2009年1月26日月曜日

【猫哲学49】 猫転生論。

 

       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2004/09/11)

 猫が夢をみている。

 私の膝のうえで丸くなって熟睡しながら、ふにゃふにゃフグフグと声をたてているのである。いったいどんな夢をみていやがるんだろうな、このバカ猫は。

 もしかすると、古い大陸の赤茶けた大地で、枯れた草原を歩き回る夢かもしれない。こやつの縞模様は、そんな環境でなら迷彩としてとても役に立つようにできている。いつか遠い前世でみた光景をいま夢にみているのかな。そんなことを考えると、なんとなくこいつを尊敬したくなってしまう私は、ロマンチストにすぎるかも。

 ところで前世などとさらりと書いてしまったが、転生というやつはいったいほんとうにあるのだろうか。これは、私のかなり若い頃からのテーマであったので、今回はわりとまじめに語ってみたい。

 転生、生まれ変わりといった話をはじめると、1910年代に起きたインドの少女の事件あたりから始めるのが一般的だが、私はくそまじめな研究レポートを書く気はないので、入門書を読めばどこにでも書いてあるようなことはすっとばさせてもらう。読者のみなさんだって、そんなわかりきった話につきあうほどヒマではないだろうし。

 ところで、仏教は転生輪廻を教義にしているが、お釈迦さまはべつにそれを中心的な教えとはしていないように思える。仏教の経典のなかで転生を体系的に述べたものはないし、般若信教にもこれにふれたくだりはない。この思想はむしろ、仏教の母体となったバラモン教の基本教義なのではないだろうか。バラモンの流れをくむインドの聖者のなかには3000年の過去世を見通す聖者もいるという。ほんまかいな、ぜひお会いしたいものだが。

 ところでお釈迦さまは転生を信じていなかったのかというと、どうもそうではなさそうで、次のようなエピソードが伝えられている。

 あるとき仏陀が歩いていると、犬を虐待している男のそばを通りかかった。そのとき仏陀はいった。

「打つな。その犬は前世、おまえの父だった」。

 この話では、その犬が本当にこの男の前世の父だったのかどうかは、べつにどうでもいいのだ。もしもあらゆる命というものにそういう可能性があることを知れば、動物を迫害することなどできなくなってしまう自分に気付くだろう。動物だけではなくて人間に対しても同じことになる。それが悟りへの道なのだよ、ということをお釈迦さまはこの話で教えてくれているのだ。

 お釈迦さまにとっては、輪廻転生すらも悟りへと至る寓話のひとつなのであった。私は、そういうのが好きだな。おっととと、いきなり結論までいってしまった。今回は、このような結論に至るまでの長い旅なのである。まあ、読んでね。ヒマだったら。

 仏教の話からはいってしまったが、実は初期のキリスト教でも転生は認められていた。ローマカトリックが聖書から排除してしまった教外聖典(外典ともいう)、たとえば「トビト書」「聖トマスによる福音書」などには、転生の記述があるという。(読んだことはない。だって売っていないんだもんな。)

 これが異端思想とされたのは、紀元325年、時のローマ皇帝コンスタンチン大帝がその母ヘレナとともに、新約聖書の輪廻転生に関する記述を削除したことにはじまる。紀元553年にコンスタンチノープルで開催された第二回宗教会議において、この削除が正式に認められ、輪廻転生の概念は異端であると宣言されてしまった。

 だがその500年後、11世紀から12世紀の南フランスでは原始キリスト教の流れをくむ「アルビ派」あるいは「カタリ派」とよばれるキリスト教の分派が流行して、その信者たちは転生を信じていた。(グノーシス派とも呼ばれるが、この名称は彼らと敵対していたカトリックの僧侶たちによる悪意が含まれるので、ご注意を)。

 ところで、ここからとても奇妙な話をしよう。今では岩波新書にだってそれを表題とした一冊があるほど知られているこの「カタリ派」だけど、戦前(第二次世界大戦前)にはごくごく一部の学者を除いてまったく誰にも知られていない宗派だったのだ。その存在が広く知られるようになった経緯と転生への信仰とは、奇妙な物語をともないながらリンクしている。このことを知る人は少ない。いや、ほんとうをいうと多くの人が知っているのだが、わざと無視しているのだ。なわけなので、天下無敵の猫哲学者たるこの私が、誰にも遠慮なんかしないで暴露しちゃいますのだ。

 中世より前の昔の話をするのだが、でも時代はいきなり現代に飛ぶ。

 大戦後すぐ、1940年代後半のロンドンで物語は始まる。精神科の開業医をしていたアーサー・ガーダムという医師がいて、彼のもとをスミス夫人という女性の患者が訪れた。彼女は毎夜毎夜、ものすごく恐ろしい夢をみるのでなんとか救ってほしいという。

 その夢というのは、彼女が十字架にかけられて、火あぶりで殺されるシーンなのだという。火の熱さ、痛み、苦しさなどがひどくリアルにくりかえされるので、つらくて苦しくてたまらないとか。ガーダム医師は気の毒に思っていろいろな療法を試したが、悪夢はおさまる気配もなかった。

 だがカウンセリングをくりかえしていくうちに、悪夢は火あぶりの場面から戦争、逃亡、宗教儀式の場面などに展開していき、しだいに中世の南フランスで起きたと想像される宗教迫害の歴史が浮かびあがってきた。

 それは、ただの妄想と片付けるにはあまりにも具体的で、食べ物や服装や風俗習慣などの細部に矛盾もなく、心惹かれる記述に満ちていた。だがガーダム医師はあくまで医者としての立場を守り、患者の言葉を病状としてメモするだけにとどめておいた。

 スミス夫人の診察が一年をすぎる頃になると、壮大な歴史物語がひとつの形をもってあらわれてきた。彼女が夢の中で信仰していた初期キリスト教の宗派は「カタリ派」といい、転生を信じていた。ローマカトリックはなぜかこの宗派を敵視し、軍隊を南フランスに送ってカタリ派信徒を全滅させてしまった。軍隊を前にしてなんの抵抗もできないまま十字架にかけられた信者たちは、その教義を証明するために、700年後にみんなで一緒に生まれ変わりましょうと誓い合って死んでいったのだという。それは時代でいうと1200年頃のことだから、700年後の1900年代というのはまさに現代だ。

 よくできた話ではある。だが、ガーダム医師が初期キリスト教の歴史をいくら調べてみても「カタリ派」などという宗派の記録はなかった。やはり患者の妄想と考えるしかなくて、彼はこの時点でもまだ半信半疑という以上に、科学者としての疑いを捨てるわけにはいかなかった。

 ガーダム医師は次の年の夏、休暇を利用して南フランスのプロヴァンスからアルビという町周辺を車で旅行してみた。初めて訪れた土地だったが、どうも初めてのような気がしないし、あたりの風景がスミス夫人の語ったことにぴったりそっくりなので、だんだんおかしな気分になってきた。やがて、彼女が夢のなかで語ったものと似た古い教会の遺跡にたどりつく。そこにいた僧に「ここは、どういう場所ですか?」と聞いてみたが、その僧は知らないという。ガーダム医師は、あちこちを調べて歩いているうち壁に奇妙な穴があるのに気付き、手をつっこんでみたら中から古文書がごっそりと出てきた。それは、昔カタリ派の牧師が殺される直前に隠した宗教書だったのだ。

 ガーダム医師はそれから数年後に、自らの体験とその後に調べていろいろとわかってきた中世の歴史を背景として、『カタリ派=失われた古代キリスト教』という本を出版した。しかし世間の反応は冷たいものだった。あらゆる歴史学者はその本を「トンデモ」「インチキ」「妄想」とののしった。しかし時間がたつうちに、「ひょっとして、これはカタリ派に関係のある文書ではないか」といって古文書の存在を公表する人もちらほらでてきた。だがそれもあくまで少数にすぎず、評価が逆転するほどのことにはならなかった。

 しかし、ついに逆転サヨナラ満塁ホームランが飛び出す。とある歴史家がバチカンの書庫で、カタリ派に関する文書をごっそり大量に発見してしまったのである。ローマ教皇レオ11世によるカタリ派・アルビ派の排除命令、フランスの将軍シモン・ド・モンフォールにその使命を託す指令書、軍隊を「アルビジョワ十字軍」と呼ぶその編成命令、フランス王フィリップ2世への指示、シモン・ド・モンフォールによる現地からの報告書等々…、すべては正式の文書として、ローマ法王庁の書庫深くに残されていたのであった。

 そんなわけで、いまではカタリ派に関する研究書など何百冊もある。日本語の文献だってなんぼでもある。カタリ派の聖都とされるカルカソンヌという町はいまでは世界遺産に指定されているし、最後のカタリ派の人々が追いつめられて全滅したモンセギュール城跡は名所旧跡になっている。

 しかし、人々は忘れてしまっている。カタリ派という宗派のことなんて、ほんの50年前には誰も知らなかったはずなのだ。700年前に転生を証明しましょうと誓い合って現代に生まれてきた人がいて、その人がいなければ、誰もカタリ派のことなど知りようもなかったはずなのである。

 TBSテレビでやっている『世界遺産シリーズ』でもカルカソンヌの特集があって、カタリ派の悲劇の歴史も詳しく語られていた。だがガーダム医師とスミス夫人の物語は、完全に無視されていた。これが世間というものなんだな。

 私が語っているのは、カタリ派という古い歴史の発見の物語ではないのだ。転生が真実かどうかを命とひきかえに証明した人間たちの物語なのである。だが、このことには誰も口をつぐんでいる。こういうのは、事実への公正な態度といえるのだろうか。

 だからといって私は、「転生が証明されたのだ」などと大声で主張するつもりはないよ。ただ、こんなことがあったという事実は、不思議で覚えておくべきことと思って忘れないでおくのが、私の生きていくうえでの態度なのだ。いってしまうとあたりまえすぎると思われるかもしれないが、でも私はこれで少数派なのだよね。自慢しておこうっと、えへん。

 さて次に、転生の実在を証明しようとした人のなかでは、重要人物としてエドガー・ケイシーの名前を忘れてはいかんだろうな。この人は自己催眠で眠っているあいだに、別人の声でいろいろな予言や霊視について語った。これは「リーディング」と呼ばれている。この種の霊媒はどこにでもどの時代にもいるが、ケイシーの場合が違うのは予言がしょっちゅう的中したうえ、病気の人が相談した場合、どんどんその病気を治してしまったという点である。

 私がこの人のことを初めて知ったのは中学生のときで、たま出版から出ている(今でも売ってるよ)『転生の秘密』という本を読んだときだった。そのときは「ほへー、ほんまかないな」と半信半疑だったが、この本のなかに「アトランティスの遺構が60年代後半に太平洋ビニミ島の周辺で発見されるだろう」という予言があり、なんとなく記憶の隅に引っかかっていた。そしたらしばらくして、新聞に「ビミニ島の海底で巨石建造物を発見!」という記事が出て、いやもうぶったまげた。ちなみに、ケイシーがその予言を語ったのは1938年のことだ。以来、私はこの人のことについては一目おくようにしている。

 で、そのエドガー・ケイシーは、病気の相談で訪れた人たちの多くに「あなたはアトランティス時代の前世のカルマをもって生まれてきた。だからそのカルマをつぐなうためにこれこれのことをしなさい」とアドバイスして、実際にその人の病気を治してしまった。これらの一連の仕事は「アトランティス・リーディング」と呼ばれている。これもまたどこまで信じていいのかよーわからん話だが、何百人もの人々の病気が治ったことは動かしがたい事実のようである。まあ世の中にはそんなこともあるのだにゃ、ということで判断保留にしておくのが、大人の態度というものであろう。

 ところでこの話は、カルマ=輪廻という考え方の輪郭を示している。自分でやったことの報いが、転生を超えて自分自身にもたらされるというしくみを、端的に教えてくれる例なのだ。だがこの輪廻という話、私は頭から信じないようにしている。これは危険な思想にもなるのだ。

 たとえば生まれつき障害を持っている人がいたとするね。その人に向かって、「それはあなたの前世の悪行の報いだ」といってしまってもいいことになるよな。見たこともない、あるかどうか証明もできない「前世」を理由にして、どんなことだって説明できてしまう。それではオウム真理教のバカどもとまるでいっしょだ。宇宙というのはそんな単純なものではないと私は信じている。だから、転生という概念と輪廻という概念が一般にセットになって語られることについては、いかがわしさを感じてしかたがない。もしかするとお釈迦さまは、こうした誤解を避けようとして、転生について多くを語らなかったのではないかな。

 ちょっと脱線したかな。いや、そうでもないか。

 転生の概念を考えるさいにおさえておくべきもう一人の重要人物は、ブライアン・L・ワイス博士である。脳生理学についての世界的権威であり、ノーベル賞ものの論文をいくつか書いている。フロリダで精神分析医として活躍中で、何冊かのベストセラー本を出版した。

 彼が最初に書いた本の内容をかいつまんで紹介しよう。

 ワイス博士は、とある神経症的不安に悩む女性患者の治療をおこなっていたが、なかなか改善しなかった。1年以上も続いたカウンセリングのあとで、博士は彼女に退行催眠をほどこしてみることにした。

 私たちはふだん忘れているが、深層意識では驚くほど昔のことをよく覚えている。これらの記憶はふだん目覚めているいるときにはぜんぜん思い出さないが、催眠術をかけると思い出せる。このような記憶を、催眠術を使って引き出す技法があって、退行催眠という。

 たとえば「あなたが小学校一年生の一学期の最初の日に、教室でとなりにすわっていたのは誰ですか?」みたいな、たいていの人が忘れているようなことも、退行催眠を使えば思い出すことができる。それどころか、その子の服装、その日の天気まで思い出すことができてしまう。

 精神分析ではこの現象を、幼児期のトラウマをさぐり出すための手段として使う。ワイス博士は、なかなか症状が改善しない患者への処置のひとつとして、この方法を試みたのだった。

 それでも分析はほとんど進行しなかった。ある日、博士は医者としてはとても不注意で乱暴なことなんだけど、退行催眠の最中に「あなたの症状の原因になったときにまで遡ってみてください」と指示してみた。そしたら驚くべきことに、患者は生まれる前の、過去世の体験を話しはじめてしまったのである。

 もちろん博士は科学者であるから、そんなことは暗示を原因とするただの間違い、錯覚かもしれないと考え、衝撃をうけながらも客観的になろうと努力した。だが当の患者は、前世を思い出したことによってそれまで苦しんでいた症状がうそのように消えていき、あっという間に完治してしまったのだ。

 ワイス博士はこの事実を無視することができず、その後も別な患者で退行催眠をおこなって同様の記憶を引き出し、治療を成功させるという経験が重なって、ついに前世記憶と神経症との関係を記述した『前世治療』という本を書いて、ベストセラーになってしまった。

 ちなみにこの本は日本でも訳出され、PHP文庫で500円で売っています。ヒマだったら読んでみんしゃい。安いし。

 ワイス博士はそれから有名人になり、テレビ番組で退行催眠の実演をやったりして、彼が治療した患者は何万人にもなるという。アメリカという国は、こういうことがわりと自然に受け入れられるほどオカルトな国なのである。みなさん、覚えておくように。

 私はこうしたことはすべて事実だと思っている。事実だというのは、前世の実在のことではない。退行催眠の結果として前世の記憶というものが出てきて、それが神経症の治療に結びついたということだ。あくまでも病気が治るのを否定しないという意味ね。患者の語る前世の記憶が歴史的な事実であるかどうかについてまで信じているのではない。かといって否定するわけでもないけど。

 心というものの構造が、治療のためにそんなドラマを求めているのかなという気もする。でも病気がたしかに治るのだから、前世を否定するとか肯定するとかいう議論はどうでもいいと思っている。大事なのは、真実よりも苦しみが癒されることなのだ。こんな意見には反対の方もおられよう。もしも反論がおありならば、いつでも誠実にお答えしましょう。メールでどうぞ。

 以上が、転生ということに関して私が重要だと思っている知識のダイジェストである。35年もこの問題を追求してきた私の集大成なのだ。ぜひ参考にしていただきたい。

 さてそれでは、いったい転生というのは、じっさいのところどうなのかね。あるのかないのか、どっちなんだろう。

 私の結論をいってしまおう。べつにそんなこと、どうでもいいんじゃないの。

 あまりにもぶっきらぼうないいかたかもしれない。ここまでいろいろなことを書いてきて、そんな放り出し方はないんじゃないか、というお声もきこえてきそうな気がする。でも、私は不真面目にこんなことを書いているのではない。いつもの猫哲学では真面目じゃないことも多いのだが、今回はけっこう誠実に書いているつもりだ。

 ではなぜ、そんな結論になるのか。これからしっかりと哲学的に書いていこう。

 私はここまで、転生に関する重要な知見を提供してくれた三人の予言者や学者や医者のことを紹介してきた。これらの例に共通しているものは何か。それは、病気である。

 心の病をかかえてしまった人がいて、その人を治療する過程で過去世というものが意味をもち、過去世を理解することでその患者は治療されていった。転生というのは、治療に役立つ物語なのだ。

 こんな書き方をするからといって、私は転生を否定しているのではないということもわかっていただきたい。私のいいたいのは、もしも過去世というものがあったとしても、その記憶が役に立つのは病人に対してなのだということがいいたいのだ。わかってもらえるかなあ。

 ものすごく大切なことをこれから書きますね。

 もしも過去世というものが実在していたとしたら、私を含めてほとんどの人がそれを思い出せないのはなぜだろう。私は過去世の記憶をもっていないし、私の周囲の人にもその記憶のある人はひとりとしていないのだ。

 だから過去世などない! といってしまうような無神経な人間とは、もちろん私は違う。過去世の記憶のある人がこの世のどこかに実在していることを疑いはしないし、その記憶がただの錯覚だなどというつもりもない。むしろ、前世というものは誰にでもあるのではないかにゃー、と、とりあえず考えておいたらいいではないか、そういう意見をもっている。

 私が指摘したいのは、もしもそうであるのならばなぜ、過去世の記憶が大多数の人にはないのかということである。

 だってヘンではないか。ビョーキで救いを必要としている人には過去世の記憶が意味をもっていて、そのえ細部まで思い出せるのに、何の悩みもなくてポケーっと生きている人にはそんなものなくて、思いだそうとさえしないのはなぜなのか。この違いって、どーゆーコト?

 結論から先にいうと、だってそういうことになっているんだからしかたないでしょ、ということだ。それではあまりに不親切かな。まあ、続きをお読みください。

 さて、ここでいちど、心をまっさらにして考えてみていただきたい。

 私が、あるいはあなたが、いまこの宇宙に存在して、私あるいはあなたであるということは、不思議ではないのか。ものすごく当惑してしまうような事実ではないのか。少なくとも私は、なぜ私が私であってべつの誰かでないのか、なぜ宇宙がこの宇宙であってべつの何かではないのかという疑問に対して、納得できる答えを見いだしたことはない。この生涯で多くの本も読んできたが、この理不尽ともいえる現実をわかりやすく説明してくれる言葉に出会ったこともない。私が宇宙および自己自身に対して「なんでやねん!」と叫ぶとき、答えはないのだ。

 これは恐るべき事態ではないか。人々はふだん、そんなことは忘れ果てているから、答えがない! などとうろたえることもないが、やはりいったんこれに気がついてみると、虚空にひとりぼっちで放り出されたような頼りない気分になる。

 猫哲学シリーズの2回目で早くも書いてしまったことだけど、時間などほんとうはないのだ。であるならば、今こそが永遠なのである。この驚天動地の認識を前にして、前世がどうとか来世がどうしたなどということに大した意味などないではないか。

 前世と来世を否定しているのではない。いまこの目の前の大いなる謎と格闘することに比べれば、そんなことはとりあえず忘れておいてもいいんじゃないの、といっているのだ。

 前世もあっていいし、来世もあっていい。でも、それがあろうとなかろうと、いまこの目の前にある永遠の謎はちっとも変わらないのではないか。

 他人の言葉を引用して自説を権威づけるのは好きでないのだが、たまにはやってやろうっと。ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』でこんなことを書いている。

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※6.4312

※人間の魂の、時間的な意味での不死、いいかえると、死後も永遠に生 きつづけるであろうことは、どのようなしかたでも保証はされていな い。それどころか、そうした想定をしてみても、それでもって到達し ようと望んだことが、じつは少しも達成されていないのである。それ とも、私が永遠に生きつづけさえすれば、そのことによって謎が解か れる、とでもいうのであるか。むしろ、そのとき、そのような永生そ のものが、現在の私に少しも劣らぬ謎とはならないか。空間と時間の うちなる生の謎の解決は、空間と時間の外側にある。
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 つまり永遠に生きることなど問題ではないといっているのですな。永遠に生きたとしても、謎はちっとも解決しない。むしろいまが永遠なのだから、いまをしっかり考えようよというわけ。でも、考えても解決できないけどね、ともいっている。

 つまり、これ以上は考えられないのだ。時間と空間に規定されている人間は時間と空間の外に出ることができないのだから、生の謎は解決不能なのだ。でもしかし、もしもそうであるのなら、それはいったいなんでやねん! と不可能と知りつつ考えてしまう。これが終わることのない哲学の問いである。

 もっとわかりやすく説明すると、こうなる。

 私は生の謎を前にしてとほうにくれている。もしも私に前世があったとしたら、私はそのときも同じようにとほうにくれていただろうし、来世があったとしても、そのときだって同じようにとほうにくれているだろう。だから転生なんて、あってもなくてもどうでもいいのだ。そして目の前の永遠を生きていくためには、べつにどうでもいい過去世の記憶なんてものは、思い出せないようになっていても、なんの不都合もないのだ。

 また無茶苦茶な結論を書いてしまったな。でも、そうなっているんだからしかたがないでしょ。文句ある?

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 こんな話をいつもの超美女としていたら、彼女はさもめんどくさそうな顔でいった。

「三日前の約束だってすぐに忘れちゃうのに、前世の記憶だって? やってらんないわよ」

「おーおー、そのせいでデートをすっぽかされて、自殺しそうなほど嘆き悲しんでいた男を何人も知ってるぞ」

「運命だったのよ。前世からの因縁かな」

「勝手な理屈だぜ」

「あたし、ふと思ったんだけど、前世であなたと夫婦だったのかもしれないな」

 ぐげ…。私は強烈な悪寒に襲われたので、念のために聞いてみた。

「どっちが女房だったんだよ」

「あなたにきまってるじゃん」

 おえ…


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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