なんかの理論的支柱として小難しい論文をいっぱい書いていて、この人の文章をうれしそうに引用する日本人の学者もたくさんいたりする。

 さあ、それでは、その20世紀初頭の大知識人の世迷い事を、大笑いしながらお読みいただきたい。

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『世界を旅すればするほど、人々はこれほどの生物学的証拠を無視してまで人種の平等を認めるという大きな間違いをしていると感じます』

『中国人は進化が止まってしまった原始人であり、わたしたち白人と比較して、人類学的には劣等な本質を備えた未進化の犠牲者である可能性について…ますます確信を持つようになりました』

『組織された社会にとって人間的にいくらそう希望していても、わたしたちは人間の層が同質でないかもしれないことを忘れてはなりません。そうでなければ、中国人にも黒人にも、生物学的不可能性によって白人とは異なる、特別な役割を見つけてやらなければならないでしょう』

『土着民たちは増加したり、絶滅したりするでしょう。人はわたしが残酷であるとか、カトリック的でないとか言うかもしれません。しかし、真実はと言えば、進歩とは、与えられた時代を生き延びてしまった者たちがすべて滅びるように働きかけるものなのです』

『ヒンズー教徒たちはわたしをがっかりさせました。彼らを見ていると進化の力が余り働いていないようです』

『インドは中国やマレー同様自治能力はないようです』

『ファシズムは未来にその腕を広げています…もしかすると、ファシズムは明日の世界の設計図なのかもしれません』

『左翼の進歩主義者と布教学者たちに対抗して、わたしはムッソリーニと共に立ち上がります』

『平和とは征服のより進んだ過程でしかありません』

『個人的に、わたしはファシズムが反進歩主義的勢力をかばったりしなければ、その苛酷なやり方を許したくなります』

『進歩的民主主義者は基本的には本当に進歩的独裁者と変わりません』

『キリストは救い主です。しかし、キリストも進化によって救われたことを付け加えなければなりません』
(1927年4月6日)

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 このおっさんに、女子十二楽坊の美しくて芸術に秀でていて、純粋でひたむきでかっこいいねーちゃんたちを見せてやりたい。それほど見事な中国人を目の前にして、この野郎自大な俗物はいったいなんというだろうか。

 まあ、細部にいちいちつっこんだらきりがないのでやめておくけど、この程度の人物が進化論の精神的支柱であったことは隠しようもない事実なのである。

 それにしてもなあ…。「キリストも進化によって救われた」だって。ぎゃは、ぎゃはは、ぎゃはははは(白鳥座まで…は…)

 ただひたすら、笑いましょう。でも、こんな駄論が21世紀の戦争の思想的背景になっている事実を思って、ちょっと泣きましょうね。

 じゃあいったい、人間はどうやって誕生したのかって? そんなことあたしゃ知らないよ。なんの記録も残されていないし、証拠もない。いつか発見されるかもしれないが、今はない。原人の化石骨なんて、あんなのはぜんぶインチキだ。

 いろいろな仮説を主張するのは勝手にやればいい。しかし、それらはあくまで仮説だ。それを真理のように語るから、しかも論理的にむちゃくちゃだから、私は「それは違うんじゃないの」といっているだけだ。知らないものは知らない。わからないものはわからない。そんなものを知っているかのように語ってはいけない。世の中、そういう連中が多すぎるのだ。

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「あたしは、進化論なんか信じちゃいないわよ」

 いつもの超美女がそんなことをいうので、私はいささか自信がぐらついた。こやつと同意見ということは、けっして正しさを証明するわけではない。むしろその反対であることが多い。

「だってあたしに、これ以上どうなれっていうのよ」

「やっぱりそうきたか」

「あたしの価値は無限よ。誰にもどうこういわせないわよ」

「あんたの場合はそうだろうよ。でもな、世間ってものは…」

「なんにもわかってないのね。女はみんなそうなのよ」

「およよ」

「進化論なんて、男の思いこみよ」

「うわあ」

「だから男ってバカなのよ」

 またもや反論不能である。かくして進化論は、彼女によって終止符をうたれしまったのであった。ほへ。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com/
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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