2009年1月28日水曜日

【あとがき】

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【猫哲学100】 死について。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2006/05/05)

 最終回は、予告していたように死のお話である。

 ところで私は死んだことがない。だから死を知らない。経験のないことを語ることはできない。これで終わり。

 これで終わりです。みなさんさようなら。

 本当にこれで終わりなのだ。これ以上語ることなど何もない。だけどそれでは納得できない方もおられるだろうから、周辺の話題などをあれこれ書いておこう。

 猫哲学もついに100回目を迎えた。以前から宣言していたように、これで最終回である。といっても私は、どこかの文豪のように猫を殺して終わらせたりするようなことはしない。バカ猫は今日も元気である。間違いなくあと10年は生きるだろう。

 おいバカ猫、おまえも最後の出番だぞ。何か言いたいことはないか?

 …寝てます。まあ、そんなもんでしょう。

 ところで「死」についてである。今回はこれを真正面からやっつけるのだ。世の中にはこれを扱った本などなんぼでもあるが、はっきりいってまともな論説にめぐりあったことがない。前回の恋の話でもそうだったが、わからないからこそ議論が絶えないということなのだろう。

 私も、わかっているわけではない。でも、わからないということを真正面から見据えて書くので、凡百のわかったつもり論よりもよほど上等なことを述べる。てな感じで、あいかわらず猫哲学者は、最終回に至っても偉そうなんである。ふニャ。

 さて、死には二種類ある。他人の死と、自分の死である。

 まずは、他人の死からいっとこう。これだって、現代社会は概念の混乱の嵐の中にある。私が扱いたいのは自分の死なのだが、こっちのほうを整理しておかないと次に進めないので、ちょっと我慢して読んでね。

 私たちは、他人の死について、何を知っているだろうか。親しい誰かが死んで、もう会えない。それは誰もが経験していることだ。だからといって、それはあなたの死ではない。死んだ誰かが経験した「死」そのものは、あなたの経験ではないから、あなたにはわからない。

 あなたが経験したのは、その誰かが死体となって、葬儀その他いろいろなことが起きて、もう二度と会えない、そういう事態とそれに伴う感情のあれこれなのだ。その人の「死」そのものはその人が経験したことであって、しかも二度と会えないのだから、その人から教えてもらうこともまたできない。

 誰かの死に立ち会って、その悲しみのなかで死について何かをわかったつもりの人は、死を知ったわけではない。その人は、自分の感情を見ていただけである。

 もう少し整理しよう。他人の死にも二種類ある。肉体の死と心の死である。

 肉体の死は、わかりやすい。機能停止し、冷たくなり、腐敗し始めたら完全に死だ。だけど、このわかりやすいことに、現代医学はまったく別の定義を持ち込んでいる。という話は後ほど。

 心の死は、これはわかりにくい。肉体が生きていても精神が死んでいるような状態もあるし、逆に肉体が完全に失われても心が残っているという感じもある。前者を植物状態、後者を霊という。

 心がいつ死んだか、あるいは永遠に死なないのか、私たちはわかっていない。というわけで、他人の死を定義づけることができないのだ。

 う~ん。理屈っぽいな。でも、知り得ないことを知り得ないと知っておくことは、大切なことである。あなたが、もしも他人の死について、何か知っているつもりでいるなら、この世の重大な悪に荷担してしまうことになる。

 急な展開だけど、びっくりしないように。

 死を定義している連中がいるのだ。本来は定義不可能なことをもっともらしく定義して、しかも法律にしようなんて連中がいるのだ。何のためにそんなアホなことをするのかというと、もちろん連中にとっては金になるからだ。

 そんな連中はほっておけばいいのだが、我々の生活に介入してくるのが面倒だ。めちゃ迷惑である。何の話かというと、ドナーカードの問題である。

 あいつらは、臓器移植のためにより新鮮な臓器がほしくて、むりやり「脳死」を死と決めた。脳死体というのはね、身体がまだあたたかくて顔色もあって、臓器をバラそうメスをいれたら悲鳴をあげるし暴れる。そこをむりやりよってたかって押さえつけ、死体だということにして解体されるのだ。本当のことだよ。そんな実状を、みなさん、知ってた?ショックかもしれないけど、事実である。本当のことを知りたいなら、私が教えてあげるから、メールでお問い合わせください。

 閑話休題。あだしごとはさておき、って、いいのか、それで。

 まあ、この世に悲惨で無惨なことは他にいくらでもあるし、あたしゃ関係ないさ、勝手にやってればええがなとは思うけど、この私にまでドナーカードを持ちなさいと強制するのだから困ったもんである。
「あなたの生き肝がほしいから臓器提供に同意しなさい。何が死なのかは私たちが法律で決めてあげる。ついてはお金はあげませーん。私たちは手術代、免疫抑制剤なんかでがっぽりもうけるけどねー」

 これがやつらの本音である。そこから発展した死体ビジネスや誘拐ビジネス、人身売買から戦争ビジネスまで、言いたいことはあまりもたくさんあるけど、ここでは触れないでおこう。

 話がかなり脱線した。ここで指摘したいことというのは、私たちの誰も、他者の死を知らないということなのだ。

 彼とは、彼の肉体ではない。彼の心である。腕の一本や二本失われたとしても彼は彼である。彼が彼の心であることは、ことほどさように自明なことである。

 彼が死ぬとき、彼の肉体の死はどのようにでも観察し記述することができるが、彼の心の死だけは、誰にも観察できない。彼の心がいつ死んだのか、死んでどうなったかなんて、我々は誰も知らないのだ。

 知ったふりをしている連中はたくさんいる。宗教関係者、特に新興宗教の連中が偉そうなことを言う。オウムの麻原なんかがその典型だ。しかしそいつらは、金儲けのために嘘を言っているだけだ。だからあいつらが逮捕された後は、死を怖がってびくついておるだけではないか。ここではっきりと書いておくけど、ローマ法王だってあの連中とそう変わらない。私は徹底的に軽蔑している。

 もう一度いう。この世の誰一人として、他者の死を認識できる者はいない。ものすごくあたりまえの話である。だって、私は他者ではないのだから。でも、このあたりまえなはずの話が、あたりまえの話としてかつて話されたことがあっただろうか。

 宗教哲学科学医学雑学など、どのジャンルからでもいいから、「わからないものはわからない」と、誰か言ってくれ。誰も言ってくれないから、この無名の猫哲学者が叫ばねばならないのである。

 わっかりまへーん、てば!

 次に、自分の死についていっとこう。自分の死にも二パターンある。死後の自分が存在しないという考え方と、死後の自分が存在するという考え方である。

 まずは、前者のほうから。死後の自分が存在しないという立場で考えてみよう。自分の死は、認識できるか。

 という問いを立てた瞬間に、この問いそのものが論理的に成立しないことは、賢明なる読者のみなさんにはすぐにおわかりいただけることだろう。

 認識するというのは、自分が生きているから可能なことであって、自分が消えたりなくなったりしたら、もちろん不可能である。ものすごくあたりまえだ。

 だから、死を恐れる気持ちというのが、私にはぜんぜんわからない。認識できないのだから、そこにもう自分はいないのだから、恐れることすらできない。そうやおまへんか?

 人間は生物であるから、命の危険を予測してそれを回避するよう本能づけられている。その予測能力が恐怖という感情とリンクしている。猫にだって恐怖の感情はある。しかしそれは具体的な危険に対応するためのシステムであって、知らないものまで恐れはじめたら、人はのべつまくなしずっと恐怖を抱きつつ生きなければならない。そういう人が実在することも知っているけどね。

 つまり死を恐れる人というのは、生物学的本能的な恐怖が、死という抽象概念にまで延長されて、頭の中がぐちゃぐちゃになっているのだ。ちゃんと考えなさいね、とここでは言っておこう。

 自分がなくなる、認識できない状態というのは、寝ているようなもんだ。死を恐怖する人たちは、ちゃんと睡眠がとれているだろうか。死が怖いのなら、眠るのだって怖いはずだ。そうやおまへんか?

 私は、死はぜんぜん怖くない。その前段階に痛い苦しいがあったら嫌だなーとは思うが、それは痛い苦しいが嫌なのであって、死そのものについてはぜんぜんどうでもいいと思っている。

 さて、自分の死のもうひとつのパターン、死後の生というものがあったりした場合について考えてみよう。

 すべての宗教は、死後の生を有るものと考えている。死後の生が本当の生で、いま生きている生がかりそめのものだという主張も多い。

 私は、それを全面否定するつもりはない。だって、死んでみなくちゃわからんものを、どうだこうだと言ってもしかたないじゃないか。

 しかし世間でいろいろと語られている死後のなんとかかんとかというのは、どこかヘンである。

 たとえば立花隆が分厚い本を書いていた「臨死体験」というやつ。あれなんて、キリスト教徒が臨死体験したら天使が出てくるし、日本人が臨死体験したら仏様が出てくる。死んでまでこの世の文化伝統時代背景に束縛されるのかね。それなら死ではなく、生そのものではないか。ただの夢とどこが違うのだ。

 宗教関係者が言う天国地獄なんてのも、はっきりいってナンセンスである。坊さんがいくら勉強したからといって、一度も死んだことのない者が死後の世界など語れるはずがないではないか。しかも、宗教書にある天国地獄の様相は、それが語られ記述された当時の歴史的文化的背景に完全に束縛されている。そんなもん、宇宙の永遠と比較したら、薄っぺらな紙切れ以上のものではない。

 私は、私がもうひとつの宇宙であると何度も書いてきた。私がいま有るということは、はてしない時間と空間の特殊な結節点として有るということだ。もちろん私だけではない。あなただってそうだし、パスカルさんがバカにした葦だってそうだし、バカ猫もそのようにして有る。

(ここで時間という言葉を使っているけど、あくまで便利な比喩として使っているので誤解なさらないでくださいね)。

 そして私は、この結節点から宇宙を観照する。無限の時間空間、あらゆる次元はこの心の中にある。いま私が有るということは、宇宙の全層全時間を貫いて「いま有る」ということなのだ。

 じゃっかん宗教的かな? いや、私は感情を凍り付かせて思い切りクールにこの文章を書いているから、ものすごく理性的に考えてやっぱりそうなのである。そういう立場で「死後の私」というものがもしもあったら、と考えてみよう。

 死後の私なるものがもしも存在したとしたら、やはり認識運動をするわけだから、つまり命としての私であろう。命としての私には、当然のことながら始まりがあり終わりがあるはずだ。そこで死後の私は、いまの私と同じように、きっと次のように考えるだろう。

「私が死ぬとは、どういうことか」

 死後の私がその死後のことを考えるわけだから、その私とは「死後の死後の私」ということになるな。ところで、またまたその「死後の死後の私」がその死後のことを考えたとしたら、「死後の死後の死後の私」ということになるが、その「死後の死後の死後の私」がさらに死後について考えたとしたら「死後の死後の死後の死後の私」ということになるわけで、さらにその「死後の死後の死後の…(白鳥座まで続く)」。

 無限連鎖である。その一点に立つこの私は、いまそれを生きているという意味において、他の無限の点とは明らかに異なる。異なりつつ、特別な価値があるというわけでもない。全宇宙の無限点は、いまここに集約されている。べつにここでなくてもいいんだけど、私から見たら、たまたまそうなのだ。以前にも書いたけど、私と宇宙とは等価なのだ。

 というわけで、今を大切に生きましょう。悪いことをして「死後の死後の死後の死後の私」あたりが後悔したり恥をかいたりしたら、かわいそうでしょ。というお話になってしまうのだった。

 どうだい。天国地獄神様なんてところで思考停止しているアホどもと較べたら、よほど上等な死生観だしょ。

 ああそれにしても、なんちゅう平凡な結論であることか。ほへ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 こんな話をしていたら、いつもの超美女はにやりと笑って言った。

「そんなに死にたいなら、殺してあげようか」

「いや、わざわざお手を煩わしていただかなくても」

「まあまあ、遠慮なんかしないでいいわよ。ちょっとそこでじっ※□△て?$※…」

 ☆★◎※‰(∝∵∝)※!!

 何が起きたのかよくわからない。どうやらキスされたらしいのだが、そうと気付く前に私は気絶していた。

 そうか、これが死か。

 終わり。(ご愛読ありがとうございました)。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

【猫哲学99】猫哲学超特別対談:猫恋愛論。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2006/05/05)

 今回は、いつもと違って対談形式でお届けする。対談の相手はおなじみの超美女である。テーマは「恋愛について」。らしくないテーマである。私に扱えるわけがない。誰かに助けてもらおう、というわけで今日は、初めて彼女をわが家へ招待したのだった。

 ♪ピンポーン~

「おお、ようこそ。いらっしゃいまへ」

「おじまー」

「どぞ、ずいと奥へ」

「へー、こんなとこに住んでるんだー。意外にきれいにしてるね。けっこう広いし、いいじゃん」

「まあまあ、お茶でもいれるから」

「ぐにゃニャ」

「あー、きみが噂の猫ちゃんねー。おー、よしよし」

「このバカ猫。美人だとあっという間になつきやがって。やっぱり雄猫だな」

「ところでさ、招待してくれるなんてどーしたこと? 初めてじゃん」

「それなんだけどね、猫哲学もあと2回で終わりだから、やっぱり恋愛論をやっつけときたくてさ。ところが、オレには恋愛体験というものがない。そこできみの助けを借りたいわけ。はい謎のお茶」

「ごち。あら、不思議な香り」

「砂糖は?」

「いらない。でもさ、恋愛論なんて、知らないならやんなきゃいいじゃん」

「でもね、下手に知っているより、知らないほうがおもしろくなるかもしれないだろ」

「詭弁ね」

「おっしゃる通りだよまったく。でも、その方面ではすごく笑える話があるんだ。スタンダールという人が『恋愛論』って本を書いてるだろ」

「タイトルは知ってる。読んだことないけど」

「オレも。でね、このスタンダールって人は、知られてるだけで12回も女をとっかえひっかえ、独身のまま59歳で死んだ」

「あっはははははは」

「お隣に迷惑だからその笑い声はなんとかしてくれ」

「あはは、ああ苦しい…。要は、12回も失敗したわけでしょ。よくもまあ、その程度で本なんか書くわね」
「ほんと、そう思う。きみの助けを借りようと思いついたオレなんて、まだまだかわいいもんだと思わないか」

「そんな本が売れてるなんてのも、また不思議よね」

「そーなんだよ。不思議だろ。でもまあ、いくらなんでもスタンダールの同時代の人はわかっていたらしくて、バカにしてたみたいやね。あの本、初版は22冊しか売れなかったんだと」

「そんなもんが、なんで日本で有名なわけ?」

「知らんがな。悪しき舶来趣味の典型ってやつじゃねえのか。ひょっとしたらギャグ本として読まれているとか」

「恋愛って、本を読んだらわかると思っているのかしらねえ」

「そこなんだよ、オレが疑問なのは。ひょっとすると世間ってのはさ、恋愛について意外とよくわかっていないんでないかい、本当は」

「中国の映画で『初恋の来た道』ってのがあるの」

「おお、きみにしては高尚なとこから切り込んできたな」

 バコッ!

「痛たたた。さいきん、やたら暴力的になってないか、きみ」

「その映画は文革時代の中国のど田舎が舞台なんだけどね、主人公の女の子が恋をするのよ。それが、村はじまって以来で初めての自由恋愛だって、村中が大騒ぎするの」

「文革というと、そんなに昔の話でもないよな。あ、そうか。オレの両親の時代でも、自由恋愛はお話の中だけのことで、結婚はお見合いがほとんどだったらしい」

「そのあたりの昔にはまだ新鮮だったのね、スタンダールさんでも」

「時代ってことかあ。でも、まだ売ってるぞ新潮文庫」

「で、そろそろワインが出てくるんじゃないの?」

「あ、まさかそれが狙いで…」

「それ以外に何があるわけ?」

「へいへい、わかりますた。ちょいお待ち」

「わくわく」

 というわけで、別室からワインを持ってくる私なのだった。

「こんなでどう。1990のバローロ」

「ありがちだなー」

「きみはな、あっちこっちで贅沢しすぎなんだよ。それに、こいつはちっとスペシャルにゴージャスなバローロだぜ」

「まさか、ガヤ?」

「そうだがや」

「名古屋のイタリアワイン」

「うー、それは不味そう」

「わかったから早く開けて」

 きゅっ、きゅっ。ぺり。ぎりぎりぎり、ぐいー、ぽこ。

「ガヤはコルクがちょー長うてかんわ。お、ええ香りだがや」

「さっさとしてよー」

「15年も寝ていたワインを、急がせるものではない」

「あ、でかグラス。さすがね」

「ほいよ。1杯目は、20分以上時間をかけてゆっくり飲むように」

「わかってるってば、くんくん。あ、いい感じー、幸せ」

「ということで恋愛論の続きをやろう。猫の恋、って言葉があるな。俳句の季語にもなってる」

「うほ、キャベツの香りだ」

「キャベツう?」

「ネッビオーロの開いたのは、キャベツの香りがするのよ」

「そういわれてみれば…。つーことは、バローロはお好み焼きに合うのかあ? 試してみたいような怖いような…」

「ね、もう一本開けてよ」

「贅沢やなあ」

「比較しながら飲むのが楽しいのよ」

「ほれさ、これまた1990で、サンジョヴェーゼVDT」

「何だ、用意してるじゃん。おー、フレスコバルディ」

「恋愛論はどうなった?」

「うわー、菊の香り。お葬式の」

「なんちゅーことを。形容がメタメタだ」

「甘くフルーティで優雅なフレーバーにほのかなヴァニラ香。なめらでいて凝縮感ゆたかなボディ。余韻はハープの音のように透明かつ複雑で長く遠く響き合う…、なんて言ってほしい?」

「気持ち悪い」

「でしょ」

「まあいいや。それより恋愛論」

「パンとチーズちょうだい」

「へいへいわかってます…。ほれさ」

「便利な家ねえ。これからもっと招待してよ」

「やだ。セラーがあっつー間に空になる」

「ケチ」

「そんなヒマがあるなら、他の男の相手もしてやれよ。喜ぶぞ」

「まあね。でも最近の男って、フランスワインばっかでさ。それもブルゴーニュ派が多くて。飽きた」

「恋愛論はどうなった」

「猫の恋ねえ。あれは、牡猫がパパッとやって、後ろも振り返らずにすたすた去っていくのがかっこいいのよ」

「ぜんぜんロマンチックでないな」

「人間の男がそれをやったら、確実に嫌われるわよ」

「ちょっと待ってニャ」

「なんだバカ猫、おまえも発言するのか」

「猫の発情期は年4回ニャ。短い期間にたくさんの雌猫としなければならないから、ぐずぐずしてられないニャ」

「あら、説得力あるわね」

「だからといって、誰かとゴロゴロしたいという気持ちは別のものとしていつも心にあるニャ。猫はそこのところを混同しないのニャ」

「ふむ、性愛と恋愛とは別の感情だというわけだな。なかなかに見事な論理だが、美人の膝にネコろがってしゃべるんじゃあなあ…」

「ニャので、その概念が混乱したままの近代俳句なんて、ぜんぶカスだニャ」

「おまえ、いつのまに牡猫ムルに変身したんだ」

「賢い猫ちゃんねえ。猫哲学って、やっぱりきみが書いてたのね」

「おいおいおい」

「猫の恋が春の季語って、どういうことよ。ジョークのつもりかな」

「そこがよくわからない。俳句界というのは、ときどきとんでもなく非論理的だからな」

「あ、夕張メロンの香りがでてきた。ほらサンジョヴェーゼ」

「そんなメロン、食ったことがないからわからん」

「あなたの食生活って、ぐちゃぐちゃに偏ってるわね。ワインにばっかりお金をかけてさ」

「ケチをつけるなら飲まさない」

「この世でいちばん悪いことはね、一度あげたものを奪い返すことよ」

「あげたつもりはないんだけど…」

「開けた以上はあたしのものよ」

「ふえーん。何か理不尽な気がする」

「これが世界の良識よ」

「あー、もう。だから恋愛論だってば」

「ふにゃあ」

「猫の口真似をするなよ。読者が混乱するだろ」

「ぐニャ」

「こらバカ猫、おまえまで調子にのって」

「パンをもっと切ってよ」

「…とにもう」

 がきがきがき(フランスパンなので固い音)。

「対面型キッチンっていいわね。キッチンに立っても会話ができる」

「ほいさ、フランスパン。それでな、グーグルで恋愛論をキーに検索したんだ。そしたらさ、80万件もヒットした」

「読むのに1年かかるわね」

「それ以上だよ。パソコンがパンクする。オレにはよくわからないんだけどね、恋愛論を読めば恋がわかるのか」

「ば~か」

「じゃあ、なんだって恋愛論が百花繚乱なんだ」

「わからないからでしょ」

「はへ? 恋がわからないから恋愛論を読むんだろ? でも恋愛論を読んでも恋はわからない? どういう構造なんだよ」

「そんなもんじゃないの、恋にかぎらず」

「あ、そうか。哲学もいっしょか。本当にわかるものなら、議論そのものが必要ないもんな。恋と哲学とは似ているのか」

「恋には、そこに欲望とプライドと世間がからんでくるから、よけいにややこしいのよ」

「なるほど。哲学のほうが純粋なぶんだけ、単純ともいえるわけだ」

「どうかな。哲学だって、けっこういろいろとからんでない?」

「まあね」

「こないだあげた生ハム、まだ残ってるでしょ。出して」

「このワインに合うかな…」

「やってみなくちゃわからないでしょ。そんなんだから恋愛のひとつもできないのよ」

「うえー、生ハムの話でそこまで言われるか」

 どしょ、がさごそ。バタン(冷蔵庫のドアの音)。

「ほい、どうぞ」

「ホントに便利な家ねえ。毎週こようかな」

「やめてくれないか。ご近所の噂になってしまう」

「ほらー、ワインに相性ぴったりじゃん、生ハム」

「自慢されてしまった」

「あ、バローロの味が変わった」

「これからがバローロの本領だぜ」

「よいしょっと。冷蔵庫の中を見ちゃお。あ、トマトみっけ。早く出してよね、もう。気がきかないなあ。うわ、ズッキーニだ。わお、ルッコラ。レタスもあるじゃん。包丁どこ?」

「左下のドアを開けて」

「オリーブオイルと塩」

「ちょっと待って、…ほい」

「ワインビネガーは? それとアンチョビ」

「もう。本格的に夕食を始める気かよ」

「こんなワインを飲ませといて、いまさらどこへ行けっていうわけ?」

 さくさくさく、とんとんとん(包丁の音)。♪~

「歌っていやがる」

「ぼくもメシにゃ」

「だから猫の口真似をするなってのにまぎらわしい。おいバカ猫、メシにするか?」

「ふニャ」

「さあ、できたー。飲むわよー」

「なんだか恐ろしくなってきたぞ。で、恋愛の話だけど」

「ほんとに恋愛経験ないの?」

「ないよ。失恋すらない。片思いならなんぼでもあるけど」

「初心者マーク以下の人にF1の話をしてもねえ…」

「お、つーことは。きみはF1クラスか」

「あったりまえじゃん」

「そうかなあ。失恋経験はなさそうだけどな」

「あたしに、失恋経験がないとでも?」

「そう見えるよ」

「へん、あるわよ、それくらい」

「だからって自慢そうに言わんでも」

「あたしの経験からわかった真理のひとつはね、妻子のある男は必ず嘘をつくってこと」

「嘘?」

「そう。妻とは別れるとか家族とうまくいってないとか。そういうのにかぎって、週末は喜々として家族団らん」

「なるほどー」

「もうひとつの真理はね、妻子のある男が愛人をつくったら、必ずまた別の愛人もつくるってこと」

「きみにそんな切ない経験があったなんてねえ…」

「見かけで判断しないでよ。心は普通の女の子なんだから」

「普通じゃないと思う。どう考えても」

「あ、バローロが空いちゃうよー。とととと」

「底に澱があるから気をつけて…。おい、待てよ。オレは半分も飲んでないぞ」

「飲みましたー。ちゃんと見てたもん。女はそのへんシビアなんだからね」

「くそー、反論するにも証拠がない」

「それより、次のワインを持ってきてよ」

「まだ飲むのか」

「何を甘いこと言ってるの。これからが本番じゃない」

「あああ、恐怖の予感は現実になった。ぶつぶつ」

 2分経過。

「これなんかどうかな。バルバカルロの1989」

「それ有名。こないだ飲んだし」

「あそ」

「引っ込めないでよ。誰が飲まないって言った?」

「ほよよよ」

「他には?」

「じゃ、これは? ネロ・ダーヴォラ1997。それともバルベーラの1998」

「よし、ネロくんいってみよう」

「本日の主題は恋愛に関する対談のはずだが」

「飲み会で、会話の中身が恋愛のことにすればいいじゃん」

「勝手に定義されてしまった。ほいさ、ネロくんどうぞ」

「あ、湿った野原の香りだ。タンポポの咲いてる」

「初めてまともに形容したな」

「ちょっと。気分がのってきたわ。BGMかけて」

「どんな?」

「やさしくて切ないやつ」

「ほんじゃモーツァルト」

(BGMスタート~♪)

「恋ってね、ワインのようなものなのよ」

「ありゃあ、えらく雰囲気の違うことを言うじゃないか」

「しばらく黙ってなさいっ!

 …恋は、ひとつひとつぜんぶ違う。一本として同じワインがないのと一緒なの。はい、BGMちょいアップして。照明落として。

 ♪~<

 それぞれに香りが違う、味が違う、色が違う。

 時が経てば深みが増すけど、フレッシュなのもまたいい。

 甘みがあるけど、渋みも苦みもある。

 温度と光にデリケート。

 適量は身体にいいけど、過ぎると身を滅ぼす。

 好みのタイプはそのつど変わる。

 大人にならないと本当の味はわからない。

 雨のときには、いっそう恋しい。

 そう、雨のときには…。ワインもそう…、恋もそうなの…。

 はい、BGMフェードアウトして。

 ~♪>

 そうして彼女は小さなため息をつくと、遠い目をして長い髪を掻き上げながら、彼に白い横顔を向けた…」

「と、口では言ってるけど、現実にはワイングラスをぐりぐり回しつつルッコラをぽりぽり食っておるのだ」

「もう、せっかく読者に夢を与えてあげたのに」

「その手にひっかかるほど私の読者は素直ではないぞ」

「あなた、ワインを定義できる?」

「葡萄からつくる醸造酒」

「それって、定義になってないわよね」

「なってないね」

「恋も一緒よ。定義なんか不可能。でも、定義できなくても確かにそこにある。定義するっていうのはね、小鳥を鳥かごに閉じこめるのに似てるわ。それで手に入れたような気になっても、本当の意味は死んでしまう…」

「酔っぱらってるか?」

「ぜんぜん」

「でも、えらく冴えてる」

「いつだってそうよ。バカにしてない?」

「それにしても、きみからさっきみたいなかっこいいセリフを聞くのは初めてだ。とてもしらふとは思えん」

「殴ってあげようか」

「遠慮しときます。だけどあの言葉って、哲学的じゃなくて詩みたいだけど、何となくまとめられてしまったような気がする。なんだか恋愛論を続ける気がなくなったなあ」

「そ。理屈なんて、やめときなさい」

「ということはだな、恋というワインと人生という料理がベストミックスになったときに、それをマリアージュ(=結婚)と呼ぶわけか」

「あらら、面白いことを言うじゃん」

「じゃあ最後に、オレにもひとこと言わせてくれ」

「どうぞ」

「恋に強い女は、ワインにも強い」

「あたしなんかもう、弱くて弱くて」

「大嘘をつくなー!」

「ほらほら、サンジョヴェーゼが空いたわよ、次の」

「へいへい、バルバカルロ」

「わーいバルさん」

「バルさん…」

「何か?」

「いや、話を落とすのがお上手ですね」

 その日は、夜中まで飲んでしまった。午前3時を回った頃、かの超美女はこう言って去って行ったのであった。

「今日はこのくらいにしといてあげるわ。またね」

 女は災難である。恐怖である。やはり私には、恋愛など無理だな。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。][original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com][mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

【猫哲学98】 美人のお話。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2006/04/28)

 なあバカ猫、ぐーってゆうてみ。

「なにゃ?」

 ぐー、だよ。ぐー。

「ヴー」

 違うよ、ぐー。ヘッドロックしてやろうか。

「ぐー」

 よろしい。それは古代中国の美人の名前だ。

「ニャんのこっちゃ」

 とういわけで、今回は美人のお話である。みなさん、けっこうお好きでしょ。といっても、いつもの超美女とは何の関係もない話なので、そこんとこはよろしく。

 世界三大美人というのがある。誰が決めたのかは知らないが。その三人とはクレオパトラ、ヘレナ、楊貴妃である。

 クレオパトラは有名だし、本シリーズでもパスカルさんのときに書いてしまっているから触れない。

 ヘレナというのは耳慣れないかもしれないけど、いわゆる「トロイのヘレン」である。

 この女は、スパルタ王メラネオスの嫁さんのくせしやがって、出張に来ていたトロイのバカ王子パリスと恋仲になり、トロイへと駆け落ち。ギリシア軍によるトロイ10年包囲戦争の口実にされた。トロイが落城した後はスパルタに連れ戻されている。さぞつらい余生を送ったんだろうとは思うけど、それでも戦場で殺されることもなく、生かして連れ戻されるほどの美人だったということらしい。

 まあどうでもいいけど、このヘレナってあまり頭の良さそうな女性とは思えないな。私はバカ女って好きじゃないのだ。それに、本物の美人にバカはいないよ。

 日本で三大美人を語るときには、ヘレナに替わって小野小町が入ってくるようだが、スケールが小さい小さい。やっぱり一国の運命を傾けてこそ世界的美人だと思うぞ。とはいっても、これらみなさんは写真を残されていないので、顔は比較のしようがない。だから、その人が何をしたのか、どういう歴史に関わったのかが評価のポイントだろう。

 そこで三番目の楊貴妃だが、これは中国四大美人の話とダブってくるのがややこしい。だから、ここからは中国の話に突入する。

 で、やっぱり中国となると話はスケールアップして、三大美人では収まりきれなくなり、四大美人のお話となる。その四人とは、楊貴妃、王昭君、西施、貂嬋である。残念ながら、冒頭でバカ猫に言わせてみた倶美人は入っていないのだ。好きなんだけど。やっぱり中国は奥が深いのだな、とありきたりの感想を述べつつ、四大美人について解説してみよう。まずは楊貴妃から。

 楊貴妃は唐代の人。玄宗皇帝の寵愛を受け、唐を滅亡寸前にまで導いた。まさに代表的な傾国の美女である。

 傾国という言葉は美人の代名詞だが、美人すぎて国を傾けるという意味。やっぱり美人というなら、ここまでやってくれないとな。傾国よりもちょっとスケールの小さい言葉で、傾城というのもある。城を傾けるという意味だが、日本のちゃちなお城とは違い中国のそれは都市そのものだから、やっぱりこれでもスケールはでかい。

 楊貴妃はもともと玄宗皇帝の息子の后だったのが、お父ちゃんの玄宗が横取りしたの。当時の中国では后なんて何人でもいたのだから、軽い気持ちでやったんだろうなと私は思っていたのだけど、実はそうでもなかったらしい。楊貴妃を息子と別れさせてから一時的に寺に入れ、それからゲットしたんだとな。いちおう世間体に気を使ってやんの。

 玄宗皇帝は楊貴妃にメロメロになったあげく、政治をいっさい顧みなくなった。さらには楊貴妃の家族一門を出世させ、高い身分に据えた。美人の彼女におねだりされたら断れないなんて、かわいい男であるな、玄ちゃん。

 そのあげく、楊貴妃の従兄弟である楊国忠に政治を好きなようにめちゃめちゃにされてしまった。彼は政治的ライバルである節度使の安禄山を破滅させるため、楊貴妃を通じて玄宗皇帝に安禄山の悪口・嘘・スキャンダル等々を吹き込んだ。これで身に危険を感じた安禄山は反乱を起こす。有名な「安禄山の乱」。高校の世界史で習いましたね。

 で、安禄山は強かったの。そのために玄宗皇帝と楊貴妃は長安の都を逃げ出したんだけど、途中で護衛の兵士たちが反乱を起こす。何もかも楊貴妃のせいだ、この女を殺せ、と玄宗に迫った。

 これほどにまで惚れぬいた女を、自分の命令で殺させなければならない。うわ~、これはつらいよ。想像を絶する。私だって、さほど愛してもいないバカ猫でさえ、絞め殺すなんて考えられないもんな。でもけっきょく、楊貴妃は首を絞めて殺された。う~ん、悲しいね。じゃっかんお笑い風に始まった恋愛物語は、この場面になって一気に極限の悲劇となり終わるのである。

 やっぱり、美人には悲劇が似合うな。

 ちなみに、唐代の詩人杜甫(とほ)に「春望(しゅんぼう)」という傑作がある。安禄山の乱のために荒廃した都を詠んだものだ。

 国破山河在(国破れて 山河あり)
 城春草木深(城春にして 草木深し)
 感時花濺涙(時に感じては 花にも涙をそそぎ)
 恨別鳥驚心(別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす)

 (以下略)

 みなさんご存じですよね。この詩の背景に、中国史を代表する悲劇の美女の姿を重ねると、味わいが十倍くらい増すでしょう。

 さて次へいこう。中国四大美人の二人目、王昭君である。

 おうしょうくん、と日本では読んでいる。紀元前一世紀、前漢は元帝時代の人である。楊貴妃よりも800年あまり先輩だな。

 王昭君は貴族の家に生まれ、何不自由なく育った。評判の美人に成長し、やがてその噂は帝のもとにも届いた。そこで元帝は、王昭君を後宮に呼び寄せる。妾になれということだけど、気に入られれば一族郎党出世のチャンスでもあるわけだし、身を犠牲にしてまで家族に尽くすのは中国の伝統だもんな。

 ところが後宮にはすでに3000人の美女がいた。やるねえ、さすが中国、話がでかい。元帝はいちいち女の顔と名前を覚えていられないので、絵師に彼女たちの肖像画を描かせて、それで夜のお相手を

選んでいた。超プライベート豪華版美女カタログだな。

 それにしても3000枚だよ。どうやって選んでいたのかなあ。想像もできない。目を通すだけで夜が明けちゃうだろ、ふつう。

 で、その肖像画が悲劇のネタになる。後宮の宮女たちは絵師に賄賂を送って、実物以上に美しく書いてもらっていたの。ところが王昭君は名家のお嬢さんだから、賄賂なんて下世話なことは知らない。だから絵師は、彼女を醜く描いたのだそうだ。ほんとにもう、これだから皇室御用達の絵師なんか信用できない。

 そんなこんなで王昭君は帝に相手にされず、のんびりとした日々を送っていたんだそうだが、ここに外交問題が降りかかる。漢と国境を接して何かと問題の多かったと匈奴が、「漢の美女をお嫁さんにくれたら、和睦してやっていいよ」と言ってきた。

 そこで元帝は考えた。「後宮3000人のうちでいっちゃん醜い女をくれてやろう」。せこくないか、元ちゃん。3000人もいるんだろうに。そこでさっそく美女カタログを取り出し、選ばれたのが醜く描かれた王昭君。やっぱり賄賂って必要なんだな、と思っても遅かった。

 王昭君を匈奴に送り出す儀式が催され、そのときになって初めて元帝は彼女を目にする。「なんや、話が違うで。どえりゃー美人やんけ」と言ったかどうかは知らないが、命令は撤回できない。帝は激しく後悔したという。

 王昭君はその後、夫の呼韓邪単于(こかんやぜんう、と読むらしい。ものすごく悪意に満ちた漢字表記だよな)が亡くなると匈奴の風習に従って息子と結婚させられそうになり、自殺したという。でも、これはあくまでも伝説。別の人の嫁になって長生きしたという話もある。王昭君の物語全体が伝説の域を出ないという歴史家もいて、2000年以上も昔の話だし、まあいいか。

 この話の教訓は、いくら美人でもプライドを持ちすぎるとえらい目に遭うよ、というところかな。

 さあ次に、中国四大美人の三人目、西施のお話をいってみよう。実は私、この人がいちばん好きである。せいし、と読む。

 時は春秋戦国の世。漢代の王昭君よりもさらに400年ばかり前の人だな。中国はその頃、中小国家に分裂し、勢力を争っていた。中でも呉と越の二国が強大で、長いあいだライバル関係にあった。これは「呉越同舟」なんて言葉にもなって残されていますな。

 越王勾践は呉王夫差との決戦に敗れ、屈辱の日々を送っていた。そんなとき、越の田舎で育ったという絶世の美人の噂が飛び込んできた。それが西施である。

 越王は彼女を見て、「よっしゃ、この女を使って呉を滅ぼしてやろ」と決意する。自分の女にすればいいじゃん、もったいないなあと思うのは凡人の浅はかさ。伝説の人物たちは発想が違うのであるぞ。と、書いてはみたものの、戦争では勝てないから女を使うなんて、どういうもんかね。まあ、現代の感覚で歴史を評してはいかんのだけどね。でも西施はかわいそう。

 西施は越の王宮であらゆる教養をたたきこまれる。わずか一年で書に通じ、詩を吟じ、舞に長じたというから、頭もよかったのだな。というか、天才じゃないか。教養の中にはベッドテクニックもあったという噂もあるが、詮索しないでおこうっと。

 こうして博学才色技芸多彩にして最強無敵の美女となった西施は、呉王夫差に献上される。胸に裏切りを秘めた美女ほど妖しく美しいものはないよー。夫差は西施に夢中になり、酒食におぼれ国政を顧みず、何だかさっきも書いたような話だな、太湖西山の地に豪華宮殿を造って国を傾けさせる。まさに傾国の美女である。

 こういうのを現代の外交用語では「ピンク・トラップ」という。桃色の甘い罠(笑)。橋本龍太郎が首相だったときにも、これにひっかかった。相手は中国美女である。ごく最近でも外務省の中国大使館付き事務官がひっかかって自殺してやんの。中国じゃ、こんなの2500年も前から常識なんだけどな。日本の外交ってやつもセンスがないねえ、という話はさておき。

 西施の話を続けよう。

 さらに彼女は、呉王夫差の最も有能な部下であった伍子胥を謀略で失墜させ、ついに無実の罪で殺させてしまう。これで呉の国内はガタガタになった。

 国内の憤懣や混乱を静めるのに戦争を利用するのは今も昔も変わらないが、夫差もまた斉国に戦争をふっかけ派兵する。呉と斉が戦争で弱ったところで、越王勾践は呉に戦争をしかけ、あっけなく呉は滅ぼされてしまったのであった。傾国おそるべし。

 越はその勢いで中国主要部を制圧し覇権国家となった。その後、越王は蘇州に凱旋する。そのときに、もっとも大きな功績のあった西施をどうするかが問題になった。王はその后に「どうしたもんかね」と尋ねたのだ。いかん、いかんよ、女に女のことを聞いちゃいかん。

 そこで西施の美貌が仇となっちゃった。后は嫉妬心から「役目の終わった者なんて殺しちゃえば?」と答えた。越王にもいろいろと事情があったんだろうね、結局のところ西施は殺されてしまったのだ。かわいそうすぎないか、それ。

 別の伝説では、王の部下と落ち延び、ひっそりと天寿を全うしたとされる。そうであってほしいのだが、昔の話なのでよくわからない。

 いずれにもせよ、女は最強の戦略兵器として使えるが、その女の敵は女である、ということかな。てなところでまとめたら陳腐にすぎるか。でも私はこの西施という女性、かなり好きである。だって美貌と知性と胸に一物なんて、美女の理想形じゃん。ぬふ。

 さあ、四番目をいってみよう。貂蝉という人の物語である。ちょうぜん、と読むらしい。

 私は、この人はあまり好きではない。楊貴妃や西施ほどスケールがでかくないし、王昭君のような気高さもない。いろいろと謀り事をめぐらせるけど、どれもせこい技である。何よりもこの女性、実在の人物ではない。中国の古典小説『三国演義』に登場する架空の人物なのだ。何で四大美人に入れられちゃったのかよくわからないけど、ついでだから解説しとこう。

 後漢の末の頃、ということは王昭君の時代から500年ほど後のことかな。丞相という巨大権力の地位にあった董卓というおっちゃんがいたとな。この人は呂布という大将軍を養子にして、いよいよ尊大横暴をきわめていた。まあ、独裁首相と軍事力の合体ということだな。こりゃ強いわな。

 司徒(=宰相。エヴァンゲリオンとは無関係)の王允はこの状態を憂慮し、「連環の計」という策略をめぐらす。董卓と呂布との仲を裂こうというわけ。

 王允は、すんごい美人で歌の名手、当時16才の貂蝉を養女にして、まず呂布の嫁にやる。そしてその後、彼女を取り返して董卓の妾にやらせた。呂布は、貂蝉が董卓に奪われたのを見て、かなりムカついたんだって。

 ある朝、董卓にしたがって宮中にでた呂布は、董卓が漢の献帝と話している隙を狙って、こっそり丞相邸へ。そして貂蝉と密会した。ちょうどそこへ董卓がもどり、二人の密会に出くわしてしまう。わーい、浮気だ浮気だスキャンダルだ。董卓は怒って、戟を呂布にめがけて投げる。呂布は命からがら逃げだした。

 みごと「連環の計」炸裂。董卓と呂布は不仲になり、やがて呂布は董卓を殺してしまう。後に呂布も戦に敗北、貂蝉も囚われの身となる。

 その後どうなったかには諸説あるけど、もともと創作上の人物なのであまり興味はない。調べる気にもならない。何となく四大美女のうちではもっとも存在感のない人である。史実は、人の想像力の上をいくということかな。

 これではあまりに尻すぼみなので、中国四大美人に入れてもらえなかった倶美人の話を書いておこうっと。

 倶美人、正式には虞美人と書く。虞姫と書かれることも多い。この人は、マンガ版『三国志』でもビッグヒーローとして扱われている西楚の覇王、項羽の愛人だった。(妹だったという説も、娘だったという説もある)。

 楚と漢が中国統一をかけて戦った最後の大決戦である「垓下の戦い」において、項羽は砦を包囲する敵軍が故郷の楚の歌を歌うのを聞く。

「ついに楚までも敵に下ったのか、ああ、こりゃ負けだわ」

 部下の兵士たちは次々と逃げ出し、ついには有力な将軍までも離散して、項羽の下に残った戦力はわずか八百。敵は数十万。どうやっても勝てる話ではなくなった。

 という感じの、手も足も出ない状態を四面楚歌というのだよ。今回は勉強になるねえ。

 そこで項羽は愛する虞美人と愛馬の騅を呼び寄せ、「垓下の歌」を詠んだのである。戦争中でも風流だな、中国人。

 力拔山兮氣蓋世(力山を抜き 気世を蓋う)
 時不利兮騅不逝(時利あらずして 騅逝かず)
 騅不逝兮可奈何(騅の逝かざる 奈何すべき)
 虞兮虞兮奈若何(虞や虞や 若を奈何せん)

 んー、かっこいい。私が親切にも現代日本語にぽん訳しましょう。

 私の力は山を大地からひっこぬくほど強大であるのに
 私の気力は全世界を覆い尽くすほど広大であるのに
 時の利だけがうまくいかず、愛馬の騅は進もうとしない
 愛馬さえ進まないこの状況を、いったいどうすればいいのだ
 ああ、それよりも、虞や虞や、おまえをどうすればいいのか

 まーなんちゅうか、このように壮大な戦争絵巻の最後になって、血なまぐさい戦闘を描くのではなく、一人の女を心配してうろたえる男を描写するとはね。憎い演出ですなあ、司馬遷さん。

 虞美人についても創作であるという説が根強いけど、この詩のおかげで不思議な存在感を保っている。虞美人草という花があって、ケシ科の真っ赤な花が咲き、はかなくも美しい。この花には、虞美人が自害したときに流した血が花になったという伝説がある。しかもケシ科だから、麻薬もとれる。なんかミステリアスやね。

 虞美人という人の容姿がどうだったとかいう記録は少ないのだけど、何となく歴史に翻弄される女の切なさ感じさせて、とても気になる人である。でもやっぱり、美人だったんだろうなあ。そういうことにしておこう。

 以上が中国四大美人+一美人の物語である。日本でこれに匹敵する人といえば、千姫くらいのものかなあ。もうちょっとがんばんなさいね、日本女性たち。と、とりあえず言っておこう。

 日本という国は中国の伝統文化に依存してきた一面もあるから、中国の美女伝説を利用すればそれで足りたのだ、と言えるのかもしれない。それはともかく、中国の美人たちは想像力をバリバリに刺激してくれるので、とっても好きさ。

 さて、ここからが美人についての哲学的考察である。

 美人とは何か。

 美人つーてもただの女やないか。顔の皮一枚だけの話やないか。美人屁もす…、おっと自主規制。

 そんなことを議論したがる人は多い。しかし、そんな話、実は無意味なのである。美人とは分類するのでも形容するのでもなく、ただそこに居るのである。美とは何か、彼女自身がその答えであり、それは言語を超えている。

 私の言うことがわからない人は、本物の美人に出会ったことのない人であろう。本物の美人というのはねー、見ただけで心臓がひっくりかえり、言葉は意味を失うのだよ。美とはつまりそういうものである。

 私は何度か絶句するほどに美味しいワインに出会っているが、美とはそのようなものである。音楽でも美術でも料理でも、どのようなジャンルだろうと同じようなことなのだろうと思う。美は、言葉を超えてこそ美といえるのだ。

 美人というのは、そのような存在としてこの世に生まれてきた人たちだ。神様はじつに不公平なのである。とはいっても、「美人は必ず不幸になるの法則」というものがあるので、必ずしも不公平とは言えないかもな。

 美とは何かについては、かのソクラテスがやはり問答を展開しているので引用しよう。私の拙い文章よりもよほど本質に迫っている。

(プラトン著『パイドン』より引用)

「われわれは<正しさ>がそれ自体としてあることを認めるだろうか。認めないだろうか」

「認めますとも、誓って」

「さらに<美>や<善>は?」

「もちろんです」

「では君はそれまでに、そういうもののどれかを、目で見たことがあるかね?」

「いいえ、けっして」

「ではそれ以外の身体の感覚のどれかによって、それらにふれたことがあるかね? ぼくが言うのはおよそあらゆるものについて、例えば<犬>や<健康さ>や<強さ>について、その他一言で言えば、『まさにそれぞれであるところのもの』としての、すべてのものの本質についてなのだが」

 このような言い方でソクラテス(実は著者のプラトン?)は美そのものを議論することの無意味さを説いている。そこから独自のイデア論が導かれるわけだが、後は専門書にあたってちょうだい。

 そしてソクラテス(=プラトン?)は、こう言い切る。

「美は、美そのもの因って美しい」

 私たちは、美人にイデアを見るのである。美人にただの肉体や顔の皮一枚だけを見る人は勝手にすればいい。そうとしか見れない人もいることは、否定しない。これ以上は生き方の問題である。もっと端的に言うと、趣味の問題である。そんな人には、一言こう言ってやろう。

「心が貧しいね」

 ここで終わってもいいのだけど、私にこうした考察を始めさせるきっかけになったことについて書いておきたい。韓国映画の話である。

 またかよ、とお思いだろうが、まあええやんか。猫哲学もあと三回で終わりなのだ。たまには好きなことを書かせてくれーい。

 韓国というのは世界三大美人国のひとつであるらしい。

 なぜそうなっているのかは知らない。韓国の人が言っているのだ。私のせいじゃないもんね。ちなみに、残りの二大国がどこなのかも知らない。

 でも私は、その話を認めている。韓国映画を観ていると、本当に美人が多い。そのなかでもとりわけ好きな女優が二人いる。

 一人は伝説的名作『猟奇的な彼女』で一気にアジアの大スターとなったチョン・ジヒョン。この人はそれほど美しい顔だとは思わないのだけど、その存在感に圧倒される。単に演技が上手いということだけでは説明できない。とにかく心を奪われてスクリーンに目を吸い付けられる何かを持った美女である。

 もう一人は、傑作『私の頭の中の消しゴム』で日本でも評価が定着したソン・イェジン。この人は透明感があって、そのうえ本当に演技が上手い。初めて彼女を見たのは『ラブ・ストーリー』という作品だったけど、その映画出演当時、彼女はまだ20歳だった。信じられないことにその若さで、すでに大女優の風格を漂わせていたのだ。

 この二人は、まだ20代前半である。すごく若い。私は、この二人を追っかけているだけで、今後10年は楽しく生きていけるだろうなーと考えていた。ところがそれに加えてとんでもない女優さんを知ってしまったのだった。

 その人は、キム・ヒソンさんという(なぜだか「さん」をつけてしまう)。日本ではあまり知られていないが、すごく綺麗な人である。残念なことに出演作品に恵まれないので、というか何であんなカスばっかりに出とるんだろうイライラ、なのだが、それでも惹きつけられてしまうほどの女優さんである。

 彼女につけられたニックネームは「韓国一の美人女優」。まったくその通りだと私は思っている。

 以上、三人の女優さんをして、韓国三大美人女優と私は勝手に呼んでいる。いずれ日本でも大ブレイクすることだろう。そうなることを願って、私は東アジア圏の友好と平和と発展を祈る。韓国も中国も大好きだぜい。誰か文句あるか。

 これをわざと邪魔してブチ壊そうとしているアメリカの忠犬小泉ポチ畜相め、呪ってやる。

 ほへ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「あなたもやっとわかってきたわね」

 と、例の超美女は生意気なことを言う。

「美人は説明不能なのよ」

「ふん、前から知っていたけど、ちょっと書いてみただけさ」

「どうだか」

「あ、疑うのか」

「あなた、私を見ると目をそらすじゃん」

「そりゃそうだよ。バカな男どもみたいに、死にたくはない」

「それって、美から逃げてない?」

「うわあー、よくもまあそこまでぬけぬけと…」

「美を前に身構えてはだめよ」

「…ったく、どうしろと言うのだ」

「素直になりなさい。今日は食事につきあってあげるからね」

 けっきょくそれが言いたかったのか、この大食い女。

 ところで美女は一般に大食いであるというのが私の持論なのだが、みなさん、そう思いませんか?                  


[上の文章は、約4年前に書いたものです。][original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com][mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

【猫哲学97】 イヌの話。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2006/04/21)

 ○○せんせいと酒を飲んでいたら、「犬のことはあまり良く書かないね」と指摘された。

 当然である。犬は嫌いなのだ。

 犬というのは、飼い主の権威を笠に着て、私たちに吠えかかったり噛みついたりする。何が気分悪いかといって、犬というやつ、飼い主といるときか家につながれているときにだけ吠えたり噛んだりすることだ。この世のどこかに一匹でも、飼い主の権威を笠に着て偉そうにしている猫なんているか? それだけ考えても、猫のほうがよほど上等な性質の生き物だろう。なあバカ猫。

 昔、甲子園口に住んでいたことがあった。私の住んでいた賃貸マンションからJRの駅までの道はけっこうなお屋敷町で、どこぞの社長宅などがずらりと並んでいた。そのお屋敷の一軒に住む犬が、ものすごく嫌なやつだった。お屋敷の塀の向こうから、私にギャンギャン吠えまくるのである。もう、うるさいのなんの。

 朝の寝ぼけ頭で出勤する私は完全ノーガードで歩いているから、突然これをやられたらびっくり仰天して心臓が飛び上がる。本当にムカつく犬である。

 あるとき暇だったので、ギャンギャン吠えているそいつをじーっと睨みつけてやった。塀の内側にいるから手を出せないが、本当に絞め殺してやろうかと思った。

 そのとき私は、頭の中で凶悪なイメージを掻き立ててみたのである。

「お前なんかなあ、そこらの野原でタイマンをはったら、いちころで殺してやるぞ。いや、すぐに殺すのはもったいない。まず金属バットで頭をぶん殴り、背中から肩から腹から尻まで順にぶちしばいちゃる。尻尾をつかんで振り回し、虫の息になったところで蹴り飛ばしてやる。後ろ足をロープで縛って引きずり回し、そのまま公園の階段を30段引きずり降ろしてやる。どんなことになるか、わかっとるんやろうなアホ」

 何となく殺気が伝わったのだろう。犬コロは急に大人しくなって、塀から離れていった。

 それがやけにおもしろかったので、私は毎朝、手をかえ品をかえ犬コロをいじめぬくイメージトレーニングを重ね、そのお屋敷の前を楽しみにしながら通りかかるようにしたのである。犬コロ野郎はそのうち、私を見ただけで逃げていくようになった。

 これだから犬は気分が悪いのだ。安全な塀の内側で、私が油断しているときにだけ吠えまくり、こちらがそれなりに身構えると逃げていきやがる。猫の上品さ気高さのかけらもない。私は犬が嫌いである。

 私が頭の中でイメージした犬いじめのうち、最も現実的で効果のありそうなのがあった。本当に実行してやろうかと思っていたのだ。どういう犬いじめかというと、「熊避けスプレー」である。東急ハンズで売ってるんだもんね~。

 このスプレー、登山者の護身用のものである。山中でいきなり熊に出会ってしまったときに、熊の嗅覚を攻撃して撃退できるようにと、超刺激性の唐辛子とかそのあたりのものすごい臭いなのだそうだ。人間にはさほどでもないけど、鼻の敏感な犬科の動物には致命的らしい。こいつをポケットにしのばせて、例の犬コロが吠えついてきたら顔に向けてプシューっと…。

 うははは、想像するだに楽しいではないか。

 あまりにそのイメージが気に入ったので、私は犬を見るだけで「うふふふ、熊避けスプレー」とつぶやくようになってしまった。それ以来、私は不思議と犬には吠えかかられなくなったのである。なつかれることもなくなったけど。当然かもな。まあべつにいいけど。

 犬と同次元で気分の悪いのは、NHKである。私はイヌHKと呼んでいる。

 こちらが頼みもしないのに勝手に電波を飛ばしておいて、金を払えと言うのである。そんなおかしな話があるか。

 この世のどこにだなあ、頼みもしないのに勝手に新聞を送りつけて、「新聞代を払え」という新聞があるかい。あ、ひとつだけ例外の新聞社があったな。聖○新聞という名前だけど、知ってる?

 しかもその電波の中身が悪質である。国民への洗脳電波なのだ。

 イヌHKの番組内容は、自民党の審査を受けている。政府の悪党連中にとって都合の良い番組だけが制作され、都合の悪い番組は放送されない。たとえばイラク戦争の悲惨な現状は、完全なタブーになっている。おかしいじゃないかと視聴者が指摘したら、「NHKは公共放送なので国の審査を受けるのは当然だ」とぬかしやがった。会長自身がその肉声で言ったのだ。

 何が「みなさまのNHK」だ。自民党のためのNHKじゃねえか。最近は公明党のためのNHKでもあるな。イヌHKは、創価学会関連のニュースを流さないのだ。

 某日の『NHKニュース7』生放送中のことだった。アナウンサーが「公明党の支持母体である創価学会が…」と言いかけたところでいきなりストップがかかった。そして「失礼しました」とだけ言ってぜんぜん違うニュースを読み始めた。後は知らんぷり。この様子を録画していた人がさっそくネットにアップし、誰でも何度でも確認できるような形で晒されている。こんなマスコミの存在を許しておいていいのか、みなさま。

 そのうえやつらの組織内部も腐敗しまくっている。詐欺横領、使い込み、空出張などで億単位の不正がゴロゴロしている。事件として取り上げられるのなんて氷山の一角だ。

 しかもしかも、しかもである。肝心の番組内容だって本当の事を言わない。嘘をつく。事例をあげればきりがないのでやめておくけどやらせプロジェクトX、本当にもう、ひどいもんである。

 受信料の集金人というのが、また悪質だ。私のような筋金入りの反NHKは避けて通り、一人暮らしの若い女性とか母子家庭とか、生活保護世帯を狙う。この種の弱者ターゲットは、ほぼ100%確実に集金できるからである。

 集金人は、こういう弱い女性の家を夜の11時頃に訪れ、扉をガンガン叩きながら「NHKです。NHKです」と叫ぶのである。女性は怖いし近所迷惑だし、これをやめてくれるならと観念して、金を払ってしまうのだ。

 もちろんこれは脅迫であり犯罪である。生活保護世帯には減免制度もある。しかしすべての女性がそんな知識を持っているわけではないし、何よりも恐怖から逃れたい一心で女性たちは受信料を払う。これを毎晩続けられてノイローゼになり、ついに鬱病が発症して入院した女性もいるらしい。

 こうした集金人の悪辣な手口はマニュアル化されて、すべての職員が常識として知っているという。集金人はNHK本体とは別の下請け会社に所属しているので、NHK本体のエリートがこういうヤクザ仕事に手を出すことはない。集金人が訴えられても、NHKは傷つかない仕掛けなのだ。こんちくしょう、こんな放送局が存在していていいのか。

 NHKの受信料は放送法24条により規定されている。だから連中は法律を盾にとって庶民を脅迫するのである。しかし、いかに法律があろうと、それを行使するのに犯罪を手段としていいはずがない。これが、一見紳士風、実は卑劣悪辣公営ヤクザ放送の実態である。

 NHKは「受信料負担の公平性のために」受信料を払えとぬかすが、不公平を創り出しているのはNHKである。「あいつもこいつもどいつも金を払っているんだから、お前も払えよ。不公平だろ」とNHKは主張しているわけだ。アホかい、そんなことをするよりも金を取るのをやめたらいいのだ。やつらが受信料を取らなければ、世の中は完璧に公平になるのである。

 しょうもないロジックのすりかえをやりやがって。まったくもって小泉口先だけ自民党のやり口そのままではないか。

 電気水道ガスなどは、生活に必要なものである。これらに払う金を公共料金という。NHKは生活に全く必要のないものである。何で金を取るのか、私にはさっぱりわからない。電気にしてもガスにしても、引っ越したらまずこちらから使わせてくださいとお願いに行く。そこで契約が成立し、納得して金を払っている。私はNHKに「どうか観させてください」などとお願いしたことは一度もない。なのに、どんな了見で金を払えなどと要求するのだ。

 それに電気ガス水道は、金を払わなければ止められるだけのことだ。使ったぶんだけしか請求されない。公共料金だというならNHKも電波を止めればいいのだ。私はその電波を利用していないのだから、ちっとも困らない。かつて集金人に何度も「電波を止めてくれ。うるさくてしょうがない」と文句を言った。でも、止めてくれないのだ。押し売りよりもずっと始末が悪いではないか。

 私の若い頃は、朝家を出て、帰ってくるのは夜中だった。放送なんて終わっていた。テレビはほとんど観なかったのだ。観もしないものに対して、何で対価を支払う必要があるのだ。法律論なんかどうでもいい。原理的、道義的におかしいじゃないか、ちゃんと説明してみろNHK。だというのにその頃のNHKの請求書ときたら、他の公共料金のどれよりも高かったのだ。ヘンだと思わないのか。

 もっと原則論的なことから言えば、契約というのは当事者の合意に基づくべきものである。こちらが合意もしていないのに勝手に契約したとみなす放送法そのものが、憲法違反なのである。やーい、憲法違反団体イヌHK。ちゃんと反論してみなさいな。という話をNHKの集金人にふっかけたことがある。ヤクザ集金人風情がちゃんと反論できなかったことは当然だ。私は手強い男なのだよ。

 去年からNHKの不祥事が次々に明らかになり、受信料支払いを拒否する世帯がどんどん増えている。この数字はもう元に戻らないだろう。誰でも一度不払いを体験してしまうと、その心地よさに気付き、受信料制度の欠陥を知ってしまうからである。

 NHKの悪党どもは支払い拒否世帯に対して、督促状を送りはじめている。これが届くと、一週間以内に簡易裁判所で異議申し立てを行わないかぎり、請求書と同じ効力となる。そうなってしまえばNHKは支払い拒否世帯に契約不履行の訴訟を起こせるし、裁判には必ず勝てる。ほんとにもう、ロクなモラルも持ち合わせていないくせに、悪知恵だけは働く連中である。

 これは視聴者が受信契約をしたことになっているからいけないので、契約解除を通告すればNHKもこの手は使えない。そういう知識のある私のような強者はいいが、何も知らない人々は悲惨である。

 どう悲惨なのかというと、NHKに泣く泣く受信料を払おうとすればそれまで拒否してきた1年間とか半年分とかの滞納受信料を、一括して支払わないといけないからだ。少なくとも3万円にはなるね。気の毒な人々である。社会的弱者にはつらい金額だろう。世の中には一月を9万円とか7万円とかで必死にやりくりして暮らしている人がなんぼでもいることを考えると「そ、それだけは勘弁してくだせえ、お代官様」みたいな気分じゃないかな。悪代官イヌHK、どう思う?

 イヌ公営放送の連中は高給取りだから、このように貧しい人々の生活なんて思いも及ばないのだ。お気楽な連中だよまったく。こうやって集めた受信料を、あいつらは飲み食いタクシー代、架空出張費で使いまくり、さらに制作費を横領して愛人と海外旅行なんかに行ってやがる。

 直接横領して捕まるのはまだかわいいほうだ。頭のいいやつは多額の制作費を下請け業者に回し、接待してもらったりキックバックを受けたりしている。これだと、領収書でも残さない限り絶対に捕まらない。いいご身分である。

 くぉらーっ!! 何様のつもりなんだ、イヌHK。社会正義はどこへ捨ててきた。

 最近になってNHKは、自民党の代議士とつるんで、受信料不払いに対する罰則規定の法制化に取り組んでいる。イヌがついにイヌの本性を露にして、お上の権威を笠に着て牙をむきだしたというわけだ。どんな罰則規定になるのか知らないが、どうせ罰金かブタ箱かのどちらかだろう。きっとすごいことになるぞ。今から将来の新聞の見出しが目に浮かぶようだ。

「NHK受信料滞納で、禁固2年の実刑判決」

「NHK受信料が払えず、サラ金地獄へ」

「NHK受信料が払えず、一家心中」

「NHK受信料滞納で差し押さえ。マイホーム退去命令」

「NHKを一生恨みます。受信料自殺者の会、田中さん」

 あ~あ、世の中に不幸をばらまいていやがる。わかったかイヌHK、おまえらは社会にとって害悪なんだよ。

 電気水道ガス料金は、支払わなければ止められてそれで終わりだ。支払わないと処罰するなんて、公共料金の域さえ超えている。ほとんど税金だ。きさまは国家権力か、イヌHK。しかも、利用していないのに処罰するというのである。理不尽とはこのことをこそいうのではないか。

 支払い拒否歴25年の私なんか、どういうことになるんだろうね。一気に100万円くらいの請求書が来るのだろうか。それが支払えなかったらどうなるんだろうか。差し押さえのうえ、マンションから退去か。あたしゃ一気にホームレスか。ひどい暴力だな、NHK。おまえらに社会正義を語る資格などない。そして社会正義を失ったマスコミなど、有害このうえない。早く潰れてくれ。それが世のため人のためだ。

 おまえらが先の大戦中に何をやっていたのか、どういう非道を行ったのか、私は絶対に忘れないからな。

 太平洋戦争のさなか、昭和19年10月19日、イヌHKのラジオ放送は次のようなニュースを大歓喜とともに伝えた。

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♪~すっちゃんすっちゃららっか、すちゃらかちゃん(軍艦マーチ)

□大本営発表

『我が部隊は10月12日以降、連日、台湾及びルソン東方海面の米新機動部隊を猛攻し、その過半の兵力を壊滅して、これを遁走せしめたり』

①我が方の収めたる戦果綜合次の如し

轟撃沈航空母艦11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、巡洋艦もしくは駆逐艦1隻

撃破航空母艦8隻、戦艦2隻、巡洋艦4隻、巡洋艦もしくは駆逐艦1隻、艦種不詳13隻、撃墜 112機(基地における撃墜を含めず)

②我が方の損害

飛行機未帰還312機

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 これが本当なら米海軍が消滅したことになる。戦争は勝ちだ。だけど残念ながら、みごとにぜんぶ嘘である。米機動部隊は全く損害を受けなかった。軽巡洋艦2隻が小さな損傷を受けただけ。撃墜されて還らなかった日本の飛行機の実数だけはやや正しい。

 この放送を聴いた国民は、日本が戦争に勝っていると思い込んでしまった。国民だけならまだいい。陸軍までがそれを信じた。「やったー、アメの海軍は消滅したよん。今がチャーンス、フィリピンで決戦だぜーい」。そう決心した陸軍は、全力をあげてフィリピンに軍隊を送り、そこでまたボロボロに叩きのめされた。

 追いつめられた日本海軍は、ここでついに神風特別攻撃という狂気の戦術を採用することになる。こうした一連のことに責任を感じていないのか、イヌHK。人格的に破綻していないか、おまえら。

 完全な嘘が、国家の戦略判断までも誤らせたのである。これを流したのがイヌHKである。連中はこのことに関して訂正放送も流していないし、反省もしていない。やつらの体質は戦後もそのままである。どうせいずれまた、政府の大本営発表として嘘をたれながすだろう。そうした情報操作は、もうすでに始まっている。私は騙されないけど、国民の大半はまた騙されるんだろうな。

 で、その国民を騙す装置を維持するために、国民から金を取ろうというのである。支払いを拒否したら、処罰するというのである。これほどおいしい話はないよな、そうだろイヌコロ公営放送。

 政府の権威を笠に着て一市民に牙をむき、金を払えと脅すような連中を、私はけっして許さない。徹底的に戦うぞ。どうせイヌどものやってくることだ、私の必殺技で撃退してやるさ。

 どんな必殺技かって? それはね…

 熊避けスプレーである。

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「あたしもいじめられたわよ、NHK」

 と、かの超美女は遠い目をして言った。発言内容のわりに、目が輝いている。

「へえ~、きみをいじめるなんて、命知らずだな」

「夜中にガンガン、ドアを叩く蹴る…」

「それで、おとなしく支払ったのか」

「まさか。集金人の後をつけて、暗がりで呼び止めて、ボコボコに殴ってやったわ」

「怖いな~。でも、よくやった」

「あたしからお金を取ろうなんて100万年早いわよ」

「あ、そういう問題なのか」

「そうよ。今月だって、生活費があと5千円しかないもん」

「どんな生活をしているのやら」

「だから今夜も食事をごちそうしなさい」

 あ、これはどう断ればいいのだ。いや、断る方法などないのである。イヌHKよりこの女のほうがよほど始末の悪いことに、今さらながらに気付いてしまった私であった。ほへ。                     


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
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【猫哲学96】 猫ショートショート。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2006/04/14)

 とても有名なベリーショート小説がある。SFにもホラーにも分類されているが、これをまずご紹介しよう。

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 地球上で最後に生き残った男が、部屋に座っていた。
 するとノックの音が…
 終わり。

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 これは、人間でない誰かがノックしたという話なので、その誰かとはお化けか宇宙人と考えられる。というわけで、とてもよくできたショートSF、またはホラーということにされている。

 ところが猫哲学者というやつは、こういうお話を読むと、頭の中でどんどんバリエーションが増幅して、しまいに収拾がつかなくなるという変な性格を持っている。岩根先生も同じらしいけど。

 では、どんなバリエーションが出てくるのか、まずはわかりやすい例からご紹介しよう。

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 地球上で最後に生き残った男が、部屋に座っていた。
 するとノックの音が…
 にゃお。

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 なんだバカ猫おまえかよ。という話になって、緊張感が一気にぶっ飛んでしまうのである。
 こんなのもあるよ、次のバリエーション。

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 地球上で最後に生き残った男が、部屋に座っていた。
 するとノックの音が…
 横山ノックさん。もうセクハラもできまへんなあ。

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 あんまりなストーリーである。イメージしたくない光景だし。

 では、次のバリエーション。

 一人の男だけが生き残ったといっても、女もいなくなったとは書いていないじゃん。で、女も一人生き残っていたとむりやり仮定する。その女が、たまたま彼の恋人だったというのはご都合主義に過ぎるが、小説なんてだいたいそんなもんである。

 ということにして、この小説を書き換える。

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 地球上で最後に生き残った男が、部屋に座っていた。
 するとノックの音が…

「あなた、会いたかったわ」

「まさか君にもう一度会えるなんて」

 熱い包容、キスシーン。音楽もガンガンに盛り上げて感動のクライマックス。

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 と、こうくれば、古き良き時代のハリウッド映画である。しかし、今のハリウッドでこういうベタなことをやると笑われるだけだから、話は別の展開になる。

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 地球上で最後に生き残った男が、部屋に座っていた。
 するとノックの音が…

「あなた、早く開けて。ゾンビに追われてるの!」

 ドアを開けようとする彼。しかしドアノブが壊れている。焦る彼の姿を思いっきり引っ張るむやみな編集。絹を裂くような彼女の悲鳴。やかましい女である。

 いっそドアをたたき壊そうとして斧を捜す。だが、斧を入れた道具箱も鍵がかっている。必至で鍵を捜す彼。そうだ机の引き出しに鍵があったはずだ。ところが机の引き出しにも鍵がかかっていて…。

 彼の焦る顔アップ。ハリソン・フォードしかないだろう、この役は。

 おい、そろそろもういいかげんにして次のシーンへ行けよなー。

 と突っ込みを入れる頃になってようやくドアが開く。彼女が飛び込んでくる。よかった、無事だった。ドアを閉めるときにゾンビの手を挟んで、またひとしきり格闘するしつこい演出で、またもやあざとい時間かせぎ。

 いろいろあって、やっと彼と彼女は抱き合う。感動のラブシーン。エンディングは彼女の顔のアップ。彼と抱き合いながら、彼女の目が赤く光る。キャーッ!!

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 今どきの米国映画はこんな感じである。

 では中国映画だとどうなるのだろうか。さあ、いってみよう中国映画バージョン。

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 地球上で最後に生き残った男が、部屋に座っていた。
 するとノックの音が…

「あなた、私よ、開けて」

 しかし何ということだろう、彼は長い間の戦いに疲れ果て、目も見えず耳も聞こえなくなっていたのだった。

「お願い、開けて、私よ」

 彼女は敲く月下の扉。彼女は推す月下の扉。

 敲く、推す。どっちがいい表現だろうか。と悩んだあげくに、推敲という言葉ができました。というのはウソ。

 彼女はそうして二千年の間、彼が扉を開けるのを待ち続けたのであった。なぜなら彼女は、不老不死だったのだ。

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 すごいなあ。中国だなあ。話が雄大で、故事までついている。

 これが、韓国映画となるとこう素直にはいかない。とにかく予想を裏切って感動させるのが常道だから、低予算でCGも使わずあらゆるテクニックを駆使するのである。

 それでは、韓国映画バージョンをいってみよう。

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 地球上で最後に生き残った男が、部屋に座っていた。
 するとノックの音が…

「あなた、私よ、開けて」

 しかし彼は、長い戦いに疲れ果て、自分の耳を信じようとしない。これは幻聴なんだ。これ以上また絶望なんかしたくない。彼女が生きていたなんて嘘だ、あり得ないさ…。

「お願い、開けて、いるんでしょう。お願いだから」

 ドアの前で泣き崩れる彼女。この演技が上手にできてこそ韓国女優といえるのだ。

 頭をかかえ葛藤する彼。いろいろな美しい思い出が走馬燈のように頭を駆けめぐる。違う、そんなはずはない、これは幻聴なんだ。

 ついにたまらなくなってドアを開ける彼。しかし一瞬遅かった。彼女は悲しみのあまりドアの前で命を絶っていたのだった。悲劇に耐えられず号泣する彼。韓国では、男優さんもこれができないといけません。

 ところが、ああ、神様の悪戯か。彼女は意外にも軽傷で、生き返ったのであった。激しく泣きながら抱き合う二人。音楽も大いに盛り上がりましょう。ここでは韓国映画3大必殺技のひとつ、360度カメラ回転だあ~。

 ところが運命は甘くない。数日後、幸せに暮らし始めた二人を次の悲劇が襲う。ああ何と、彼女は白血病に冒されていたのだった。

「たとえ短い命でも、僕はすべてをかけて君を愛する」

「私の命がいつ果てようとも、私の愛は永遠よ」

 あらためて愛を誓う二人に、なぜだか出生証明書が落ちてくる。またもや神の悪戯か。二人は兄妹だったのだ。ちゃんちゃん。

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 日本映画だとどうなるのかって? さあ…。私は日本映画を観ないのでようわかりません。

 バリエーションはまだまだ続く。生き残った男は一人だったが、女はぜんぶ生き残っていたかもしれないでしょ。どこにも、女もぜんぶ死んだとは書いていないし。というわけで、こんな風にもできる。

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 地球上で最後に生き残った男が、部屋に座っていた。
 するとノックの音が…
 彼がドアを開けると、その前にはにっこり微笑む女、女、女、女、女(白鳥座まで続く…)。

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 これは天国か。いや、地獄かもしれないな。

 とにかく悲劇にはならないよね。これ以降はスラップスティック・コメディとなる以外にはないだろう。
 まだまだいろいろとバリエーションがあるのだが、疲れるだけなのでこのへんでやめておく。私の場合がヘンなのは、以上のバリエーションがほとんど一瞬に頭の中でできてしまうことだ。それで、脳が飽和状態になり、一人で笑い転げるのである。本当にヘンだ。

 小説だけで済んでいればまだいいが、テレビを観ているときとか哲学書を読んでいるときにまでこの種の発想がうごめき出す。

 哲学書を読んで大笑い、歴史書を読んで大笑い。しまいには街角の看板を見て大笑いしている私って、どうなんだろう。

 思考というのは、このような無限のバリエーションの中から論理と秩序を紡ぎ出すことである。私はそう思っている。じゃあ、そのバリエーションはどこから湧き出てくるのだろうか。思考の結果として出てくるのだろうか。

 私は、違うように思える。思考とは発想に秩序をもたらす過程だが、発想というのは勝手に出てくるものだと思っている。私はその発想の出てくる蛇口を手にしている。蛇口をひねれば、発想は勝手に出てくる。しかしその水(発想)がどこからもたらされたものであるのか、よくわからない。

 こういうのは私だけだろうか。誰でもみんなそうなんだろうか。

 と、前半でどうでもいい話をしつつ、最後に思考過程についての哲学的洞察でまとめる猫哲学者であった。ちゃんちゃん。

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「どれもこれも、ひねくれたストーリーばっかり」

 いつもの超美女は、いつものように突っ込みをいれる。

「これがオレの性格だ。ほっといてくれ」

「このお話は、誰がノックしたのかを想像するのがミソでしょ。もっとシンプルに楽しめない?」

「たとえば?」

「ノックしたのはゴジラだった」

「足音もたてずにどうやって来たの」

「ノックしたのはウルトラマンだった」

「3分間でさようなら」

「ノックしたのはチンチラだった」

「やめてくれ。別の発想回路が暴走を始める」

「ノックしたのはオカマだった」

「自殺したくなるな」

「ノックしたのはパンダだった」

「その方向はやめてくれって」

「ノックしたのはターミネーターだった」

「いまさら何のご用ですか」

「ノックしたのは長島監督だった」

「ノックの意味が違う。脳梗塞だし」

「ノックしたのはキティちゃんだった」

「うちのタマ知りませんか」

「ノックしたのはあたしだった」

「お、それはちょっと楽しいかも」

「でも鞭と蝋燭を持っていた」

 うえええ…。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
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【猫哲学95】 お札を笑おう。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2006/04/08)

 今回はお札の話である。猫とは関係ない。

 猫とお札、猫と硬貨、猫と通貨などいろいろと関連性を調べてみたのだが、まったくデータが出てこない。ことほどさように猫とお金は縁のないものなのだろう。

 猫に小判というくらいだからな。日銀のエリートなんてのは、無視されるのが嫌いなんだろう。相手が猫でも。

 この地球のどこかでひとつくらい、猫をデザインにしたお札があってもいいのにと思う。きっと私は、そのお札が大好きになるだろう。支払いに使うのにもおつりとしてもらうのも、とても楽しい。思わず心がはずんで、経済の流動性が増すではないか。そんな知恵も働かないのかよ日銀は。

 だいたいやねえ、ものすごくセンスが悪いのだ、日本のお札って。みなさん、そう思いませんか?

 どうでもいいインチキ男の新渡戸稲造なんか大嫌いだから、旧五千円札は急ぎATMで入金することにしていた。そしたら新札は樋口一葉だってさ。もう笑い転げて、腹の皮が痙攣しそうになったよ。(樋口一葉の話は後半で詳述)。

 新渡戸稲造なんてさ、『武士道』という本を書いたから有名なのらしいが、お札に使われた理由はそんなことじゃないだろう。だって、誰かそんな本を読んだことがあるか?

 新渡戸稲造は、最初の国際連盟事務次長になった男である。ちなみに国際連盟なんてのは大金持ち陰謀機関の表の顔である。現代の国際連合だってロックフェラーが敷地ごとポンと寄付したビルに入っている。

 この人は、何をどう勘違いしたのかしらないが、クエーカー教に改宗している。奥さんはアメリカ人である。まさに超真正の外国かぶれなおっちゃんである。キリスト教に染まっておいてガイジンを嫁にして、武士道だと?

 岩波文庫の『武士道』をちょっとでも読んでみられるとよい。何でこんなもんが武士道なんだと思う記述にあふれている。私は武士ではないから根本的な批判はさしひかえておくが、日銀はどうしてまたこんなトンチキなおっさんが好きなんだ。その理由は、これから私が書くことを読まれたら、だいたいおわかりになると思う。

 旧札の話はこのへんでおいといて、現行のお札の話をしよう。

 まずは千円札。千円札といえば野口英世。野口英世は、借金魔王であった。

 貧農の息子として生まれた彼は、高校へ行くのにも恩師の援助を受けていた。それはまあいい。借金というより美談だ。東京大学に合格して上京するときにも、周囲から金を借りまくった。そして、ついに返済することはなかった。

 このへんまでは、まだまだよくある話だ。この程度では借金魔王とまでは言わない。
 東京に出ると、歯科医・血脇守之助という人が、野口英世に将来性を感じたのだろうと思うけど、親切にも学資として月15円を援助してくれた。15円というのは、調べてみると、当時の中学校の先生の月給並だという。明治時代の教師というのは一般の会社員よりも高給だったから、現代でいうとまあ30万円くらいかな。

 学生とっちゃすごい金額である。これに恩義を感じてせっせと勉強すれば美談なんだけど、野口英世は勉学のついでに酒と女にもせっせと注ぎ込んで、15円は毎月使いきっていたとさ。しかも友人に借金までしていた。

 大学卒業後、順天堂病院助手として勤務。給料をもらうようになってからも、郷里の友人に借金を重ねた。

 そうこうするうち清国の国際防疫班に参加して海外赴任する。その出発前、飲んで騒いで支度金の96円を使い果たした。

 そこで恩人の血脇守之助に借金を申し込む。血脇さんは新婚の妻の着物を質に入れ、5円を工面した。何だ血脇さん、お金持ちじゃなかったのね。

 清国では相当な俸給がもらえたはずだが、夜ごと歓楽街で飲めや歌えや遊びまくり。帰国したときにはすっかり無一文だった。

 さてさて、ここからが野口英世の白眉、アメリカ留学である。でも金がない。まず故郷のお金持ちの娘と婚約し、帰国したら娘と結婚するという約束で結納金として300円をいただく。さらに渡米の費用として恩師から200円をもらっちゃう。

 そこでおとなしく渡米すりゃいいものを、送別の大宴会を開いた。あまりにもど派手な宴会にしちゃったので30円しか残らなかった。アメリカ行きの船の切符も買えない。またまた泣きつかれた血脇さん、高利貸しから300円を借りて英世に渡した。大丈夫か血脇さん。いや、血迷ってないか。

 婚約した娘さんはどうなったのかって? けっきょく結婚しなかったのだそうだ。この娘さんの家からは結納金以外にもいろいろと金をむしりとっていたらしいから、まあ、世間でいうところの結婚詐欺だな。

 アメリカへ行っても性根は直らない。友人たちからどんどん借金をしまくった。「野口に金を貸すな」が研究者仲間の合い言葉になったんだと。帝国学士院から恩賜賞を授与されることになったときには、友人から700円を帰国費用として送金してもらっている。

 最後はアフリカで死んだ野口英世。案外、いくらなんでもここまでは借金取りが追いかけてこないだろうという、とても現実的な計算があったのではないかにゃ。

 こんな人でも、話が歴史の範疇に止まっているかぎりは、私は笑い飛ばして終わりにする。お金にルーズだって、別な部分でいい人だったらそれでいい。でもね、事はお札の話なのだ。

 日銀は、日本人の金銭感覚が野口英世のようであってほしいと願っているのだろうか。明日のことも考えず借金しては遊びまくり、周囲に大迷惑かけて平然としているような人を見習えと、日本人全員に語りかけているのだろうか。日銀の考えることはわからん。いや、本当は知っているけど、表面だけみたらアホもええとことちゃうか。もうちょっとスマートにできないものかね。

 千円札だけではない。五千円札もどうかしている。樋口一葉も借金魔王、じゃなくて借金魔女であった。

 樋口一葉は、17歳のときに事業に失敗した父親を亡くし、母と妹の三人で無一文になった。ここからが、この人の貧乏生活のスタートであった。野口英世の借金は豪快で無神経だが、樋口一葉の貧乏はこの人のせいではないし、哀れで惨めである。借金魔女なんて言ってごめん。

 樋口一葉は細かな日記を残していて、その借金生活を伺い知ることができる。

□明治25年8月28日 晴天。「我家貧困、只せまりに迫りたる頃」とて、母君いといたく歎き給ふ。此月の卅日かぎり、山崎君に金十円返却すべき筈なるを、我が著作いまだ成らず、一銭を得るの目あてあらず、人に信をかくこと口惜しきとて也。

□明治25年10月2日 晴天。田辺君よりはがき来る。「『うもれ木』一ト先『都の花』にのせ度よし、金港堂より申来たりたる」よし。「原稿料は一葉廿五銭とのこと、違存ありや否や」と也。直に「承知」の返事を出す。母君、此はがきを持参して、三枝君のもとに此月の費用かりに行く。心よく諾されて六円かり来り。

□明治25年10月23日 母君、三枝へ参り給ふ。『都の花』より受とりたる金(25銭×47枚=11円75銭)のうち六円を同君に返へさんとて也。

□明治26年3月15日 曇る。昨日より、家のうちに金といふもの一銭もなし。母君これを苦しみて、姉君のもとより二十銭かり来る。

□明治26年3月30日 晴天。我家貧困日ましにせまりて、今は何方より金かり出すべき道なし。

□明治25年5月1日 誰れもたれも、いひがひなき人々かな。三十金五十金のはしたなるに夫すらをしみて、「出し難し」とや。

 樋口一葉は明治28年になると、『たけくらべ』『にごりえ』などを発表、女流文学士として有名になったが、貧乏生活が終わったわけではなかった。このあたりは、与謝野晶子も有名になったのに貧乏だったのと似ているな。

 日記を続けよう。

□明治28年5月2日 早朝、書(ふみ)あり。安達の妻より、かねてのかり金催促の趣き。五円計のなれども、いまは手もとに一銭もなし。難を如何にせん。

□明治28年5月14日「今日夕はんを終りては、後に一粒のたくはへもなし」といふ。母君しきりになげき、国子(妹)さまざまにくどく。

□明治29年6月23日 此月、くらしのいと侘しう、今はやるかたなく成て、春陽堂より金三十金とりよす。人ごヽろのはかなさよ。

 この日記の5ヶ月後、樋口一葉は肺結核を患い亡くなった。明治29年11月23日、享年24歳。

 うえ~ん、悲しすぎる。切なすぎる。こんな人をお札のシンボルにするなんて、どういう神経なんだ。樋口一葉は、きっと侮辱されたように感じるだろう。樋口一葉の墓の前に立って、五千円札を振ってみる自分の姿を想像してごらん。どういう意味かわかるだろう。

 それにしても日銀は、何が嬉しくてこんなことをするのだろう。考えてみると本当に腹が立つ。野口英世のごとくに借金で遊びまくって、樋口一葉のように苦しんで若死にしろとでもいいたいのか。  話は変わるけど、以前に1ドル札に描かれた気持ち悪い「目」の話をしたよね。あの「目」は、日本の千円札にも描かれている。

 という話をすると、みなさん、「え? どこどこ」と探されるだろうけど、容易には見つからないよ。

 正解は、透かしの中の野口英世の目である。ほら、ど真ん中に描かれているのに、なかなか気が付かないでしょ。

 ことほどさようにお札のデザインというものは、すべてイルミナティの陰謀なのである。というお話は、どこまで冗談だと思う?

 ぬへ。

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「あたしはキティちゃんのお札がいいな」

 いつもの超美女は、またまた話を脱線させる発言をするのであった。

「だだだ、大胆なご発想ですな」

「パステルカラーでね、千円札が黄色キティちゃん。五千円札は水色キティちゃんで、一万円札はもちろんピンクキティちゃん」

「偽造防止のためにハートと花柄を全面に飛ばしまくるとか?」

「そうそう。幸せでしょー」

「火曜サスペンスの、強盗が金を強奪するシーンで、そのお札もキティちゃん?」

「緊張感がないわよねー」

「男が使う場合、恥ずかしいと思うが」

「大丈夫、女が使ってあげるから。お金持ち野郎はね、女にさんざん利用されるオトコになるの」

「さんざん利用…」

「略すとサンリオ」

 …ほひゃ。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
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【猫哲学94】 猫芸術論。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2006/03/31)

 友人が二胡を貸してくれたので、弾いてみた。

 二胡というのは、みなさんご存知だろうと思うけど、中国の古典弦楽器である。ヴァイオリンの原型ともいわれている。女子十二楽坊が最前列で弾いているあの楽器だ。

 んで、私が借りてきた二胡を、弓で二本の弦をこするように弾くと、バカ猫が反応するのだ。私が弾き始めたときから耳がぴくぴく動いていたし、ハ長調のラとシの間のあたりの音では急に起きあがり、何かを捜すように首をくるくる回した。

 以前に私がフルートを吹いていたときにはぜんぜんなかった反応である。やっぱり楽器によるんだろうな。音程ではなくて、音色だということだ。二胡の音色は、バカ猫にとって心惹かれるものなのだろう。何たってニコとネコというくらいだもんな。あ、くだらないしゃれかも。

 なぜ私が急に二胡なんかを弾いてみたのかというと、やっぱり女子十二楽坊の影響である。あのかっこよさに痺れてしまったのだ。私が弾いたってべつにかっこよくはないけどね。

 いっておくけど、私はミーハーではないよ。(ホントはそれほど自信はない)。私は、女子十二楽坊の音楽性の高さに惚れ込んでしまっているのだ。テレビでしか彼女たちを見たことのない人にはわからないだろう。私はライブにも行ったし、ライブDVDも香港や台湾のものも手に入る限り集めたし、その中には日本で演奏されたことのない曲も数多く含まれている。それらを鑑賞しながら、私はあのグループが持っている技術のとんでもないレベルの高さや、古典として現代にまで引き継がれてきた中国音楽の芸術性、そのエッセンスに感動しているのだ。

 …なんて話を始めたらきりがなくなるし、猫哲学はただのファン感想文でもないから、みなさんの知らない話を始めてみよう。今回のお題は芸術とは何かについてである。

 さて、また話を女子十二楽坊に戻すけど、彼女たちがデビューしてもう5年になる。日本でのデビューは3年前のことで、あのときにはマスコミに引っ張りだこの大人気となったが、ではそれまでの2年間、いったい何をしていたのか。実はその2年間、中国でデビューしたものの、まったく売れなかったのだ。

 売れない2年間、彼女たちがどんなに苦労したのかという話はいまや伝説である。映画にしたっていいくらいだ。あの広い中国でドサ回りをしていたんだからね。移動中にバスがエンストして道ばたで震えていたという話。香港の雑誌に騙されて、きわどい衣装を着せられて、恥ずかしさをこらえて演奏してみたら、それがいかがわしいとスキャンダルにされた話。マイナス20度(たぶん華氏)の酷寒の山中で薄物一枚で映画を撮影した話とか…、きりがないからやめておこう。

 そうして、ぜんぜん売れなかった2年の空しい努力の果てに、なかばやけっぱちで日本へ来てみたらこれが大当たり。あんまり大評判になったので、逆に中国国内からも注目されるようになり、いまや中国を代表する大スターとなって…、という話は一種のシンデレラ物語だな。

 はい、女子十二楽坊の話はここまででお終い。ではいったい、彼女たちが2年間、なぜまったく注目されなかったのか。どうして日本ではいきなり大人気になったのか。ここには、中国人の古典音楽に対する芸術観の決定的な違いというものが横たわっていたのだ。このお話は、まだ誰も書いていない。猫哲学オリジナルの発見である。ぷにゃ。

 中国人が伝統音楽に期待している芸術性とは、いったいどのようなものか。それを最も端的に象徴する伝説をご紹介しよう。

 中国の春秋戦国時代、伯牙という琴の名人がいた。伯牙には鐘子期という友人がいて、伯牙の弾く音楽を鐘子期は伯牙の心そのままに理解した。伯牙が滝を想って弾くと、鐘子期は「滝が蕩々と流れるようだ」と言い、伯牙が深山を想って弾くと、種子期は「深山に分け入るようだ」と言った。

 鐘子期が亡くなったとき、伯牙は「私の音を聴いてくれる人はもう誰もいない」と嘆いて、琴の弦を断ち切り、それから二度と琴を弾かなかったという。

 この話から、真の友を失うことの悲しみを意味する「伯牙絶弦」という言葉が生まれた。はくがぜつげん、と読む。

 また、真の心を分かち合うかけがえのない友のことを表す「知音」という言葉も生まれた。ちいん、と読む。広辞苑で調べてみましょう。

 この話が意味しているのは、「至高の芸術は、わかる人にしかわからない。そして、わかる人というのは、きわめて少数の人である」ということである。ある意味で究極の芸術思想だな。

 そんな思想が一般的だった中国市場に、女子十二楽坊が、白牙が弾いていたのとまったく同じ古典楽器を持って登場したのだ。しかも洋楽中心だと。中国大衆の気持ちとしては、「何だかねえ…」という感じだったんじゃないかな。彼女たちが当初なかなか売れなかったのには、こういう背景があったのだ。

 さて、この中国人的芸術思想は、ある意味で究極的に正しいと私は思っている。音楽を奏でる側にセンスが要求されるのは当然だが、聴く側にだってセンスが要求されるのだ。あたりまえのことである。

 だが、このあたりまえの話は、現代社会の大衆芸術においては絶対に語ってはいけない、ある意味でのタブーである。

 大衆芸術においては、売れることがすべてに優先される。ちょっとセンスのいいやつとぜんぜんセンスのないやつと、世の中にはどちらが多いかを考えてみたら、すぐにわかるはずである。マスというマーケットで勝負するには、より数の多い方を相手にしたほうが儲かる。まともな人間よりもアホを相手にした方が儲かるのが大衆芸術なのだ。例をあげると、SMAPの歌の下手なこと。でもアルバムは売れるんだもんね。

 現代芸術は、「伯牙絶弦」などと言ってはいられないのである。

 この話は、芸術の本質論にまで立ち入っていく難しい話なので、ここではとても語りきれない。ただ、私たちが芸術を何となく考えるとき、現代芸術は本当は抜き差しならないジレンマにはまり込んでいることに気がついておいてほしい、ということを指摘したかったのだ。

 もう少しこの話を補足しておくと、芸術が現代のようなマス・マーケットを指向する前はどうだったのかを思い出してほしい。いわゆるマスコミュニケーションが成立する以前、芸術のスポンサーとは、お金持ちだった。

 王侯貴族、大富豪が芸術を育てていたのだ。そのことの善し悪しを述べるつもりはない。ただ、そのときに成立した芸術の形式は、音楽にせよアートにせよ、あまり変わっていない。ここに歪みが起きている。

 現代の芸術を取り囲む環境は、大金持ちがスポンサーだった時とはあまりにも違う。だから、内容が違うものになるということは当然のことだ。問題は、昔の環境と今の環境との大きな違いを考慮しないで芸術を語る不毛な方々がいることだ。といっても、猫哲学読者のみなさんはそんな連中のことは知らんだろうな。ま、いっぺん芸術関連のマイナー雑誌でも立ち読みしてみてくださいな。私の言いたいことがわかると思うよ。

 ところで、この話が芸術一般についての話に止まっているなら、私はあえてこんなことを書かなかっただろう。でも、そうではないのだ。このことは、どのようなジャンルの表現にも当てはまることなのだ。

 もう一度、整理しよう。伯牙絶弦。真の芸術は、わかる者にしかわからない。このことは、たとえば食べ物の領域でも見事に成立している。





(以下数十行、きわめて個人的な都合によりカット)




 うむむ。レベルの高い対話である。日頃「おいしいものが好き♪」などと言っている人たちの何人が、この話についていけるだろうか。私は半分も理解できない。

 そしてこのことは、食べ物の話に限ったことでもないのだ。例えば、今まさにこの瞬間に、どこかの町工場で、旋盤を前にした伯牙が、図面を手にした鐘子期を陶然とさせているだろう。そんな例はどこにでもあらゆる場面でもあるに違いない。

 わかるかな。たぶんわかるだろう。私たちは、芸術とは何かについてあまりにも多くのことを概念的に整理しないままでいる。そしてそのことが、この世の真の豊かさへの忘却をもたらしてはいないか。今回はそういうお話なのでした。

 これ以上は語らない。まともに精緻に語っていくとしたら、ハイデガーなみの大著になってしまう。ずぼらな猫哲学者には手に余る仕事であるしね。ほへ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 こんな話をしていたら、例の超美女はいじわるな目をして言った。

「もしも女子十二楽坊が、あんな風にきれいな女の子じゃなくて、禿げたおっさんばっかりのグループだったとするね。あなたは、それでもファンになった?」

「うう! そんなもん、想像させんといてくれ」

「答えなさい、ファンになった?」

「ムリだ」

「じゃ、音楽性だの芸術性だの、それがどうしたって?」

 ああ、オレはミーハーだよ。認めるよ。くそっ! それにしてもいったい芸術って…。            


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
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【猫哲学93】 猫特攻。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2006/03/24)

 うちのバカ猫は、ときどき特攻をして自爆する。

 わが家のリビングの隅には、よくワインが送られてきた宅急便の段ボールの空き箱がころがっているのだが、バカ猫は何が気に入ったのかその空き箱に頭突きをかまして遊ぶのである。

 でもたまに、ワインがそのまま箱に入っていることがある。私がセラーに移すのを忘れるからだが、そういう場合、バカ猫の自爆となる。ゴンッいう音がして、身体ごと跳ね返されるのだ。ワインって、数本まとまるとけっこう重いのよね。

 そんなときバカ猫は、非難するような目つきで私を睨む。

 おいおい、自分のせいだろうが。私はべつに特攻せよなどと命令していないぞ。おまえが勝手にやったんだ。私は、日本海軍の参謀ほど無責任でもバカでもないんだからな。

 神風特別攻撃隊のような悲劇を語るのに、こんな枕を持ってくる私という男は、ずいぶん無神経な野郎なんだろうな。しかし、いかに悲劇であろうと、愚行は愚行である。このあたりのことをちゃんと整理して話したを人を、私は寡聞にして知らない。だから私がやってやる。このままだと、日本人はまたもや同じ事をくりかえそうとするかもしれないしね。

 映画『男たちの大和』なんかが公開されて、またぞろ戦争を美化する風潮が強まっている。どのようにごまかそうと、あれは戦争賛美の映画である。油断してはいけませんぜ、みなさん。

 というわけで、今回は戦争の話である。神風特別攻撃隊の話なのである。興味のない方も多いだろうけど、たまにはつきあってちょうだい。

 まず、特攻についての歴史的事実を暴露する前に、ちょっと本質的で哲学的なことを書いておきたい。

 死は、何の役にも立たないのだ。もちろん戦争の役にも立たない。

 死とは概念である。死には質量もエネルギーも何にもない。こんなものを敵艦にぶつけても、敵艦は傷ひとつつかない。

 だから特攻についてよく言われる「死とひきかえに戦果を得る」という言葉など、カテゴリー・エラー以外の何ものでもない。だいいち、死とは何か、本当は誰も知らないのだ。ここで「死」をわざわざ持ち出すこと自体、愚行の本質を悲愴美でお化粧して国民を騙す詐欺なのだ。この文章を終わりまで読まれれば、そこんことは明瞭にわかるようにはずだ。

 あ、さてさて。特攻というのは、日本の敗戦が明らかになっちゃった昭和19年、フィリピンに押し寄せてきた米上陸軍に対して、戦力がやせ細ってしまった日本軍が、せめてちょっとだけでも抵抗してみようとして発案されたものだ。

 フィリピン海域を制圧している米海軍空母機動部隊の空母群に飛行機を体当たりさせて、飛行甲板を使用不能にし、たとえ一時的にでも制空権を挽回して局面を有利にしようというものだった。

 そもそもの初めは、敵空母の飛行甲板を傷つけるという具体的な目標をもった作戦だった。まだしも最初は、現実を見ようとしていたのだ。

 もしもあのときに、自動操縦装置とかジャイロコントローラーとかレーザーポインターなんかがあればよかったのにね。そんなものはもちろんないから、てっとりばやく人間を使った。つまり特攻とは、乏しい戦力で爆弾の命中精度を高めるための現実的な戦術としての選択肢のひとつだった。ただし飛行機を体当たりさせれば、パイロットは死ぬ。だから死とは、そういう戦術をとったときに嫌でも付随するおまけの現象でしかない。

 特攻において死とは、目的でも手段でもなかったのだ。当初はね。

 このことは、いくら強調してもし過ぎることはない。だが情けないことに、一度こういう戦術が行われてしまうと、死はそれ自体が目的になっていった。パイロットを殺すことが軍の至上命題となり、それにともなうはずの戦術的な目的などどうでもよくなっていったのだ。

 しつこいけど、もう一度書く。特攻において、死は当初の目的ではなかった。しかし後になると、死そのものを目的として作戦命令が出された。特攻による戦果などどうでもよくなり、特攻のための特攻が。死のための死が、死を捧げるための作戦が行われた。死を捧げることが美的で崇高な目的にされた。これこそが、日本人が永遠に恥じるべき愚行である。

 では、そのような悲劇的愚行へと至る歴史をみていこう。

 特攻の発案者は海軍第一航空艦隊司令長官だった大西滝次郎中将だとされている。

 だが、作戦名及び部隊編成は、軍令部作戦課の源田実中佐が昭和19年10月13日に起案し、作戦部長の中沢祐少将が作成している。

 ちなみにこの二人は、特攻の責任をすべて大西滝次郎におしつけて、戦後をのうのうと生き抜いた。源田実は国会議員にもなっている。

 大西滝次郎がすべての責任を引き受けて割腹自殺したというのに。

 では、最前線で作戦を指導した大西滝次郎は、いったいどのようなことを考えていたのか。こんな作戦の外道が少しでも勝利に結びつく可能性があると思っていたのか。

 当時、特攻隊員としてダバオへ派遣され、大西滝次郎の下に出撃命令を待っていた角田和男氏の文章から、大西の発言を引用する。

=角田和男著『修羅の翼』より引用=============

『これは、九分九厘成功の見込みはない、これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。

 一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。

 二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦さを止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。』
==========================

 大西滝次郎は、作戦の成功を信じていなかったのである。無駄死にとわかったうえで、若者たちを戦場に送ったのだ。送ったというよりも、遺棄したに等しいのではないか。

 大西滝次郎は軍人である。引用の後半にある、「天皇が戦争を止めてくれるだろう」だとか、「遠い将来に必ず日本は甦るから、いま死ぬことに意味がある」などと軍人が言ってはいけない。あんたは歴史家か、予言者なのか。くだらない願望や妄想など、目の前の戦争には何の意味もないだろうが。戦争は現実の物理的力のぶつかりあいだ。それを指導する軍人たるものが、何の成算もなくただ情緒だけを肥大させて戦争以外のことなど語るな。死んでいく若者がかわいそうじゃないか。何だと思っていやがるんだバカタレ。と、私はちょっと怒ってしまったのでありました。

 いずれにもせよ大西滝次郎は、特攻までやったんだから天皇は戦争を止めてくれるだろうと信じていたらしい。ものすごいスカタンな判断である。あきれかえるほど脳天気である。クズ天がどんなやつか知らなかったのか。まあ、当時の思想的限界かな。しかたないのか。でも、とことんなさけないぞ。

 さあてさて、その一方、我らが愛すべきおちゃめなアンチヒーロー、昭和天クズゴミ野郎ヒロヒトは、フィリピンで海軍機が特攻したという報告を受けて、どうしたか。戦争を止めようとしたのか。違うのだよ。喜んじゃったのだねえ、これが。

「そのようにまでせねばならなかったか。しかし良くやった」

 この発言が有名だが、もう少し正確を期するために、吉橋戎三著『侍従武官日記』から引用しよう。
 昭和天皇は昭和19年10月25日に及川軍令部総長から特攻隊の戦果報告を受けた時、このように反応した。

=============================
「体当リ機ノコトヲ申上タル処 御上ハ思ワス 最敬礼ヲ遊ハサレ 電気ニ打タレタル如キ感激ヲ覚ユ 尚戦果ヲ申上ケタルニ 『ヨクヤツタナア』ト御嘉賞遊サル 日々宏無辺ノ御聖徳ヲ拝シ 忠誠心愈々募ル」
=============================

 なんとまあ、喜色満面ではないか。大西さん、気の毒だったねえ。天コロには、戦争を止める気などなかったのだよ。あなたの青くさい論理願望は、この時点で完全破綻しているぜ。なのに、これ以降も特攻の指揮なんてよくもできたもんだ。

 ところでまた一方では、皇居方面から「よくやった、よくやった」の大合唱が聞こえてくると、平気ではいられない人たちがいた。陸軍である。

 最初の特攻は海軍航空隊によって行われたのだが、あれだけ大元帥様が喜んでおられるとなると、陸軍だってやりたいな。やって誉められたいな。海軍に出し抜かれるのは嫌だなあ。僕たちだって飛行機は持っているもんね~、てなもんである。

 フィリピンの陸軍航空司令部には富永恭二中将というおっさんが派遣された。この男、特攻パイロット一人一人の手をとって涙を流し、「よろしく死んできてくれ、私も最後の一機となって必ず君たちの後を追うからねー」なんて調子のいいことを言ってた。

 だというのにこやつ、特攻機の最後の一機が発進した直後に、自分だけ連絡機に乗って台湾まで逃げ帰った。やるもんだねー、富永恭二。わかりやすいおっちゃんだわ。この男は戦後も生き延びて天寿を全うしましたとさ。

 特攻というのは当初、敵空母の飛行甲板を一時的に使用できなくするという現実的な目的があったことは、先に書いた通りだ。ところがこの頃になると、「とにかく飛んで、死んでこい。目標は何でもいいから」という話になっていく。

 制空権が敵に支配されているものだから、偵察機なんぞ飛ばせられない。敵のどんな戦力がどこにいるのかもわからない。だけど中央(東京大本営)からは、ノルマみたいに今日も特攻を出せ出せ出せと言ってくる。参謀たちは、作戦のことなどもうどうでもよくなり、とにかく「死んでこい」と言って若者たちを送り出した。

 だけど、飛行機による攻撃といったって、そんなに簡単なものじゃないのだ。運が悪くて敵を発見できない場合もある。天候不良で飛ぶことを諦めなければならないこともある。飛行機がエンストすることもある(これは意外に多かったそうだ)。そうした理由で引き返してきた特攻パイロットたちを、参謀たちは怒鳴りつけた。いくじなし、卑怯者と叱責し、密室に閉じこめ、翌朝にはまた「死んでこい」と命令して飛行機に乗せた。

 むちゃくちゃである。人間の心をまるで考えていない。死の覚悟なんて、そう何度も何度もできるものではない。妻子のあるパイロットだっていたのだ。陸軍将校たちの人を人とも思わない幼稚なサディストぶりを、私たちはちゃんと覚えておくべきだと思う。日本人というのは、そういう性根を持った民族なのだ。ああ、恥ずかしい。でも、今でも警察官や裁判官にこういう連中はなんぼでもおるよ。

 話はまだまだエスカレートする。某東京大学の教授様は、「戦闘機に250キロ爆弾をつんで体当たりすれば、戦艦でも一撃で沈む」という理屈を複雑な数式を書いて発表し、ますますバカな風潮をあおった。

 この東大のセンせーの発言に対して、現場のある陸軍飛行隊長はこのように反論している。
「飛行機というものは、できるだけ軽く作るために極限まで強度を減らしている。戦艦にぶつけても、石壁に卵を投げつけるようなもので、相手は平気だ」

 さて読者のみなさんよ。東大の曲学阿世教授と、現場の飛行隊長と、いったいどちらの言葉に説得力がありますか。というか、現実がそれを示している。特攻機の体当たりで沈んだ戦艦や空母など、ただの一隻もないのだ。

 もうちょっと詳しくマニアックに書いちゃうと、沖縄戦では英国の空母イラストリアス(27000t)が飛行甲板に特攻機の直撃を受けたことがある。混乱と小さな火災があったが、その二時間後、イラストリアスは通常の作戦行動が可能だった。その程度のもんである。悲惨だけど。

(※注)貨物船を改造した護送空母(実質は飛行機運搬船)が撃沈されたことはある。これをもって、いまだに「空母撃沈・大戦果」などと書いているアホな本が多いから、誤解なきよう。

 フィリピン戦で最初に編成された神風攻撃隊は、24機だった。ところが戦争が沖縄にまで達すると、特攻機は数千機のオーダーにまで拡大されていった。まるで麻薬をやり過ぎて、完全に中毒になっちまったみたいなもんだ。麻薬なら個人の問題ですむが、この場合は人の命を参謀の自己満足トリップの材料に使ったんだからな。情けなくて、怒りがこみあげるのをどうしようもない。

 昭和の汚物、天ゴミ脳ヒロヒトは、こうした状況を完全に把握しながら、戦争を止めようとしなかった。むしろ「もっと特攻を出せよなー」という態度だった。

 このあたりの事情は、以前に猫哲学でも書いたけど、再引用しておこう。

=[ここから引用]=======================

(軍令部総長)及川古史郎大将は最近天皇と謁見したときの話をしている。三月二九日、彼が皇居の中にある門を車で通っていたときに、空襲警報のサイレンが鳴った。(一行略)数分後、金の装飾のあるついたての後ろから天皇が入ってきた。対象と彼の参謀は最敬礼をしてから、格子模様の布で覆われた会議用のテーブルを前に座った。

 陸軍元帥の軍服を着て眼鏡をかけ、やせ形四三歳の天皇は、菊水神風攻撃の計画書をぱらぱらとめくり、ときどき質問をした。及川は起立して一生懸命答えた。
「この作戦を通じて二〇〇〇機を使うのか?」かん高い天皇の声は鋭い詰問口調だった。

「さらに陸軍の一五〇〇機がございます」と大将は答え、うやうやしくお辞儀をした。

「しかし海軍はどこにいるのか? 艦艇はもういないのか?」

『戦艦大和の運命』A GLORIOIUS WAY TO DIE ;Russell Spurr著 新潮社刊(P96-97より)
================================

 てなわけで、ついに戦艦大和まで特攻させられちゃったのでありました。いっぺんにたくさん若者を殺せて、天ちゃんはさぞご満足なされましたでございましょうよ。ほへ。

 私は、命を捨てて特攻命令に従った人たちを、愚弄しているのではない。あの人たちのことは心から敬う。問題は、彼らにそういう命令を下した者たちのことだ。

 大西滝次郎の言葉をもういちど引用する。

「…日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、(中略)、五百年後、千年後の世に必ずや日本民族は再興するであろう」

 私はこのように反論する

「…日本民族が将に亡びんとする時に当たって、何の責任感もなく若者たちを戦場で死なせる命令を出し、戦後となればアメリカの奴隷として生き延びた連中を恥としないかぎり、日本はまもなく滅びるであろう」

 アメリカの奴隷国家となって荒廃しきった今の日本のありさまを見るとき、死んでいった人たちは泣いているだろうなあと思う。こんな日本を守るために死んだのではなかったはずだろうに。

 それに、彼らの行為が何の役にも立たなかった、真の犬死にだったと知らされるのは、つらいだろうなあ。けっきょく、負けるとわかっている戦争を長引かせる役に立っただけなんだもんな。

 あなたたたちががんばってくれたおかげで、日本には原爆が落とされました、なんて言うのは残酷に過ぎると私も思う。でも、事実なのだ。私はものすごく悲しい。

 あの時代、飛行機乗りというのは、知力体力反射神経すべてに優れた人たちが選りすぐられて登用されたものだった。しかも、理不尽きわまる命令に従容として従うような、モラル気力の面でも優れた人たちだった。つまり、あの時代の最も優秀な人材を集めて、端から殺していったのが特攻だったのだ。

 本物はみんな死んでしまった。クズばかりが残った。そうしていまの日本がある。嗚呼…、いや、これ以上は語るまい。

 最後にひとこと。なぜ現代になってもあのような愚行への評価が定まらないのかというと、それは「死とは何か」について、実は誰も知らないからだ。知らないからどんな風にでも美化できる。悲愴な色合いをつけて泣いてみせれば、誰も文句をいえなくなる。これが特攻への誤解の本質である。

 だから「死」については、きちんと考えておいたほうがいい。この問題については、猫哲学100号、最終回で扱う予定だす。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 こんな話をしていたら、あの超美女はため息をついてこう言った。

「男って、いつの時代も特攻して自爆するのね」

「はあ? 今どきそんなやつがいるのか?」

「いるわよ」

「どこに向かって特攻しているんだ」

「あたしによ」

 男どもよ、こやつに特攻して自爆しても、傷ひとつつかないからやめときなさい。いわば、戦艦みたいな女なのだ。

 バコッ!

 …痛てて。殴られた。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
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【猫哲学92】 誰が弱肉強食やねん。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃


 今回の猫哲は、はっきりいって手抜きです。以前に「世の実★」シリーズで書いたものをそのまま再録します。同シリーズ初期に発信したものなので、猫哲学シリーズのほとんどの読者は未読でしょう。
 3年ほど前に書いたものなんですが、自分でいうのもなんですけど、内容はぜんぜん古くなっていません。むしろ切実さは増しています。
 というわけで、これは猫哲学シリーズに含めるべきものと判断しました。猫哲学もあと僅かな回数になってきたので、大切なことはきちんと収録しておきたいと思います。でわ、コピペッ!

          【ふくぽん本舗謹製】━◆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆━◆◆◆
 ☆不定期刊 [世の中★実は★こうなっている!」☆ ◆◆◆━◆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆━
                       2003.2.28. 第9号

 こんにちわ。春になっちゃいましたねえ。何かいいこと起こるかな?なんて気分にぜんぜんならないすね。ほんとにもう、どうしてくれるんじゃ、と愚痴ばかり出るきょうこのごろですが、いかがお過ごしでしょうか。

 さて、今回は雰囲気がちと違うものをお届けします。あまりにもえぐい話ばかり書いてきたので、口直し。内容はシビアですけど、読んだ後に動物と自然と、調和のシステムについて、確かな概念を持っていただければ幸いです。題して、【誰が弱肉強食やねん!】。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 まずは60年代、アメリカの国立公園で起きたお話です。地名等こまかいことを忘れてしまったので、寓話として読んでいただいてもけっこうですが、でも実話です。

 アメリカの国立公園はとんでもなく広大だということはご存じだと思います。そんな国立公園のある谷に(谷といっても広~い平原ですが)1万頭ばかりの鹿の群が生息していました。そして、彼らを補食する動物として、200頭ばかりのアメリカライオンも住んでおりました。

 平和な谷に異変が始まったのは、またしてもバカな人間の愚かな行いからでした。国立公園なので、見物客が来ます。客のなかには子供もいます。そのなかの誰かが、鹿がアメリカライオンに食べられるはかわいそうだ。そんなものを見せるなんておかしいじゃないか、と公園管理局に訴えたのです。

 管理人は多分、何をアホな、と思ったことでしょう。しかし国立公園の維持費はどこから出てる? 納税者だよね。その方々がクレームをつけていらっしゃる。お客さまは神様でござま。

 公園管理局では、鹿が食べられるシーンの発生をおさえるために、アメリカライオンを半分くらいに間引いてしまおうと考えました。そしてハンターが送り込まれました。まず、アメリカライオンの虐殺が始まりました。

 でもね、アメリカライオンだって馬鹿じゃないのです。やがて谷からその姿は消えてしまいました。

(ううっ。上の文章、読み返すとおかしいよう。ぷふ)

 その結果、何が起こったか。鹿の数が爆発的に増えはじめました。やがてその数は谷を覆い尽くすばかりになり、約2万頭にまで達したといいます。そして…

 冬がきました。鹿たちは乏しくなった草を食べ尽くし、やがて木の皮まで食べるようになり、ついには草の根っこまで掘り起こして食べ始めたのです。

 いわゆる牛や鹿などの草食動物は、草を食べるときに根までは食べません。残された根はまた新しい葉を茂らせます。その際に、動物の排泄物が栄養になっていることはいうまでもありません。このサイクルが断ち切られようとしていました。

 春がきました。そして恐ろしいことが起こりました。草が生えないのです。根が残っていなかったからです。飢えと闘いながらつらい冬を生きのびてきた鹿たちは、この恐ろしい現実に絶望したかのように、次々と死にはじめました。谷を覆いつくす累々たる死体…。個体数は激減し公園管理局が何か手をうとうと考えたときには、2000頭ほどにまで激減していました。そしてその後、増えることはありませんでした。

 何年か後、けっきょくこの谷には、2000頭ばかりの鹿と、どこからか戻ってきた20頭ばかりのアメリカライオンと、半砂漠化した平原が残されました。

 私は言葉を失います。言いたいことがあまりもたくさんあって、それがどっとおしよせてきて、意味を結ばないのです。そして、叫びたくなります。バカヤロー!!!!!!!!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 お次はオオカミとカリブーのお話。カリブーって、北のほうに住んでいる大型の鹿ですね。

 70年代、アメリカの金持ちのあいだで、オオカミ狩りをスポーツとして楽しむ下司な遊びが流行しました。週末になると飛行機でカナダに飛び、現地ではヘリコプターに乗ってオオカミの群を追いかけまわすのです。もちろんライフルで撃ちます。

 西洋は伝統的にオオカミを敵役にしてきた文化があるので、それはとても痛快な気分だったことでしょう…、なんて冷静な分析は、オレはせんぞ!ウオノレラー、ナンチューコトスルンジャー、ボケカスクズ卑怯モン、もう怒った! このことひとつとってもアメリカは滅びるべし。水爆があったら、落としたるわい!!! という私の怒りが理解できない方は、オオカミがいかに上品で思いやりに満ち、かっこいい動物かを知らないだけさっ!!

 あ、ちょと興奮しちゃいました。オオカミ、好きなんです。それで、つい。でも、あんまりにもやさしいから人間の子供まで育てちゃうのはオオカミだけだってことを思い出してくださいよ。

 話をもどします。カナダ東部に住むオオカミは、それでなくとも地元ハンターや趣味のハンターに狙われ個体数が減ってきていたのですが、このヘリコプター下司野郎どもの出現で、やがて絶滅が危惧されるようにまでなりました。

 オオカミにいつも追っかけられていたカリブーにとっては、天国となったでしょうか。先ほどの国立公園のような限定的な空間ではなかったために、カリブーの群に目立った変化はなかったようです。個体数の増加は少しみられたようですが。

 悲劇は目立たない形で進行していました。伝染病です。本来なら、病気になって弱った個体は、すぐにオオカミに捕まって、群から消えてしまいます。しかしその冬、オオカミが激減した環境では、病気で弱ったカリブーも群のなかで生きのびてしまい、つまり感染源がいつまでたっても群と行動をともにしていたのです。

 春、カリブーは恐ろしい勢いで死にはじめました。その数は激減し、20分の1にまでなったといわれています。そして現在、カリブーもまた、絶滅が危惧されています。

 物語はこれで終わりです。私は悲しいです。そしてまた、うまく言葉が出てきません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 感情を静めて書き続けましょう。なぜ私がこんなことを書いたのか。それは、自然界というものが、いかに精妙なバランスをとっているものなのかを伝えたかったからです。草食動物と捕食動物の関係は、弱肉強食などといった薄っぺらな概念でとらえられるものではありません。

 それは相互依存的な関係を保っていて、そのバランスが良好な場合にのみ、双方は環境のなかでの最大の個体数を享受できる、というしくみの見事さに圧倒されるのは私だけでしょうか。

 アホボケカス白人野郎どもはこの目に見えないシステムを見抜くことができず、自然界を弱肉強食呼ばわりします。しかしそれは、己れ自身の残酷さの投影として自然をみているにすぎず、つまり自分のみたいとこだけしかみていないだけのです。下司には高度なしくみは理解できんのです。

 しかしこの弱肉強食概念は、あたかも自然法則のごとく誤解されたまま定着し、白人野郎どもが他者をいじめる際の正当化として使われてきました。「奪って殺して滅ぼして何がわるい。それって弱肉強食、自然の法則じゃん」。

 過去の歴史と考えないでください。上のことは、いま現在、この地球上を覆い尽くして進行中です。私がこんな文章を★世の実★にまぎれこませるのは、深い意味で世界の悲劇に対する「なぜ?」を考えるための手がかりとしたいからです。

 思慮深い読者の方々。これからは弱肉強食という言葉を不用意に使うのはやめませんか。どうしても必要なら「」のなかに入れて使いませんか。それは間違った概念なのです。そして、残酷な歴史を正当化してきた、血塗られた言葉なのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 これを書いた理由のもうひとつは、みなさんに秩序やシステムとはいかなるものなのかを感じ取ってほしかったからです。それが確かに実在していることを知ってほしかったからです。

 その秩序は、人間のつくったものではありません。この自然、この宇宙に、内在的に備わっているものです。

 人間がもし、このシステムに自らをゆだねきる勇気があれば、新しい時代がくることでしょう。しかし今の人間にはそれはできないと思います。いつの日か、誰もがこの単純なことに気付けば、今世紀中は無理だと思いますが、人間というのは愛すべき存在としてこの地球での存続をゆるされるような気がします。

 以上は概論です。言い足りてないことはいっぱいあります。それはまた後日。ご質問反論疑問罵倒等々、受け付けておりますので、メールをください。ちゃんとお返事さしあげますです。

 ではでは。今日はこのへんにしといたろか~!!

 さいきんヒマだな。

==[引用終わり]======================

 ということで、コピペ終了。今回は、あの超美女は登場しません。海外出張に行っているらしいです。

 でも、あやつが海外出張ということは、世界的クライシスが進行中の可能性があるので、みなさん油断しないようにね。

 3月20日から月末まで、特に3月22日から一週間は、何が起きても驚かないように。でかい事件にせよ些末な出来事にせよ、今世紀の行く末を決めてしまうようなことが起きる可能性が大です。

 私はとても危機感をもっています。世界が平和であることを祈りましょう。ほへ。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
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【猫哲学91】 億万長者な日々。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2006/03/11)

 かつて私は億万長者であったが、昨今の金融危機によりそうでもなくなってしまった。なので、この一文は掲載しないことにする。ほにゃ。

2009年1月27日火曜日

【猫哲学90】 宮沢賢治にゃお。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃


=[宮沢賢治『春と修羅』序文より引用]==========

 わたくしといふ現象は

 仮定された有機交流電灯の

 ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

 風景やみんなといっしょに

 せはしくせはしく明滅しながら

 いかにもたしかにともりつづける

 因果交流電灯の

 ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち、その電灯はうしなはれ)

 これらは二十二箇月の

 過去とかんずる方向から

 紙と鉱質インクをつらね

(すべてわたくしと明滅しみんなが同時に感ずるもの)

 これまでたもちつづけられた

 明暗交替のひとくさりづつ

 そのとほりの心像スケッチです

 これらについて人や銀河や修羅や海胆は

 宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら

 それぞれ新鮮な本体論もかんがえませうが

 それも畢竟こころのひとつの風景です

 ただたしかに記録されたこれらのけしきは

 記録されたとほりのそのけしきで

 それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで

 ある程度までみんなに共通でもありませふ

(すべてがわたくしの中のみんなであるように みんなのおのおののなかのすべてですから)

=[引用終わり]=====================

 今回はいきなり引用から始めてしまった。猫哲学では初めてのことである。私としては、ここで終わってもいい。言いたいことはすべて尽くされている。しかも詩的でかっこいい。無粋な猫哲学者には真似のできない境地である。

 とはいっても、これだけではわかる人もわからない人もおられるだろう。特に、上の文章をただの詩だと勘違いしている人たちのためには、野暮は承知で解説が必要だと思う。

 …というわけで、いつも調子に戻るのであった。

 宮沢賢治は猫が嫌いだったという説がある。

 宮沢賢治はその短編『猫』で「(私は猫は大嫌ひです。猫のからだの中を考えると吐き出しさうになります。)(どう考へても私は猫は厭ですよ。)」と語っている。でも本音だろうか。ただの表現だろうか。
 この人の作品の中には、猫がずいぶん重要な役で登場する。『注文の多い料理店』『セロ弾きのゴーシュ』『どんぐりと山猫』等々。『猫の事務所』という短編もある。だから、猫が嫌いだったとはどうしても思えないのだが。

 むしろ彼は、猫が好きだったのではないかな。好きなのと同時に、闇の世界の生き物である猫の神秘性も十分に感じていて、それってまともに考えていくと「気持ち悪い」わけだし、それであんな文章を書いたような気がする。

 うちのバカ猫だって、じっくり観察しているとかなり不気味な部分もある。だが私は、それを目にしても「勝手にやってやがれ」と思考停止してしまう。宮沢賢治はまじめな人だっただろうから、そこで思考をやめずにもっと深く哲学的に探求してしまったのだろう。そりゃ、気持ち悪くもなるわな。

 宮沢賢治は、旧制東北高校生だった時代に『西洋哲学史』読み、当時の哲学状況も知っていたそうだ。だから、彼の書くものに哲学的な臭いがあるのは不思議ではない。というわけなので私は、冒頭に引用した序文を読んだとき、ひっくりかえって喜んで手足をバタバタさせてしまったのであったのだ。だったのだ。なのだ。なのよね。

 それでは今回の本題、宮沢賢治『春と修羅』序文、この文章を、私が哲学的に解説してしまうのだ。

 ではまいります。(以下、『』内が宮沢賢治からの再引用)

 まず一行目から。

『わたくしといふ現象は』

 これを読んだだけで、私は瞳がうるうるするほど嬉しくなってくる。この一行は、「私という存在のはか
なさ」を表現しているのだと世間では解釈されているようだが、その程度の理解ですむ話ではない。

 筆者は初めてこれを読んだとき、こう思った。「おおお、デカルトに喧嘩を売ってるじゃん」。

 私は「現象である」と宮沢賢治は言うのである。筆者もそう思うよ。いつも書いていることだけど、私とは肉体と宇宙の境界でゆらめいている何かであって、実体ではない。

 デカルトは有名な「ゆえに我あり」という言明をすると同時に、私とは実体であるとも言っている。実体でなければ存在しているとは考えられなかったのだろう。当時の思考の限界かな。(実は、今でも限界なんだけどね)。で、デカルトは、気体か流体か何かわからないけど、私とは考える実体であると考えて、その実体のことを「思惟実体」呼んだ。そしてその実体と肉体とは、松果腺でつながっているとまで書いちゃっている。アホ。

 おそらく宮沢賢治は、デカルトのそうした言明に対する知識は持っていただろうと思う。そして、「実体じゃないよ、現象だよ」と書いたに違いない。筆者は確信を持っている。

 でも現象だからといって、実体のように確かなものではないという意味ではない。むしろ実体であることの限界を超えて心は思考する。喩え方が悪いけど、金が大事か誇りが大事かというのと同じである。金は実体だが誇りは現象だ。だが、誇りを失った者に金など何の意味があるだろうか。

 そのような意味で、私というのは何よりも大切な、そして確として実在する現象なのだ。

 たった一行を解説するのに、こんなに長くなってしまったぞ。こんな調子で大丈夫だろうか。と不安を抱えつつ次へ行こう。

『仮定された有機交流電灯の ひとつの青い照明です』

 ここで述べられているのは「私とは青い光です」ということである。「仮定された有機交流電灯」というのは、本当はそんな電灯なんかないのだけど、とりあえずあると仮定したならその光のようなものが私だよというわけ。

「有機」というのはもちろん「無機」の反対で、命を持っているよという意味。「交流」というのも比喩で、方向なんかないし、プラス極マイナス極が激しく入れ替わる。だけど「電灯」のようにずっと確かに輝いている、それが私だというわけ。

 デカルト一派のアホで無神経な記述と、この繊細でゆらめきつつ、でも確かに何かを伝えようとする誠実な記述を比較してみなさいな。でも待てよ、デカルトと宮沢賢治を比較しているのって、私だけか。

 次の一行。

『(あらゆる透明な幽霊の複合体)』

 これは、正直いってよくわからない。「わたくし」が複合体であるというのは何となくわかる。私は宇宙のすべての層に浸透して思考しているわけだから、それぞれの層に別々の私がいることはわかる。それに、後半で出てくるけど、宮沢賢治は「私はみんなであり、みんなは私である」と考えていたようで、それならば「私はすべての私の複合体」であるというのも論理的にはわかる。

 ただ、猫哲学者という人間は我が強くて、「オレはオレじゃい、他人のことなど知るか」と思っているようなやつなので、そこまでは透徹できないのだ。私は基本的に「世界なんぞ勝手にやってりゃいいじゃん」という態度でいるわけで、つまり世界を愛していないのだ。宮沢賢治の心とはまるで正反対である。だから、上の一行が理解できないのも仕方のないことかもしれない。論理的にわかっただけでいいとしよう。

 では次。

『風景やみんなといっしょに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電灯の ひとつの青い照明です』

 ここで言われていることもけっこうすごいことで、私というのは「風景やみんな」といっしょでなければ認識できないということなのだ。

 光は、光そのものとしては認識できない。何かに当たって反射するとき、その物の姿として目に入る。「わたくし」が電灯でありその光であるなら、「風景やみんな」があるからこそ認識できる。私は私単独としては存在しえないという様態を、最初の一行は表現している。

 そしてその光、「わたくし」という光は、いつも同じ強さ確かさで存在しているのではない。せわしなく明滅しながら存在している。そして私が明滅するのと同時に、世界もまた明滅し、しかし否定しようもなく確かに存在しているというのだ。何という美しい世界観。

「因果交流電灯」という表現は、「わたくし」は理由もなく意味もなく存在しているのではなくて、原因があって存在していることを意味している。同時に、私が単独で存在するのでもなく、他者との関わりとともに存在していることをも意味している。

「青い照明です」というのはさっきも出てきたけど、「青い」というのはつまり温度がないことを示唆している。その光は、いくら灯り続けたとしても世界を温めることはないのだ。なんとまあ、凄みさえ感じさせる表現力。

 次へいこう。

『(ひかりはたもち、その電灯はうしなはれ)』

 これは冒頭の「仮定された」を引きずっている。私は光ではあるが、その源となる電灯など本当はないのだよ、と念を押しているわけ。

 さらに次へ。

『これらは二十二箇月の 過去とかんずる方向から』

 ここは、ちょっとわからない。「二十二箇月」というのが何かを暗喩しているのかどうか、判断できないからだ。単に『春と修羅』を書くのにそれだけ時間をかけたという意味にとれなくもないけど、そんな単純なものではないような気がする。

「過去とかんずる方向から」というのは、いつもおなじみ、「時間など本当はない」ということを意味している。過去も未来も本当はないのだけど、錯覚としての時間で仮にいうと「過去」といっておこう、というわけ。

 さらに次。

『紙と鉱質インクをつらね』

 あえて「鉱質」という言葉を使うところがおしゃれ。文章そのものは「わたくし」の命のしたたりの言葉なのだけど、無機的な名詞を並べることでその命を強調しているわけですな。

『(すべてわたくしと明滅しみんなが同時に感ずるもの)』

 私という光が照らし出したもの、それは誰にも共通に認識できる構造を持っているはずだから、つまり誰もが感ずるはずのものでしょ。(これらの作品はそういうものです、と宣言しているわけ)。

 では次。

『これまでたもちつづけられた 明暗交替のひとくさりづつ そのとほりの心像スケッチです』

 最初の「これまでたもちつづけられた」というのは、ひとつ前の「紙と鉱質インクをつらね」を受けている。つまり、書きとどめてあったから残ったということ。続く「明暗交替のひとくさりづつ」というのは、解説しなくてもわかりますよね。私は光である。だから私の言葉は明滅する陰と光であるということ。ここまで読むと「紙と鉱質インク」という物質的なものの対極に言葉がある、という意味がよくわかるし、その詩的な対比が美しいでしょ。

「そのとほりの心像スケッチです」という一行は有名だけど、すごく誤解されている。「心像」という言葉を、世間の人々は「何となく心に浮かんだ情景」だと思っている。だけどここまで読まれたみなさんは、そんなもんじゃないでしょ、と思っていただけるはずだ。

 私とは何か。私とは光である、と宮沢賢治は言う。心像とは、私という光に照らされた世界そのものである。だから「心像スケッチ」というのは、宮沢賢治が見た世界、つまり宇宙のことなのだ。もちろんその宇宙は自分自身をも含むから、彼が『春と修羅』で描こうとしたのは、生の哲学そのものだったのだ。

 これらは、猫哲学者流のひねくれた解釈かもしれない。だが、誰か反論できるものならやってみやがれ。あ、ちょっと暴走した。

 後半へいきましょう。 『これらについて人や銀河や修羅や海胆は 宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら それぞれ新鮮な本体論もかんがえませうが それも畢竟こころのひとつの風景です』

 ここは、猫哲学風の超カンタン文で言い換えてみよう。

「(私がこの文集のなかで書いた)これらいろいろな観念について述べると、人間も銀河も修羅もナマコも、宇宙塵や空気や水や、それぞれの食べ物を食べて(つまり生きて、活動しながら)、それぞれびっくりするほどユニークな哲学を披露するでしょう。でも、つまるところ、それもまた人間や銀河や修羅やナマコや、それぞれの心に映ったそれぞれの風景です」

 つまり、ナマコから銀河に至るまですべては生命であって、その命は等価であり、それぞれがそれぞれの哲学を持ち、それらのすべては等しい価値を持つということを言っている。

 さらに次へ。

『ただたしかに記録されたこれらのけしきは 記録されたとほりのこのけしきで それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで ある程度までみんなに共通いたします』

 つまり銀河であろうがナマコであろうが、それらが描写したそれらの哲学は、違いはあってもどれが正しいとか間違いとかいうものではなくて、たとえ「虚無」が考えたとしてもそれはその通りのもので、しかもすべては部分的にすべてへの共通項を持っているというのですな。

「虚無」については、よくわからない。おそらく極端な比喩のようなもだと思う。それらが、ある程度共通するものを持っているのかどうか、それもよくわからない。宮沢賢治が何を根拠にそういうことを言っているのか、無知無学にしてぐうたらな猫哲学者は想像しようもない。でも宮沢賢治はそう思っていた。それでいいじゃないですか、とりあえず。

 では最後。

『(すべてがわたくしの中のみんなであるように みんなおのおののなかのすべてですから)』

 私はみんな。みんなは私。これはそういう意味である。だから、わかるはずだ。わからないはずがない。宮沢賢治はそう問いかけている。

 そうであればいいのにな、と筆者も思う。でも、本当にそうなのかどうか、確信がない。まあ、いずれわかることかもしれない。それよりも観念として美しいから、その美しさを鑑賞しておくことにしよう。

 以上で解釈を終わります。いつものように強引な猫解釈でした。本当はこの序文、まだ前半分である。後半はあえて書かない。機会があったらぜひ読んでみてくださいね。

『春と修羅』は詩集ではない。宮沢賢治自身も、詩集であることは否定している。では何なのかというと、哲学だというわけにもいかなくて、「心像スケッチ」ということにしておいたのだろう。

 宮沢賢治は28歳のときにこの文集を発表した。田舎の無名の青年が作品を世に問うわけだから、いったい誰が書いたのかは明確にしておいたほうがいい。普通に誰でもそう思うだろう。

 そこで宮沢賢治は考えた。自分を紹介するにしても、その自分とはいったい何だろう。そうして考えに考え抜いたあげく、あのような序文を書いたのだろうと思う。「わたくしといふ現象は…」。

 あの~、ちっとも自己紹介になっていないと思いますが、笑。

 そんなわけで、この作品集は全く注目されず、誰の関心も惹かず、何の評価もされなかった。だけどね、賢治さん、言葉は永遠だ。いつの日かこの言葉たちは、もっと多くの人の心を照らすだろう。あなたが亡くなってずいぶん経つけど、ほらね、あなたの言葉はいま私の心を照らしている。もうすぐ、猫哲学シリーズの読者の心をも照らすだろう。

 時間など実在しない。永遠とはこういうことだ。

 と今回は、格調高く終わってみせるのだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 そんな話をしていたら、いつもの超美女は遠い目をしてこう言った。

「あたしがさー、海外出張するときに持っていく唯一の日本語が、岩波文庫の宮沢賢治なのよねー」

「嘘だ」

「嘘じゃないってば」

「いいや嘘だ。その話、いま作っただろ」

「本当だっていうのに」

「信じないぞ。きみはそういうタイプじゃないし、宮沢賢治に失礼だ」

「何が失礼よ」

「きみの存在すべてが宮沢賢治に失礼だ」

「よーし、そこまで言うなら、今夜は宮沢賢治について徹底的に語り明かそうじゃん」

「おっしゃあ、受けて立つぞ」

「いいワインを飲みながらね」

「そういうオチか?」

「そういうオチよ」

 さすがに彼女も、今回はつっこみようがなかったらしい。

【猫哲学89】 悪意ある存在。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2006/02/25)

 猫を殺すのが好き、というやつがいる。

 あの酒鬼薔薇聖斗こと少年Aが有名だ。最近では、母殺しの毒薬少女も猫を殺していたらしい。他にも、インターネットで猫残虐サイトがアップされて大騒ぎになったこともある。

 なぜ猫なのか。犬でも鳩でもゴキブリでもなく、なぜ猫なのか。

 理由は三つ考えられる。

 ひとつは、猫は殺しやすい動物だからだ。最も手に入りやすく、大きさも手頃で、反撃されたとしてもこちらが深手を負うことはない。大型犬と比較していただければ、その違いは明瞭だろう。それに猫は、人間を信頼している。殺された幾多の猫たちは、殺される最後の瞬間まで、人間を信頼していただろう。

 あの小さな身体で、いつ殺されても不思議ではないような大型の人間という動物を信頼して、全身を預ける猫たち。その信頼に(愛といってもいいけど)どれほどまでの意味と価値があるのか、思うだけでもくやしいじゃないか。

 ここまで考えるだけで、私は黒い怒りが腹の底から湧き出てくる。猫だろうが人だろうが、信頼を利用して、その信頼を裏切る。そのような者を、私はけっして赦さない。

 そういう種類の人間が世間にいることも私は知っている。そうした輩に騙されたこともある。だから私は、そいつの人生をたたき壊してやった。今頃どこでどうしているやら。私は後悔も反省もしていない。猫哲学者は、怒らせたら意外に怖い人なのだよ。

 いきなり脱線したが、猫が殺される理由の二つ目は、猫が神秘性を持っているからである。猫は夜の側の生き物だから、悪人どもはその闇に魅了されている。どんな頭の悪いやつでもそうである。いや、これは頭の良し悪しの問題を超えている。やつらは、ほとんど意識さえしないままに、猫を生贄として闇の王に捧げているのだろう。

 三つ目の理由は、これが最も重要だが、猫は人間にものすごく近い動物なのだ。姿形が人間と違うだけで、いつのまにか家族のように同化してしまう不思議な性質を持っている。本当はどんな動物だって同じなのだが、猫はそのレベルがすごく高いところにある。だから、猫を殺すような連中は、猫を殺しているつもりで本当は人間を殺しているのだ。あいつらは、人間を殺したいのである。

 少年Aの場合は実際に人間へとエスカレートした。しかし、その前の段階に止まっている未遂少年Aなどいくらでもいることだろう。最近、いやになるくらい包丁を使った殺人事件が多いが、犯人の心性というのは同じようなものに違いない。犯行の動機がどうたらこうたらとマスコミや先生方が解説していらっしゃるが、世間は最も肝心なことを忘れているのとちゃうか。

 私は、はっきりと書いてしまうぞ。あいつらは、人間を殺すのが好きなのだ。好きで楽しくてしようがないのだ。動機なんて、後からのこじつけにすぎない。ただ単純に、好きで殺したのだ。

 人間は数多くいるから、限りない多様性のなかからあのように極端な変異が現れてくること自体は防ぎようがない。歴史を学んでいれば、同様なことは繰り返し起きてきたことがわる。多くの民話や神話にも残されている。

 しかし、である。いくらなんでもこれほどまで同時多発的に起きるのはおかしいんじゃないか。民話や神話などというのは、滅多に起きないような恐ろしいことだからこそ語り継がれたのだ。それが日常となった現代という時代には、何か問題があるのではないか。

 さてここで、社会心理学的な発想でごたくを並べることなんて誰にでもできることだ。しかし猫哲学者は、平凡なことは言わない。いきなりとんでもないことを言うのである。

 いまの世は、鬼に憑依されているのではないか。

 はるかな昔、狂った鬼がいた。彼がなぜ鬼になったのかは知る由もない。彼は人間を切り裂き、血を啜り、首を切った。人々は彼を恐れ、神に祈り、ついに捕らえて封印した。その鬼が時を超えて、現代に跳梁している。私はそんな気がする。

 鬼は肉体を持たない。鬼は荒みきった者の心を乗っ取る。そして憑依した人間に殺人を犯させ、用が済めばさっさと別の肉体に移り、その別の肉体にも殺人を犯させていく。少年A、佐賀バスジャック事件、小学校襲撃、あれらの事件の背後に、私はいつも同じ鬼の顔が見える。

 時代が鬼を招き寄せてしまったのだ、と書いてしまえば簡単だ。確かにいまの世の中には鬼を呼び寄せそうな精神状態の人間に満ちあふれている。しかし私は、この程度の言明で満足するような人ではない。

 誰かが鬼を招き寄せたのではないか。

 誰かが、何らかの利益を求めて、悪魔と取り引きをした。だから鬼がやってきた。現代は、悪魔に魂を売った連中に支配されているのではないか。

 安っぽいオカルト小説みたいに思わないでいただきたい。世界支配の深奥には魔が居座っている。嘘だと思う人は1ドル札の裏側をちゃんと見てみなさい。13段ピラミッドの上に光る目、あれは「すべてを見通す目」といって、ルシファーのシンボルである。

 読者をおいてきぼりにして、いきなり問題の核心まで書いてしまったにゃ。でも、1ドル札の話は事実なんだからね。

 さて古代においては、このように鬼が跳梁跋扈したときは宗教の出番であった。神官がお祓いをし、祈祷をして、鬼を捕らえ封じ込めたのである。しかるに、今の宗教界は何をやっておるんだいったい。

 有力な宗教関係者のまともな話など、聞いたことがないぞ。うち続く異常犯罪は、もはや心理学では扱えないのだ。異界の領域を扱う宗教こそが果たすべき努めを、ちゃんとやんなさいってば。それともただの葬式演芸屋になり下がったのか、神官坊主ばてれんども。この粗大ゴミ野郎どもめらが。

 さらに言うと、日本においては国家神道のトップは何といっても天皇なんだから、平成天ノーにはこの状況にどう責任を果たすのか明確にしていただきたいもんだね。「自衛隊は平和復興支援のためにイラクに行っています」みたいな小泉ポチ畜生首相を応援する政治的痴呆発言をするようなヒマがあるのならさ、平成低脳さんよ、今の荒みきった世の中に、神の言葉を伝えてごらんよ。

 といっても、あの白痴天プラにそんなことができるわけがないことも知っている。皇室は荒廃しきっているからだ。この話は猫哲学87で書いてしまっているけど、未送信なのでゴメン。

 ところで、話をがらりと変えます(最後につながるけどね)。

 私は青森県の十和田湖が大好きで、通算10回は行ってる。あの高度にあれほど大きな湖があるなんて、ほんとに信じられない。澄み切った湖水も森も空も、奇跡的なまでに美しい。

 十和田湖といえばたいがい誰でも知っているだろうけど、実際に行ったことのある人は少ないと思う。何しろ国内航空運賃がバカ高いから、よほどお金に余裕がないと行けないのだ。大阪=青森往復料金だけでハワイ9日間旅行パックと同額なんだもんな。世の中の人は、どう考えてもハワイを選ぶだろう。

 そんなわけで十和田湖というのは、観光地でありながら、人が行かないせいでまだほとんど荒れていない。自然が自然のままで残っている。国内にあって希有の場所である。一生に一度は行ってみられたらいいと思うよ。

 で、その私の大好きな十和田湖の東側に、新郷村という村がある。戦後にいくつかの村が統合されて新郷村になったのだが、統合される前のひとつに戸来(へらい)村という村(現在は新郷村字戸来)があった。ここにイエス・キリストの墓がある。

 あんまりいきなりな話の展開で、びっくりされる人も多いだろうな。でも事実である。嘘だと思ったら調べてみなされ。

 明治時代に、日ユ同祖論というのが流行ったことがある。今だに信じている人も多いらしいが。日本人とユダヤ人は同じ共通の祖先を持つ民族だというのである。その中心が戸来(へらい)村で、ヘブライと同音だからなんだって。う~む(笑)。

 その人たちが言うにはですな、ゴルゴダの丘で磔になって死んだのはイエス・キリストの弟で、イエス本人は日本に渡ってきて106歳の天寿を全うしたのだそうだ。だから青森県現新郷村には彼の墓があり、大切に守られている。インターネットで写真も公開されているよ。

 …と、ここまでなら、私にはにっこり笑って見過ごすお話なのだ。ところが最近になって、むかつくような事実がわかってきて、私はまたまた腹をたてている。

 2年前のことだが、この「キリストの墓」に対して、何とイスラエル政府が記念碑を贈呈したのだ。

 私は腰をぬかした。イスラエルは、この墓を公式に認めたのか? 

 いやいやいや、そんなはずはあるまいよ。イエス・キリストの墓なるものはエルサレムに厳然と存在している。墓の上は聖墳墓教会という、どでかくも超デラックスな建築物で覆われていて、もちろん全世界から信仰者を集める観光名所である。その正当性をゆるがすような大事を、けちくさいイスラエルがわざわざやってのけるはずがない。

 絶対に何か裏があるぞ。深い深い疑惑を胸に秘めつつ、私はついに当の記念碑を見る機会に恵まれた。そして疑問は氷解した。氷解したと同時に、怒りのために脳が沸騰しそうになった。

 その小さな記念碑、長方形の黒い大理石には、このように書かれていた。「贈・イスラエル政府 2004年6月6日」。

 これだけでわかっちゃった人はセンスがいい。ほめてあげる。でもほとんどの人には何がなんだかわからないだろうから、解説しておく。

 問題は日付なのだ。2004年6月6日。

 これを例の数霊学風に処理すると、666。666とは、聖書ヨハネの黙示録に示された終末の獣(悪魔)の名である。

 日本人はキリスト教徒ではないのでね、日本人のキリスト教徒だって聖書をほとんどまともに読まないのでね、そんなことは知らないだろうけど、666というのが忌まわしい数字であることは、欧米人には常識なのだ。おーめん。そんな数字を記念碑に張り付けて贈ってよこすとはね、ええ根性しとるやないけイスラエル政府。

 我々はバカにされているのである。ちゃかされて面白がられているのである。あいつらは、日本人なんて自分たち以下、動物以下のうすのろとみなしているのである。これに腹を立てないようでどうする。

 新郷村の村長程度の頭では、この悪意に気付かなかったかもしれないなあ。青森県人がアホだと言っているのではない。村長になろうなんて連中の程度の低さを指摘しただけである。

 ちなみに、これも書いておくけど、2004年6月6日というのは、平成16年6月6日でもある。念のいった悪戯ですこと。

 最近のことだが、イスラエルのシャロン大統領が危篤状態になり、各国首脳は続々とお見舞いの電報を送った。その中には日本からの電報も含まれていた。イスラエル国営放送はその電報を読み上げることでお見舞いへの謝意を各国に表明した。そうして読み上げられた電報の中で、日本からのものだけは飛ばされて読まれなかった。

 これがイスラエルという国である。平然とした顔で悪意を露骨に表明してくる。やつらがパレスチナを含む世界各国でやっていることを思い出せば、イスラエルは国家ぐるみで魔に憑依されていると考えて間違いないだろう。

 こんな国に、我が国は毎年30億ドルもの支援をしている。小泉イヌコロ首相は、その額を倍の60億ドルに増やした。その金を使って、イスラエルは核兵器を持っている。去年はバンカーバスター500発をアメリカから買った。もうすぐイランに…、やめとこう。

 なぜイスラエルがそんなことをするのか、私は知らない。知りたくもない。ま、だいたいは想像できるけどね。ただ、やつらがそれを楽しんでやっていることだけは間違いないだろう。私は断言しておく。やつらは、悪をなすのが好きなのだ。

 またついでに書いておくけど、1000円札の裏側には富士山が描かれているね。ところが湖に映った富士山は不自然にゆがんでいて、鏡面対称になっていない。ひっくりかえしてよく見ると、その山の姿はシナイ山のシルエットだ。モーゼが登ったという、あのシナイ山。何で日本のお札にイスラエルの山が出てくるのか、一度よく考えてみたほうがいいいと思うよ、みなさん。

 話を整理しよう。前半は、個人に憑依する魔の話であった。後半では国家ぐるみで憑依された醜悪な政府の話だった。意外にきちんと構成されているでしょ。ぬふ。

 さて最後に、ちょっと哲学をいってみよう。このままじゃあまりにオカルト妄想まるだしで、「猫哲学者はおかしくなった」とか思われかねないもんね。

 で、魔の話である。

 そんなもの、本当に存在するのかと、読者はまだ信じられないというか、実はバカにしてるでしょ。そこが科学信仰に洗脳された近視眼というやつでね。

 よく考えてみてくださいな。これまで何回も書いてきたけどさ、人間の知識や能力なんて限られたものでしょう。自分の理解の及ばない領域のほうがはるかに大きいこともそろそろわかってきたでしょ。

 私が存在する。これは疑ってもしかたがない。

 他者が存在する。これも、経験的にはどうもそうらしい。

 世界が存在する。これも疑うことに意味がない。

 異界が存在する。これはどうだろうか。

 異界とは何かが定義されていなければ議論しようもないが、さりとて「存在するはずがない」と切り捨てるのは短慮に過ぎるというものであろう。むしろ歴史を知り知識を深めれば深めるほど、そのような領域を否定できなくなる。私は自分の限界を知っているから、限界の外側も簡単には否定しないのである。

 神は存在するか。

 神なるものの存在を語ることに意味はないということを以前に書いたが、私はその存在を否定はしていない。むしろ、存在を語る立場にないというのが正確なところだろう。

 悪魔は存在するか。

 神を否定しない以上、私は悪魔も否定しない。両者は同じ論理線上の両端である。というわけで結論。

 神を信じるなら、魔もまた信じよ。

 お話をもう少し分解して書くと、神と悪魔についての一般的な態度とは次のようになる。

(1)神と悪魔、どちらも信じない。

(2)神は信じるが、悪魔は信じない。

(3)神は信じないが、悪魔は信じる。

(4)神と悪魔、どちらをも信じる。

(注)ここでいう「信じる」とは、「信仰し従う」ということではなくて、その存在を認めるか認めないかの限定した意味で使っているのでご注意ください。私は神の存在を否定しないが、さりとて信頼も敬愛もしていない。

 さて、私に言わせるならば(1)はフツーである。が、何も知らず考えたこともない人である。(2)は、ただのアホである。大部分のキリスト教徒がこれにあたる。(3)は悪人である。私はかかわりあいたくない。

 そして(4)。これが私である。

 私は以前に、「すべての人間は生成途上の神である」と書いた。それは光の側である。光があれば、闇もまたある。

「すべての人間の奥には魔が潜む」。

 これもまたどうしようもない真実である。このことに目をそらすことなく対峙してこそ、世界の本当の姿が見えてくる。そしてそのことを、科学合理主義に洗脳されてしまったほとんどの人は、いまだ知らないのだ。

(今回は89回目ということもあり、厄なお話でいってみました)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「神と悪魔は、重なって存在するの」

 いつもの超美女がいきなり深遠なことを言い出すので、私はかなりびっくりした。

「ほへー、どういうことだよ」

「男は最初、あたしを女神と言うけど、最後には悪魔と言うわよ」

 どうとでも言われとけ。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
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【猫哲学88】 チンチラなお話。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃


 こないだ、ある女性と話をした。いつもの超美女とは違う人である。

「チンチラって、かわいいわよねー」

「チンチラ? そんなにかわいいかな」

「何を言ってるの、あれをかわいいと思わないなんてヘンよ」

「まあ、人の趣味はいろいろだから」

「眼なんかきれいなブルーでねー」

「ブルー? 赤だと思っていた」

「この色盲男」

「色盲なのは認める」

「私もチンチラ飼いたいなー」

「ワシントン条約にひっかかるんじゃないか?」

「えー? 友だちみんな飼ってるわよ」

「不思議な交友関係だね」

「あのね、チンチラに恨みでもある?」

「いやいや。ただ、毛皮にされないでペットになるなんて幸せなチンチラだなーっと…」

「毛皮あ?!!!」

「うん、よく見かけるよ」

「ひどーい! 何てことをするのよ。嘘よ。そんなことできるわけないじゃん」

「うん。ワシントン条約のおかげでましになってきたらしいけど、飼育しているのはOKだから、まだ売ってるよ」

「飼育? 毛皮にするために?」

「そう」

「許せない。どーしてチンチラちゃんにそんなことができるの。嘘よ、ぜーったい嘘よ。私を騙してるでしょ」

「でも、こないだだって、ヒルトンプラザのブティックにストールがあたし…」

「嘘つき。嘘にしたって、あんまりよ。どーしてそんな残酷なことを思いつくかな」

「待ってくれよ。オレが嘘つきだと。たしかに嘘つきではあるが、でも調べりゃすぐにばれるような単純な嘘をつく男じゃないぞ」

「そんな人だとは思わなかった。絶交よ」

「べつにかまわないけど、毛皮なんてものはずっと昔からそうして利用されてきたんだから、オレに責任はない」

「二度と口をききたくない」

「じゃあそうしろよ」

「ここの猫が心配だわ。鍋にでもして食べるつもり?」

「おいおい」

「そんな人が猫を飼う資格なんてない。何が猫哲学者よ」

「何だか話がずれていないか?」

「猫ちゃん、おいで。連れて帰ってあげる」

「うニャ?」

「それはよかった。オレも楽になる」

「こんな愛のない人に飼われていたなんて、不幸な猫ちゃん」

「たしかに幸福とはいえないな」

「冷たーい。人間とは思えない」

「思ってくれなくてけっこう」

「じゃね、帰るから」

「でも、ちょっと待てよ。そやつを引き取るってことは、チンチラは永遠に飼えないな。お気の毒さま」
「何を言ってるの、チンチラも飼うわよ」

「へ? そんなむちゃくちゃな」

「そっちこそわけのわからないことを…」

「だって、そのバカ猫がチンチラを獲って食うかもしれんぞ」

「またひどいことを言ったー!」

「そうはいってもだな、チンチラだってネズミの仲間だし」

「何をバカなことを言ってるの、チンチラは猫よ。猫が猫を獲って食うなんて話、どうやって思いつくのよー、変質者」

「そっちこそ何を言うとるんだ。チンチラは齧歯類だ」

「チンチラは猫よ」

「正気か?」

「あんたこそ狂ってるわよ」

「変質者だの○キだの、よーも言うてくれたな。よっしゃ、見せたろうやんけ、オレの平凡社『世界大博物学事典』に勝てるものならやってみろ」

「私だって、さっき『月刊にゃんこ倶楽部』を買って来たもんね。見せてあげるわよ」

 ガタドバタッ(平凡社世界大博物事典哺乳類編の音)

 バサドサッ(月刊にゃんこ倶楽部の音)

「ほれみろ、チンチラだ」

「これよ、チンチラよ」

(しばし静寂)

「あ」

「あ」

「…いま、天使が通り過ぎなかった?」

「うん、通り過ぎたね」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

[チンチラ]

1:リス目チンチラ科のほ乳類。毛皮用に乱獲され、絶滅に瀕する。

2:飼い兎の一種。フランス原産。チンチラウサギ。皮革用にも飼育。

3:チンチラ猫。長毛種の家猫。ペルシャ猫のバリエーション。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 かなり誇張して書いているけど、本当にあった話である。誤解って、怖いね。

 以上の話は言語論の本質に結びつく重要な話なのだ。解説はめんどうなので、今回は書かないけど。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 で、このお話にいつもの超美女が登場すると、話はぜんぜん違う展開になっていくのであった。

「あ、ほら。昔パチンコのことを言ってたじゃない、えーっと」

「それはチンじゃら」

「ぐずぐずやってんじゃないよって怒鳴るときにさ…」

「それは、ちんたら」

「むやみに威勢のいい兄ちゃん」

「チンピラ」

「大昔、箱を開けたら大騒ぎになったでしょ」

「それはパンドラ」

「京都のおつけもの」

「それは、べったら」

「ついでに蒲鉾も」

「別寅」

「ごぼうの笹掻き」

「きんぴら」

「シベリアタイガーの住んでいるあたりの土地を…」

「それはツンドラ」

「あれ? タイガじゃなかったっけ?」

「あ」

「やーい、ひっかかった」

「おのれ、姑息な技を。口惜しい」

「チベットの混み合った仏さんの絵」

「それは曼陀羅」

「オウム真理教がやってた無粋な音」

「それはマントラ」

「昔のインドのおっかない神様」

「それはインドラ」

「三蔵法師が旅をしたのは」

「ガンダーラ」

「バラモン、クシャトリア、バイシャときたら」

「スードラ」

「インド仏教方面って、いくらでもありそうよね」

「そうだな、きりがない」

「方向を変えるわよ。お魚で、味噌漬けの西京焼き」

「それは銀鱈」

「♪~あなたのために、守り通した~」

「ぴんから」

「ベネツィアへ行ったら乗るのは」

「ゴンドラ」

「東ローマ皇帝ユスティニアヌスの后だった女傑ってだーれだ」

「テオドラ」

「ルネサンス・イタリアの大人文学者」

「ピコ・デッラ・ミランドーラ」

「バカヤローは大阪弁で」

「あほんだら」

「アニメ巨人の星!」

「こんだら」(注)

「すけべえな連中」

「ふしだら」

「海に住んでるぐねぐねの」

「ヒドラ」

「やばいお金をちょろまかして香港へ」

「とんずら」

「あらまあ、白雪姫が」

「死んでレラ」

「…まだ続ける? ちょっと息が切れてきたわよ」

「オレも。脳が沸騰しそうだ」

「それに、チンチラから離れてない?」

「軌道修正するか?」

「よーし、丼にサイコロを振って、博打」

「それはチンチロリン」

「あ」

「あ」

「いま、天使が通り過ぎたわね」

「通り過ぎたね」

 しりとりは、「ん」が出たところで終わりなのであった。ほへ。

(注)「こんだら」は、知ってる人は知っている常識ですが、知らない方にはご質問いただければ解説します。


[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
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【猫哲学87】 神聖猫帝国。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃


 これまたウヨクにいじめられそうな内容なので、掲載自粛。

【猫哲学86】 猫的宇宙。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃

(2006/01/27)

 猫の瞳の中には宇宙がある。

 いきなりこんなことを書くとヘンに思われるかもしれないけど、べつに私がバカ猫に恋をしているわけではないし、ましてやこの駄猫の瞳をじっと見つめているわけでもない。原理的にそうだという話をしているだけである。

 なぜそんなことになるのかという説明をこれから語っていくので、まあ読んでみてくださいな。

 私は、これまでに何度も「私はもうひとつの宇宙である」と書いてきた。べつに私が偉いと主張しているのではない。誰だってそうなのだ。あなたも、もうひとつの宇宙である。気付いていましたか?

 私がもうひとつの宇宙であるというのには、ふたつの側面がある。心と身体である。どちらも宇宙なのだ。

 まずは身体の話からいってみよう。

 私は表皮と筋肉、骨と内蔵と血液等の体液などからできている。それらはよく観察すると、細胞で構成されている。細胞とは、水と種々の蛋白質やミネラルからできている。

 蛋白質とは有機物である。炭素と窒素と酸素と水素が複雑にからまりあったものすごく大きな構造をしているものもある。単純なものもあるけど。

 さて、炭素も窒素も酸素も水素も原子である。原子は原子核と電子とでできているらしい。現代物理学が直接に観察できるのはここまでである。

 ところで原子核というのは、陽子と中性子と中間子とでできているらしい。このあたりからは間接的な観測と理論が先行していて、実際に現物を見た人はいない。見る手段がそもそも存在しないのだ。

 でも理論によれば、陽子や中性子は素粒子というものでできているらしくて、ハドロンやらレプトンやらボソンやらいろいろと種類があるという。んで、ハドロンその他が何でできているかというと、クオークというものからできているんだと。

 そこで私は激しく問わずにはいられない。じゃ、クオークはいったい何でできているんだ、と。

 ほんでいつの日か、クオークを構成する要素が見つかったとしよう。それを仮にホニャララと名付けたとしよう。そのとき私はまたもや問いかけるであろう。そのホニャララとやらは、いったい何でできているんだ、と。

 意地悪を言っているのではない。知りたいのだ。そして私は確信してもいる。この問いには終わりがないのだと。

 そして、ここんところが最も重要なのだが、人間を構成する細胞の数は銀河の星の数よりも多いのである。そして、たった一個の細胞を構成する原子の数は、全宇宙の星の数よりも多いのである。

 すごいでしょう。肉体とは、宇宙よりも膨大なのだ。

 物質的な話はこのへんでおいといて、心の話をしてみよう。

 心には様々な階層があって、いま私が私だと感じているこの私のことを意識という。顕在意識と呼ばれることもある。その奥に、前意識という意識されない意識がある。

 前意識には意識に昇ってこない記憶や経験が蓄積されている。

 人間の頭の中にはものすごい量の記憶が蓄積されていて、普段は思い出せないけど退行催眠などを使えば思い出せるという話は以前にも書いたから繰り返さない。ここでは感覚と経験がおっそろしいほど多くの情報量から成り立っていることについて指摘しておきたいと思う。そういう経験の総体を前意識という。

 私たちはふだん何気なく日常の風景を見ているけど、本当はそのすべてを見ているのだということにはなかなか気付かない。たとえば私が森の中を歩いていたとする。そのとき私の目は、一本一本の木々どころかそれらがつけている葉っぱのすべてを見ているのだ。私だけではない。あなたもそうだし、みんなそうなのだ。

 ただ、それらをすべて意識して処理していたら、脳のキャパがオーバーするから、適当に必要なものだけを選んで意識上で処理している。それ以外はぜんぶ前意識がアンダーグラウンド処理している。そうしないと、とても日常生活なんてできないからね。

 選んで処理すると書いたけど、何を選択するかについては個人差がある。同じ森の中を歩いても、花の好きな人は花を見つけてしまうし、虫の好きな人はあっというまにカミキリ虫を発見してしてしまう。しかしそれらは顕在意識のレベルでの差であって、前意識はすべてを見ているのである。

 ちょっとしたたとえ話をしてみよう。

 私の住むマンションには広くて大きな窓があって、窓からは向かいのでかいマンションが見えている。ある日、その窓を考え事をしながら見るともなく見ていた。そのときに、何となく目を閉じたのね。

 昼間だったから光が強くて、閉じた瞼の裏には残像がくっきり焼き付いていた。年をとってくると網膜の細胞も弱っているとみえて、残像はいつまでも残っていた。目を閉じたままその残像を観察して驚いた。残像には、お向かいのマンションの各階ベランダ、窓の数までしっかりと焼き付いていたのである。そのときに初めて、自分が見ていたマンションの階数と窓の数に気が付いたのである。目を開けているときには意識さえしなかったのに。

 これはあくまで比喩であるので、これが前意識そのものというわけではない。ただ、私たちは日常でいったいどれほどの情報を受け取っているかを感覚的にわかってもらいたいと思うのだ。そして前意識は、それらすべてを覚えているのである。

 さて、その膨大な前意識ですべて終わりかというとそうではない。さらにその奥に無意識というやつが隠れている。前意識と無意識の差というのは、前意識は思い出せるけど無意識は認識できないということの差である。

 無意識もまた、表面の意識などからはとても把握できない膨大なものである。無意識というのは生命そのものと関係しているから、生命とは何かがわからないかぎり把握など不可能である。そして生命とは何かなんて人間にわかるはずもないのである。だって私たちは、自分自身のたった一個の細胞さえもコントロールできないでしょうが。

 んじゃ、無意識で終わりかというと、どうもそうではないらしい。ユングはそのさらに下層に集合的無意識というものがあると説いた。集合的無意識でもって、全人類は結ばれているというのである。

 ユングの言うことが本当かどうかは知らないけど、そんなものがあっても不思議ではないと私も思っている。ただひとつ確かなことは、心というものはどこまで掘り下げても認識し得ないということである。そもそも認識できる構造になっていないのだ。

 かなり昔の話だけど、宇宙に果てなどないと書いたことがある。同じことが、自分自身についても起きているのだ。私は極大のものを知り得ないし、極小のものも知り得ない。そして極小から極大へ、また極大から極小へと向かうこの宇宙の一点に、私はそれを観察する目として立っている。物質的なことであれ観念的なことであれ、私はそれらの単なる観察者なのである。しかもその観察者である私の心は、私の認識を超えた大きさと深さを持っている。

 あのウィトゲンシュタインが「私は境界である」と語ったのはこのことなのだ。

 目を開ければそこには宇宙があり、目を閉じればそこにも私という宇宙がある。これって、けっこうすごいというか、ものすごく面白いことだと思うんだけど。違います?

 では、今回は重要なお話だったので、おさらい。

=私という宇宙の階層構造=

 私(顕在意識)
 前意識
 無意識(→集合的無意識?)
 生命
 肉体
 細胞
 分子
 原子
 素粒子

 そこから先はわっかりましぇーん。

(注)フロイトは意識(=自我)の上に超自我があると説いたけど、あくまで説明モデルであって、生命的実在とは思えないので、ここでは無視することにします。

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「あたしの瞳の中にも宇宙があるのよ」

 例の超美女がいきなりそんなことを言うので、私はかなりビビッてしまった。

「見てみたい?」

「いやだ。それで何人の男を殺したんだよ」

「ちょっと見なさいよ」

「まだ死にたくない。つーか、そんな死に方はごめんだ」

「見なさいってば、ほら」

「やめてくれー、顔を近づけるな」

「どりゃあ、必殺キラキラビーム!」

「○△×!…」

 以下、記述不能…

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【おまけ】

 今回のはちょと短いのでおまけをつけておきます。

 だいぶ前のことだけど、超美女の正体について書こうとして途中で終わっていましたよね。あれの後半をお届けします。ここに、ついに明らかになる彼女の正体とは…。

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【猫哲学超々々特別編】

■美女のヒミツ2(後半)

 彼女の視線にヤラれる男が数多くいるのは、まあしょうがないといえばしょうがない。でもそれって、命がけなんだってことに気付いたほうがいいよ。

 彼女が瞳をきらりと輝かせて微妙な微笑みを浮かべると、たいていの男は背中がゾクっとするらしい。そして男どもは、彼女の虜になってしまうのである。気の毒に。

 たしかに私だって、あの瞳でみつめられるとかなり痺れる。しかしそのとき私が感じているのは、恐怖である。命の危険を覚えているのだ。

 そんな大げさなって?

 違う違う。本当に怖いのだ。フツーの男どもはそれを恋と勘違いするようだが、私は感情を論理的に整理するという希有な能力をもっているので、変な錯覚はしない。彼女は恐ろしい女なのである。

 まず、わかりやすいところから話そう。彼女は凶暴な女なのだ。

 気にくわないことがあったりムカつくような男がいたりしたら、平手で張り飛ばす。大の男が文字通り、2メートルばかりぶっ飛ばされるのだ。

 こんちくしょうこの女、などと思って反撃しようとしてはいけない。彼女は柔道4段、空手5段、合気道などは免許皆伝の腕だ。逆らったらズタボロにされる。あの細腕のいったいどこにそんな力があるのか、まったく想像もできない。

「力なんていらないわ。スピードとちょっとしたタイミングよ」

 彼女は涼しい顔をして言うが、生まれてこのかた人を殴ったことなど一度もない平和主義者の私には、永遠に到達しえない境地であろう。

 でもなあ、その彼女に「一度でいいから殴られてみたい」などとアホなことをぬかす男が、私の知るだけで数十人はいるのだから、まったくもってなんというか。命が惜しくないのだろうか。世の中というのは、つくづく私の想像の及ばないことも多いなあ。

 だが彼女の凶暴さは、その程度ではすまない。

 じつは彼女、武器の扱いまで心得ているのだ。SW44マグナムなどというぶっそうな銃を軽々と撃つし、ライフルを持たせたらゴルゴ13なみのスナイパーらしい。M16やAK47なんていう機関銃を40秒以内にバラして組み立てるのも朝飯前だともいう。なんでも、自衛隊に入隊していたのだとか。

「ちょっと戦車砲をぶっ放してみたくてさ」

 こんな女が入隊などしたら、オトコ世界の自衛隊なんぞあっという間に崩壊するんじゃないか。私はガラにもなく真剣に日本の防衛問題を心配したが、やっぱり2年もたたないうちに追い出されたそうだ。そうだろうよ、ああほっとした。

「それで、戦車砲は撃てたのか」

「ダメだった。機械化連隊は男の縄張りでさ。自信はあったのにな」

 基地外に刃物というが、この女に戦車なんか持たせたらあかん。自衛隊も一応の良識は持っていたのだな。少し見直した。

「じゃあ2年も、何を訓練していたんだ?」

「うふふ、ヒミツ」

 あ、この笑いだ。これが恐怖なのだ。かかわらないでおこうっと。

「それにしても、そんな女がなんで広告業界なんかにいるんだよ」

「だって、目立たなくていいもん」

「なるほど。木を隠すなら森に、というやつか。モデルやタレントがごろごろしているギョーカイなら、少しは目立たないかもな」

「そういうこと」

「でも、やっぱりわからん」

「なにが」

「一般に世の中というものはだな、目立たないより目立つほうがトクをすることが多いもんだろ。なのに、なぜ目立たないことを選ぶ?」

「目立たないほうがトクをする生き方だってあるわよ」

「そういうのは犯罪者とかスパイとか…」

「あたしが犯罪者に見える?」

「見えん。きみに犯罪などする必要があるとは思えん」

「もちろん」

「ということは…」

「ウフフ」

「このあいだ旅行だとか言って中東へ行ってたよな。あれはたしかレバノンの首相が暗殺されたときで…」

「あまり詮索しないほうがいいかもよ」

 彼女はいきなりマジな顔になって私をにらみつけた。

 ぞくっ。これ以上は考えない考えない。場合によっては命が危ないもんな。いやべつに命なんて惜しくはないが、こんなことにかかわって痛い目にあうのはごめんだ。

 私は猫と同様、平和主義者なのである。(終わり)

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[上の文章は、約4年前に書いたものです。][original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com][mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]

【猫哲学85】 猫陰謀論。

 
       猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃


 阪神タイガースが日本シリーズで4連敗したのはフリーメーソンの陰謀である。

 はちゃめちゃに唐突な出だしだな。では、普通に始めてみよう。

 今夜は月夜で、猫集会がある。

 私の住むマンションの向かい側に、どこかの会社の古い寮と思われる庭園と四阿のついた建物があって、そこの広い駐車場が猫集会の場である。ほとんど誰も立ち入らない建物で、そこそこしっかりとした壁に囲まれて安全だから、ふだんからそこは猫屋敷状態だが、とりわけ猫集会の夜は壮観である。

 近隣の野良猫や飼い猫が20匹以上も集まってきて、顔を中心に向けた円陣をつくる。そしてじっとうずくまり、まったく動かない。声はもちろん出さない。

 いったい何をやっているんだろうな、あいつら。おいバカ猫、おまえわかるか?

 うちのバカ猫は、いつもと変わらず寝たままである。

 う~ん。わからない。猫というのは変なやつらである。ひょっとすると人間を支配する陰謀でもたくらんでいて、情報交換なんかをやっているんだろうか。

 まさか、とあなたは思われるかもしれない。だけどね、人間だってあん風に、夜にまぎれて密かな集会をやっていて、陰謀をたくらんでいたりするんだからね。猫がそうであったとしても、私はちっとも不思議に思わないよ。

 何の話を始めたんだって?

 そう。今回は陰謀論の話である。現代人はあまりにもこのようなことを知らなさすぎるので、私が丁寧に説明しようでないの。

 とはいっても、このへんの話を始めたら紀元前のピラミッド建設から始まって、ピタゴラス教団、十字軍、聖堂騎士団、イエズス会、フランス革命にアメリカ独立革命、モーツアルトの毒殺とかハイドンの頭蓋骨盗難とか、それはもうものすごくいろいろと語らなくてはいけなくて、それぞれ本が一冊以上書けてしまう。コンパクトな猫哲学ではとてもやっていられないので、話を近代日本に限定します。みなさんご存知の名前がいろいろと出てくるから、けっこう面白いかもよ。

 では、フリーメーソンが実在する話からいこう。

 今から15年ほど前のことだが、私はとある企業イベントの仕事でサンフランシスコへ出張したことがある。そのイベント会場となったのは市内中央、丘の上にある多目的ホールで、名前をサンフランシスコ・マソニックホールといった。

 正確にはサンフランシスコ・マソニックテンプルという大きな施設の一部で、白くて美しい建物だった。サンフランシスコが対スペイン戦争の結果アメリカの領土になり、最初に建てられた大きな建物だったそうだ。今は立て替えられて近代的なビルになっている。

 マソニック。つまり英語で「メーソンのもの」。その建物はフリーメーソンの集会所だったのだ。おかげさまで私は、メーソンの内部を3日間もじっくりと見学できたのであった。

 誰がどんなコネでそんなホールをレンタルできたのか私は知らないのだけど、その企業イベントではゲスト講演者として大前研一の名前があった。はは~ん。なあるほどね。

 フリーメーソンなどというと、読者のみなさんはトンデモネタ、陰謀モノとして笑われるかもしれないけど、私がこれから書いていくことをどこまで否定できるかな。勝負しようじゃないの。

 さて、フリーメーソンの概要については百科事典でも見ていただくことにして(正確な記述は皆無だけどね)、さっきも書いたように近代日本の話題だけに限らせていただきます。

 それでは、日本における本格メーソン進出(汚染)物語の始まり~。

 むかしむかし、戦前の話なのじゃが、東京の六本木近くに水交社という名の立派な建物があったとな。海軍さんの建物で、将校さんが福利厚生や倶楽部として使うために建てたものだから、思いっきり贅沢に造られた日本を代表する名建築でありました。今は取り壊されているので見ることはできないけど、そうですなあ、鹿鳴館を想像してみてくださいな。あんなにケバくはないけど、まあそういう感じの建物でした。

 海軍でも将校以上、将軍や元帥や海軍大臣たちが集う、ある種の憧れの施設だったのです。

 戦時中の東京爆撃にもなぜか傷ひとつつかないで生き残ったこの建物は(わざとそうしたという説もあり)、戦後、あのマッカーサー占領軍司令官に「お、ここいいじゃん」と気に入られ、GHQ(占領軍総司令部)に接収されてGHQ本部となりました。

 マッカーサーはフリーメーソンです。自伝にもはっきりとそう書いてあります。彼の父親は、やっぱり陸軍総参謀長を勤めた人で、フリーメーソン・マサチューセッツロッジ(支部結社)のグランドマスター(いちばん偉い人)でした。

 息子のダグラス・マッカーサーはフィリピン総督をしていた時代にマニラでフィリピン・ロッジを創設し、そこのグランドマスターになりました。

 そのマッカーサーは日本占領の初日、水交社ビルにフリーメーソンのシンボルであるコンパスと定規のモニュメントを掲げ、ここがフリーメーソン日本支部であることを示しました。かなり退屈な話だけど、もう少しすると面白くなるから、がまんして読んでね。

 米軍占領下で戦後最初の総理大臣となったのは、幣原喜重郎という人です。この人は、シカゴ留学中にフリーメーソンに加入しています。シカゴに保管されている名簿に、ちゃんと記載されています。コピーは私も持っています。

 同じく戦後の首相で国際的に重要な役割を果たした鳩山一郎は、日本でフリーメーソンに加入しました。入社式の記念写真が残っています。その写真も私は持っています。

 占領軍が引き払った後、水交社ビルは本来は国民の資産ですから、日本国に返還されるべきでした。しかしGHQは、この建物を(株)森ビル(当時は森不動産)に破格の安値で売り払ったのです。フリーメーソン日本ロッジをここに残すことを条件に。

 水交社を愛していた日本海軍OBはものすごく怒って、建物の返還を求めて訴訟まで起こしましたが、裁判所はやっぱり相手にしてくれませんでした。

 こうして水交社ビルはそれから後もフリーメーソン日本支部の集会所であり続け、老朽化のために解体された跡地にも日本ロッジがあるビルが建てられているのでした。めでたしめでたし。

 さあ、昔話は終わりだ。これから六本木ヒルズタワーの物語をやっちゃうのだ。

 勘の良い読者ならもうおわかりかと思うけど、(株)森ビル社長の森稔はフリーメーソンである。だから、あのビルの回転ドアで子供が亡くなったとき、「あ、これは儀式殺人じゃないかな」と私は真剣に疑ったのだ。首を挟まれて死んだというのがいかにもそれらしい。調べてみると、あのビルではすでに同様の事故で大けがをする事件が4件も続けて起きていたのに、死者が出るまで森社長は何の手当もしなかったというのだね。

 もう一人、別の有名な森さんが六本木ヒルズタワーの住人である。あの元首相にして小泉首相の親分、サメの脳味噌といわれれるアホ森喜郎が、ヒルズタワーの超高級マンションへ、去年のはじめに引っ越してきた。

 さて、そのアホ森だけど、「神の国発言」とか「えひめ丸沈没賭ゴルフ事件」とかでめちゃくちゃに叩かれていたとき、国会の党首討論で民主党党首の鳩山由起夫(メーソン鳩山首相の長男)からメタクソに追求されて、次のように反論した。

「鳩山さん、あんたは友愛精神というものがわかっとらん」

 一瞬たじろぐ鳩山党首。だが、気を取り直してさらに森バカを追求すると、またもや

「鳩山さん、友愛精神だよ、友愛精神。あんたはわかってるのか」

 ほへ。

 ボケ老人の会話ではない。国会の場で交わされた討論である。議事録にも載っているんだからね。私の話はデタラメではないよ。

 さて、事情を知らない人には何のこっちゃさっぱりわからんでしょうな。ちょっと説明しましょうね。

 フリーメーソンには有名な標語があって、「自由、平等、友愛」というものだ。「博愛」ではなく「友愛」ね。

 これはフランス革命のスローガンにもなったし、国連憲章の前文にも出てくるし、日本国憲法だってその精神を基盤にしている。ちなみに、フランス革命が起きたとき、国民議会の議員の90%がフリーメーソンだったことが知られている。つまりフランス革命というのは、メーソン革命だったのだ。そのスローガンが「自由、平等、友愛」。

 んで、先の国会討論でのバカ森の発言の裏の意味は、こういうことになる。

「鳩山さん、あんたフリーメーソンでしょ。あんたの父親もそうだったでしょ。私も同じくフリーメーソンなんだから、ガタガタ追求しなさんなっての」

 それで追求をやめちゃう鳩山も鳩山だが、まさか国会の場でそういうことを言うとはねえ。100年後の歴史家は、この発言から国会議員のフリーメーソン汚染を嗅ぎ取るだろうさ。事実なんだから。

 で、その森ボケ野郎の住む六本木ヒルズには、ライブドアのホリエモン、楽天の三木谷、村上ファンドのサル村上がそれぞれ本社を構えている。同じビルに、連中に資金を提供したUBSウォーバーグ、リーマン・ブラザーズもまた日本支社を構えている。

 ウォーバーグなどと米語風に発音するからまぎらわしいけど、ワールブルクと書けば歴史に詳しい人は知ってるかな。ユダヤ人の悪徳金貸しである。『ヴェニスの商人』のモデルだといわれている。

 リーマン・ブラザーズというのは社名が変更されているから知らない人が多いが、前身はクーン・レーブ商会。ロスチャイルド商会の米国支部である。この会社の代表者であったヤコブ・シフという男が日露戦争の資金に苦しんでいた明治政府の戦争外債を買ってくれて、日本はロシアと戦うことができた。ある意味で恩人ともいえるが、日本政府はその金を利息つきでちゃんと償還しているから、つまりは兵士の血を吸って儲ける死の商人だわな。その会社の現代版が、ホリエモンの資金源なのである。

 ロスチャイルドは、江戸時代には子会社のジャーディン・マセソン商会を通じてトマス・グラバーを長崎に派遣し(グラバー邸って、今でも観光名所ですな)、江戸幕府を崩壊させて日本を内戦状態に導いた。長州・薩摩に鉄砲を売って大儲けしたわけね。そして、トマス・グラバーは上海でフリーメーソンと接触があったらしい。

 ユダヤ財閥とフリーメーソンとは切っても切れない関係、という話を始めるまた長くなるので、ここではパス。

 まあ諸々そんなようなわけで、近ごろ世間を騒がせているアホ面金満三バカトリオのことを、私はヒルズ族ならぬ蛭ズ族と呼んでいる。何も生産せず何も創造もせず、他人の血を吸って太っている連中に似合いの名前だろ。

 その連中がいるのと同じビルにフリーメーソン日本ロッジがあり、メーソン森元首相が住居を引っ越した去年になって、ニッポン放送株買い占め事件、TBS株買い占め事件、阪神電鉄株買い占め事件などが立て続けに起きた。

 これらはみんな偶然なのか?

 あれらの事件には、時間外株取り引き、不法な株価操作、インサイダー取り引きといった経済犯罪がてんこ盛りなのに、司法も政府も一切何も介入しようとしなかった。それどころか、麻生大臣などは「それが嫌なら上場するな」とまで開き直っていた。

 ユダヤ財閥、フリーメーソンロッジ、政治家、株ゴロ。こいつらが六本木ヒルズというひとつのビルに集まって、共通の目的に向かってタッグを組んでいる構図にしか私には見えないんだけどね。

 というわけで、あのサル顔村上ファンドが阪神電鉄株を買い占めて阪神タイガースをショック状態に陥れたのも、連中がなんかしょうもない陰謀を張り巡らしている証拠に違いないのだ。

 これが、ただの経済犯罪の範囲に収まっている間なら、私は苦笑いしつつ見守るだけだ。でもね、こういう集団が結束するのに必要な価値観の奥には、必ずいかがわしい魔術思想なんかがセットになっていて、血なまぐさい儀式殺人がからんでくるということを、世間一般の人はどれほどちゃんと認識できているだろうか。いや、このあたりのことは、深入りしないでおこう。

(詳しくは絶版となった名著『切り裂きジャックの真実』でも読んでください)。

 そういえば近頃、やけに幼児殺人が増えたよなあ。未解決なのも多いし…。

 何たって六本木ヒルズの所在地は郵便番号106、港区六本木6丁目だぜ。おー、悪魔の666、黙示録だオーメンだダミアンだ。ロックフェラーセンターのビルにも666って番地表示があるのを知ってる?

 ついでにいっとくと、森タワーは地上54階地下6階、合計60階ですとさ。ああそう、なるほどね。もひとつしつこくいっとくと、54というのも6×9だな。よっぽど6がお好きなようで。

 こういう思考には、ついてこれる人は少ないだろうな。でもはっきりと言えることは、私は多くの情報を持っているということだ。読者のみなさんは、ほとんど情報を持っていないでしょう。

 情報を持って極端な思考に走る私と、情報を持たずに「まさか、そんなことあり得ないでしょ」という情緒的思考しかできないあなたと、はたして真実の近くにいるのはどちらであろうか。なんちゃって。今回、哲学と関係のあるのはここだけか。

 私は妄想するのである。六本木ヒルズのどこか知られていないフロアに連中の集会所があって、夜な夜なアホ森とか三バカ蛭ズトリオとかその他のガイジンだとかという醜悪な連中が集まり、今度は誰の血を吸ってやろうかな、うへへへへへ~、と相談しているのではないか。

 そんなバカな、と思ってはいけないよ。私はその現物をサンフランシスコで見てきたし、だいいち猫だってしょっちゅうやっていることではないか。うにゃ~。

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(おまけの笑い話)

 毎年、年末になるとベートーベンの第九をあちこちでやっているね。大阪城ホールでは一万人もの人が歌っている。「一万人の第九」。

 私は、あれを見ているとおかしくてたまらない。第九は「喜びの歌」という別名があってドイツ語の「喜び=フロイデ!」を曲中で100回以上叫ぶのだけど、本来あれには「フライハイト!」という別の表題がついていた。

 フライハイト=自由。ベートーベンはフランス革命の同時代を生きた人だから、もうおわかりですね。そう、あの交響曲は本来、フリーメーソン賛歌として作曲されたのだよん。

 フランス革命は後にナポレオンなんかが出てきて、しかも皇帝に即位するというメーソン思想とはかけ離れた変てこりんな展開になっちゃった。だからベートーベンも脳天気にフリーメーソン賛歌なんかを発表することができず、でもせっかく作曲したのにもったいないから、「フライハイトのかわりにフロイデなんかでどうかな、うんいけるかも」と考えて演奏にこぎつけたらしい。

 日本人も変てこな連中である。フリーメーソンに闇から支配されようとしていることも知らずに、毎年末にはフリーメーソン賛歌を歌い上げるんだもんな。そんなにも奴隷にされるのが嬉しいかね。

 ベートーベンがフリーメーソンであった証拠はないのだが、彼の超お友だちだったゲーテは間違いなくメーソンである。ゲーテの代表作の中に『ヴィルヘルム・マイスターの徒弟時代』『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』というのがあって、徒弟・遍歴とくればメーソンの暗号である。

 メーソンというのは英語で石工のこと。中世では建物といえばぜんぶ石で造られたから、石工とは建築技術の職能集団を意味した。中世で職人といえば、その技術を学ぶためにまず親方に弟子入りし、一人前になると各地の名人を訪ねて技術を磨く旅を重ねたのである。つまり徒弟と遍歴。これは現代メーソンでも儀式の名前として残っている。

 だから、フランス革命と同じくフリーメーソン革命だったアメリカ独立革命においては、いちばん偉い人を建築家の親方のまた上の、頭領の親玉という意味で大統領と呼んだのである。これは冗談。

 ところで、建築家といえばつまり大工。ベートーベンの交響曲第九番を「だいく」と呼ぶのは、ある意味でとても正しいのだ。よかったね。

 にゃはははは~、…。

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 いつもの超美女にこんな知識を開陳していたら、彼女はにやりと笑ってこう言った。

「そういえば、イエス・キリストも大工よね」

 おぬし、できるな。

□□おまけのおまけ□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【喜びの歌・訳詞】
 ベートーベ第九の合唱で歌われる歌詞の翻訳を書いておきます。この日本語を読めば、大晦日に似合うようなめでたい感じじゃないのもよくおわかりかと。(つーても、私の翻訳じゃない。あたしゃ、こんなにへんな日本語は使いません)。

 元の詩はシラーのものですが、作曲にあたってベートーベンが適当に切り貼りしているので、シラーの意図からはかけ離れたものになっている可能性あり。

 今回ちょっと調べてみたら、この詩の解釈についてもいろいろな議論があるそうなんです。あはは。この詩の「喜び」を「自由」に置き換えて読んだら、意図はバレバレなのにねえ…

[喜びの歌:翻訳]



おお友よ、このような音ではない!
そうではなく、もっと楽しい歌をうたおう
そしてもっと喜びに満ちたものを

1.
喜びよ、美しい神々の閃光よ
楽園の世界の世界の娘よ
私たちは足を踏み入れる、炎に酔いしれつつ
天なるものよ、あなたの聖所へと
あなたの魔法の力は再び結びつける
世の中の時流の剣が分け隔てていたものを
乞食が王侯の兄弟になるのだ
あなたのその柔らかな翼が憩うところで
抱きしめられなさい、何百万の人々よ!このキスを全世界に!
兄弟たちよ、星の輝く天幕の彼方に
愛に満ちた父がいるに違いない

2.
大きな幸いを得たひと、(すなわち)
ひとりの友の友となり優しい妻を得た
ひとはその喜びを共にしよう!
そうだ、たとえたったひとつの魂であっても
自分のものと呼べるものが世界の中にあるのならば!
そしてそれができないものは、そっと出ていくがいい
涙しながらこの集まりの外へ!この大きな環に住むものは共感を
尊びはぐぐめ!
それは我々を星の世界に導く
あの未知なるものが君臨しているところへ

3.
喜びを飲む、全ての生きとし生けるものは
自然の乳房から
全ての善きもの、全ての悪しきものも
そのばらの道を追い求めてゆく
喜びは私たちにキスと葡萄酒とを与えた、そして
死の試練をのりこえた友を;
快楽は虫けらに与えられ
そしてケルブが立っているのだ、神の前には
あなたたちはひざまづくのか、何百万の人々よ?
おまえは、創造主を感じるか、世界よ?
彼を星の輝く天幕の彼方に探せ!
星の彼方に彼はいるに違いない

4
.喜びは力強いバネだ
久遠の自然の中において喜びよ、
喜びこそが歯車を回す
その巨大な宇宙時計において
それは花々をつぼみから誘い出し
恒星たちを天空から(誘い出し)
天球を空間で回転させる
予言者のとおめがねが知らぬところで
朗らかに、創造主の恒星たちが飛び回るように
壮大な天空を駆け抜けて
走れ、兄弟よ、おまえたちの行く道を
喜びに満ちて、英雄が勝利に向かっていくように!

5.
真理の炎の鏡の中から
それは探求するものにほほえみかける
美徳のけわしい丘に
それは耐え忍ぶものの道を導く
信仰の輝ける山々の頂には
その旗が風にひるがえるのが見え
砕かれた柩の裂け目
からはそれが天使の合唱の中に立っているのが(見える)
堪え忍べ、勇気を持って、何百万の人々よ!
堪え忍べ、よりよい世界のために!
星の輝く天幕のかなたの天国で
おおいなる神が報いてくれるだろう

6.
人が神々に報いることはできない
しかし神々に倣うのはすばらしいことだ
悲嘆にくれるものも貧しいものも出てこい
朗らかなものと一緒に喜べ
怒りも復讐も忘れてしまえ
不倶戴天の敵も許すのだ
彼に涙を強要するな
悔恨が彼を苦しめるようにと願うな
貸し借りの帳簿は破り捨ててしまえ!
世界全てが和解しよう!
兄弟よ - 星の輝く天幕のかなたでは
神が裁く、我々がどう裁いたかを

7.
喜びは杯に湧きかえる
ぶどうの黄金の血のうちに
残忍なものは優しい心を飲みこみ
絶望は勇気を(飲みこむ)
兄弟よ、おまえたちの席から飛び立て
なみなみと満たされた大杯が座を巡ったら
その泡を天にほとばしらせよう:
このグラスを善き精霊に!
星の渦が褒め称えているものセラフィムの
聖歌が賛美するもの
このグラスをその善き精霊に
星の輝く天幕のかなたにまで!

8.
重い苦悩には不屈の勇気を
無実のものが泣いているところには救いを
固い誓いには永遠を
友にも敵にも真実を
王座の前では男子の誇りを
兄弟よ、たとえ財産と生命をかけてでも
功績には栄冠を
偽りのやからには没落を!
神聖なる環をより固く閉じよ
この黄金のワインにかけて誓え
誓約に忠実であることを
これをあの星空の審判者にかけて誓え!

9.
暴君の鎖からの救出を
悪人にもまた寛大さを
死の床で希望を
処刑台で慈悲を!
死者もまた生きるのだ!
兄弟よ、飲み、そして調子を合わせよ
全ての罪人は赦され
そして地獄はもはやどこにもない
朗らかな別れの時!
棺衣にくるまれた甘美な眠り!
兄弟よ - やさしい判決を
死のときの審判者の口から!

 訳詞はこれで終わり。ただ、ベートーベンが歌にしたのは8番までだった。なあるほどねえ。たしかに9番まで歌えば、フリーメーソン革命思想であることがまるわかりになるもんね。

 しかし、下手な隠蔽だな。

 でわまた次回。

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[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
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