2009年1月25日日曜日
【猫哲学16】 ペットブーム。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
チワワがブームである。
あれは某サラ金会社がCMでチワワを使ったのを、「かわいい~!」などと感激したバカどもが、自分もチワワを飼いたいと思ってしまったせいだ。
なぜバカどもと決めつけるのかというと、CMなんかに登場する以前からチワワという犬種は存在していたし、CMに出ようと出まいとチワワはチワワなのだ。だが、CMに出たとたんにそのことに価値を見いだして、急にチワワが欲しいと思いはじめる。ヴィトンやプラダのバッグか小物じゃあるまいし、そのような幻想価値に目を奪われて生き物なんて飼おうとするなよ。バカどもが。
こんなヤツらのせいでチワワの市場価値が値上がりし、もともと上限50万円くらいのものだったのが、150万円ほどにまで上昇しているという。そんなお金があるのか? そうか「どうする、アイフル」なのか!? 借金までしてペットなんか飼うなよな~。おたくが不幸になるのはべつにかまわないが、ペットまで一緒に不幸になるのはいかんぞ、やめとけやめとけ、などと私が心の中で叫んでも、事態はなあ~んにも変わらないんだろうな。ほへ。
あるペット業界関係者に聞いたのだが、この異常なチワワブームが去ったとき、次に必ず捨て犬ブームが来るだろうという。この人曰く「来年あたり、湘南海岸では野犬化したチワワが集団で人を襲うでしょう」だって。想像して、5分ばかり笑ってしまった。
さて、そのチワワ影響か、世の中ペットブームになりつつある。私の家の近所には世界一長いといわれる商店街が延びているが、そこに新しいペットショップが3店もオープンしてしまった。そのあおりを受けて猫までがブームになりつつある。
私は、いやあな気分になってくる。たしかに私は猫を飼っているが、ブームだからかわいいからという理由で飼っているのではない。だが第三者から見れば、私までブームの一員だとみなされしまうのだ。不愉快きわまりない。
この前、とある女性に猫を飼っているという話をしたら、「あなたもけっこうミーハーよね」といわれてしまったのだ。違うぞ~! ちくしょう、なんでこんなことで私がバカにされなければならないのだ。
この際だからいっておくが、私はこいつを好きで飼っているのではないのだ。友人が拾ってきたのを、押しつけられてしまっただけなのだ。それが、今ではこんなに大きな顔をしやがって、少しは感謝ってものを示してみろこのバカ猫。たとえば尻尾でもふるとかだなあ、あ、おまえには無理か。
じっさい、この私ほど流行に関心をもっていない者が、他にいるだろうか。流行というのは、私にとって、いつもいかがわしいものだった。流行るということには、何かウラがある。そう、いつも思ってきた。
たとえば昭和50年代、「今年の流行色」なんかを雑誌が特集してカラーコーディネイーターなる職業の方が世相とからめた分析などをなさっていたが、なんのことはない、繊維業界ではもっと早くからこの色でいこうと決めて、布も染料も用意してあったのだ。ただのビジネスだったのである。それでも流行はその通りに起きた。業界側からの巧みな心理操作が消費者を押し流したのだ。
わりと最近では「猿岩石」というタレントが人気者になった。本人に何の芸も魅力もないのに、猿だろうと石だろうと人気者にしてみせる、という傲慢きわまりない発想でテレビ局が強引に大量露出を決行し、実際にアイドルになってしまった。ここに、マスコミの価値転倒操作の典型がある。
一般に、テレビでのアイドル誕生には、つぎのプロセスがあると無意識に思い込まれている。
□実力または魅力がある→テレビに出る→人気がでる。□美人である、かわいい→テレビに出る→人気がでる。
ところが、テレビに出ることが価値の証明でなく、出ること自体が価値そのものであると勘違いした視聴者によって、このプロセスは逆転される。
□テレビに出ている→魅力があるからに違いない→好きになろう。□テレビに出ている→美人に違いない→好きだ、かわいい。
こうしたプロセスの逆転現象を利用すれば、猿だろうが石だろうがbスだろうが人気者にできるのだ。もちろん本人に実力がなければあっというまに忘れられ捨てられてしまうが(かわいそうな猿岩石)、テレビ局はそんなことには関知しない。
流行というのは、以上の例でもわかる通り、価値転倒作用をつかった大衆心理操作である。
ハリー・ポッターというのも、流行やりーぽったね。2000万部だってよ。あれは、まず中学生の間で流行りはじめた。きっかけが何だったのかはよくわからない。あれが流行りはじめた頃、うちの近所の書店では、買い物かごぶらさげたおばさんがよく『ハリーポッターありませんか?』なんて大根を買うように買っていくのを見たものだ。かわいそうな話だよまったく。
何がかわいそうかって? まず、このお母さん。
ガキに命令されて買いにきたのだろうが、自分が何を買いたいのかも知らずに『ハリー・ポッター』という名前だけ知らされて買いにきていた。あの時点で2巻が出ていたから、迷わず正確に買えただろうか。
かわいそうなのがもう一人、母親に本を買ってこいといったガキ。
そもそも、たとえ子供であろうと、本というのは自分で買いにいくべきものである。自分でその本を見なければおもしろそうかそうでないのか、自分の判断ができないではないか。その習慣のないガキが、母親に本を買ってこいという。本を愛してもいないくせに、ハリポタを読まないと仲間外れになるという恐怖感から、読もうというのだ。流行というのも罪なことをする。文庫本ならまだいい。単行本の3千円は痛いよ。これが、このガキの良き読書体験のきっかけとなれば幸いなのだが、無理かな。パリポタって、けっこう底が浅いもんな。
おっと、いつものように話がズレておるではないか。え~っと、何の話でしたっけ。そうだ、チワワだ。
チワワのあの、品種改良のすえに幼生後退を重ねてついにガイコツ化した顔をみて、かわいいなんて思うのかねえ。現実のチワワとテレビに映ってるものは、違うよ。あの犬種のガリガリ手足なんて、ものすごく気持ち悪いと私は思う。それに、無理して純粋種を保つように交配されているので、身体がとても弱い。すぐに病気になる。脱臼や骨折はしょっちゅうだ。犬猫病院に8回以上はかかる必要があるだろう。健康保険は使えない。出費を覚悟しとけよ、アイフル。なわけなので、私はいまのチワワの流行というやつがさっぱり理解できないのであった。
犬といえば、シベリアンハスキーが流行したこともあったな。飼いにくい犬なんだけどな、あいつ。あまり多くを語りたくはないが、あのハスキーたち、いまはどこに行った。近ごろちっとも見かけないぞ。目立たないどこか片隅で生きているのだろうか。それならいいのだが。それとも…。あ、ちょっと怖くなった。
というようなわけで、やはり流行とは、私にとってはいかがわしいものなのである。
ここでもう一度整理しよう。世の中の何かが「流行っている」(タレントならば「人気がある」)というのは、良いもの、価値があるもの、実力があるものだから人々に受け容れられて流行っているというのが一般的な思い込みだ。つまり次のプロセスである。
□価値がある→人々から求められる→流行る
ところがこのプロセスは、いつの頃からか逆転させられている。
□テレビで見た→かわいい→私も飼いたい(チワワ)
□有名ブランドである→良いものに違いない→欲しい(ブランドもの)
□テレビにやたら出ている→魅力があるに違いない→好きだ(猿岩石)
□ベストセラーだ→いい本に違いない→読まねば(ハリポタ)
私の本業は広告屋であるので、このような価値逆転のプロセスを大いに利用しまくって世の中を騙しているが、ときどき後ろめたい思いにもとらわれる。こういう現象があることを否定はできないが、世の中それで本当にいいのだろうか。世間のみなさま、お願いだから騙されないでくれよ。
さて、ところで価値とは何だろう。もともと、価値とはものすごく混乱した概念である。
この話の流れでいうと、価値とは「よいもの、ほしいもの度」といっていいだろう。いかに「よいもの」であっても、ほしくなければそのものに価値はない。
もしも私がケリーバッグを目にしても、天神橋の商店街で売っている1000円のおばちゃんバッグとさほど変わらないと思うから、私にとってケリーバッグの価値は1000円である。おっと消費税50円。くっそー、消費税なんて意地でも払いたくないぞ。そうだ、そもそも私はそんなバッグを欲しいなどと思っていないので、私にとってケリーバッグの価値は0円である。消費税も0円。よかった。価値とはそういうことだ。
このことがよくわからない女がいる。
「私のケリーバッグは40万円もしたのよ!」
といって私を非難するのだ。うん、きみにとって40万円なんだからそれでいいんだよ。私にとって0円だというだけのことだ、と説明してもわかってくれない。
「あなたは私をバカにしている!」
いやいや、そんなつもりはないよ。価値の相対性ということを話しているだけであって、きみにとって40万円のケリーバッグは、たしかに40万円の価値があることを否定するつもりはないのだよ。
「あなたはものの価値がわからないのよ!」
う~ん。価値の相対性を指摘されたミーハーは、誰もが同じように逆上するのだろうか。無理もないか、40万円だもんな。借金して買ったんじゃないだろうな。
もうお気付きかと思うが、私はものごとの価値基準を自分以外の判断に求めないので、幻想価値というものがよくわからないのである。私ではなくて優しい質屋さんだったら、「5万でお引き取りしましょうか」と、まだしも彼女の価値意識をなぐさめる言葉をかけてもくれようが、私はそんなバッグ、いらないのである。だから0円なのだ。
これを、絶対価値の否定という。砂漠の真ん中で立ち往生しているときには、金塊よりも一杯の水に価値がある。絶対に価値のあるものは、この世に存在しない。すべて、人が信じている価値というものは、幻想である。
話は急に飛ぶが、私はしばしば愛用のパソコンを踏みつぶす。(寝ころがって床で書いているのだ、悪かったな)。しかし私は慌てず騒がず日本橋の中古屋さんに直行、NECの中古DOSノートパソコンを2万円ばかりで購入し、システムインストール半日、何事もなかったように作業を続ける。
新品パソコンに頼っている人だったら、真っ青になるだろうな。まず突然の出費が痛い! それに、新品を買ってもシステム環境を整えるのに2日はかかるだろう。なによりも、ショックとパニックで、茫然自失から立ち直るのに3日はかかるかもしれない。
何がいいたいかというと、パソコンなんてものは単なる道具なんだから、過剰な思い入れをして最新スペックの高価な機種を買うと、ろくなことにならないということだ。パソコンの価値とは、テキストと表計算あたりができたら足りるのであって、しかも消耗品でもあるから、そんなものに何十万円も使うのは馬鹿げている。私のように最高でも3万円あたりでとどめておくべきだ。
私など、もう5度も同じような事故でパソコンを壊滅させてしまったので(キーボードに酒をぶちまけたこともあったな)、物置には同じような灰色のNECノートパソコンの残骸が山をなしているが、これに費やした金額は合計で10万円ほどである。
同様のことをMACのノート型で実践したとしたら、損害は数百万円に達し、私はすでに破産していたはずだ。これをマック地獄という。ことほどさようにパソコンの価値と価格というものには、おおきな歪みがあるように思える。
自慢ついでにいっておくが、私がNECのDOSノートでテキスト打ちをしているかぎりにおいて、フリーズしたことはただの一度もない。ただの一度もフリーズしたことなどないのだ。15年のパソコン歴で、フリーズしたことなど、ただの一度もないのだ。わかったか、ざまあみろ。私の選択とは、ことほどさように正しいものなのである。これ以上の選択は、この世にないのである。うはははは。
おっと、脱線した。それにつけても思うのは、パソコンとは、なぜあのように高価な機械なのだろうか。その価値をあますところなく引き出せるほどにまで使いこなせる人なんて、いるのだろうか。しかも毎年最新型が出て、あなたが清水の舞台もので買ったピカピカのパソコンは、いまこの瞬間から陳腐化を始めている。
ここでは、何ともおかしな価値の転倒が起きている。私が会社にある最新型マックで文章を書いたとしても、家の中古DOSノートで文章を書いたとしても、その中身はちっとも変わらないのだ。
あ、もしかすると、高級パソコンとはチワワなのかもしれないぞ。高価で、手間がかかり、故障ばかりするが、でもかわいい。他人に自慢もできるし。そういえば知り合いのデザイナーは、自分のマックに○○ちゃんと名前をつけて呼んでいたではないか!
かくして、流行と価値と値段についての考察は、いきなり「パソコンはチワワである」という結論に終わったのである。考えれば考えるほどこれはかなり深い洞察だぞ。パソコンご愛用の方々、身に覚えがあるでしょう、うははは。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
後日、かのケリーバッグの女に私のパソコンライフにおける価値と価格の話をしてやったら、こういわれた。
「たんなるケチじゃん」
その日、私が一日中沈みがちであったことは、いうまでもない。
[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com]
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿