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2009年1月28日水曜日
【猫哲学100】 死について。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
(2006/05/05)
最終回は、予告していたように死のお話である。
ところで私は死んだことがない。だから死を知らない。経験のないことを語ることはできない。これで終わり。
これで終わりです。みなさんさようなら。
本当にこれで終わりなのだ。これ以上語ることなど何もない。だけどそれでは納得できない方もおられるだろうから、周辺の話題などをあれこれ書いておこう。
猫哲学もついに100回目を迎えた。以前から宣言していたように、これで最終回である。といっても私は、どこかの文豪のように猫を殺して終わらせたりするようなことはしない。バカ猫は今日も元気である。間違いなくあと10年は生きるだろう。
おいバカ猫、おまえも最後の出番だぞ。何か言いたいことはないか?
…寝てます。まあ、そんなもんでしょう。
ところで「死」についてである。今回はこれを真正面からやっつけるのだ。世の中にはこれを扱った本などなんぼでもあるが、はっきりいってまともな論説にめぐりあったことがない。前回の恋の話でもそうだったが、わからないからこそ議論が絶えないということなのだろう。
私も、わかっているわけではない。でも、わからないということを真正面から見据えて書くので、凡百のわかったつもり論よりもよほど上等なことを述べる。てな感じで、あいかわらず猫哲学者は、最終回に至っても偉そうなんである。ふニャ。
さて、死には二種類ある。他人の死と、自分の死である。
まずは、他人の死からいっとこう。これだって、現代社会は概念の混乱の嵐の中にある。私が扱いたいのは自分の死なのだが、こっちのほうを整理しておかないと次に進めないので、ちょっと我慢して読んでね。
私たちは、他人の死について、何を知っているだろうか。親しい誰かが死んで、もう会えない。それは誰もが経験していることだ。だからといって、それはあなたの死ではない。死んだ誰かが経験した「死」そのものは、あなたの経験ではないから、あなたにはわからない。
あなたが経験したのは、その誰かが死体となって、葬儀その他いろいろなことが起きて、もう二度と会えない、そういう事態とそれに伴う感情のあれこれなのだ。その人の「死」そのものはその人が経験したことであって、しかも二度と会えないのだから、その人から教えてもらうこともまたできない。
誰かの死に立ち会って、その悲しみのなかで死について何かをわかったつもりの人は、死を知ったわけではない。その人は、自分の感情を見ていただけである。
もう少し整理しよう。他人の死にも二種類ある。肉体の死と心の死である。
肉体の死は、わかりやすい。機能停止し、冷たくなり、腐敗し始めたら完全に死だ。だけど、このわかりやすいことに、現代医学はまったく別の定義を持ち込んでいる。という話は後ほど。
心の死は、これはわかりにくい。肉体が生きていても精神が死んでいるような状態もあるし、逆に肉体が完全に失われても心が残っているという感じもある。前者を植物状態、後者を霊という。
心がいつ死んだか、あるいは永遠に死なないのか、私たちはわかっていない。というわけで、他人の死を定義づけることができないのだ。
う~ん。理屈っぽいな。でも、知り得ないことを知り得ないと知っておくことは、大切なことである。あなたが、もしも他人の死について、何か知っているつもりでいるなら、この世の重大な悪に荷担してしまうことになる。
急な展開だけど、びっくりしないように。
死を定義している連中がいるのだ。本来は定義不可能なことをもっともらしく定義して、しかも法律にしようなんて連中がいるのだ。何のためにそんなアホなことをするのかというと、もちろん連中にとっては金になるからだ。
そんな連中はほっておけばいいのだが、我々の生活に介入してくるのが面倒だ。めちゃ迷惑である。何の話かというと、ドナーカードの問題である。
あいつらは、臓器移植のためにより新鮮な臓器がほしくて、むりやり「脳死」を死と決めた。脳死体というのはね、身体がまだあたたかくて顔色もあって、臓器をバラそうメスをいれたら悲鳴をあげるし暴れる。そこをむりやりよってたかって押さえつけ、死体だということにして解体されるのだ。本当のことだよ。そんな実状を、みなさん、知ってた?ショックかもしれないけど、事実である。本当のことを知りたいなら、私が教えてあげるから、メールでお問い合わせください。
閑話休題。あだしごとはさておき、って、いいのか、それで。
まあ、この世に悲惨で無惨なことは他にいくらでもあるし、あたしゃ関係ないさ、勝手にやってればええがなとは思うけど、この私にまでドナーカードを持ちなさいと強制するのだから困ったもんである。
「あなたの生き肝がほしいから臓器提供に同意しなさい。何が死なのかは私たちが法律で決めてあげる。ついてはお金はあげませーん。私たちは手術代、免疫抑制剤なんかでがっぽりもうけるけどねー」
これがやつらの本音である。そこから発展した死体ビジネスや誘拐ビジネス、人身売買から戦争ビジネスまで、言いたいことはあまりもたくさんあるけど、ここでは触れないでおこう。
話がかなり脱線した。ここで指摘したいことというのは、私たちの誰も、他者の死を知らないということなのだ。
彼とは、彼の肉体ではない。彼の心である。腕の一本や二本失われたとしても彼は彼である。彼が彼の心であることは、ことほどさように自明なことである。
彼が死ぬとき、彼の肉体の死はどのようにでも観察し記述することができるが、彼の心の死だけは、誰にも観察できない。彼の心がいつ死んだのか、死んでどうなったかなんて、我々は誰も知らないのだ。
知ったふりをしている連中はたくさんいる。宗教関係者、特に新興宗教の連中が偉そうなことを言う。オウムの麻原なんかがその典型だ。しかしそいつらは、金儲けのために嘘を言っているだけだ。だからあいつらが逮捕された後は、死を怖がってびくついておるだけではないか。ここではっきりと書いておくけど、ローマ法王だってあの連中とそう変わらない。私は徹底的に軽蔑している。
もう一度いう。この世の誰一人として、他者の死を認識できる者はいない。ものすごくあたりまえの話である。だって、私は他者ではないのだから。でも、このあたりまえなはずの話が、あたりまえの話としてかつて話されたことがあっただろうか。
宗教哲学科学医学雑学など、どのジャンルからでもいいから、「わからないものはわからない」と、誰か言ってくれ。誰も言ってくれないから、この無名の猫哲学者が叫ばねばならないのである。
わっかりまへーん、てば!
次に、自分の死についていっとこう。自分の死にも二パターンある。死後の自分が存在しないという考え方と、死後の自分が存在するという考え方である。
まずは、前者のほうから。死後の自分が存在しないという立場で考えてみよう。自分の死は、認識できるか。
という問いを立てた瞬間に、この問いそのものが論理的に成立しないことは、賢明なる読者のみなさんにはすぐにおわかりいただけることだろう。
認識するというのは、自分が生きているから可能なことであって、自分が消えたりなくなったりしたら、もちろん不可能である。ものすごくあたりまえだ。
だから、死を恐れる気持ちというのが、私にはぜんぜんわからない。認識できないのだから、そこにもう自分はいないのだから、恐れることすらできない。そうやおまへんか?
人間は生物であるから、命の危険を予測してそれを回避するよう本能づけられている。その予測能力が恐怖という感情とリンクしている。猫にだって恐怖の感情はある。しかしそれは具体的な危険に対応するためのシステムであって、知らないものまで恐れはじめたら、人はのべつまくなしずっと恐怖を抱きつつ生きなければならない。そういう人が実在することも知っているけどね。
つまり死を恐れる人というのは、生物学的本能的な恐怖が、死という抽象概念にまで延長されて、頭の中がぐちゃぐちゃになっているのだ。ちゃんと考えなさいね、とここでは言っておこう。
自分がなくなる、認識できない状態というのは、寝ているようなもんだ。死を恐怖する人たちは、ちゃんと睡眠がとれているだろうか。死が怖いのなら、眠るのだって怖いはずだ。そうやおまへんか?
私は、死はぜんぜん怖くない。その前段階に痛い苦しいがあったら嫌だなーとは思うが、それは痛い苦しいが嫌なのであって、死そのものについてはぜんぜんどうでもいいと思っている。
さて、自分の死のもうひとつのパターン、死後の生というものがあったりした場合について考えてみよう。
すべての宗教は、死後の生を有るものと考えている。死後の生が本当の生で、いま生きている生がかりそめのものだという主張も多い。
私は、それを全面否定するつもりはない。だって、死んでみなくちゃわからんものを、どうだこうだと言ってもしかたないじゃないか。
しかし世間でいろいろと語られている死後のなんとかかんとかというのは、どこかヘンである。
たとえば立花隆が分厚い本を書いていた「臨死体験」というやつ。あれなんて、キリスト教徒が臨死体験したら天使が出てくるし、日本人が臨死体験したら仏様が出てくる。死んでまでこの世の文化伝統時代背景に束縛されるのかね。それなら死ではなく、生そのものではないか。ただの夢とどこが違うのだ。
宗教関係者が言う天国地獄なんてのも、はっきりいってナンセンスである。坊さんがいくら勉強したからといって、一度も死んだことのない者が死後の世界など語れるはずがないではないか。しかも、宗教書にある天国地獄の様相は、それが語られ記述された当時の歴史的文化的背景に完全に束縛されている。そんなもん、宇宙の永遠と比較したら、薄っぺらな紙切れ以上のものではない。
私は、私がもうひとつの宇宙であると何度も書いてきた。私がいま有るということは、はてしない時間と空間の特殊な結節点として有るということだ。もちろん私だけではない。あなただってそうだし、パスカルさんがバカにした葦だってそうだし、バカ猫もそのようにして有る。
(ここで時間という言葉を使っているけど、あくまで便利な比喩として使っているので誤解なさらないでくださいね)。
そして私は、この結節点から宇宙を観照する。無限の時間空間、あらゆる次元はこの心の中にある。いま私が有るということは、宇宙の全層全時間を貫いて「いま有る」ということなのだ。
じゃっかん宗教的かな? いや、私は感情を凍り付かせて思い切りクールにこの文章を書いているから、ものすごく理性的に考えてやっぱりそうなのである。そういう立場で「死後の私」というものがもしもあったら、と考えてみよう。
死後の私なるものがもしも存在したとしたら、やはり認識運動をするわけだから、つまり命としての私であろう。命としての私には、当然のことながら始まりがあり終わりがあるはずだ。そこで死後の私は、いまの私と同じように、きっと次のように考えるだろう。
「私が死ぬとは、どういうことか」
死後の私がその死後のことを考えるわけだから、その私とは「死後の死後の私」ということになるな。ところで、またまたその「死後の死後の私」がその死後のことを考えたとしたら、「死後の死後の死後の私」ということになるが、その「死後の死後の死後の私」がさらに死後について考えたとしたら「死後の死後の死後の死後の私」ということになるわけで、さらにその「死後の死後の死後の…(白鳥座まで続く)」。
無限連鎖である。その一点に立つこの私は、いまそれを生きているという意味において、他の無限の点とは明らかに異なる。異なりつつ、特別な価値があるというわけでもない。全宇宙の無限点は、いまここに集約されている。べつにここでなくてもいいんだけど、私から見たら、たまたまそうなのだ。以前にも書いたけど、私と宇宙とは等価なのだ。
というわけで、今を大切に生きましょう。悪いことをして「死後の死後の死後の死後の私」あたりが後悔したり恥をかいたりしたら、かわいそうでしょ。というお話になってしまうのだった。
どうだい。天国地獄神様なんてところで思考停止しているアホどもと較べたら、よほど上等な死生観だしょ。
ああそれにしても、なんちゅう平凡な結論であることか。ほへ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こんな話をしていたら、いつもの超美女はにやりと笑って言った。
「そんなに死にたいなら、殺してあげようか」
「いや、わざわざお手を煩わしていただかなくても」
「まあまあ、遠慮なんかしないでいいわよ。ちょっとそこでじっ※□△て?$※…」
☆★◎※‰(∝∵∝)※!!
何が起きたのかよくわからない。どうやらキスされたらしいのだが、そうと気付く前に私は気絶していた。
そうか、これが死か。
終わり。(ご愛読ありがとうございました)。
[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
[original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com]
[mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]
【猫哲学99】猫哲学超特別対談:猫恋愛論。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
(2006/05/05)
今回は、いつもと違って対談形式でお届けする。対談の相手はおなじみの超美女である。テーマは「恋愛について」。らしくないテーマである。私に扱えるわけがない。誰かに助けてもらおう、というわけで今日は、初めて彼女をわが家へ招待したのだった。
♪ピンポーン~
「おお、ようこそ。いらっしゃいまへ」
「おじまー」
「どぞ、ずいと奥へ」
「へー、こんなとこに住んでるんだー。意外にきれいにしてるね。けっこう広いし、いいじゃん」
「まあまあ、お茶でもいれるから」
「ぐにゃニャ」
「あー、きみが噂の猫ちゃんねー。おー、よしよし」
「このバカ猫。美人だとあっという間になつきやがって。やっぱり雄猫だな」
「ところでさ、招待してくれるなんてどーしたこと? 初めてじゃん」
「それなんだけどね、猫哲学もあと2回で終わりだから、やっぱり恋愛論をやっつけときたくてさ。ところが、オレには恋愛体験というものがない。そこできみの助けを借りたいわけ。はい謎のお茶」
「ごち。あら、不思議な香り」
「砂糖は?」
「いらない。でもさ、恋愛論なんて、知らないならやんなきゃいいじゃん」
「でもね、下手に知っているより、知らないほうがおもしろくなるかもしれないだろ」
「詭弁ね」
「おっしゃる通りだよまったく。でも、その方面ではすごく笑える話があるんだ。スタンダールという人が『恋愛論』って本を書いてるだろ」
「タイトルは知ってる。読んだことないけど」
「オレも。でね、このスタンダールって人は、知られてるだけで12回も女をとっかえひっかえ、独身のまま59歳で死んだ」
「あっはははははは」
「お隣に迷惑だからその笑い声はなんとかしてくれ」
「あはは、ああ苦しい…。要は、12回も失敗したわけでしょ。よくもまあ、その程度で本なんか書くわね」
「ほんと、そう思う。きみの助けを借りようと思いついたオレなんて、まだまだかわいいもんだと思わないか」
「そんな本が売れてるなんてのも、また不思議よね」
「そーなんだよ。不思議だろ。でもまあ、いくらなんでもスタンダールの同時代の人はわかっていたらしくて、バカにしてたみたいやね。あの本、初版は22冊しか売れなかったんだと」
「そんなもんが、なんで日本で有名なわけ?」
「知らんがな。悪しき舶来趣味の典型ってやつじゃねえのか。ひょっとしたらギャグ本として読まれているとか」
「恋愛って、本を読んだらわかると思っているのかしらねえ」
「そこなんだよ、オレが疑問なのは。ひょっとすると世間ってのはさ、恋愛について意外とよくわかっていないんでないかい、本当は」
「中国の映画で『初恋の来た道』ってのがあるの」
「おお、きみにしては高尚なとこから切り込んできたな」
バコッ!
「痛たたた。さいきん、やたら暴力的になってないか、きみ」
「その映画は文革時代の中国のど田舎が舞台なんだけどね、主人公の女の子が恋をするのよ。それが、村はじまって以来で初めての自由恋愛だって、村中が大騒ぎするの」
「文革というと、そんなに昔の話でもないよな。あ、そうか。オレの両親の時代でも、自由恋愛はお話の中だけのことで、結婚はお見合いがほとんどだったらしい」
「そのあたりの昔にはまだ新鮮だったのね、スタンダールさんでも」
「時代ってことかあ。でも、まだ売ってるぞ新潮文庫」
「で、そろそろワインが出てくるんじゃないの?」
「あ、まさかそれが狙いで…」
「それ以外に何があるわけ?」
「へいへい、わかりますた。ちょいお待ち」
「わくわく」
というわけで、別室からワインを持ってくる私なのだった。
「こんなでどう。1990のバローロ」
「ありがちだなー」
「きみはな、あっちこっちで贅沢しすぎなんだよ。それに、こいつはちっとスペシャルにゴージャスなバローロだぜ」
「まさか、ガヤ?」
「そうだがや」
「名古屋のイタリアワイン」
「うー、それは不味そう」
「わかったから早く開けて」
きゅっ、きゅっ。ぺり。ぎりぎりぎり、ぐいー、ぽこ。
「ガヤはコルクがちょー長うてかんわ。お、ええ香りだがや」
「さっさとしてよー」
「15年も寝ていたワインを、急がせるものではない」
「あ、でかグラス。さすがね」
「ほいよ。1杯目は、20分以上時間をかけてゆっくり飲むように」
「わかってるってば、くんくん。あ、いい感じー、幸せ」
「ということで恋愛論の続きをやろう。猫の恋、って言葉があるな。俳句の季語にもなってる」
「うほ、キャベツの香りだ」
「キャベツう?」
「ネッビオーロの開いたのは、キャベツの香りがするのよ」
「そういわれてみれば…。つーことは、バローロはお好み焼きに合うのかあ? 試してみたいような怖いような…」
「ね、もう一本開けてよ」
「贅沢やなあ」
「比較しながら飲むのが楽しいのよ」
「ほれさ、これまた1990で、サンジョヴェーゼVDT」
「何だ、用意してるじゃん。おー、フレスコバルディ」
「恋愛論はどうなった?」
「うわー、菊の香り。お葬式の」
「なんちゅーことを。形容がメタメタだ」
「甘くフルーティで優雅なフレーバーにほのかなヴァニラ香。なめらでいて凝縮感ゆたかなボディ。余韻はハープの音のように透明かつ複雑で長く遠く響き合う…、なんて言ってほしい?」
「気持ち悪い」
「でしょ」
「まあいいや。それより恋愛論」
「パンとチーズちょうだい」
「へいへいわかってます…。ほれさ」
「便利な家ねえ。これからもっと招待してよ」
「やだ。セラーがあっつー間に空になる」
「ケチ」
「そんなヒマがあるなら、他の男の相手もしてやれよ。喜ぶぞ」
「まあね。でも最近の男って、フランスワインばっかでさ。それもブルゴーニュ派が多くて。飽きた」
「恋愛論はどうなった」
「猫の恋ねえ。あれは、牡猫がパパッとやって、後ろも振り返らずにすたすた去っていくのがかっこいいのよ」
「ぜんぜんロマンチックでないな」
「人間の男がそれをやったら、確実に嫌われるわよ」
「ちょっと待ってニャ」
「なんだバカ猫、おまえも発言するのか」
「猫の発情期は年4回ニャ。短い期間にたくさんの雌猫としなければならないから、ぐずぐずしてられないニャ」
「あら、説得力あるわね」
「だからといって、誰かとゴロゴロしたいという気持ちは別のものとしていつも心にあるニャ。猫はそこのところを混同しないのニャ」
「ふむ、性愛と恋愛とは別の感情だというわけだな。なかなかに見事な論理だが、美人の膝にネコろがってしゃべるんじゃあなあ…」
「ニャので、その概念が混乱したままの近代俳句なんて、ぜんぶカスだニャ」
「おまえ、いつのまに牡猫ムルに変身したんだ」
「賢い猫ちゃんねえ。猫哲学って、やっぱりきみが書いてたのね」
「おいおいおい」
「猫の恋が春の季語って、どういうことよ。ジョークのつもりかな」
「そこがよくわからない。俳句界というのは、ときどきとんでもなく非論理的だからな」
「あ、夕張メロンの香りがでてきた。ほらサンジョヴェーゼ」
「そんなメロン、食ったことがないからわからん」
「あなたの食生活って、ぐちゃぐちゃに偏ってるわね。ワインにばっかりお金をかけてさ」
「ケチをつけるなら飲まさない」
「この世でいちばん悪いことはね、一度あげたものを奪い返すことよ」
「あげたつもりはないんだけど…」
「開けた以上はあたしのものよ」
「ふえーん。何か理不尽な気がする」
「これが世界の良識よ」
「あー、もう。だから恋愛論だってば」
「ふにゃあ」
「猫の口真似をするなよ。読者が混乱するだろ」
「ぐニャ」
「こらバカ猫、おまえまで調子にのって」
「パンをもっと切ってよ」
「…とにもう」
がきがきがき(フランスパンなので固い音)。
「対面型キッチンっていいわね。キッチンに立っても会話ができる」
「ほいさ、フランスパン。それでな、グーグルで恋愛論をキーに検索したんだ。そしたらさ、80万件もヒットした」
「読むのに1年かかるわね」
「それ以上だよ。パソコンがパンクする。オレにはよくわからないんだけどね、恋愛論を読めば恋がわかるのか」
「ば~か」
「じゃあ、なんだって恋愛論が百花繚乱なんだ」
「わからないからでしょ」
「はへ? 恋がわからないから恋愛論を読むんだろ? でも恋愛論を読んでも恋はわからない? どういう構造なんだよ」
「そんなもんじゃないの、恋にかぎらず」
「あ、そうか。哲学もいっしょか。本当にわかるものなら、議論そのものが必要ないもんな。恋と哲学とは似ているのか」
「恋には、そこに欲望とプライドと世間がからんでくるから、よけいにややこしいのよ」
「なるほど。哲学のほうが純粋なぶんだけ、単純ともいえるわけだ」
「どうかな。哲学だって、けっこういろいろとからんでない?」
「まあね」
「こないだあげた生ハム、まだ残ってるでしょ。出して」
「このワインに合うかな…」
「やってみなくちゃわからないでしょ。そんなんだから恋愛のひとつもできないのよ」
「うえー、生ハムの話でそこまで言われるか」
どしょ、がさごそ。バタン(冷蔵庫のドアの音)。
「ほい、どうぞ」
「ホントに便利な家ねえ。毎週こようかな」
「やめてくれないか。ご近所の噂になってしまう」
「ほらー、ワインに相性ぴったりじゃん、生ハム」
「自慢されてしまった」
「あ、バローロの味が変わった」
「これからがバローロの本領だぜ」
「よいしょっと。冷蔵庫の中を見ちゃお。あ、トマトみっけ。早く出してよね、もう。気がきかないなあ。うわ、ズッキーニだ。わお、ルッコラ。レタスもあるじゃん。包丁どこ?」
「左下のドアを開けて」
「オリーブオイルと塩」
「ちょっと待って、…ほい」
「ワインビネガーは? それとアンチョビ」
「もう。本格的に夕食を始める気かよ」
「こんなワインを飲ませといて、いまさらどこへ行けっていうわけ?」
さくさくさく、とんとんとん(包丁の音)。♪~
「歌っていやがる」
「ぼくもメシにゃ」
「だから猫の口真似をするなってのにまぎらわしい。おいバカ猫、メシにするか?」
「ふニャ」
「さあ、できたー。飲むわよー」
「なんだか恐ろしくなってきたぞ。で、恋愛の話だけど」
「ほんとに恋愛経験ないの?」
「ないよ。失恋すらない。片思いならなんぼでもあるけど」
「初心者マーク以下の人にF1の話をしてもねえ…」
「お、つーことは。きみはF1クラスか」
「あったりまえじゃん」
「そうかなあ。失恋経験はなさそうだけどな」
「あたしに、失恋経験がないとでも?」
「そう見えるよ」
「へん、あるわよ、それくらい」
「だからって自慢そうに言わんでも」
「あたしの経験からわかった真理のひとつはね、妻子のある男は必ず嘘をつくってこと」
「嘘?」
「そう。妻とは別れるとか家族とうまくいってないとか。そういうのにかぎって、週末は喜々として家族団らん」
「なるほどー」
「もうひとつの真理はね、妻子のある男が愛人をつくったら、必ずまた別の愛人もつくるってこと」
「きみにそんな切ない経験があったなんてねえ…」
「見かけで判断しないでよ。心は普通の女の子なんだから」
「普通じゃないと思う。どう考えても」
「あ、バローロが空いちゃうよー。とととと」
「底に澱があるから気をつけて…。おい、待てよ。オレは半分も飲んでないぞ」
「飲みましたー。ちゃんと見てたもん。女はそのへんシビアなんだからね」
「くそー、反論するにも証拠がない」
「それより、次のワインを持ってきてよ」
「まだ飲むのか」
「何を甘いこと言ってるの。これからが本番じゃない」
「あああ、恐怖の予感は現実になった。ぶつぶつ」
2分経過。
「これなんかどうかな。バルバカルロの1989」
「それ有名。こないだ飲んだし」
「あそ」
「引っ込めないでよ。誰が飲まないって言った?」
「ほよよよ」
「他には?」
「じゃ、これは? ネロ・ダーヴォラ1997。それともバルベーラの1998」
「よし、ネロくんいってみよう」
「本日の主題は恋愛に関する対談のはずだが」
「飲み会で、会話の中身が恋愛のことにすればいいじゃん」
「勝手に定義されてしまった。ほいさ、ネロくんどうぞ」
「あ、湿った野原の香りだ。タンポポの咲いてる」
「初めてまともに形容したな」
「ちょっと。気分がのってきたわ。BGMかけて」
「どんな?」
「やさしくて切ないやつ」
「ほんじゃモーツァルト」
(BGMスタート~♪)
「恋ってね、ワインのようなものなのよ」
「ありゃあ、えらく雰囲気の違うことを言うじゃないか」
「しばらく黙ってなさいっ!
…恋は、ひとつひとつぜんぶ違う。一本として同じワインがないのと一緒なの。はい、BGMちょいアップして。照明落として。
♪~<
それぞれに香りが違う、味が違う、色が違う。
時が経てば深みが増すけど、フレッシュなのもまたいい。
甘みがあるけど、渋みも苦みもある。
温度と光にデリケート。
適量は身体にいいけど、過ぎると身を滅ぼす。
好みのタイプはそのつど変わる。
大人にならないと本当の味はわからない。
雨のときには、いっそう恋しい。
そう、雨のときには…。ワインもそう…、恋もそうなの…。
はい、BGMフェードアウトして。
~♪>
そうして彼女は小さなため息をつくと、遠い目をして長い髪を掻き上げながら、彼に白い横顔を向けた…」
「と、口では言ってるけど、現実にはワイングラスをぐりぐり回しつつルッコラをぽりぽり食っておるのだ」
「もう、せっかく読者に夢を与えてあげたのに」
「その手にひっかかるほど私の読者は素直ではないぞ」
「あなた、ワインを定義できる?」
「葡萄からつくる醸造酒」
「それって、定義になってないわよね」
「なってないね」
「恋も一緒よ。定義なんか不可能。でも、定義できなくても確かにそこにある。定義するっていうのはね、小鳥を鳥かごに閉じこめるのに似てるわ。それで手に入れたような気になっても、本当の意味は死んでしまう…」
「酔っぱらってるか?」
「ぜんぜん」
「でも、えらく冴えてる」
「いつだってそうよ。バカにしてない?」
「それにしても、きみからさっきみたいなかっこいいセリフを聞くのは初めてだ。とてもしらふとは思えん」
「殴ってあげようか」
「遠慮しときます。だけどあの言葉って、哲学的じゃなくて詩みたいだけど、何となくまとめられてしまったような気がする。なんだか恋愛論を続ける気がなくなったなあ」
「そ。理屈なんて、やめときなさい」
「ということはだな、恋というワインと人生という料理がベストミックスになったときに、それをマリアージュ(=結婚)と呼ぶわけか」
「あらら、面白いことを言うじゃん」
「じゃあ最後に、オレにもひとこと言わせてくれ」
「どうぞ」
「恋に強い女は、ワインにも強い」
「あたしなんかもう、弱くて弱くて」
「大嘘をつくなー!」
「ほらほら、サンジョヴェーゼが空いたわよ、次の」
「へいへい、バルバカルロ」
「わーいバルさん」
「バルさん…」
「何か?」
「いや、話を落とすのがお上手ですね」
その日は、夜中まで飲んでしまった。午前3時を回った頃、かの超美女はこう言って去って行ったのであった。
「今日はこのくらいにしといてあげるわ。またね」
女は災難である。恐怖である。やはり私には、恋愛など無理だな。
[上の文章は、約4年前に書いたものです。][original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com][mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]
【猫哲学98】 美人のお話。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
(2006/04/28)
なあバカ猫、ぐーってゆうてみ。
「なにゃ?」
ぐー、だよ。ぐー。
「ヴー」
違うよ、ぐー。ヘッドロックしてやろうか。
「ぐー」
よろしい。それは古代中国の美人の名前だ。
「ニャんのこっちゃ」
とういわけで、今回は美人のお話である。みなさん、けっこうお好きでしょ。といっても、いつもの超美女とは何の関係もない話なので、そこんとこはよろしく。
世界三大美人というのがある。誰が決めたのかは知らないが。その三人とはクレオパトラ、ヘレナ、楊貴妃である。
クレオパトラは有名だし、本シリーズでもパスカルさんのときに書いてしまっているから触れない。
ヘレナというのは耳慣れないかもしれないけど、いわゆる「トロイのヘレン」である。
この女は、スパルタ王メラネオスの嫁さんのくせしやがって、出張に来ていたトロイのバカ王子パリスと恋仲になり、トロイへと駆け落ち。ギリシア軍によるトロイ10年包囲戦争の口実にされた。トロイが落城した後はスパルタに連れ戻されている。さぞつらい余生を送ったんだろうとは思うけど、それでも戦場で殺されることもなく、生かして連れ戻されるほどの美人だったということらしい。
まあどうでもいいけど、このヘレナってあまり頭の良さそうな女性とは思えないな。私はバカ女って好きじゃないのだ。それに、本物の美人にバカはいないよ。
日本で三大美人を語るときには、ヘレナに替わって小野小町が入ってくるようだが、スケールが小さい小さい。やっぱり一国の運命を傾けてこそ世界的美人だと思うぞ。とはいっても、これらみなさんは写真を残されていないので、顔は比較のしようがない。だから、その人が何をしたのか、どういう歴史に関わったのかが評価のポイントだろう。
そこで三番目の楊貴妃だが、これは中国四大美人の話とダブってくるのがややこしい。だから、ここからは中国の話に突入する。
で、やっぱり中国となると話はスケールアップして、三大美人では収まりきれなくなり、四大美人のお話となる。その四人とは、楊貴妃、王昭君、西施、貂嬋である。残念ながら、冒頭でバカ猫に言わせてみた倶美人は入っていないのだ。好きなんだけど。やっぱり中国は奥が深いのだな、とありきたりの感想を述べつつ、四大美人について解説してみよう。まずは楊貴妃から。
楊貴妃は唐代の人。玄宗皇帝の寵愛を受け、唐を滅亡寸前にまで導いた。まさに代表的な傾国の美女である。
傾国という言葉は美人の代名詞だが、美人すぎて国を傾けるという意味。やっぱり美人というなら、ここまでやってくれないとな。傾国よりもちょっとスケールの小さい言葉で、傾城というのもある。城を傾けるという意味だが、日本のちゃちなお城とは違い中国のそれは都市そのものだから、やっぱりこれでもスケールはでかい。
楊貴妃はもともと玄宗皇帝の息子の后だったのが、お父ちゃんの玄宗が横取りしたの。当時の中国では后なんて何人でもいたのだから、軽い気持ちでやったんだろうなと私は思っていたのだけど、実はそうでもなかったらしい。楊貴妃を息子と別れさせてから一時的に寺に入れ、それからゲットしたんだとな。いちおう世間体に気を使ってやんの。
玄宗皇帝は楊貴妃にメロメロになったあげく、政治をいっさい顧みなくなった。さらには楊貴妃の家族一門を出世させ、高い身分に据えた。美人の彼女におねだりされたら断れないなんて、かわいい男であるな、玄ちゃん。
そのあげく、楊貴妃の従兄弟である楊国忠に政治を好きなようにめちゃめちゃにされてしまった。彼は政治的ライバルである節度使の安禄山を破滅させるため、楊貴妃を通じて玄宗皇帝に安禄山の悪口・嘘・スキャンダル等々を吹き込んだ。これで身に危険を感じた安禄山は反乱を起こす。有名な「安禄山の乱」。高校の世界史で習いましたね。
で、安禄山は強かったの。そのために玄宗皇帝と楊貴妃は長安の都を逃げ出したんだけど、途中で護衛の兵士たちが反乱を起こす。何もかも楊貴妃のせいだ、この女を殺せ、と玄宗に迫った。
これほどにまで惚れぬいた女を、自分の命令で殺させなければならない。うわ~、これはつらいよ。想像を絶する。私だって、さほど愛してもいないバカ猫でさえ、絞め殺すなんて考えられないもんな。でもけっきょく、楊貴妃は首を絞めて殺された。う~ん、悲しいね。じゃっかんお笑い風に始まった恋愛物語は、この場面になって一気に極限の悲劇となり終わるのである。
やっぱり、美人には悲劇が似合うな。
ちなみに、唐代の詩人杜甫(とほ)に「春望(しゅんぼう)」という傑作がある。安禄山の乱のために荒廃した都を詠んだものだ。
国破山河在(国破れて 山河あり)
城春草木深(城春にして 草木深し)
感時花濺涙(時に感じては 花にも涙をそそぎ)
恨別鳥驚心(別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす)
(以下略)
みなさんご存じですよね。この詩の背景に、中国史を代表する悲劇の美女の姿を重ねると、味わいが十倍くらい増すでしょう。
さて次へいこう。中国四大美人の二人目、王昭君である。
おうしょうくん、と日本では読んでいる。紀元前一世紀、前漢は元帝時代の人である。楊貴妃よりも800年あまり先輩だな。
王昭君は貴族の家に生まれ、何不自由なく育った。評判の美人に成長し、やがてその噂は帝のもとにも届いた。そこで元帝は、王昭君を後宮に呼び寄せる。妾になれということだけど、気に入られれば一族郎党出世のチャンスでもあるわけだし、身を犠牲にしてまで家族に尽くすのは中国の伝統だもんな。
ところが後宮にはすでに3000人の美女がいた。やるねえ、さすが中国、話がでかい。元帝はいちいち女の顔と名前を覚えていられないので、絵師に彼女たちの肖像画を描かせて、それで夜のお相手を
選んでいた。超プライベート豪華版美女カタログだな。
それにしても3000枚だよ。どうやって選んでいたのかなあ。想像もできない。目を通すだけで夜が明けちゃうだろ、ふつう。
で、その肖像画が悲劇のネタになる。後宮の宮女たちは絵師に賄賂を送って、実物以上に美しく書いてもらっていたの。ところが王昭君は名家のお嬢さんだから、賄賂なんて下世話なことは知らない。だから絵師は、彼女を醜く描いたのだそうだ。ほんとにもう、これだから皇室御用達の絵師なんか信用できない。
そんなこんなで王昭君は帝に相手にされず、のんびりとした日々を送っていたんだそうだが、ここに外交問題が降りかかる。漢と国境を接して何かと問題の多かったと匈奴が、「漢の美女をお嫁さんにくれたら、和睦してやっていいよ」と言ってきた。
そこで元帝は考えた。「後宮3000人のうちでいっちゃん醜い女をくれてやろう」。せこくないか、元ちゃん。3000人もいるんだろうに。そこでさっそく美女カタログを取り出し、選ばれたのが醜く描かれた王昭君。やっぱり賄賂って必要なんだな、と思っても遅かった。
王昭君を匈奴に送り出す儀式が催され、そのときになって初めて元帝は彼女を目にする。「なんや、話が違うで。どえりゃー美人やんけ」と言ったかどうかは知らないが、命令は撤回できない。帝は激しく後悔したという。
王昭君はその後、夫の呼韓邪単于(こかんやぜんう、と読むらしい。ものすごく悪意に満ちた漢字表記だよな)が亡くなると匈奴の風習に従って息子と結婚させられそうになり、自殺したという。でも、これはあくまでも伝説。別の人の嫁になって長生きしたという話もある。王昭君の物語全体が伝説の域を出ないという歴史家もいて、2000年以上も昔の話だし、まあいいか。
この話の教訓は、いくら美人でもプライドを持ちすぎるとえらい目に遭うよ、というところかな。
さあ次に、中国四大美人の三人目、西施のお話をいってみよう。実は私、この人がいちばん好きである。せいし、と読む。
時は春秋戦国の世。漢代の王昭君よりもさらに400年ばかり前の人だな。中国はその頃、中小国家に分裂し、勢力を争っていた。中でも呉と越の二国が強大で、長いあいだライバル関係にあった。これは「呉越同舟」なんて言葉にもなって残されていますな。
越王勾践は呉王夫差との決戦に敗れ、屈辱の日々を送っていた。そんなとき、越の田舎で育ったという絶世の美人の噂が飛び込んできた。それが西施である。
越王は彼女を見て、「よっしゃ、この女を使って呉を滅ぼしてやろ」と決意する。自分の女にすればいいじゃん、もったいないなあと思うのは凡人の浅はかさ。伝説の人物たちは発想が違うのであるぞ。と、書いてはみたものの、戦争では勝てないから女を使うなんて、どういうもんかね。まあ、現代の感覚で歴史を評してはいかんのだけどね。でも西施はかわいそう。
西施は越の王宮であらゆる教養をたたきこまれる。わずか一年で書に通じ、詩を吟じ、舞に長じたというから、頭もよかったのだな。というか、天才じゃないか。教養の中にはベッドテクニックもあったという噂もあるが、詮索しないでおこうっと。
こうして博学才色技芸多彩にして最強無敵の美女となった西施は、呉王夫差に献上される。胸に裏切りを秘めた美女ほど妖しく美しいものはないよー。夫差は西施に夢中になり、酒食におぼれ国政を顧みず、何だかさっきも書いたような話だな、太湖西山の地に豪華宮殿を造って国を傾けさせる。まさに傾国の美女である。
こういうのを現代の外交用語では「ピンク・トラップ」という。桃色の甘い罠(笑)。橋本龍太郎が首相だったときにも、これにひっかかった。相手は中国美女である。ごく最近でも外務省の中国大使館付き事務官がひっかかって自殺してやんの。中国じゃ、こんなの2500年も前から常識なんだけどな。日本の外交ってやつもセンスがないねえ、という話はさておき。
西施の話を続けよう。
さらに彼女は、呉王夫差の最も有能な部下であった伍子胥を謀略で失墜させ、ついに無実の罪で殺させてしまう。これで呉の国内はガタガタになった。
国内の憤懣や混乱を静めるのに戦争を利用するのは今も昔も変わらないが、夫差もまた斉国に戦争をふっかけ派兵する。呉と斉が戦争で弱ったところで、越王勾践は呉に戦争をしかけ、あっけなく呉は滅ぼされてしまったのであった。傾国おそるべし。
越はその勢いで中国主要部を制圧し覇権国家となった。その後、越王は蘇州に凱旋する。そのときに、もっとも大きな功績のあった西施をどうするかが問題になった。王はその后に「どうしたもんかね」と尋ねたのだ。いかん、いかんよ、女に女のことを聞いちゃいかん。
そこで西施の美貌が仇となっちゃった。后は嫉妬心から「役目の終わった者なんて殺しちゃえば?」と答えた。越王にもいろいろと事情があったんだろうね、結局のところ西施は殺されてしまったのだ。かわいそうすぎないか、それ。
別の伝説では、王の部下と落ち延び、ひっそりと天寿を全うしたとされる。そうであってほしいのだが、昔の話なのでよくわからない。
いずれにもせよ、女は最強の戦略兵器として使えるが、その女の敵は女である、ということかな。てなところでまとめたら陳腐にすぎるか。でも私はこの西施という女性、かなり好きである。だって美貌と知性と胸に一物なんて、美女の理想形じゃん。ぬふ。
さあ、四番目をいってみよう。貂蝉という人の物語である。ちょうぜん、と読むらしい。
私は、この人はあまり好きではない。楊貴妃や西施ほどスケールがでかくないし、王昭君のような気高さもない。いろいろと謀り事をめぐらせるけど、どれもせこい技である。何よりもこの女性、実在の人物ではない。中国の古典小説『三国演義』に登場する架空の人物なのだ。何で四大美人に入れられちゃったのかよくわからないけど、ついでだから解説しとこう。
後漢の末の頃、ということは王昭君の時代から500年ほど後のことかな。丞相という巨大権力の地位にあった董卓というおっちゃんがいたとな。この人は呂布という大将軍を養子にして、いよいよ尊大横暴をきわめていた。まあ、独裁首相と軍事力の合体ということだな。こりゃ強いわな。
司徒(=宰相。エヴァンゲリオンとは無関係)の王允はこの状態を憂慮し、「連環の計」という策略をめぐらす。董卓と呂布との仲を裂こうというわけ。
王允は、すんごい美人で歌の名手、当時16才の貂蝉を養女にして、まず呂布の嫁にやる。そしてその後、彼女を取り返して董卓の妾にやらせた。呂布は、貂蝉が董卓に奪われたのを見て、かなりムカついたんだって。
ある朝、董卓にしたがって宮中にでた呂布は、董卓が漢の献帝と話している隙を狙って、こっそり丞相邸へ。そして貂蝉と密会した。ちょうどそこへ董卓がもどり、二人の密会に出くわしてしまう。わーい、浮気だ浮気だスキャンダルだ。董卓は怒って、戟を呂布にめがけて投げる。呂布は命からがら逃げだした。
みごと「連環の計」炸裂。董卓と呂布は不仲になり、やがて呂布は董卓を殺してしまう。後に呂布も戦に敗北、貂蝉も囚われの身となる。
その後どうなったかには諸説あるけど、もともと創作上の人物なのであまり興味はない。調べる気にもならない。何となく四大美女のうちではもっとも存在感のない人である。史実は、人の想像力の上をいくということかな。
これではあまりに尻すぼみなので、中国四大美人に入れてもらえなかった倶美人の話を書いておこうっと。
倶美人、正式には虞美人と書く。虞姫と書かれることも多い。この人は、マンガ版『三国志』でもビッグヒーローとして扱われている西楚の覇王、項羽の愛人だった。(妹だったという説も、娘だったという説もある)。
楚と漢が中国統一をかけて戦った最後の大決戦である「垓下の戦い」において、項羽は砦を包囲する敵軍が故郷の楚の歌を歌うのを聞く。
「ついに楚までも敵に下ったのか、ああ、こりゃ負けだわ」
部下の兵士たちは次々と逃げ出し、ついには有力な将軍までも離散して、項羽の下に残った戦力はわずか八百。敵は数十万。どうやっても勝てる話ではなくなった。
という感じの、手も足も出ない状態を四面楚歌というのだよ。今回は勉強になるねえ。
そこで項羽は愛する虞美人と愛馬の騅を呼び寄せ、「垓下の歌」を詠んだのである。戦争中でも風流だな、中国人。
力拔山兮氣蓋世(力山を抜き 気世を蓋う)
時不利兮騅不逝(時利あらずして 騅逝かず)
騅不逝兮可奈何(騅の逝かざる 奈何すべき)
虞兮虞兮奈若何(虞や虞や 若を奈何せん)
んー、かっこいい。私が親切にも現代日本語にぽん訳しましょう。
私の力は山を大地からひっこぬくほど強大であるのに
私の気力は全世界を覆い尽くすほど広大であるのに
時の利だけがうまくいかず、愛馬の騅は進もうとしない
愛馬さえ進まないこの状況を、いったいどうすればいいのだ
ああ、それよりも、虞や虞や、おまえをどうすればいいのか
まーなんちゅうか、このように壮大な戦争絵巻の最後になって、血なまぐさい戦闘を描くのではなく、一人の女を心配してうろたえる男を描写するとはね。憎い演出ですなあ、司馬遷さん。
虞美人についても創作であるという説が根強いけど、この詩のおかげで不思議な存在感を保っている。虞美人草という花があって、ケシ科の真っ赤な花が咲き、はかなくも美しい。この花には、虞美人が自害したときに流した血が花になったという伝説がある。しかもケシ科だから、麻薬もとれる。なんかミステリアスやね。
虞美人という人の容姿がどうだったとかいう記録は少ないのだけど、何となく歴史に翻弄される女の切なさ感じさせて、とても気になる人である。でもやっぱり、美人だったんだろうなあ。そういうことにしておこう。
以上が中国四大美人+一美人の物語である。日本でこれに匹敵する人といえば、千姫くらいのものかなあ。もうちょっとがんばんなさいね、日本女性たち。と、とりあえず言っておこう。
日本という国は中国の伝統文化に依存してきた一面もあるから、中国の美女伝説を利用すればそれで足りたのだ、と言えるのかもしれない。それはともかく、中国の美人たちは想像力をバリバリに刺激してくれるので、とっても好きさ。
さて、ここからが美人についての哲学的考察である。
美人とは何か。
美人つーてもただの女やないか。顔の皮一枚だけの話やないか。美人屁もす…、おっと自主規制。
そんなことを議論したがる人は多い。しかし、そんな話、実は無意味なのである。美人とは分類するのでも形容するのでもなく、ただそこに居るのである。美とは何か、彼女自身がその答えであり、それは言語を超えている。
私の言うことがわからない人は、本物の美人に出会ったことのない人であろう。本物の美人というのはねー、見ただけで心臓がひっくりかえり、言葉は意味を失うのだよ。美とはつまりそういうものである。
私は何度か絶句するほどに美味しいワインに出会っているが、美とはそのようなものである。音楽でも美術でも料理でも、どのようなジャンルだろうと同じようなことなのだろうと思う。美は、言葉を超えてこそ美といえるのだ。
美人というのは、そのような存在としてこの世に生まれてきた人たちだ。神様はじつに不公平なのである。とはいっても、「美人は必ず不幸になるの法則」というものがあるので、必ずしも不公平とは言えないかもな。
美とは何かについては、かのソクラテスがやはり問答を展開しているので引用しよう。私の拙い文章よりもよほど本質に迫っている。
(プラトン著『パイドン』より引用)
「われわれは<正しさ>がそれ自体としてあることを認めるだろうか。認めないだろうか」
「認めますとも、誓って」
「さらに<美>や<善>は?」
「もちろんです」
「では君はそれまでに、そういうもののどれかを、目で見たことがあるかね?」
「いいえ、けっして」
「ではそれ以外の身体の感覚のどれかによって、それらにふれたことがあるかね? ぼくが言うのはおよそあらゆるものについて、例えば<犬>や<健康さ>や<強さ>について、その他一言で言えば、『まさにそれぞれであるところのもの』としての、すべてのものの本質についてなのだが」
このような言い方でソクラテス(実は著者のプラトン?)は美そのものを議論することの無意味さを説いている。そこから独自のイデア論が導かれるわけだが、後は専門書にあたってちょうだい。
そしてソクラテス(=プラトン?)は、こう言い切る。
「美は、美そのもの因って美しい」
私たちは、美人にイデアを見るのである。美人にただの肉体や顔の皮一枚だけを見る人は勝手にすればいい。そうとしか見れない人もいることは、否定しない。これ以上は生き方の問題である。もっと端的に言うと、趣味の問題である。そんな人には、一言こう言ってやろう。
「心が貧しいね」
ここで終わってもいいのだけど、私にこうした考察を始めさせるきっかけになったことについて書いておきたい。韓国映画の話である。
またかよ、とお思いだろうが、まあええやんか。猫哲学もあと三回で終わりなのだ。たまには好きなことを書かせてくれーい。
韓国というのは世界三大美人国のひとつであるらしい。
なぜそうなっているのかは知らない。韓国の人が言っているのだ。私のせいじゃないもんね。ちなみに、残りの二大国がどこなのかも知らない。
でも私は、その話を認めている。韓国映画を観ていると、本当に美人が多い。そのなかでもとりわけ好きな女優が二人いる。
一人は伝説的名作『猟奇的な彼女』で一気にアジアの大スターとなったチョン・ジヒョン。この人はそれほど美しい顔だとは思わないのだけど、その存在感に圧倒される。単に演技が上手いということだけでは説明できない。とにかく心を奪われてスクリーンに目を吸い付けられる何かを持った美女である。
もう一人は、傑作『私の頭の中の消しゴム』で日本でも評価が定着したソン・イェジン。この人は透明感があって、そのうえ本当に演技が上手い。初めて彼女を見たのは『ラブ・ストーリー』という作品だったけど、その映画出演当時、彼女はまだ20歳だった。信じられないことにその若さで、すでに大女優の風格を漂わせていたのだ。
この二人は、まだ20代前半である。すごく若い。私は、この二人を追っかけているだけで、今後10年は楽しく生きていけるだろうなーと考えていた。ところがそれに加えてとんでもない女優さんを知ってしまったのだった。
その人は、キム・ヒソンさんという(なぜだか「さん」をつけてしまう)。日本ではあまり知られていないが、すごく綺麗な人である。残念なことに出演作品に恵まれないので、というか何であんなカスばっかりに出とるんだろうイライラ、なのだが、それでも惹きつけられてしまうほどの女優さんである。
彼女につけられたニックネームは「韓国一の美人女優」。まったくその通りだと私は思っている。
以上、三人の女優さんをして、韓国三大美人女優と私は勝手に呼んでいる。いずれ日本でも大ブレイクすることだろう。そうなることを願って、私は東アジア圏の友好と平和と発展を祈る。韓国も中国も大好きだぜい。誰か文句あるか。
これをわざと邪魔してブチ壊そうとしているアメリカの忠犬小泉ポチ畜相め、呪ってやる。
ほへ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたもやっとわかってきたわね」
と、例の超美女は生意気なことを言う。
「美人は説明不能なのよ」
「ふん、前から知っていたけど、ちょっと書いてみただけさ」
「どうだか」
「あ、疑うのか」
「あなた、私を見ると目をそらすじゃん」
「そりゃそうだよ。バカな男どもみたいに、死にたくはない」
「それって、美から逃げてない?」
「うわあー、よくもまあそこまでぬけぬけと…」
「美を前に身構えてはだめよ」
「…ったく、どうしろと言うのだ」
「素直になりなさい。今日は食事につきあってあげるからね」
けっきょくそれが言いたかったのか、この大食い女。
ところで美女は一般に大食いであるというのが私の持論なのだが、みなさん、そう思いませんか?
[上の文章は、約4年前に書いたものです。][original from 【猫哲学HP】 http://nekotetu.com][mail to:nekotetu@mbr.nifty.com]
【猫哲学97】 イヌの話。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
(2006/04/21)
○○せんせいと酒を飲んでいたら、「犬のことはあまり良く書かないね」と指摘された。
当然である。犬は嫌いなのだ。
犬というのは、飼い主の権威を笠に着て、私たちに吠えかかったり噛みついたりする。何が気分悪いかといって、犬というやつ、飼い主といるときか家につながれているときにだけ吠えたり噛んだりすることだ。この世のどこかに一匹でも、飼い主の権威を笠に着て偉そうにしている猫なんているか? それだけ考えても、猫のほうがよほど上等な性質の生き物だろう。なあバカ猫。
昔、甲子園口に住んでいたことがあった。私の住んでいた賃貸マンションからJRの駅までの道はけっこうなお屋敷町で、どこぞの社長宅などがずらりと並んでいた。そのお屋敷の一軒に住む犬が、ものすごく嫌なやつだった。お屋敷の塀の向こうから、私にギャンギャン吠えまくるのである。もう、うるさいのなんの。
朝の寝ぼけ頭で出勤する私は完全ノーガードで歩いているから、突然これをやられたらびっくり仰天して心臓が飛び上がる。本当にムカつく犬である。
あるとき暇だったので、ギャンギャン吠えているそいつをじーっと睨みつけてやった。塀の内側にいるから手を出せないが、本当に絞め殺してやろうかと思った。
そのとき私は、頭の中で凶悪なイメージを掻き立ててみたのである。
「お前なんかなあ、そこらの野原でタイマンをはったら、いちころで殺してやるぞ。いや、すぐに殺すのはもったいない。まず金属バットで頭をぶん殴り、背中から肩から腹から尻まで順にぶちしばいちゃる。尻尾をつかんで振り回し、虫の息になったところで蹴り飛ばしてやる。後ろ足をロープで縛って引きずり回し、そのまま公園の階段を30段引きずり降ろしてやる。どんなことになるか、わかっとるんやろうなアホ」
何となく殺気が伝わったのだろう。犬コロは急に大人しくなって、塀から離れていった。
それがやけにおもしろかったので、私は毎朝、手をかえ品をかえ犬コロをいじめぬくイメージトレーニングを重ね、そのお屋敷の前を楽しみにしながら通りかかるようにしたのである。犬コロ野郎はそのうち、私を見ただけで逃げていくようになった。
これだから犬は気分が悪いのだ。安全な塀の内側で、私が油断しているときにだけ吠えまくり、こちらがそれなりに身構えると逃げていきやがる。猫の上品さ気高さのかけらもない。私は犬が嫌いである。
私が頭の中でイメージした犬いじめのうち、最も現実的で効果のありそうなのがあった。本当に実行してやろうかと思っていたのだ。どういう犬いじめかというと、「熊避けスプレー」である。東急ハンズで売ってるんだもんね~。
このスプレー、登山者の護身用のものである。山中でいきなり熊に出会ってしまったときに、熊の嗅覚を攻撃して撃退できるようにと、超刺激性の唐辛子とかそのあたりのものすごい臭いなのだそうだ。人間にはさほどでもないけど、鼻の敏感な犬科の動物には致命的らしい。こいつをポケットにしのばせて、例の犬コロが吠えついてきたら顔に向けてプシューっと…。
うははは、想像するだに楽しいではないか。
あまりにそのイメージが気に入ったので、私は犬を見るだけで「うふふふ、熊避けスプレー」とつぶやくようになってしまった。それ以来、私は不思議と犬には吠えかかられなくなったのである。なつかれることもなくなったけど。当然かもな。まあべつにいいけど。
犬と同次元で気分の悪いのは、NHKである。私はイヌHKと呼んでいる。
こちらが頼みもしないのに勝手に電波を飛ばしておいて、金を払えと言うのである。そんなおかしな話があるか。
この世のどこにだなあ、頼みもしないのに勝手に新聞を送りつけて、「新聞代を払え」という新聞があるかい。あ、ひとつだけ例外の新聞社があったな。聖○新聞という名前だけど、知ってる?
しかもその電波の中身が悪質である。国民への洗脳電波なのだ。
イヌHKの番組内容は、自民党の審査を受けている。政府の悪党連中にとって都合の良い番組だけが制作され、都合の悪い番組は放送されない。たとえばイラク戦争の悲惨な現状は、完全なタブーになっている。おかしいじゃないかと視聴者が指摘したら、「NHKは公共放送なので国の審査を受けるのは当然だ」とぬかしやがった。会長自身がその肉声で言ったのだ。
何が「みなさまのNHK」だ。自民党のためのNHKじゃねえか。最近は公明党のためのNHKでもあるな。イヌHKは、創価学会関連のニュースを流さないのだ。
某日の『NHKニュース7』生放送中のことだった。アナウンサーが「公明党の支持母体である創価学会が…」と言いかけたところでいきなりストップがかかった。そして「失礼しました」とだけ言ってぜんぜん違うニュースを読み始めた。後は知らんぷり。この様子を録画していた人がさっそくネットにアップし、誰でも何度でも確認できるような形で晒されている。こんなマスコミの存在を許しておいていいのか、みなさま。
そのうえやつらの組織内部も腐敗しまくっている。詐欺横領、使い込み、空出張などで億単位の不正がゴロゴロしている。事件として取り上げられるのなんて氷山の一角だ。
しかもしかも、しかもである。肝心の番組内容だって本当の事を言わない。嘘をつく。事例をあげればきりがないのでやめておくけどやらせプロジェクトX、本当にもう、ひどいもんである。
受信料の集金人というのが、また悪質だ。私のような筋金入りの反NHKは避けて通り、一人暮らしの若い女性とか母子家庭とか、生活保護世帯を狙う。この種の弱者ターゲットは、ほぼ100%確実に集金できるからである。
集金人は、こういう弱い女性の家を夜の11時頃に訪れ、扉をガンガン叩きながら「NHKです。NHKです」と叫ぶのである。女性は怖いし近所迷惑だし、これをやめてくれるならと観念して、金を払ってしまうのだ。
もちろんこれは脅迫であり犯罪である。生活保護世帯には減免制度もある。しかしすべての女性がそんな知識を持っているわけではないし、何よりも恐怖から逃れたい一心で女性たちは受信料を払う。これを毎晩続けられてノイローゼになり、ついに鬱病が発症して入院した女性もいるらしい。
こうした集金人の悪辣な手口はマニュアル化されて、すべての職員が常識として知っているという。集金人はNHK本体とは別の下請け会社に所属しているので、NHK本体のエリートがこういうヤクザ仕事に手を出すことはない。集金人が訴えられても、NHKは傷つかない仕掛けなのだ。こんちくしょう、こんな放送局が存在していていいのか。
NHKの受信料は放送法24条により規定されている。だから連中は法律を盾にとって庶民を脅迫するのである。しかし、いかに法律があろうと、それを行使するのに犯罪を手段としていいはずがない。これが、一見紳士風、実は卑劣悪辣公営ヤクザ放送の実態である。
NHKは「受信料負担の公平性のために」受信料を払えとぬかすが、不公平を創り出しているのはNHKである。「あいつもこいつもどいつも金を払っているんだから、お前も払えよ。不公平だろ」とNHKは主張しているわけだ。アホかい、そんなことをするよりも金を取るのをやめたらいいのだ。やつらが受信料を取らなければ、世の中は完璧に公平になるのである。
しょうもないロジックのすりかえをやりやがって。まったくもって小泉口先だけ自民党のやり口そのままではないか。
電気水道ガスなどは、生活に必要なものである。これらに払う金を公共料金という。NHKは生活に全く必要のないものである。何で金を取るのか、私にはさっぱりわからない。電気にしてもガスにしても、引っ越したらまずこちらから使わせてくださいとお願いに行く。そこで契約が成立し、納得して金を払っている。私はNHKに「どうか観させてください」などとお願いしたことは一度もない。なのに、どんな了見で金を払えなどと要求するのだ。
それに電気ガス水道は、金を払わなければ止められるだけのことだ。使ったぶんだけしか請求されない。公共料金だというならNHKも電波を止めればいいのだ。私はその電波を利用していないのだから、ちっとも困らない。かつて集金人に何度も「電波を止めてくれ。うるさくてしょうがない」と文句を言った。でも、止めてくれないのだ。押し売りよりもずっと始末が悪いではないか。
私の若い頃は、朝家を出て、帰ってくるのは夜中だった。放送なんて終わっていた。テレビはほとんど観なかったのだ。観もしないものに対して、何で対価を支払う必要があるのだ。法律論なんかどうでもいい。原理的、道義的におかしいじゃないか、ちゃんと説明してみろNHK。だというのにその頃のNHKの請求書ときたら、他の公共料金のどれよりも高かったのだ。ヘンだと思わないのか。
もっと原則論的なことから言えば、契約というのは当事者の合意に基づくべきものである。こちらが合意もしていないのに勝手に契約したとみなす放送法そのものが、憲法違反なのである。やーい、憲法違反団体イヌHK。ちゃんと反論してみなさいな。という話をNHKの集金人にふっかけたことがある。ヤクザ集金人風情がちゃんと反論できなかったことは当然だ。私は手強い男なのだよ。
去年からNHKの不祥事が次々に明らかになり、受信料支払いを拒否する世帯がどんどん増えている。この数字はもう元に戻らないだろう。誰でも一度不払いを体験してしまうと、その心地よさに気付き、受信料制度の欠陥を知ってしまうからである。
NHKの悪党どもは支払い拒否世帯に対して、督促状を送りはじめている。これが届くと、一週間以内に簡易裁判所で異議申し立てを行わないかぎり、請求書と同じ効力となる。そうなってしまえばNHKは支払い拒否世帯に契約不履行の訴訟を起こせるし、裁判には必ず勝てる。ほんとにもう、ロクなモラルも持ち合わせていないくせに、悪知恵だけは働く連中である。
これは視聴者が受信契約をしたことになっているからいけないので、契約解除を通告すればNHKもこの手は使えない。そういう知識のある私のような強者はいいが、何も知らない人々は悲惨である。
どう悲惨なのかというと、NHKに泣く泣く受信料を払おうとすればそれまで拒否してきた1年間とか半年分とかの滞納受信料を、一括して支払わないといけないからだ。少なくとも3万円にはなるね。気の毒な人々である。社会的弱者にはつらい金額だろう。世の中には一月を9万円とか7万円とかで必死にやりくりして暮らしている人がなんぼでもいることを考えると「そ、それだけは勘弁してくだせえ、お代官様」みたいな気分じゃないかな。悪代官イヌHK、どう思う?
イヌ公営放送の連中は高給取りだから、このように貧しい人々の生活なんて思いも及ばないのだ。お気楽な連中だよまったく。こうやって集めた受信料を、あいつらは飲み食いタクシー代、架空出張費で使いまくり、さらに制作費を横領して愛人と海外旅行なんかに行ってやがる。
直接横領して捕まるのはまだかわいいほうだ。頭のいいやつは多額の制作費を下請け業者に回し、接待してもらったりキックバックを受けたりしている。これだと、領収書でも残さない限り絶対に捕まらない。いいご身分である。
くぉらーっ!! 何様のつもりなんだ、イヌHK。社会正義はどこへ捨ててきた。
最近になってNHKは、自民党の代議士とつるんで、受信料不払いに対する罰則規定の法制化に取り組んでいる。イヌがついにイヌの本性を露にして、お上の権威を笠に着て牙をむきだしたというわけだ。どんな罰則規定になるのか知らないが、どうせ罰金かブタ箱かのどちらかだろう。きっとすごいことになるぞ。今から将来の新聞の見出しが目に浮かぶようだ。
「NHK受信料滞納で、禁固2年の実刑判決」
「NHK受信料が払えず、サラ金地獄へ」
「NHK受信料が払えず、一家心中」
「NHK受信料滞納で差し押さえ。マイホーム退去命令」
「NHKを一生恨みます。受信料自殺者の会、田中さん」
あ~あ、世の中に不幸をばらまいていやがる。わかったかイヌHK、おまえらは社会にとって害悪なんだよ。
電気水道ガス料金は、支払わなければ止められてそれで終わりだ。支払わないと処罰するなんて、公共料金の域さえ超えている。ほとんど税金だ。きさまは国家権力か、イヌHK。しかも、利用していないのに処罰するというのである。理不尽とはこのことをこそいうのではないか。
支払い拒否歴25年の私なんか、どういうことになるんだろうね。一気に100万円くらいの請求書が来るのだろうか。それが支払えなかったらどうなるんだろうか。差し押さえのうえ、マンションから退去か。あたしゃ一気にホームレスか。ひどい暴力だな、NHK。おまえらに社会正義を語る資格などない。そして社会正義を失ったマスコミなど、有害このうえない。早く潰れてくれ。それが世のため人のためだ。
おまえらが先の大戦中に何をやっていたのか、どういう非道を行ったのか、私は絶対に忘れないからな。
太平洋戦争のさなか、昭和19年10月19日、イヌHKのラジオ放送は次のようなニュースを大歓喜とともに伝えた。
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♪~すっちゃんすっちゃららっか、すちゃらかちゃん(軍艦マーチ)
□大本営発表
『我が部隊は10月12日以降、連日、台湾及びルソン東方海面の米新機動部隊を猛攻し、その過半の兵力を壊滅して、これを遁走せしめたり』
①我が方の収めたる戦果綜合次の如し
轟撃沈航空母艦11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、巡洋艦もしくは駆逐艦1隻
撃破航空母艦8隻、戦艦2隻、巡洋艦4隻、巡洋艦もしくは駆逐艦1隻、艦種不詳13隻、撃墜 112機(基地における撃墜を含めず)
②我が方の損害
飛行機未帰還312機
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これが本当なら米海軍が消滅したことになる。戦争は勝ちだ。だけど残念ながら、みごとにぜんぶ嘘である。米機動部隊は全く損害を受けなかった。軽巡洋艦2隻が小さな損傷を受けただけ。撃墜されて還らなかった日本の飛行機の実数だけはやや正しい。
この放送を聴いた国民は、日本が戦争に勝っていると思い込んでしまった。国民だけならまだいい。陸軍までがそれを信じた。「やったー、アメの海軍は消滅したよん。今がチャーンス、フィリピンで決戦だぜーい」。そう決心した陸軍は、全力をあげてフィリピンに軍隊を送り、そこでまたボロボロに叩きのめされた。
追いつめられた日本海軍は、ここでついに神風特別攻撃という狂気の戦術を採用することになる。こうした一連のことに責任を感じていないのか、イヌHK。人格的に破綻していないか、おまえら。
完全な嘘が、国家の戦略判断までも誤らせたのである。これを流したのがイヌHKである。連中はこのことに関して訂正放送も流していないし、反省もしていない。やつらの体質は戦後もそのままである。どうせいずれまた、政府の大本営発表として嘘をたれながすだろう。そうした情報操作は、もうすでに始まっている。私は騙されないけど、国民の大半はまた騙されるんだろうな。
で、その国民を騙す装置を維持するために、国民から金を取ろうというのである。支払いを拒否したら、処罰するというのである。これほどおいしい話はないよな、そうだろイヌコロ公営放送。
政府の権威を笠に着て一市民に牙をむき、金を払えと脅すような連中を、私はけっして許さない。徹底的に戦うぞ。どうせイヌどものやってくることだ、私の必殺技で撃退してやるさ。
どんな必殺技かって? それはね…
熊避けスプレーである。
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「あたしもいじめられたわよ、NHK」
と、かの超美女は遠い目をして言った。発言内容のわりに、目が輝いている。
「へえ~、きみをいじめるなんて、命知らずだな」
「夜中にガンガン、ドアを叩く蹴る…」
「それで、おとなしく支払ったのか」
「まさか。集金人の後をつけて、暗がりで呼び止めて、ボコボコに殴ってやったわ」
「怖いな~。でも、よくやった」
「あたしからお金を取ろうなんて100万年早いわよ」
「あ、そういう問題なのか」
「そうよ。今月だって、生活費があと5千円しかないもん」
「どんな生活をしているのやら」
「だから今夜も食事をごちそうしなさい」
あ、これはどう断ればいいのだ。いや、断る方法などないのである。イヌHKよりこの女のほうがよほど始末の悪いことに、今さらながらに気付いてしまった私であった。ほへ。
[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
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【猫哲学96】 猫ショートショート。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
(2006/04/14)
とても有名なベリーショート小説がある。SFにもホラーにも分類されているが、これをまずご紹介しよう。
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地球上で最後に生き残った男が、部屋に座っていた。
するとノックの音が…
終わり。
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これは、人間でない誰かがノックしたという話なので、その誰かとはお化けか宇宙人と考えられる。というわけで、とてもよくできたショートSF、またはホラーということにされている。
ところが猫哲学者というやつは、こういうお話を読むと、頭の中でどんどんバリエーションが増幅して、しまいに収拾がつかなくなるという変な性格を持っている。岩根先生も同じらしいけど。
では、どんなバリエーションが出てくるのか、まずはわかりやすい例からご紹介しよう。
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地球上で最後に生き残った男が、部屋に座っていた。
するとノックの音が…
にゃお。
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なんだバカ猫おまえかよ。という話になって、緊張感が一気にぶっ飛んでしまうのである。
こんなのもあるよ、次のバリエーション。
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地球上で最後に生き残った男が、部屋に座っていた。
するとノックの音が…
横山ノックさん。もうセクハラもできまへんなあ。
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あんまりなストーリーである。イメージしたくない光景だし。
では、次のバリエーション。
一人の男だけが生き残ったといっても、女もいなくなったとは書いていないじゃん。で、女も一人生き残っていたとむりやり仮定する。その女が、たまたま彼の恋人だったというのはご都合主義に過ぎるが、小説なんてだいたいそんなもんである。
ということにして、この小説を書き換える。
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地球上で最後に生き残った男が、部屋に座っていた。
するとノックの音が…
「あなた、会いたかったわ」
「まさか君にもう一度会えるなんて」
熱い包容、キスシーン。音楽もガンガンに盛り上げて感動のクライマックス。
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と、こうくれば、古き良き時代のハリウッド映画である。しかし、今のハリウッドでこういうベタなことをやると笑われるだけだから、話は別の展開になる。
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地球上で最後に生き残った男が、部屋に座っていた。
するとノックの音が…
「あなた、早く開けて。ゾンビに追われてるの!」
ドアを開けようとする彼。しかしドアノブが壊れている。焦る彼の姿を思いっきり引っ張るむやみな編集。絹を裂くような彼女の悲鳴。やかましい女である。
いっそドアをたたき壊そうとして斧を捜す。だが、斧を入れた道具箱も鍵がかっている。必至で鍵を捜す彼。そうだ机の引き出しに鍵があったはずだ。ところが机の引き出しにも鍵がかかっていて…。
彼の焦る顔アップ。ハリソン・フォードしかないだろう、この役は。
おい、そろそろもういいかげんにして次のシーンへ行けよなー。
と突っ込みを入れる頃になってようやくドアが開く。彼女が飛び込んでくる。よかった、無事だった。ドアを閉めるときにゾンビの手を挟んで、またひとしきり格闘するしつこい演出で、またもやあざとい時間かせぎ。
いろいろあって、やっと彼と彼女は抱き合う。感動のラブシーン。エンディングは彼女の顔のアップ。彼と抱き合いながら、彼女の目が赤く光る。キャーッ!!
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今どきの米国映画はこんな感じである。
では中国映画だとどうなるのだろうか。さあ、いってみよう中国映画バージョン。
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地球上で最後に生き残った男が、部屋に座っていた。
するとノックの音が…
「あなた、私よ、開けて」
しかし何ということだろう、彼は長い間の戦いに疲れ果て、目も見えず耳も聞こえなくなっていたのだった。
「お願い、開けて、私よ」
彼女は敲く月下の扉。彼女は推す月下の扉。
敲く、推す。どっちがいい表現だろうか。と悩んだあげくに、推敲という言葉ができました。というのはウソ。
彼女はそうして二千年の間、彼が扉を開けるのを待ち続けたのであった。なぜなら彼女は、不老不死だったのだ。
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すごいなあ。中国だなあ。話が雄大で、故事までついている。
これが、韓国映画となるとこう素直にはいかない。とにかく予想を裏切って感動させるのが常道だから、低予算でCGも使わずあらゆるテクニックを駆使するのである。
それでは、韓国映画バージョンをいってみよう。
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地球上で最後に生き残った男が、部屋に座っていた。
するとノックの音が…
「あなた、私よ、開けて」
しかし彼は、長い戦いに疲れ果て、自分の耳を信じようとしない。これは幻聴なんだ。これ以上また絶望なんかしたくない。彼女が生きていたなんて嘘だ、あり得ないさ…。
「お願い、開けて、いるんでしょう。お願いだから」
ドアの前で泣き崩れる彼女。この演技が上手にできてこそ韓国女優といえるのだ。
頭をかかえ葛藤する彼。いろいろな美しい思い出が走馬燈のように頭を駆けめぐる。違う、そんなはずはない、これは幻聴なんだ。
ついにたまらなくなってドアを開ける彼。しかし一瞬遅かった。彼女は悲しみのあまりドアの前で命を絶っていたのだった。悲劇に耐えられず号泣する彼。韓国では、男優さんもこれができないといけません。
ところが、ああ、神様の悪戯か。彼女は意外にも軽傷で、生き返ったのであった。激しく泣きながら抱き合う二人。音楽も大いに盛り上がりましょう。ここでは韓国映画3大必殺技のひとつ、360度カメラ回転だあ~。
ところが運命は甘くない。数日後、幸せに暮らし始めた二人を次の悲劇が襲う。ああ何と、彼女は白血病に冒されていたのだった。
「たとえ短い命でも、僕はすべてをかけて君を愛する」
「私の命がいつ果てようとも、私の愛は永遠よ」
あらためて愛を誓う二人に、なぜだか出生証明書が落ちてくる。またもや神の悪戯か。二人は兄妹だったのだ。ちゃんちゃん。
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日本映画だとどうなるのかって? さあ…。私は日本映画を観ないのでようわかりません。
バリエーションはまだまだ続く。生き残った男は一人だったが、女はぜんぶ生き残っていたかもしれないでしょ。どこにも、女もぜんぶ死んだとは書いていないし。というわけで、こんな風にもできる。
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地球上で最後に生き残った男が、部屋に座っていた。
するとノックの音が…
彼がドアを開けると、その前にはにっこり微笑む女、女、女、女、女(白鳥座まで続く…)。
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これは天国か。いや、地獄かもしれないな。
とにかく悲劇にはならないよね。これ以降はスラップスティック・コメディとなる以外にはないだろう。
まだまだいろいろとバリエーションがあるのだが、疲れるだけなのでこのへんでやめておく。私の場合がヘンなのは、以上のバリエーションがほとんど一瞬に頭の中でできてしまうことだ。それで、脳が飽和状態になり、一人で笑い転げるのである。本当にヘンだ。
小説だけで済んでいればまだいいが、テレビを観ているときとか哲学書を読んでいるときにまでこの種の発想がうごめき出す。
哲学書を読んで大笑い、歴史書を読んで大笑い。しまいには街角の看板を見て大笑いしている私って、どうなんだろう。
思考というのは、このような無限のバリエーションの中から論理と秩序を紡ぎ出すことである。私はそう思っている。じゃあ、そのバリエーションはどこから湧き出てくるのだろうか。思考の結果として出てくるのだろうか。
私は、違うように思える。思考とは発想に秩序をもたらす過程だが、発想というのは勝手に出てくるものだと思っている。私はその発想の出てくる蛇口を手にしている。蛇口をひねれば、発想は勝手に出てくる。しかしその水(発想)がどこからもたらされたものであるのか、よくわからない。
こういうのは私だけだろうか。誰でもみんなそうなんだろうか。
と、前半でどうでもいい話をしつつ、最後に思考過程についての哲学的洞察でまとめる猫哲学者であった。ちゃんちゃん。
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「どれもこれも、ひねくれたストーリーばっかり」
いつもの超美女は、いつものように突っ込みをいれる。
「これがオレの性格だ。ほっといてくれ」
「このお話は、誰がノックしたのかを想像するのがミソでしょ。もっとシンプルに楽しめない?」
「たとえば?」
「ノックしたのはゴジラだった」
「足音もたてずにどうやって来たの」
「ノックしたのはウルトラマンだった」
「3分間でさようなら」
「ノックしたのはチンチラだった」
「やめてくれ。別の発想回路が暴走を始める」
「ノックしたのはオカマだった」
「自殺したくなるな」
「ノックしたのはパンダだった」
「その方向はやめてくれって」
「ノックしたのはターミネーターだった」
「いまさら何のご用ですか」
「ノックしたのは長島監督だった」
「ノックの意味が違う。脳梗塞だし」
「ノックしたのはキティちゃんだった」
「うちのタマ知りませんか」
「ノックしたのはあたしだった」
「お、それはちょっと楽しいかも」
「でも鞭と蝋燭を持っていた」
うえええ…。
[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
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【猫哲学95】 お札を笑おう。
猫┃哲┃学┃の┃お┃部┃屋┃μ┃
(2006/04/08)
今回はお札の話である。猫とは関係ない。
猫とお札、猫と硬貨、猫と通貨などいろいろと関連性を調べてみたのだが、まったくデータが出てこない。ことほどさように猫とお金は縁のないものなのだろう。
猫に小判というくらいだからな。日銀のエリートなんてのは、無視されるのが嫌いなんだろう。相手が猫でも。
この地球のどこかでひとつくらい、猫をデザインにしたお札があってもいいのにと思う。きっと私は、そのお札が大好きになるだろう。支払いに使うのにもおつりとしてもらうのも、とても楽しい。思わず心がはずんで、経済の流動性が増すではないか。そんな知恵も働かないのかよ日銀は。
だいたいやねえ、ものすごくセンスが悪いのだ、日本のお札って。みなさん、そう思いませんか?
どうでもいいインチキ男の新渡戸稲造なんか大嫌いだから、旧五千円札は急ぎATMで入金することにしていた。そしたら新札は樋口一葉だってさ。もう笑い転げて、腹の皮が痙攣しそうになったよ。(樋口一葉の話は後半で詳述)。
新渡戸稲造なんてさ、『武士道』という本を書いたから有名なのらしいが、お札に使われた理由はそんなことじゃないだろう。だって、誰かそんな本を読んだことがあるか?
新渡戸稲造は、最初の国際連盟事務次長になった男である。ちなみに国際連盟なんてのは大金持ち陰謀機関の表の顔である。現代の国際連合だってロックフェラーが敷地ごとポンと寄付したビルに入っている。
この人は、何をどう勘違いしたのかしらないが、クエーカー教に改宗している。奥さんはアメリカ人である。まさに超真正の外国かぶれなおっちゃんである。キリスト教に染まっておいてガイジンを嫁にして、武士道だと?
岩波文庫の『武士道』をちょっとでも読んでみられるとよい。何でこんなもんが武士道なんだと思う記述にあふれている。私は武士ではないから根本的な批判はさしひかえておくが、日銀はどうしてまたこんなトンチキなおっさんが好きなんだ。その理由は、これから私が書くことを読まれたら、だいたいおわかりになると思う。
旧札の話はこのへんでおいといて、現行のお札の話をしよう。
まずは千円札。千円札といえば野口英世。野口英世は、借金魔王であった。
貧農の息子として生まれた彼は、高校へ行くのにも恩師の援助を受けていた。それはまあいい。借金というより美談だ。東京大学に合格して上京するときにも、周囲から金を借りまくった。そして、ついに返済することはなかった。
このへんまでは、まだまだよくある話だ。この程度では借金魔王とまでは言わない。
東京に出ると、歯科医・血脇守之助という人が、野口英世に将来性を感じたのだろうと思うけど、親切にも学資として月15円を援助してくれた。15円というのは、調べてみると、当時の中学校の先生の月給並だという。明治時代の教師というのは一般の会社員よりも高給だったから、現代でいうとまあ30万円くらいかな。
学生とっちゃすごい金額である。これに恩義を感じてせっせと勉強すれば美談なんだけど、野口英世は勉学のついでに酒と女にもせっせと注ぎ込んで、15円は毎月使いきっていたとさ。しかも友人に借金までしていた。
大学卒業後、順天堂病院助手として勤務。給料をもらうようになってからも、郷里の友人に借金を重ねた。
そうこうするうち清国の国際防疫班に参加して海外赴任する。その出発前、飲んで騒いで支度金の96円を使い果たした。
そこで恩人の血脇守之助に借金を申し込む。血脇さんは新婚の妻の着物を質に入れ、5円を工面した。何だ血脇さん、お金持ちじゃなかったのね。
清国では相当な俸給がもらえたはずだが、夜ごと歓楽街で飲めや歌えや遊びまくり。帰国したときにはすっかり無一文だった。
さてさて、ここからが野口英世の白眉、アメリカ留学である。でも金がない。まず故郷のお金持ちの娘と婚約し、帰国したら娘と結婚するという約束で結納金として300円をいただく。さらに渡米の費用として恩師から200円をもらっちゃう。
そこでおとなしく渡米すりゃいいものを、送別の大宴会を開いた。あまりにもど派手な宴会にしちゃったので30円しか残らなかった。アメリカ行きの船の切符も買えない。またまた泣きつかれた血脇さん、高利貸しから300円を借りて英世に渡した。大丈夫か血脇さん。いや、血迷ってないか。
婚約した娘さんはどうなったのかって? けっきょく結婚しなかったのだそうだ。この娘さんの家からは結納金以外にもいろいろと金をむしりとっていたらしいから、まあ、世間でいうところの結婚詐欺だな。
アメリカへ行っても性根は直らない。友人たちからどんどん借金をしまくった。「野口に金を貸すな」が研究者仲間の合い言葉になったんだと。帝国学士院から恩賜賞を授与されることになったときには、友人から700円を帰国費用として送金してもらっている。
最後はアフリカで死んだ野口英世。案外、いくらなんでもここまでは借金取りが追いかけてこないだろうという、とても現実的な計算があったのではないかにゃ。
こんな人でも、話が歴史の範疇に止まっているかぎりは、私は笑い飛ばして終わりにする。お金にルーズだって、別な部分でいい人だったらそれでいい。でもね、事はお札の話なのだ。
日銀は、日本人の金銭感覚が野口英世のようであってほしいと願っているのだろうか。明日のことも考えず借金しては遊びまくり、周囲に大迷惑かけて平然としているような人を見習えと、日本人全員に語りかけているのだろうか。日銀の考えることはわからん。いや、本当は知っているけど、表面だけみたらアホもええとことちゃうか。もうちょっとスマートにできないものかね。
千円札だけではない。五千円札もどうかしている。樋口一葉も借金魔王、じゃなくて借金魔女であった。
樋口一葉は、17歳のときに事業に失敗した父親を亡くし、母と妹の三人で無一文になった。ここからが、この人の貧乏生活のスタートであった。野口英世の借金は豪快で無神経だが、樋口一葉の貧乏はこの人のせいではないし、哀れで惨めである。借金魔女なんて言ってごめん。
樋口一葉は細かな日記を残していて、その借金生活を伺い知ることができる。
□明治25年8月28日 晴天。「我家貧困、只せまりに迫りたる頃」とて、母君いといたく歎き給ふ。此月の卅日かぎり、山崎君に金十円返却すべき筈なるを、我が著作いまだ成らず、一銭を得るの目あてあらず、人に信をかくこと口惜しきとて也。
□明治25年10月2日 晴天。田辺君よりはがき来る。「『うもれ木』一ト先『都の花』にのせ度よし、金港堂より申来たりたる」よし。「原稿料は一葉廿五銭とのこと、違存ありや否や」と也。直に「承知」の返事を出す。母君、此はがきを持参して、三枝君のもとに此月の費用かりに行く。心よく諾されて六円かり来り。
□明治25年10月23日 母君、三枝へ参り給ふ。『都の花』より受とりたる金(25銭×47枚=11円75銭)のうち六円を同君に返へさんとて也。
□明治26年3月15日 曇る。昨日より、家のうちに金といふもの一銭もなし。母君これを苦しみて、姉君のもとより二十銭かり来る。
□明治26年3月30日 晴天。我家貧困日ましにせまりて、今は何方より金かり出すべき道なし。
□明治25年5月1日 誰れもたれも、いひがひなき人々かな。三十金五十金のはしたなるに夫すらをしみて、「出し難し」とや。
樋口一葉は明治28年になると、『たけくらべ』『にごりえ』などを発表、女流文学士として有名になったが、貧乏生活が終わったわけではなかった。このあたりは、与謝野晶子も有名になったのに貧乏だったのと似ているな。
日記を続けよう。
□明治28年5月2日 早朝、書(ふみ)あり。安達の妻より、かねてのかり金催促の趣き。五円計のなれども、いまは手もとに一銭もなし。難を如何にせん。
□明治28年5月14日「今日夕はんを終りては、後に一粒のたくはへもなし」といふ。母君しきりになげき、国子(妹)さまざまにくどく。
□明治29年6月23日 此月、くらしのいと侘しう、今はやるかたなく成て、春陽堂より金三十金とりよす。人ごヽろのはかなさよ。
この日記の5ヶ月後、樋口一葉は肺結核を患い亡くなった。明治29年11月23日、享年24歳。
うえ~ん、悲しすぎる。切なすぎる。こんな人をお札のシンボルにするなんて、どういう神経なんだ。樋口一葉は、きっと侮辱されたように感じるだろう。樋口一葉の墓の前に立って、五千円札を振ってみる自分の姿を想像してごらん。どういう意味かわかるだろう。
それにしても日銀は、何が嬉しくてこんなことをするのだろう。考えてみると本当に腹が立つ。野口英世のごとくに借金で遊びまくって、樋口一葉のように苦しんで若死にしろとでもいいたいのか。 話は変わるけど、以前に1ドル札に描かれた気持ち悪い「目」の話をしたよね。あの「目」は、日本の千円札にも描かれている。
という話をすると、みなさん、「え? どこどこ」と探されるだろうけど、容易には見つからないよ。
正解は、透かしの中の野口英世の目である。ほら、ど真ん中に描かれているのに、なかなか気が付かないでしょ。
ことほどさようにお札のデザインというものは、すべてイルミナティの陰謀なのである。というお話は、どこまで冗談だと思う?
ぬへ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あたしはキティちゃんのお札がいいな」
いつもの超美女は、またまた話を脱線させる発言をするのであった。
「だだだ、大胆なご発想ですな」
「パステルカラーでね、千円札が黄色キティちゃん。五千円札は水色キティちゃんで、一万円札はもちろんピンクキティちゃん」
「偽造防止のためにハートと花柄を全面に飛ばしまくるとか?」
「そうそう。幸せでしょー」
「火曜サスペンスの、強盗が金を強奪するシーンで、そのお札もキティちゃん?」
「緊張感がないわよねー」
「男が使う場合、恥ずかしいと思うが」
「大丈夫、女が使ってあげるから。お金持ち野郎はね、女にさんざん利用されるオトコになるの」
「さんざん利用…」
「略すとサンリオ」
…ほひゃ。
[上の文章は、約4年前に書いたものです。]
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