2009年1月26日月曜日
【猫哲学38】 猫的方法序説。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
猫がメシを食っている。
ヤツは毎日、当然のようにメシを要求し、にゃあともいわずにこれを平らげるのだが、私はときどきふとした疑問にとらわれる。このバカ猫は、腹が減るからメシを食うのだろうか、メシを食いたいがために腹が減るのだろうか、どちらだろう。
そんなことはどうでもいいのであって、しかも考えても結論など出るわけではないのだが、でも考えてしまうのは、私がヘンだからだろう。猫哲学者とは、ヘンなやつなのである。
さてここで、とても哲学的に考えてみよう。
「腹が減る、ゆえに猫は存在する」
この命題は、アホである。「ゆえに」猫が存在するのではない。猫が存在するから腹がへるのである。因果関係をひっくりかえしてはいけない。まあ、こんな命題を書く人なんてアホな人はいないだろうから、どうでもいいようなもんだが。
では、次の命題だとどうだろうか。
「私は考える。ゆえに私は存在する」
おっとっと、デカルトにケンカを売るつもりか。いや、実はそうなのだ。ずっと前から、この命題を解体したと思っていたのだ。
実は、この有名な一文も、アホ命題なのである。「考えるゆえに」私が存在するのではない。考える前に私は存在している。私の有りようには、「考える私」と「なあ~んも考えない私」の両方がある。考えなくても私はいるのだから、私は「考え」の専有物ではない。
ところがここに、ひとつ奇妙な問題がある。これに気付いている人は多くないと思うが。
その問題とは、「私とは何か」についての考えと、「世界とはいったい何か」についての考えが、意識のなかで両立しえないということなのだ。
私とは、考えている何者かが、その考えは誰が考えているのかと問うときに初めて意識の中に明瞭に仮構されるものである。ところが、その「私を意識する」という手続きは、考えるということの手続きを重なって利用している。その証拠に、なるほどこれが私か、と意識したとたんに、それまで考えられていた「考え」はどこかに消えてしまう。
そこで、「おっと、何を考えていたんだっけ」と、「考え」をもう一度追い始めると、「私」のほうはどこかへ消えてしまう。「私」も「考え」も同時に意識することはできない。うそだと思ったら、やってごらんなさい。まるで公園のぎっこんばったん、あちらを立てればこちらは立たず、奇妙な困難を覚えるはずだ。
たとえば、私とは何だろう、名前と属性と感情と経験の総体であって今はこんな気分だな…、みたいなことを意識しながら、3×3-4+5×2=? なんて考えてごらんよ。できるわけないのだ。
だから、「考え」と「私」は同時に成立しえない。「ゆえに私は存在する」というのは、空論なのである。
これは、パソコンを例にとって話をしてみると理解しやすい。パソコンは考える機械である。だからといって、「考えるからパソコンがあるんだ」といってみても、笑われるだけだろう。
デカルトの誤解はもっと徹底している。猫哲学では滅多にしないことなんだが、本から引用してみよう。
=【デカルトと近代哲学の創建 「木田 元」】==========
この論証のためにデカルトのとったのが、有名な「方法的懐疑」の途でした。彼は、「いささかでも疑わしいところがあると思われそうなものはすべて絶対的に虚偽なものとしてこれを斥けてゆき、かくて結局において疑うべからざるものが私の確信のうちに残らぬであろうか」と考え、まずわれわれの外的感覚器官の教えるところ、つまり外界の存在を疑い、ついでわれわれの内官の教えるもの、つまりみずからの肉体の存在を疑い、さらには数学的認識のような理性の教えることがらさえも疑ってゆきます。こうしてデカルトは、もはや「世界のうちに何もなく、天も地も、精神も肉体も存しない」とみずからを説得し、頼るべく確かなものは何もないという、いわば絶望の淵に立つのですが、その瞬間、彼に一条の光が見えてきます。というのは、彼は、そのようにどれほどいっさいを疑ってみても、そうして疑いつつある「私」が存在していることだけは絶対に確かであり、この「私」の存在は疑えば疑うほど、むしろますますその必然性が確かめられることに気がついたからです。
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お疲れさまでした。あいかわらず哲学の本というのは読みにくいね。でも、何となくわかったでしょう。デカルトという人はすべてを疑ったのだと。
でも、おかしな方法でやるもんですね。疑いはじめたら、この世のすべて、私にかかわるすべては、なるほど疑い得る。しかし、疑うことが否定になると短絡して、それでいいのかな。腹がへったことは錯覚だと疑い得るが、疑い続けて何も食わなければ、しまいに目が回るぞ。そうなっても疑うつもりかね、デカルトさん。
つまり疑い得ることは、否定にはつながらないのだ。そこんとこの論理的飛躍を無視して、存在論を疑いだけで語っても、存在のほうはびくともしないんだけどな。
さらに、すべてを疑い続けて、どんどん内面に後退していって、それでけっきょく最後に残るのは、「疑い」だ。「私」が残るのではない、「疑い」が残るのだ。「私の存在」が何も証明されたわけではない。
だから「疑いが残る。ゆえに私は存在する」というのは、またもや短絡である。「疑いがある、ゆえに疑いは存在する」といわなければならない。では、その疑っているのは誰だって? もちろん私だ。だがさっきもやったように、そこに私を見いだしたとたん、「疑い」のほうはするりとどこかに消えてしまうのだ。
ここんとこが、実にややこしいのである。私はこのややこしさに当惑し、でもいつかはわかるだろうと思って考え続けているが、デカルトさんは500年も前に「わかった!」といっちゃったのだ。そこで私はデカルトさんの言葉をおっかけてみたりするのだが、その論理というのがさっぱり納得できないのであった。
もう少し、引用してみましょう。
=【デカルト『方法序説』より】=================
「こうして、<私は考える、ゆえに私は存在する>(Je pense,donc jesuis)というこの真理は、懐疑論者らのどのような法外な想定によっても揺るがすことのできないほど、堅固で確実なものであることを、私は認めたから、これを私の求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れることができると、私は判断した」。
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デカルトさんが夢中になって勝手に「第一原理」などとおっしゃるのをべつに止めはしないけど、でもそれって、ただの誤解、あるいは思考停止じゃないかなあ。
それにもっとひどいのは、「私は存在する!」と確信したついでに、身体も世界も宇宙も存在すると認めてしまうことやね。ほんとうにひどい飛躍である。短絡ともいうよな。けっきょく、世界を認めたいがために、まず疑ってみせて、これ以上疑えないぞと感じたら、やったぜうまくいった、この勢いでそれまで疑ったものすべてをひっくるめて認めてしまったことにするぞ、ってなことなわけか? それじゃあ、けっきょく何を論証したことになるんだ?
上の『~ゆえに私は存在する』のくだりは、デカルトのお友達がラテン語に翻訳するときに、(cogito ergo sum.)というもっとシンプルな形に書きかえられた。
『我思う、ゆえに我あり』。
歴史的に、誰もがこんなことを納得してきたのだろうか。私は信じられない。どうしてこんな単純なトリックにひっかかるのだろう。
「我思う」ならば、存在しているのは「思い」である。さきほどから繰り返してきたとおりだ。ならば、「ゆえに」で結ばれるのは「思いがある」だろう。「我思う、ゆえに思いあり」、こうであるはずだ。どういうふうにねじ曲げたら「我あり」になるんだよ。誰か私に、すっきりと説明していただきたいもんだ。
この矛盾構造を揶揄したある人は、次のように書き替えた。
「我思う。ゆえに我あり。と我思う。ゆえに我あり。と我思う。ゆえに我あり。と我思う。ゆえに(…以下、白鳥座まで続く)」
それでは、「私」とはいったい何なのか。それは存在するのか。このあたりのことを始めるとまた長くなっちゃうので、今回はこのへんで。
あ~あ、久々の本格哲学でした。お疲れさま。
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「で、どうなのよ。私は実在するの? しないの?」
さいきん、ますますきれいになってきた例の超美女が、うるんだ瞳をまっすぐにこちらに向けていっ
た。ちょっとクラクラするが、おのれ怪かし! こんなものにたぶらかされる私ではないぞ。
「いまのは、今夜、メシを食わせろという意味か?」
「あら、今日はずいぶん冴えてるじゃない」
「ああ。猫のおかげで、直感が鍛えられたんでな」
「よしよし、早く人並みになれたらいいわね」
ちくしょう。今夜のメシは割り勘にしてやる! 後悔させてやるからな、覚えてろ!
[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com]
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