2009年1月26日月曜日

【猫哲学57】 無は無である。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2004/12/31)

 大晦日でございますね。

 天下のヒマ人であり自由人である私は、先生も走るというこの忙しいおりにも、レギュラーの猫哲学を送信できるほど余裕たっぷりなのだ。はっはっは、ざまあみろ。…って、誰にむかっていってるんだ?

 今年はモンテラートの特別ごうか版おせちも買ってきたし、余裕のうえにも余裕なのだ。正月から贅沢イタリアワインで乾杯だぜ。

(モンテラートというのは、読者のほとんどがご存知の超おいしいイタリア料理店です)。

 そんなわけでのんびり気分の私の側で、バカ猫もまた思い切り気合いを入れて寝ている。少々けとばしても、起きないだろう。なにせ丸くなりすぎて、顔なんか天井を向いているもんな。いまはまだ昼だが、夜になってもこやつには除夜の鐘なんか聞こえないだろう。

 私が住んでいるのは大阪市内でも古い町なので、あちこちに名も知らない寺がある。いや、たぶん有名なのだろうが、私が知らないだけである。そんな寺々それぞれがそれなりに除夜の鐘を鳴らすので、なかなかの風情である。

 大晦日の夜というのは、たとえ大阪市内のごちゃごちゃした地域ではあっても、交通も人通りもぱったり途絶え、しんと静かなのだ。そんな暗闇に鐘の響きわたるのを聴くのは、とっても快感である。哲学的気分になっちゃうのよね。

 諸行無常というのですか。あるいは百八つの煩悩をひとつひとつ消していくというのかな。鐘の音をひとつ聴くたびに心は空になり、逆に精神は研ぎすまされていくようだ。

 空にして、虚。そして無へと至る認識の思考運動。というか、むしろ頭の体操、エキソサイズっぽい感覚。わかるかな。

 今夜はみなさまも、目を閉じて除夜の鐘に耳をすましてみませんか?なんちゃって、今回はせっかくの大晦日でもあるし、虚と無について考えてみるのだ。

 虚無という言葉がある。

 言葉があるから、なにかそれに対応する現実があると思っている人は多いが、実はナンセンスな言葉なのである。虚と無とはまったく異質の概念であるから、これらふたつを単純にくっつけた言葉は意味などなさないのだ。

 なんてことをいきなりいわれたら、またまたなにをけったいなことをゆーとるんじゃ、と思われることだろう。もちろん私は、そういう受け取り方をされることも承知のうえでこんなことを書いている。

 では解説しよう(ヤッターマンかよ)。

 虚というのは、空っぽなことをいう。コップの中になにも入っていない、部屋の中に誰もいない、サイフの中に一銭もない…、これらを虚という。

 ということは、虚という概念の前提として、コップとかサイフとかの器が必要だということだ。なにかが器に満たされているという概念がまず先にあって、そうでないことを虚という。家とか部屋とかいうのは人間がいることではじめて意味を持つので、だから反対に人のいない部屋を空虚と表現するのだ。茶碗でもやかんや鍋でも冷蔵庫でも、以下同様である。器があって中身がなにもないとき、虚という言葉が使われる。

 だから虚数という言葉は、日本語が不自由な人のネーミングである。二乗するとマイナスになるという数概念は、あるべきなにかが満たされていないということとは違う。数学的には本来やってはいかんのに、むりやりそういう概念をひねり出したという意味では「無理数」というべきだ。ところがその名前をつけられた歴史的には先輩の別の数概念があるので(たとえばπ)、そういうわけにもいかない。ならば「むりやりひねり出し数」とか「掟破り数」とか「それはないでしょ数」とか、別の言葉を使えばまだしもよかったのにね。

 なぜそのほうがよかったのかというと、i√を虚数と表現してしまったために、「虚数時間」だとか「虚数空間」だとかいう言葉が、なんとなくもっともらしく響くからである。

「それはないでしょ数空間」や「むりやりひねり出し数時間」なんていってしまえば、そんな概念を使いながら物理学を語っている人がいたら「アホかこいつは」と誰もが簡単に気がつくでしょ、ねえ。

 ここで「なるほど」と笑っちゃった人は、私と同じ考えの人であるので大歓迎だが、同時にかのスティーブン・ホーキングを笑い飛ばしてしまったことになる。すばらしい、ぜひお友達になりたい。おっと、今さら逃げたらあきまへんがな。捕獲っ!!

 話をもういちど最初にもどそう。

 虚というのが器を前提とすることについては、ご納得いただけただろうと思う。では、無とはなにか。これが、けっこう難しい。

 無とは、ないことである。なにもないことを無という。存在の反対概念である。非存在のことである。なにもないということは、虚の場合とちがって器さえもない。器も中身もない。器どころかそれが置かれる空間すらもない。さらに、ないことを認識する誰も存在しない。つまり人はおろか神もいない。これが絶対無の概念である。

 ところで、世界とは存在するものである。存在するものの内に、無は存在しない。存在するといってしまった時点で無ではないからである。だから、この世には無という実在はない。無は、ただの概念である。もっと端的にいうと、無とはたんなる言葉である。

 無がただの概念であるとみんながわかっているのならそれでいいのだが、世の中というやつは、無という言葉があるために、無という物理的実在があると誤解してしまう。

 ないから無というのであって、それが存在するなんて主張するのは矛盾なのである。アホかいな。と、哲学の立場からはそういい捨てておしまいなのだが、物理学者というのはそうではないらしい。へんな連中である。

「宇宙は無から誕生した」

 こんなアホなことを大声でいってはばからない連中がごろごろいるんだからやれやれ…、だよなあ。かのスティーブン・ホーキングも、その一味だ。あの人が肉体の障害を克服して学究を続ける姿はえらいと思うが、だからといってアホな言明はアホだと、私はきちんというぞ。どのようなお方が発言されようと、お間抜けはお間抜けなのだ。

 こんなことをいうと、また嫌われるだろうなあ。でも、いいもんね。古来、哲学者というのは、こんなふうにホントのことをいったばかりに嫌われたり、ときには殺されたりしてきたのだ。

 話を戻そう。

 無とは、なにもないことである。そこからなにかが誕生したりなんてするわけがない。その可能性さえないのが無なのである。もしもなにかが誕生する可能性があるなら、そこには可能性が存在するわけだから、無ではない。あまりにも当たり前だ。

 では、ビッグバッン宇宙論者というのは、いったいなにを誤解しているのだろうか。ここのところを、わかりやすく解き明かしてみよう。

 宇宙は膨張しているという。ただし私は、そんなこと信じていないけどね。でも銀河は、遠くのものほど早いスピードで遠ざかっているのだそうだ。光のドップラー効果による赤方変異で、それが確かめられるのだとか。(それも、私は信じていないけど)。

 んで、いま膨張しているのだから、古い昔はもっと小さかった。銀河はもっと接近していた。さらに遡れば、物質は小さな小さな1点に凝縮していた。もっと遡ればもっと小さかった。究極的には限りなくゼロに近い1点だった。だから宇宙はゼロから始まったのだ。とまあ、ビッグバン論者はいうわけよ。

 私の言葉で書いても信用してもらえないだろうから、さる高名な天文学者であり科学史家が書いた『科学最前線ノート41』という本から引用してみよう。著者名まではあえて書かない。武士の情けである。

 この本の20ページに「なぜ、宇宙は無から生まれるのか」という章があって(爆笑)、その冒頭に次のような文章がある。

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 観測事実としての「宇宙膨張」を認めれば、時間軸を逆にすると、必ず有限の時間で宇宙のサイズがゼロになる時点に行き着かざるをえません。つまり、宇宙は過去のある時期に誕生したことになるのです。
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 私はこれを読んで、少なくとも10分は笑いが止まらなかった。

 なんで宇宙が縮小したらゼロ行き着くんだ? 膨らんだ風船が縮んだとして、いったいそれがゼロになるか?

 それに、宇宙が膨張しているというのは、観測事実ではないぞ。観測事実としてあるのは、銀河が遠ざかっているということだ。これさえも私は疑っていることについては前にも書いたが、まあ100億歩ゆずって仮に銀河が遠ざかっていたとしよう。それと宇宙の膨張と、なんか関係あるの?

 あのね、池にメダカがいたとするね。そのメダカが、あるときみんなから遠ざかる方向に泳いでいた。そのとき、池は膨張するのか?

 そのメダカが、またあるとき一カ所に固まって泳いでいたとする。じゃあ、池は縮小したのか?
 なわけねえだろう。メダカの運動と池の大きさはべつべつのものだ。メダカがどう固まって泳ごうと、池の大きさは変わりはしない。では、この一瞬、銀河が離れて泳ごうとしているからといって、宇宙が膨張しているというのは、アホではないのか?

 ビッグバン宇宙論というのは、こういうことを平然と主張しているのだ。小学生が考えたって妙だとわかるではないか。

 銀河どうしの距離が遠ざかっているからって、宇宙が膨張していると主張するのは、どう考えても短絡である。短絡なんて上品な表現をするとヤツらはつけあがるから、もっと単刀直入にいってあげよう。

 ば~~か。

 もちろん、私の知性が小学生並みだから理解できないのだという反論もあるだろう。そうであるなら、いちおう謙虚に話をきくから、この私を説得してみてくださいな。ただし、アインシュタインをここで持ち出したら、徹底的に反論してやるからな。この議論を始めたら、たぶん私が勝つだろう。私の反相対論は、筋金入りだからな。はっはっは。

 それと、3K背景放射のことなんか持ち出してごらん。こてんぱんにやっつけてやるぜ。

 さて、メダカの話を続けよう。

 あるとき一カ所に固まっていたメダカが、もっと固まりはじめて、ついにはメダカの一個体よりも小さな一点に固まったとするね。なんて、そんなことあるわけないじゃないか。メダカは、その細胞の大きさより以下の小ささになることはできない。では銀河はどうなのだ。銀河は星より小さい一点にまで縮小することができるのか。

 このことに対する答えは、「わからない」ということだ。だって、誰もそれを実験してみたことがないし、自然界でそんなことが起きているという事実を観測した人もいない。

 わからないのだ。ただ、メダカがその細胞より小さくなれないことはみんな知っている。だから銀河だってそうかもしれないと考えることを妨げるものもない。じゃあ、なんで全宇宙が原子よりも小さくなれると断言できる? ビッグバン宇宙論というのは、そんなことを主張しているんだぜ。

 あれは、数学理論を使った遊びなのだ。遊びはおもしろいから、みなさん勝手にやればいい。止めはしない。しかし、この遊びが唯一絶対の遊びであって、他の遊びはやったらいかん間違いだというのは迷惑である。しかもその遊びは、誰が考えたって論理的飛躍と矛盾だらけの、ゆがんだ遊びなのだから。

 話はまだ続く。無のお話が終わっていない。

 ここまできて、ビッグバン理論のむちゃくちゃがかなりおわかりいただけたと思うけど、ヤツらの非論理性はさらに先まで突進するのだ。

 彼らは主張する。宇宙はかぎりなく小さな点にまで凝縮され、さらにもっと小さくなって、ついには無になる。ゆえに宇宙は無から始まったのだ、と。

 ほほほほほへへへ~。

 私は脱力し、言葉を見失う。

 存在はどこまで小さくなろうと存在である。極小の存在が仮にあったしても、それは極小の存在であって、ゼロではないでしょうが。

 それだけならまだいい。池のメダカが仮に極小になりついにゼロになったとしても、池が消えるか? そんなわけないだろう。銀河が原子になりさらにゼロになったとしても、宇宙は消えはしない。それは虚になっただけであって、無ではないのだ。これをいいたいがために、最初に虚無の話をもってきたのだもんね。

 極小とゼロとの間には、概念のものすごい飛躍がある。そして虚と無との間にも、ものすげえ飛躍がある。これらを軽々と、いや無神経に、いやいやいや無知無思慮のままに飛び越えてしまう宇宙論者を、私は信じられない思いをもってながめる。なんやねん、こいつら。私は夕陽にむかって叫ぶのであった。

 あっほー、あっほー、あっほー、…(以下白鳥座までリフレイン)。

 もちろん先にも書いたが、思考の遊びとしてならビッグバン理論、おおいにやっていただいてけっこう。問題なのはそのビッグバン論者が、私のようなやつが「ヘンなんじゃないの?」と指摘したら、いかにも軽蔑しきったような顔で反論することである。いや、反論さえしないな。程度が低いといわれて終わりだ。ある酒場である人とこんな話をしていたとき、ビッグバン支持者が私をみた目つき、高慢な態度を、私は忘れないぞ。

「そんな低次元の知識では、話にならんよ」と彼はいったのだ。

 ふん、紙の上の数字操作と私が語る常識と、どちらに意味がある。おまえらのいっていることはぜんぶ、実験も実証もできない仮説じゃねえか。バカにしやがって。だから私は、逆にバカにし返してやるのだ。猫哲学者は執念深いのだぞ。

 おっと、今日は大晦日。そのような執念、執着、煩悩を捨て去る日なのであった。ついつい興奮してしまった。いかんいかん。

 最後にひとつだけ指摘しておこう。ビッグバン理論は、西洋発の概念である。日本人が日本語で考えるかぎり、本来はこんな妄説にはひっかからないはずなんだが、西洋崇拝にいまだに縛られている大人たちもまた多いので、こんなことになってしまう。

 西洋人たちがこんな嘘にひっかかるのは、神の概念のせいである。絶対者、第一原因としての神があるから、彼らは無の概念さえも神の前においては実在することにしてしまう。神の実在が絶対前提だから、無の実在にも疑問を持たないのだ。そして神の実在については、議論を封止したままだ。まあ、一種の思考停止だな。

 そして彼らは、みずからのこうした思考停止に気付いていない。ウィトゲンシュタインのような例外もあるが、あくまで例外である。ビッグバンを最初に主張したのはジョルジュ・ルメートルというカトリックの坊さんなんだぜ、知ってる? こんなの、どこが科学なんだよ。

 おっとと…、まあ、キリスト教的思考の欠陥について述べ始めるときりがないからやめておこう。今日は仏教的感慨にひたるべき年に一度の機会なのだからね。

 というわけでみなさま。今夜は除夜の鐘でも聴きながら心を虚と無で満たして、心やすらかに良いお年をお迎えください。

 おい、バカ猫。おまえもなんかあいさつしたらどうだ。

 …寝てます。起きそうにありません。こやつはこのまま年を越すのだろう。

 ではまた来年。

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 今回は、あの超美女は登場しません。正月休暇なのだ。どこにいるのか知らないし、なにをしているのかも知らない。なので、私の周囲はとても静かである。あ~あ、久しぶりにすっきりするなあ。ほんとにもうあの女ときたら、このあいだなんか…

 ん? おや、携帯にメールだ。

「あたしの悪口を書いたら承知しないよ」

 ぞぞ~っ、なんでわかったんだよ。ええいくそっ! 女というのは、いったいどんな構造になっとるんだ。

 …あ!ああっ! ま、まさかそれって、別の宇宙論なのかあ!?

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【おまけ】

 さきほど本から引用した部分なんだけど、じつは続きがある。これがあまりにも笑えるので、ご紹介しておきましょう。

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(以下引用)

 では、宇宙はどのようにして誕生したのでしょうか。
 もし、何かの物から宇宙が誕生したとするなら、その物がどのようにして誕生したのかが問題となりますから、ニワトリの親と卵の関係と同じで答えは出てきません。結局、物質やエネルギーが何もない状態である「真空」から宇宙は誕生したとせざるをえないのです。

 さらに、この真空には時間も空間もありません。空間や時間の誕生そのものを問題にしているのですから。

 このような状態を「無」と呼ぶことにしましょう。時間・空間・物質(エネルギー)のすべてが「無」の状態から宇宙が誕生したとしなければ、本来の宇宙創成論にならないためです。もしどれかが在る状態から出発するなら、その起源がやはり問題となるのですから。
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 大笑。そして脱力。こんな文章を大まじめによー書けるわ。

 要約するとこうだ。宇宙はどのようにして誕生したか。なにかから誕生したとしたとするなら、それはそもそも誕生論にならないから、なにもない「無」から誕生したのでなければならない、といっているわけですにゃ。

 こういうのを循環論という。結論が理由になり、理由が結論にすりかわっているのね。哲学的にはゴミ以下、軽蔑の対象です。

 この文章をもっとわかりやすく書き替えてあげよう。

「宇宙が無から誕生したとしなければ、誕生論らしくない。よって宇宙は無から誕生したのだ」

 こんなもんが科学かよ。ビッグバン論者の知性なんて、この程度のもんです。では、よいお年を。                        


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com/
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

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