2009年1月27日火曜日
【猫哲学76】 猫と健康。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
(2005/09/23)
猫の健康保険というのがあるらしい。
前々から「あったらいいのにな」と思っていたので、ちょっと調べてみた。だってうちのバカ猫はよく病気をするからである。
しょっちゅう風邪をひくし熱を出すし、食欲をなくす。生まれてすぐに拾われたので、それも仕方がないのだ。母猫の母乳で育ったのならもっと抵抗力のある猫になっただろうけど。それに、野生動物の場合なら兄弟との成長競争に負けてすぐに死んでしまうようなやつが生き残ってしまったわけだから、このバカ猫が丈夫なわけがない。
でも犬猫病院というのは、けっこう高くつくのよねえ。ちょっと注射をしてもらうだけで5000円くらい飛んでいくし、精密検査を受けたりレントゲンなんかにかかると2万円くらいあっという間だ。私の知り合いの女性も猫のためにずいぶん治療費を払わされ、「こんだけのお金があったら、血統書つきのもっとおしゃれでかわいい猫を買えたのに~っ!」と言って駄猫をにらみつけているという。
そんなわけで、猫の健康保険について調べてみた。
月々の掛け金が1640円。う~ん。私の生命保険の半分だな。高いのか安いのか。しかも猫種によってランクがあり、掛け金が違う。アメショーがBランクだったり日本猫Aランクだったり、どういう基準でランク付けしているのかよーわからんが、うちの駄猫はどう考えても雑種だ。どのランクかなと思ってよく読んだら、雑種というのはなかった。雑種は保険なんかに入るなってか?
その健康保険では、病院での治療費の金額の50%が還付される、とある。え? 半分だけ? とはいえ、金額をみるとなかなかに手厚いものである。
通院:最高20万円(1日につき1万円まで) 入院:最高20万円(1日につき1万円まで) 手術:最高20万円(1日につき10万円まで)
私が自分のために加入している安物の生命保険とあまり変わらない。豪勢なもんである。猫というのは、お金だけでみると、人間と同程度に偉いということなんだろうな。だからといって、私はべつに何とも思わないけどね。
しかしここで、いきなり哲学的に考えてみると、この健康保険という言葉、何だかミョーな感じである。
本来的に言うならば、保険というのはリスクに対応するための対価である。火災保険は万一火事にあったときにその損害を補償するためにかけられるものだし、地震保険は地震で損害を受けたときのためのものだし、もっと抽象的になると損害保険なんてのもある。これは保険の概念そのものだ。
だから健康保険というのは、健康から損害を受けたときのための保険ということなる。何だかへんだな。健康であることからどんな損害を受けるというのかな。
というのは言いがかりに等しい。健康保険というのは、健康でなくなったときの損害を補償するためのものなのだ。ならばなぜ病気保険とかケガ保険とか言わないのかな。どうにも解せない。その一方では疾病保険、ガン保険、傷害保険などというものがこの世には実在し、これらは健康保険でなく生命保険の範疇に属している。
なぜこんな概念の混乱があるのだろうか。このような言葉の操作の裏には悪辣な陰謀が隠されているのが世の常だが、ここでもやはり故意に混乱させて本質を隠すという隠微な技が使われているのだね、これが。
猫哲学はこんなことを簡単に見破ってしまうのさ。ここで露骨にストレートに暴露してやろう。
いいですか、一般の保険(保険会社がやってるもの)は民間の商行為だが、健康保険とは制度なのだ。お国がやっている制度なのである。
国家が行う制度のために徴収される金のことを税金という。ところが健康保険と言ってしまえば、その税金は保険金と言い換えられる。さあ給与所得者のみなさん、今後、自分が支払っている税金の中に、健康保険料も加算して税率を計算してみましょう。この国がいかに高い税率を国民に強いているのかを、あらためて認識できるはずである。
(厚生年金や国民年金についても全く同じことが言えるのだが、その話は長くなるのでまた別の機会に)。
国家はその膨大な保険料を勝手に使って、国民の健康と何の関係もないことをいっぱいやって、土建業者癒着汚職行政を繰り返している。そんな話には触れたくもないから、ここではパス。
ええっと、それでですね、健康という概念は国家の大事な金ズルなのだ。だから、国家は一生懸命になって国民の健康を管理しようとする。
国家による健康管理といっても、国民の健康を心配するのではない。20年以上も前から危険だとわかっていたアスベストを黙認し続けてきた日本国だからね、国民の健康を心配するのではなくて、健康という理屈をつけて国民の生き方や考え方を支配しようとしているだけだ。ついでに金も奪っていく。
その最も典型的な例が健康診断である。
定期健康診断だとお? だいたい人間というものは、べつに自分が病気だと思ってもいないのに医者に行く必要があるものなのか。血圧やコレステロール値なんてのはひとそれぞれバラバラなものなんだから、平均値なんかで勝手に人の健康を判断するなよな。その数値にしたって、医者の都合でいつのまにか勝手に変更されたりしてるし。
それに健康診断のときにやるレントゲン撮影ってやつ、あれは病気の診断に何の役にも立たないってことがさいきんになって暴露されたな。逆に、放射線を浴びるわけだから、ガンになるリスクだってある。あんなものをよくもまあ、何十年も国民に強制してきやがったな、厚生省。そのことが明るみに出るのと、例のアスベスト問題がマスコミをにぎわせるようになったのは、ほぼ同時だ。まさか、あれを利用してレントゲン撮影を延命させようってんじゃないだろうな。いや…、まさかね。
話がそれたが、私は以前、健康診断ってやつにえらい目にあわされたのだ。詳しくは以下にある通りだけど、私はそれ以来、会社の定期健康診断をボイコットし続けてきた。総務局からえらい怒られたよ。上司からも説教された。それで私は、私を非難する輩に喧嘩を売る目的で、以下のような手紙を書いて上司と会社にたたきつけた。
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■(総務局付)医務室御中
【健康診断拒否の理由】 2002/03/03
○○局○○室 ○×○×
私は、ここ10数年、確信犯的に健康診断をボイコットし続けています。何年か前、医務室に直接お伺いして、健康診断を拒否します、とお伝えしましたが、理由までは述べなかったので、ご納得いただけなかったようですね。ですので、この度は、私がなぜそういう意志を固めるに至ったか、その理由を以下に述べさせていただきます。
今から十数年ほど前のことですが、私は社の健康診断に出向き、「血圧が高い」との診断を受けました。(その頃はまだ、素直に診断を受けていたんです。)
翌日、医務室から呼び出しがあり、いきなり血圧降下剤を投与されました。問診なんかなしです。気分のことを聞くわけでもなく、食事生活を聞くわけでもなく、ただ高いから低くするために呑めというのです。しんどいとか動悸がするとかの自覚症状は皆無で、何か附に落ちない気分でしたが、そのころの私はとても素直な人だったので、医師の言葉に従って、5日間ほど続けてその降下剤を服用しましたところ、突然激しい発熱と吐き気、同時に貧血状態に陥り、2日間床を離れることができませんでした。ちなみに、大量の汗で、シーツは黒く染まりました。
それ以降、体調のバランスが崩れてしまい、ながいこと貧血状態が続きました。どんな状態かというと、ベッドから起きあがろうとしたら、その瞬間に倒れたりします。大阪駅から堂島まで歩くのに、最低二度はしゃがみこんで、気分のよくなるのを待たねばなりません。階段を上がるなんて、とてもできません。顔色なんか死人みたいで、周囲に本当に心配をかけていました。
現在ではかなり調子も良くなりましたが、それでも時々苦しい思いをすることがあります。以前はよく倒れていました。
かなり元気になって、ある日、献血しようとしたら、「お引き取りください」と言われちゃいました。(笑)
ある日、医者をしている大学時代の友人と雑談したとき、「血圧が高いといっても、原因は様々で、降下剤の服用はしばらく様子をみてからのほうがいい。副作用だってあるんだから」と言われ、なるほどと納得しました。
あれら一連の出来事を自分なりに考えると、今の私の健康が損なわれてしまっているのは、血圧降下剤こそが原因であり、きっかけとなったのは健康診断そのものではないのかという疑問を、抑えることができないのです。
けっきょく、三〇代のほとんどをそんな状態で過ごしてしまったために、ついに結婚もできませんでした。考えると、腹が立ってきます。私の人生をこんな風に狂わせた健康診断に、問答無用でまた出てこいなどとおっしゃるのがいかに残酷な仕打ちだということが、おわかりいただけるでしょうか。
以来、私は医療についての情報を積極的に集めて、現在の医療がかかえる多くの問題について学びました。詳しくは述べませんが、現代医療は病んでいます。健康診断は、病人を作り出すシステムと化していますね。そんな医療ではあっても、私だって必要とするときがいずれあるでしょう。そのときには私が自分の意志で、医療に殺されるリスクも考慮に入れて、行動を選択したいと思っています。
私のこのような意志を、法律で縛ることなどできるものなのでしょうか。私がどのような生き方をすることにまで、法律は踏み込めるのでしょうか。ほとんど人格権の侵害だと思いますが。
さらに、ややこしい哲学的なことを言えば、人間のように多様な存在に対して、科学的で客観的で一律な「健康」などという基準など、いったい誰が決められるでしょうか。偏差値ですか。平均値ですか。脈拍や血圧やコレステロール値は、その単なる数字は、体型体質に関係なく老若男女誰にとっても同じ意味を持つものなのでしょうか。
(一部略)
ここで、はっきりと宣言させていただきます。私は、自分の命は自分の責任で何とかします。その結果、私の無知と愚かさのために、病気になろうが死に至ろうが、その責任を社に問うような馬鹿なことは絶対にいたしません。まして、国家などに介入させてたまるもんですか。法律などという言葉を振りかざして、公明正大にして人畜無害、誰に迷惑をかけたこともなく誰を傷つけたこともない私のような小市民を、縛ろうとしないでいただきたい。
どうぞよろしくお願いします。 以上 (署名 押印)
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こんな手紙を読まされて、会社の上のほうの人たちは怒っただろうなあ、笑。でも誰も反論できなかったとみえて、私に対するそれ以上の指導はなくなった。でも、憎まれてしまったようで、それが後に別の衝突を引き起こすことになる。(これ以上の話はつまらないので、やめておきます。いつか酒でも飲んだときにお話しますよ)。
さて、ここまでまとまりなく書いてきたけど、ここからは「健康」というのが何なのかについて、哲学的にお話します。
健康って、何でしょうね。こういう話をするきに必ず引用されるのがWHO(世界保健機関)憲章の前文に書いてある定義なので、ここにも引用してみよう。
「健康とは身体的、精神的ならびに社会的に完全に良好な状態であり、単に病弱でないことに留まるまのではない。到達しうる最高度の健康を享受することは、人種、宗教、政治理念、社会・経済条件の如何にかかわらず、全ての人間の基本的権利の1つである」
とんでもねえ悪文の典型だな。何かを言おうとしたつもりが、けっきょく何が言いたいのかがさっぱりわからん文章の見本ってやつだ。ちょっと解体して遊んでやろう。
「健康とは身体的、精神的ならびに社会的に完全な状態」ときた。そんな状態の人間なんて、この世のどこにおるかい。人間つうのはだな、身体が頑丈でも脳味噌の空っぽなやつもいるし、病気がちのくせにやたら頭の回るやつだっている。さらに、「社会的に完全な状態」って何なんだよ。今の腐った世の中を軽蔑して無職でプータローをしている私のような男は、たとえ病気がなくても頭が狂っていなくても「健康」ではないというつもりか。おいこらWHO、きさまらがアフリカでどれほどいかがわしいことをやっているのか、知ってるぜ。おっと、話が変な方に暴走した。
さらにバカは続く。「到達しうる最高度の健康を享受することは、人種、宗教、政治理念、社会・経済条件の如何にかかわらず、全ての人間の基本的権利の1つである」ときたもんだ。
ほんならな、地球人類全員が、ここに書いてあるような「到達しうる最高度の健康」を要求して立ち上がったとしたら、いったい誰が「基本的権利」であると認めてそれを保証してくれるよ。国連か? まさかWHOにならできるとでもいいたいのか? アホぬかせ。
この悪文のしょうもなさをひとことで言うと、できもしない空想をでっちあげておいて、それを誰が実現するのかを明示していないことだ。国連だって、世界連邦だって、銀河帝国だって惑星連合だってダースベーダーにだって、こんなことを実現できはしない。(いや、実現できた例外が過去には数例だけある。何のことかは読んでいかれればわかるでしょう)。
やれやれ。この話からわかるように、世の中の健康ってやつは病気じゃないだけではだめで、精神的な健康、社会的な健康というのも必要らしいのである。あなたはそんなものを本当に望みますか?
身体が健康なのはまあいいとしよう。
それに続く精神的に健康っていうのは何だよ。悩みもなく迷いもなく苦しみもなく、不安もコンプレックスもなあ~んにもなく気楽にへらへら笑っていられる状態のことか。それって、バカの別名じゃないか?
(アンタがその見本ニャ:byバカ猫)
さらに社会的な健康というのは、社会のなかである程度の身分が確保されて、本人が満足するのと同時に周囲もそれを認めていて、「世のため人のため」「清く正しく美しく」なんて生きていられる状態のことだな。そういうヤツと友だちになりたいとは思わないぜ。
つまり、WHOが定義するような三拍子揃って健康な人というのは、私に言わせればサイテーな野郎のことだ。そういう連中の顔を見たければ、北朝鮮のポスターとか文化大革命中国の写真なんかにいっぱいいるから見ればいいだろう。あんな連中にあなたもなりたいと思うか?
いいですか、よく考えてみてくださいな。このアホと強欲と不正に満ちあふれた腐った世の中で、つまり小泉やナベツネなんかがでかい顔をしている世の中で、ある程度まっとうに生きようとすれば、社会と軋轢を生じるのはむしろ当たり前だ。その渦中で悩み傷つき、でも勇気を失わないで生きている人が美しいのだ。世の中がヘンなのだから、自己防衛のためにしかたなくて斜に構えて生きていくしかない人こそが、真にまじめな人なのだ。
このことは人類の歴史上、ずっと昔からそうだった。ソクラテスがそうだったし、プラトンもそうだった。その意味では、アリストテレスはかなり健康な人だったのだろう。
キルケゴールもそうだったし、ニーチェもそうだった。カントの哲学がいまいち面白くないのは、健康を意識しすぎたからだろう。でも彼は生涯独身だったから、健康じゃない側面はうまく隠し通したんじゃないかな。
そして私の尊敬するウィトゲンシュタイン。この人の生涯を健康だなどと、いったい誰が言うだろう。しかし彼の言葉は、人類史を貫き通すほど強烈に光り輝いている。
さてこのあたりで、読者のみなさんは健康という概念がかなりヘンなものであることに気付かれただろうと思う。では、なぜこの概念が混乱したままで投げ出されているのかを暴露してやろう。
猫哲学であるから、結論はものすごく簡単である。健康とは、国家が強制するものであるのに、個人の責任にすりかえられているから、あちこちで矛盾が生じているのだ。
健康な人というのは、国家にとってものすごく都合がいい。管理しやすいし利用しやすいし、コストもかからないし、生産性もいいし、場合によってはいい兵隊にもなってくれる。天皇が国民の健康に気を配るのは、当然なのである。そこに愛なんかがあると勘違いしてはいけない。
私の健康診断に会社が激しい強制を加えてきたのも、だから当然なのだ。私が、自分の健康を私的なことと勘違いしたのが、いけなかったのだよね。すいません、総務局長。
そういえばあの総務局長、とても健康な人だったな。つまり…、あ、これは書くのはやめとこ。
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「あたしはすごく健康なのよ。あなた、バカにしてる?」
いつもの超美女は、なんかわけのわからん「健康スナック」をかじりながら私をにらみつけた。
「そうはいってない。だけどな、世の中がきみみたいなやつばっかりになっちまったら、イヤだなって話をしてるのだ」
「…たしかに、気持ちわるいね」
「それにだな、あれほどたくさんの男をビョーキにしておいて、自分だけ健康な面をするなよな」
「ちょっと、あたしがバイキンだって?」
「みたいなもんだろ。つまり社会的には不健康だ」
「痛い目にあいたい?」
「違う。ほめているんだ」
「あん?」
「特別な存在ってことさ」
「あら、よく言うわね、うふ」
ああよかったー。うまくごまかせたぞ。殴られずにすんだー。
「ほめてくれたから、食事につきあってあげるわ。行こ」
くそ、こんどはサイフの健康の心配かよ。
[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com]
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]
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