2009年1月27日火曜日

【猫哲学81】 猫のような努力。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2005/12/02)

 猫は努力をしない。あたりまえか。

 どんな猫だってある程度の身体能力をもっている。それって人間と比較してみたら驚異的な瞬発力やスピードなのだが、その能力を獲得するために努力する猫というのはみたことがない。

 腕立て伏せする猫や、うさぎ跳びする猫や、ランニングをする猫や、ストレッチさえする猫なんていやしない。おいバカ猫、おまえ、今日から毎日、腹筋100回と腕立て伏せ100回やるんだぞ、なんていってやらせてようとしても、この駄猫はそんなことしないにきまっている。むりやりやらせようとしたら私がひっかかれるだけだ。

 だけど、このバカ猫にしたって人並みの、いや猫並みの筋力や反射神経はもっている。世の中には猫並みはずれた体力の持ち猫もいるが、そいつにしたところで努力なんぞしたことはないはずだ。猫に努力など求めても無駄なのだ。努力などしなくても、猫は猫でいられるのである。そんなものが必要なのは、人間だけだ。

 人間は努力する生き物である。しかし私は、ここに重大な疑問を感じている。努力とは、ほんとうに人間に必要なことなのだろうか。

 じつは私は、努力というものをしたことがない。大学受験だって一夜漬けとラッキーだけで合格してしまったといういいかげんな男だ。

 生まれつき頭が良いわけではない。今でも英語がわからないし、物理は不合格。数学だって、確率論というものがかいもく理解できないし、行列式なんて論外、三桁の足し算だって暗算ではあやしいものだ。大学の教養課程では数学が必修だったのだが、単位が取れたのは大学バリケード封鎖の影響で試験がなくなってしまったからだ。ラッキー。

 子どもの頃から笛を吹くのが好きで、その延長で管楽器を練習して、人並みより少し上手く吹ける。学生時代は毎日ロングトーンと音階練習にあけくれたが、それはたんに好きだからやっていただけのことで、他にすることも思いつかなかったという以外に理由などない。ガールフレンドでもいればぜんぜんやらなかったかもしれない。そんなものは、努力とはいわない。

 昔からものすごい量の本を読んできた。これもまた好きでやっていたことであって、努力なんかした覚えはない。しかし仕事に役に立っているのは事実である。

 という風に、私は努力など一度もしたことがないのである。

 だから大した人間にならなかったのだといわれればその通りだが、私は立派にも偉くもなりたいとも思わなかった。それに、いまの世の中で成功したといわれている人たち、たとえば現総理大臣や前外務大臣や、某新聞社会長や某公共放送局会元長や、借金まみれの某スーパーチェーンの創業者や、暴落目前の自社株を詐欺まがいに売りまくった堤帝国の支配者や、あんな連中と肩を並べるような人生を選びたいなどとは絶対に思わない。だから、このままでいい。このままがいいのだ。あんな人間になりはてるなんて、いやだいやだいやだ、ぜーったいにいやだ!

 おっと、いつものことだが話がずれた。努力の話だった。

 一昨年、イチローが大リーグの年間ヒット数記録を84年ぶりに更新して、世間が大騒ぎになった。私もやはり熱狂した。素直にすばらしいと思う。だが、その業績を評価するのに、彼の努力のすばらしさばかりを誰もかれもが誉め讃えるのが気にくわない。

 もちろん彼の努力も敬服すべきものである。しかし、彼と同じほど、いやそれ以上に努力している人など、この世にいっぱいいるのではないか。野球は国際スポーツだから、それこそ世界中の野球少年が、いまこの瞬間も必死に努力を続けていると思う。それでも、イチローの域にまで到達できるのは、この世でイチローただひとりなのだ。このことをこそ、尊敬し讃えるべきではないのか。

 はっきりいってしまおう。努力なんて大したことではない。誰にでもできる。ただし、それが好きなことであれば。そして、好きなことをするのを、努力とはいわないはずだ。

 イチローにとって、努力するなんてことは空気を吸うより簡単にできたことではないのか。彼は野球が大好きだったのだから。それよりも、あのバッティングやプレーのスタイルを創造し、選択し、貫き通したこと、その意志の力や勇気や判断力、ある意味での人間としての賢さ、立派さにこそ感嘆すべきではないのか。

 イチローが18歳で日本のオリックス・ブレーブスに入団したとき、監督は読売巨人軍出身の土井某だった。土井は新人の鈴木一郎をみて、「あのバッティングフォームを変えないかぎり、一軍では使わない」と掃いて捨て、その言葉の通りこの無能野郎が監督でいた二年間、イチローは二軍で暮らした。

 その二年間、監督の指示を無視してまで自分を貫き通したこの男の強さこそ、超一流の証なんじゃないのか。努力なんて誰にでもできることで彼を評価するのは、あまりにも失礼ではないか。

 イチローの話はこのへんでおいといて。

 世の中の人が努力をほめたたえ、逆に才能を評価しないのは、努力が誰にでもできることだからである。凡人を騙すための罠なのだ。

 努力をするな、といっているのではない。したい人はすればいい。ただ、努力が必ず成功に結びつくわけではないし、成功をした人が必ずしも他の人より多くの努力をしたわけではない、ということをいいたいのだよね。

 よく考えてみるとあたりまえのことでしょ。よく考えてみなくてもそんなこと、誰だって知っているよね。でも、これをあからさまにいわれると、腹を立てる人は多い。でもなぜ、ただの事実に腹が立つのだろうか。

 こういういい方は優しくないか。でもね、嘘をついてやさしいのと、本当のことをいって優しくないのと、結果的にはどっちのほうがが優しいと思う?

 もっとはっきりと書こう。人間の能力は平等ではない。努力しなくても成功する人もいれば、努力しても成功しない人もいる。現代の努力偏重主義は、このどうしようもない事実にわざと目を閉じているのだ。欺瞞である。

 私は思う。「努力は必ず報われる」という思想は、嘘であり、ぜんぜん優しくない。努力しても報われなかった人に対して、あまりにも残酷だ。その人に向かって「あなたの人生は無意味だった」と言っているに等しい。

 ここまで書いちゃうと、努力を疑問視する私と、努力を偏重する世の中と、いったいどちらが残酷なのかは明らかでしょう。

 人間の能力は平等ではないと書いたけど、同時に人間の能力は多様である。誰でも、どこかひとつの分野で、天才的な能力を持っているものだ。ただ、その能力が野球とか受験勉強とか、一元化された価値の中で比べられると、天才とかダメとかに分かれてしまうだけなのである。

 ただ社会の側は、人間の多様性のすべてを受け入れるようにはできていない。むしろ社会は、一元化された価値観の下に人間を分類するほうを好む。そのほうが支配したり利用したりしやすいからだ。だからといって、私たちまでが社会の押しつけてくる単純な価値観の物差しを信じ込み、受験勉強ができる=偉い人、などと勘違いしてはいかんだろう。むしろ、受験勉強ができる=変人、受験勉強ができる=パラノイア、受験勉強ができる=それしかできないアホ、などという別の価値観をもっておいたほうが、悪徳官僚の人間性を見抜くセンスを磨くことになる。

 またまた脱線した。努力の話だった。

 先に、私は努力などしたことがないと書いたが、それってちょっと違うだろうな。かなり嫌みだし。

 私は、持ち前の集中力を発揮して何かにうちこんだ経験はある。他人からすればそれは努力に見えただろう。私は好きなことをしていただけなんだけどね。ということだな。

 結論。好きなことをしましょう。それは結果的に努力になっているから。

 てなところでまとめると、よくある評論とちっとも変わらない。猫哲学はそんなところで立ち止まったりしない。もっと目から鱗の真実を追求するのである。

 さあ、本格哲学をいってみよう。「好きなことをする」と「努力」の違いとは何か。

 いつものように結論を先にいくぞ。両者の違いは時間の違いである。

 努力とは、時間と格闘することである。その内容が何であれ、努力をするということは時間の経過を我慢することが含まれる。これ以上説明しないけど、まあわかるでしょう。

 好きなことをするときには、時間は関係しない。始めたときに時間は停止し、終わったときに時間は勝手に進んでいる。いわゆる「あっという間」というやつのことね。そのとき時間はものすごく早く経過したと意識されるけど、後になって思い出してみるとものすごく充実した濃密な時間として記憶されている。

 以前に「時間は実在しない」ということを書いたけど、主観的にはもちろん存在している。ここで書いた時間というのは、主観的な時間のことなので、どうぞ誤解なきよう。そして、その主観的な時間が本当は実在などしていないことを理解すれば、実は「努力」と「好きなこと」の間にまったく違いなどないとわかる。差があるとすれば、それは主観的な差だけなのだ。

 つまり「好きなこと」にしても「努力」にしても、それらはけっきょく同じことである。当人は努力しているつもりかもしれないが、結果的にはそういう行為を通じて世界と対話しているのだ。それが成功や合格に結びつかなくても、世界と対話した経験が消えることはない。これこそが生きていることの意味である。社会的な成功なんかよりも、そちらのほうがずっと大事なことだと私は思うけど、世間はそうは思わないだろうねえ。

 もっとくだいて言おう。努力の報いは結果の中にあるのではない。努力するという経過そのものが報いなのだ。ちっともくだいてないような気もするな。ま、いいか。

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「きみは努力なんてものをする必要がないから、いいよな」

 例の超美女に向かって私がそんなことを言ったものだから、彼女は険しい目になって言い返した。

「あたしはね、毎朝5時半に起きて、シャンプーしてブローしてお化粧をして、それから出てくるのよ。あなたね、女が髪を乾かすのに、バスタオルが2枚いるってことを知ってる?」

「す、すんまへん。女をやってるのがそんなに大変とは知らんかった」

「ふん。だから男は底が浅いのよ」

「でもな、きみ、それを楽しんでないか?」

「あ…。否定できないかも…」

 やった! 私の理論が正しいことは、ここでも証明されたのである。

「美しさには喜びがあるもの」

 そ、それ、意味が違う…。 

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